追憶の彼方。

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地に落ちたアメリカ…(3)キリスト教福音派…聖書の世界の大罪

2018年03月27日 | 国際政治

凡そ30数年前、必要に迫られて略一年半掛け苦労しながら聖書や解説書を読んだ。
聖書は直喩・誇張・婉曲等の修辞的表現や韻を踏んだ文章に満ちており非常に美しいし、示唆に富む話も数多いが、一方絶えず観念的・精神的と言う様な形而上的な視点を求められる難解な哲学書でもあった。
このことが聖書は気の遠くなるような年月をかけて多くの人に読み継がれ或いは研究されて西欧文明の思想・文化・芸術のバックボーンになって居り,未だに世界的なベストセラーとして生き続けていることが良く理解できる。
しかし聖書は科学の教科書ではない、学問上の知識と矛盾する場合には科学的知識を尊重し、象徴的・観念的に解釈する事が必要である。
聖書の至る所に散りばめられた人間にとって普遍的に道徳的な精神的指針・規範となり得る様な聖書の教え・メッセージを取り出し、これを保持して絶えずそこに立ち戻ると言うバランス感覚を持つことが重要であって、そのような考えをする立派なクリスチャンも多い。

しかし乍らアメリカのキリスト教徒はプロテスタント、中でも聖書の無誤・無謬を主張し五つの根本教義(ファンダメンタルズ)の堅持を訴える福音主義が中心勢力になっている。  プロテスタント教会は全聖書の66巻は、すべて神の霊感によって書かれた「誤りなき神のことば」であり、主イエス・キリストによる救いと生活の唯一の規範(正典)であると考える。
このアメリカ社会を支配する福音主義がアメリカ社会を間違った方向に向かわせている大きな要因であると言う事は間違いない。
薬も過ぎれば毒となり,使い方次第で害になるが、聖書も同じである。科学や考古学・地質学等学問上の理論・知識を否定・無視することは聖書其の物の価値を落とすことに繋がる恐れがある。
この矛盾・誤謬に満ち溢れた聖書の記述をキリスト教徒が心の内で無誤・無謬と信ずるのは自由であり、そこに信仰的意義があると考えることも理解出来ない事はないが、その聖書の記述を盾に他人に精神的・物質的な害を与える事など許されることではない。

トランプを大統領に仕立て上げたのはテキサス、カンザス、バージニア、フロリダ各州等、アメリカ合衆国の中西部から南東部に跨るバイブル・ベルト地帯の白人層であった。
トランプは強力な支持者である福音派を中心とするキリスト教徒の要望に応え「エルサレム首都宣言」の暴挙を行った。ペンス副大統領始め白人キリスト教徒の党と化した共和党は旧約聖書の記述を盾にパレスチナは聖書の神(旧約聖書の神)がイスラエルに与えた土地だからと言うのがその根拠である。
しかし旧約聖書の神の行為が全て真実であると言う前提に立てばキリスト教の主張は現在の人間社会の道徳観を全否定することになり愛を説くイエス・キリストの考えと真っ向から対立することになる。
旧約聖書を文字通り読めばそこに登場する神(ヤハウエ,イスラム教の呼称はアッラー)は嫉妬深く、狭量、猜疑心が強く、怒りっぽい、かと思えばすぐ反省もする。最大の問題は自ら或いはイスラエルの民を使って虐殺を繰返したことである。
ユダヤ教の過越祭やキリスト教のイースターの意味を考えれば旧約聖書に書かれている事は全て歴史的真実などとは口が裂けても言えないはずである。
聖書を真面目に読んでいるキリスト教徒は極めて少ないのではないだろうか。カルト宗教にはまっている人は教団や指導者の都合の良いように良いとこだけを取り出し或いは曲解した説教やパンフレットにしか接しないのが普通であるがアメリカの白人キリスト教徒も全く同じではないかと疑わざるを得ない。
アメリカのエルサレム首都宣言などあってはならないことである。

地に落ちたアメリカ…(4)キリスト教の大罪へ
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