追憶の彼方。

思いつくまま、思い出すままに、日々是好日。

あな!おそロシア…2.

2022年06月03日 | 雑感
あな!おそロシア…2...
殺人鬼プーチンの登場まで
 
黒海とカスピ海に挟まれた北海道より小さい南コーカサスの美しい小国、ジョージア(旧グルジア)、臥牙丸・栃ノ心の両力士の出身地として多くの人が知る処となったが、帝国主義復活を目論む「21世紀最悪の大虐殺者・プーチン」のロシアと言う国に隣接して居たが為に、2008年自国内の(南オセチア自治州とアブハジア自治共和国)の独立を支持するロシアを相手に、21世紀最初のヨーロッパの戦争を戦う羽目に陥った。短期ながらも被害甚大で一週間足らずで20万人近い国民が居住地を追われ、更に悪い事に独立宣言した地にロシア軍の駐留を許す事態となった。これに味を占めたプーチンは「ロシア系住民が、どこに住み、どこで働いていようと守る」と公言するようになった。日本に対しても4年前のロシア人権評議会で、「アイヌ民族をロシアの先住民族に認定する」として北海道に対する足掛かりを付けるかのような発言をし、又野党「公正ロシア」の党首は今年4月「どの国にも願望があれば、隣国に領土要求を提出できる。ロシアは北海道の権利を有している」とうそぶき、スターリンが夢見た北海道奪取を実現せんと国家挙げて領土的野心を剥き出しにしている。
南アメリカ大陸を上回る世界最大の領土面積を誇るロシアが世界を敵に回して迄、何故かくも領土拡張に狂奔するのか。ユーラシア大陸の北に位置するロシアにとってロシア帝国・ソ連の時代から経済発展、軍事力増強等・国力高めるには、凍らない港(不凍港)が不可欠であり、それを求めて南下政策が国策となった為、国境を接する国がこれを阻止しようと、衝突が多発した経緯がある。 イギリスのナイチンゲールが活躍し、トルストイも参戦したクリミヤ戦争(1853~56年)で手痛い敗北を喫した帝政ロシアはヨーロッパでの南下を諦め、極東に矛先を向け日露戦争に繋がったのである。ロシアの南下政策と領土拡張主義がある以上、日本から騙し取った北方4島の日本への返還する意思など全く無く、返還と言う甘い餌を道具に使って、経済援助等の外交の成果を勝ち取る。相手を騙し、脅迫するKGBのやり方そのものである。返還を期待してプーチンに擦り寄った日本の政治家など、外交音痴の最たるものであろう。
第二次世界大戦後、米ソ二大国を軸として西側=資本主義陣営、東側=社会主義陣営、西側のNATOと東側のワルシャワ条約機構の軍事同盟網と言う世界を東西に二分する冷戦構造が長期に亙って続いた。しかし1950年後半ごろ、核兵器開発競争反対の世界的広がり、アジア・アフリカ等の第3世界の台頭と発言力強化、更には米ソ両軍事大国の軍事費優先の経済は夫々行き詰まり、アメリカは貿易赤字・財政赤字に苦しみ、ソ連も80年代の原油価格低迷と硬直した共産党官僚支配が災いし経済が極度に悪化した。1956年2月、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフによるスターリン批判がおこなわれ、国内での「雪どけ」と共に外交政策は平和共存に転換した。冷戦を終わらせる大きな役割を担ったのはソ連としては珍しい学士の最高指導者(モスクワ大学法学部卒)のゴルバチョフであった。若きソ連共産党書記長はペレストロイカ(政治・経済体制改革・経済再建)とグラスノスチ(情報公開)を柱としたソ連社会主義体制の自由化に乗り出したことが最大の変化要因であった。このソ連の変化が東欧諸国の体制変革をもたらし、この東欧革命によって1989年11月東西冷戦の象徴であったベルリンの壁の開放へと一気に進み、翌1990年10月のドイツ統一という象徴的な出来事によって冷戦時代は終った。変化は東から起こったが、政治・経済不安から各共和国内部に民族分離独立志向が高まり1988年11月遂にソ連で初めて、エストニアが国家主権を宣言、リトアニア、ラトビアが続き、このバルト3国に追随し翌89年5月ジョージアも独立を宣言した。
1989年にブッシュ対ゴルバチョフによるマルタ会談で冷戦集結が宣言された。1991年8月保守派共産主義者によるクーデターは鎮圧されたが、ゴルバチョフは経済悪化で国民の支持を失い12月共産党指導者を辞任、ソ連解体を公式に発表、ソ連崩壊となった。ソ連崩壊により東ヨーロッパや中央アジアの旧ソ連各国の経済は大混乱に陥いった。1991年末ロシアのエリツイン大統領とウクライナ、ベラルーシのトップが「ソビエト連邦はもはや存在しない」と宣言すると同時に、ソ連に代わる独立国家共同体(CIS)を創設する「合意書」が調印された。
ジョージアとバルト三国を除く旧ソ連邦諸国がCISに加盟し、ソ連邦崩壊後もロシア連邦でエリツインが初代大統領となった。
8年の長期に亙るエリツイン政権も拙速な市場経済化による深刻な物資不足がハイパーインフレーションを誘発し、貧富の差の劇的な拡大など、多難を極めた。社会主義から資本主義へと国家体制の移行の過程で国家資産の私物化により巨大の富を手に入れた新興財閥・オリガルヒが発言力を増し、政治腐敗が蔓延、政治体制も混乱した。資源大国で資源価格依存の経済体制ロシアは、原油価格が90年代後半は1バレル=10ドル台にまで低下、金融・為替政策の失敗もあって巨額の資本逃避が発生し98年にデフォルトに追い込まれる事態となった。インフレ・高金利等経済の大混乱の末1999年末、エリツィンは電撃的に大統領辞任を表明。大統領代行にウラジーミル・プーチンが就任した。

スターリン信奉者プーチン…へと続く
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