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父の昌幸は、再起の思いを果たせないままこの地で65歳の生涯を閉じ、今もお墓があります。子・幸村はここから抜け出して大阪城に入城し、大阪冬の陣・夏の陣で大激戦を演じます。
江戸中期の1741年にこの地に善名称院が創建され真田庵と呼ばれて現在に至っているとのことです。
真田を語るのに欠くことのできない九度山は今回で2度目の訪問ですが、行くのにも結構時間がかかり、行ってみてもこじんまりした所なので、よほど好きな人でなければオススメできませんが、歴史の臨場感に触れる事ができる歴史好きにはたまらないスポットです
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真田庵入り口
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こんな事が書いてあります。
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真田庵由緒
真田庵は真田昌幸公及真田幸村公の旧蹟である。昌幸公は信州上田の城主で智謀百出の名将であった。関ヶ原合戦で豊臣家に仕え天と地の利を失って惜敗した。一時高野山に遁れその後寺領九度山に陀住居を持った書は農耕に努め又真田紐を編み夜は天文気象を究め又物理を学び只管軍略の研究に努められた。
慶長18年戦争の危機迫り翌元和元年5月7日大阪夏の陣に出陣して大功を建てたが武運拙く戦死された。毎年5月5日を記念し真田祭を執行して英霊を慰む。
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真田地主大権現の左側には、わかりづらいけど、真田昌幸のお墓が建ってます。
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善名称院(別称 真田庵)
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真田屋敷跡
九度山に屋敷できるまでは高野山の蓮華定院に起居していて、その後ここに移り住んだようです。
大阪入場の際、樋口角兵衛はこの屋敷にとり残されたのかぁ・・・とか・・想像が膨らみますねぇ
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