追憶の彼方。

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安倍神社建立!

2023年07月12日 | 宗教
安倍神社建立!

安倍元首相が神になる。銃撃事件から一年がたち、安倍を祀る神社が建立されるという週刊誌情報が話題を集めている。安倍の廻りには何となく、鬼気迫る薄気味悪い女性が群がっている、どうせそんな連中が発起した話だろうと思っていたら、建立するのは、奈良県吉野にある「吉水神社」宮司で元警察官という異色の、佐藤素心(82)と言う人物、山口県の同郷で生前から交流があり、最近安倍の“言霊(ことだま)”が降りてきたので鎮魂する為に「安倍晋三大人命」、古事記に倣って「大人の命(みこと)」にしたらしい。場所は佐藤氏の移住先・長野県の白樺林の中、費用は3百万円で賽銭箱は設けないと言う。私なら生前の業績に照らして、さしずめ「 葉茶滅茶大明神」が最適だと思うが、日本では悪人だって神になれる、厄病神に貧乏神、風神、雷神、山の神、怨霊となって祟る神もあり、更には長崎県の対馬にある今宮若宮神社が祭る神は(小西マリアというキリシタン)、何でも御座れの「神」の世界の事だから、個人が誰を神にし、大仰な名前を付けようと自由なのだと聞けば納得せざるを得ない。
その内、岸田による「(バイデンのみこと)の為のバイデン神社」何ていうのも現れるかも知れない。

多くの人物が神の定義を行っているが、中でも江戸時代の国学者・本居宣長の定義が最も有名、且つ説得力があると言われている。人だけではなく、鳥獣、木草、海山、岩等々、それが通常のものより(優れていれば)神であるとしている。巨木にしめ縄を巻き、敬うと言う景色はよく見かけるし、伊勢志摩や福岡桜井二見ケ浦の夫婦岩等も同じだろう。
そして、神の基本的な性格である「優れている」について注釈を加えて居り、善いものも、悪いものも、それが他のものにくらべて優れて居れば、どちらも神である。神は善神ばかりとは限らない。悪いものであっても、その程度が他と比べて甚だしいものであれば、それは神だというのである。
その一例が、常陸国風土記に登場する夜刀神(やとのかみ)、その姿を一目見ただけで、一族一家が根絶やしにされると言う(蛇神)で、祟りを鎮める為、 茨城県行方市に夜刀神社が建てられている。
吉田松陰も松陰神社に祀られているが、彼が日本の軍国主義、覇権主議化に多大の影響を及ぼし日本を破滅に導く思想的素地を作ったという意味では私見ではあるが重罪人である。 
人間は死後、神になると考える人が多く、一族の先祖(祖霊崇拝)や社会的に突出した人物、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊として祟りをなした人物(御霊信仰)なども「神」として神社に祭られ、人神として人々の崇敬を集める例がみられる。
兎に角、ウイキペデイアに示された日本の神の一覧を見るとア行から始まり、その数の多さに圧倒される。日本の神社の数だけでも、8万社あり、日本で一番多い最強の神社は武運の神(武神)、弓矢の神である、八幡神であると言われている。源平合戦屋島の戦いで那須の与一が平家の建てた扇の的を射る際、南無八幡と祈って矢を射たので有名になったとも言われている。
皮肉なことに安倍が銃撃された近鉄奈良西大寺駅近くには、有名な山上八幡神社があり、何やら因縁めいて居り、この銃撃事件と結び付け、尾鰭を付けて語られる事があるらしい。
何でも御座れの「神」の世界、ノリと勢いで祠(ほこら)や社を建て、実在人物を神様として祀る人はいるものの、末永く信仰の継続が無ければ神とはならないと言うのが神社本庁の考えらしい。  森羅万象に神が宿るとする日本の信仰は美しく、半面ややこしくもあるが、肝心の信じる人がいなければ成立しないと言う事で淘汰されて行く、果たして、安倍は神になれるのか……!? 山上神社は建てられるのか!?極めて興味深い。

戦国時代、日本にキリスト教布教に努めたザビエルらは彼等の信奉するゴッド(ラテン語ではデウス)をどのように伝えるか大いに悩んだと伝わっている。天主、天尊、天帝、果ては真言宗の(大日如来)迄広げて、試行錯誤したらしいが、うまく行かず結局(神)に落ち着いた。しかし神と命名したことが日本でキリスト教が広く浸透することに大きな障害となり、日本では宗教の主流とはなり得ず今日に至っていると言われている。司馬遼太郎が指摘するように日本では古来、地面に顔を出した岩の露頭でさえ下に広がる岩の大きさを想い,奇異を感じ畏れを覚えれば、その周りを清め、みだりに足を踏み入れ汚さぬようにした。それが神道である。奈良に有る三輪神社は本殿を設けず(拝殿は江戸時代に作られた)、三ツ鳥居を通じ三輪山(三輪三山)を拝するという原初の神祀りの様子を伝える我が国最古の神社のひとつであるが、古来この山が神であり続けている、と指摘している。
要は古来日本人の心には「至る所に神宿る」 、その数と種類の多さから「八百万(やおよろず)の神」という考えが染み付いていたのである。
日本の神は夫々専門店を構え、売り出しており、一神教のゴッドの様な万能の総合店ではない。「菅原の道真」の様な学問専門の神も居れば、乃木大将の様な軍事専門の神、狐をみ使いとする稲荷神(稲荷神社)の様な豊作専門の神様もいる。そんな環境のところにキリストは「愛の神」と説いたところで、「自己犠牲愛で民を救う事を専門にする神」で終わってしまい、「八百万の神」の一つにされてしまうのが落ちである。ゴッドによる天地創造を伝えても、我々にも「古事記に伊邪那岐命等による国生みの神話がある」で、さらっとかわされてしまうのである。(そう言えば聖書の天地創造の神話と古事記の天地創造神話は極めて似通っている。)
今だにキリスト教関係者の間でゴッドを神と訳したのが大失敗だったと話し合われているらしいが、時や遅しである。
もう一つキリスト教が布教の過程で「信仰と恵」により本人は救われるが既に死んだ祖先の救いは神が判断すると言うキリスト教の教義が災いした。祖先供養・祖先崇拝の日本人の仏教思想は余りにも根強く、これを解きほぐすことが出来なかったのである。
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