小泉首相がマキャベリの愛読者かどうかは知らないが、彼の言動を見ているとマキャベリの語録に良く適っているところが多い。最初に断っておくが、私はマキャベリを権謀術数の指南者ととらえているのではなく、政治と人間心理の冷静な観察者とポジティブにとらええいる。以下の引用は塩野七生さんの「マキャベリ語録」からの引用である。
塩野七生さんは「マキャベリ語録」の巻頭言でこう書いている。
政治を論じているからといって、永田町界隈や県庁所在地でくりひろげられてるものだけを思い浮かべないでください。・・・・・・残念ながらあのような場所で支配的なのは、狭義の政治にすぎません。政治とは・・・・もてる力を、いかにすれば公正に、かつまた効率良く活用できるかの「技」ではないかと考えています。・・・・・・そして現在の日本人に求められているのも、このような意味での政治ではないかと私は考えます。
この文章が書かれたのが1988年春であり、今から17年前である。今小泉首相の一連の行動を見ていると日本の政治も少し塩野さんが言う本当の政治に近づいてきた様だ。今小泉人気が再び高まっているが、私はそれは一般市民が漸く本当の政治に期待し始めたということかもしれないと思っている。それにしても綿貫氏や亀井氏一派の「国民新党」結成が何と陳腐に見えることか・・・・これこそ塩野さんが言う狭義の政治以下であろう。
さてマキャベリ語録に照らして最近の小泉首相の言動を少し見てみよう。
頭にしかといれておかねばならないのは、新しい秩序を打ち立てることくらい、むつかしい事業はないということである。・・・・この問題を充分に論ずるには、新秩序を打ち立てようとするものが自力で行なうとしているか、しれとも他者の助けをあてにしているかで分けられねばならない。・・・後者の場合は必ず障害が生じてきて、目標の達成は不可能になる。反対に、自力で行なおうとする者は、途中でなにが起ころうと、それを超えて進むことができる。だからこそ、武装sる預言者は勝利をおさめることができるのであり、反対に、備えなき者は滅びるしかなくなるのだ。(君主論)
小泉首相は郵政民営化に反対する自民党議員を容赦なく切ったが、この行為こそ「他者の助けをあてにしない」行為である。
人の上に立つ者が尊敬を得るには・・・敵に対する態度と味方に対する態度を、はっきり分けて示すことである。(君主論)
綿貫氏等は「反対議員を党からはじき出すことは断じて受け入れられない」と言っているが、党議拘束は民主主義の先輩国である英国でも極めて重たいものである。政党が政治的理念を一つにする政治家の集団である限り、政治的信念が異なるものが袂を分かつことは当然である。もし政党が政治家の経済的利益を拡大する手段であれば、政治的理念が異なろうとも同じ船に乗れるのだろうが。この意味で敵味方をはっきりさせた小泉首相の行動は極めてマキャベリの原理に適っている。それに較べて自民党反改革派の連中のもの言いは何と情緒的で決断力に欠けることか。
いかなる政体であろうと、国家というものは、はじめから完璧な組織づくりができているというこはありえないのだ。それゆえに、一度ならず手直しが必要とされてくるのだが、その改革が根本的なものであればあるほど、ただ一人の人間の意志と能力に、改革の成功が左右されることが多いのも事実である。(政略論)
これこそマキャベリの現実直視の真骨頂であろう。古来改革は独裁的人間でなければなしえない。問題はその改革者が私利私欲の少ない人物であるかどうかであろうが、少なくとも今選挙民は比較的小泉首相は私利私欲が少ないと判断しているようだ。それ故彼は人気が高いのである。