日本経済新聞の読書欄でサイエンスライターの竹内薫氏が紹介していたので手に取ってみました。
「生命知能」「人工知能」「意識システム」等の基礎知識を整理しつつ、意識を高め育てる高等教育のあり方等についても論じた本です。
私にはちょっと専門的過ぎて理解がついていかないところもかなりありましたが、興味深い指摘も数多くあったので、その中からいくつか書き留めておきます。
まずは、「生命知能」や「人工知能」の位置づけについてです。
著者は、私たちの脳に宿る知能を「生命知能」と読んでいるのですが、本書の冒頭で、その「生命知能」と「人工知能」の特徴やそれらの関係性について総論的にこう語っています。
(p27より引用) 現在の人工知能は「自動化」の技術です。一方で生命知能は「自律化」のためにあります。 両者は決して互いに対立する知能ではありません。実際に私たちの知能には、人工知能的な性質と生命知能的な性質が共存しています。・・・
自動化とは、あらかじめ決められたルールや作法に従い、ものごとを進めることです。・・・
一方で自律化とは、自分自身でルールを決めて、それに従って物事を進めることです。
著者は、人工知能(自動化)と生命知能(自律化)は共生可能と考えているのですが、ただ、憂慮すべき兆しも感じています。
(p29より引用) 私たちの生命知能が衰える可能性です。人工知能が急激に発達している現在、人工知能の弱点を補う生命知能は欠かせません。ところが実際には、人工知能はますます発達し、生命知能は次第に衰退しているようです。両者の目的は完全に異なるわけですから、人工知能の発達が、必ずしも生命知能の衰退の原因にはならないはずです。生命知能を衰退させる社会的な要因が他にあるように思えてなりません。
“課題を効率的に解く能力”は人工知能に浸食され、人間(生命知能)ならではの“課題を発見し設定する能力”が衰えつつあるとの認識です。この課題設定能力は意識して鍛えなくては高めるどころか維持することすらできないものです。
もうひとつ、本書では、“知能”とともに“意識”についても考察しています。
意識の解説の中で興味深かったのは「因果性の推論」についてのくだりでした。
(p258より引用) 私たちの意識の世界では、過去の自分の選択内容も、その根拠も極めていい加減なのです。意識の世界を構築するにあたり重要なのは、数秒前に何らかの選択をしたという事実と、この瞬間に手元にある写真の内容なのです。この二つの事実が破綻しないように、脳は適当に後付けの理由をでっちあげたのです。
このような因果性の推論は、意識の世界での脳の働きとはいえ、高度な思考というより、半
ば自動的な働きのように思えてきます。どちらの例でも、意識の世界における時間軸上の前後関係が、因果性の推論に決定的な影響を与えているのです。おそらく脳は、時間関係に基づいて、半ば自動的に因果性を見出すのです。
時間軸に応じて、脳が勝手に因果関係の整合をとるというのは面白いですね。
さて、本書では人工知能と生命知能をテーマに様々な論考が展開されていきますが、両者の関係は、代替関係ではなく、補完もしくは相乗関係だと著者は考えているようです。
(p276より引用) 人工知能が人間の活躍の場を奪うという危機感が喧伝されていますが、それは明確なルールや絶対的な評価軸がある場合に限ります。私たちが自分で評価軸を決めることを放棄しない限り、人工知能が私たちを席巻することはあり得ないでしょう。・・・
これらを忘れずに、人工知能ができることは、人工知能に任せ、ムダを省いてもらえばよいのです。その分、私たちはムダを作り出しながらも、新たな評価軸や価値観を形成していくべきではないでしょうか。それが、人工知能と生命知能の共存のあるべき姿だと思います。
このところ、一時に比して、“シンギュラリティ”という単語もあまり耳にしなくなったような気がします。
むしろ、憂慮すべきは、先にも紹介しましたが、私たちが本来堅持すべき“生命知能”の劣化でしょう。
この前読んだ「リスクを生きる」という本でも内田樹さんや岩田健太郎さんが対談の中で指摘していた“反知性主義”の台頭、「自分の頭で考えない」人々を生み出している社会の風潮はとても不安です。
いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
内田樹さんの著作は今までも時折手にしていましたが、直近では「サル化する世界」以来になります。岩田健太郎さんの著作はやはり新型コロナ関係になりますが「感染症は実在しない」を読んだぐらいです。
本書は、ちょっと気になるお二人の対談ということで手に取ってみたのですが、想像どおり興味深いやり取りや指摘がいくつもありました。それらの中から順不同ですが、いくつか書き留めておきます。
まずは、昨今の社会で頭をもたげている「反知性主義」の話題から、内田さんのコメントです。
(p74より引用) 権限をトップに集中するということをこの四半世紀ほど日本のあらゆる組織で進めてきたわけですけれども、その結果、組織の上から下までイエスマンで埋め尽くされ、定期的に大量のブルシット・ジョブが発生するようになった。それが日本衰退の実相だと僕は思います。
知性のないトップを頂いた不幸です。が、そういった社会体制を許してきたのは、多くの国民の知性軽視の姿勢なのでしょう。
続いて、大学をはじめとした日本の教育水準について。
内田さんは、1991年の大学設置基準の大綱化以降、大学の査定とそれにもとづく資源配分が始まったと語ります。そして、その「査定」が大学の劣化の元凶でした。
(p97より引用) 査定というのは「みんながしていることを、みんなよりどれだけ上手くできるか」の競争です。「誰もしていないことをしている」というのは格付け不能ですから、ゼロ査定されるリスクがある。だから、格付けが厳密になればなるほど多様性は損なわれる。それは当然のことなんです。 格付けと多様性は共存できない。日本の学術的発信力がこの四半世紀で先進国最低レベルまで下がったのは、査定を推し進めたことが最大の理由だと僕は思っています。
査定による大学の淘汰は「教育への市場原理/マーケティングの導入」であり、市場原理が教育を裁くのは暴挙そのものでした。
そして、最後は、「専門家」についての岩田さんのコメント。
(p141より引用) 専門家とは、専門領域のフレームが見えている人。要するに、「ここまではわかっている、この先はまだわからない」という境界線がちゃんと見えている人がプロなんです。「わかる」のが専門家ではない。むしろ「わからない」のが専門家。ややこしい言い方になりますが、わからない領域があるのをわかっているのが専門家であり、それを意識させ、気づかせてくれるのが非専門家なんです。
未だ終息には至らない「新型コロナ禍」を発端として“感染症”に関する情報が様々な人々から発信されました。その中には、明らかな“素人”“門外漢”もいますが、いわゆる“専門家” とタイトルされた一群も登場しました。
これらの“専門家”が、岩田さんの定義にしたがって区分され、それぞれの発言の背景や論拠が明示されたとしても、結局のところ、そういった“科学的・論理的な判断軸”を認め、それを踏まえ自分の頭で考えて判断するか、それとも“一言で言えば”といった単純思考で声の大きい方に迎合するか・・・。要は、情報の受け手である私たち主体の姿勢によるわけです。
根本的な問題は、“受け手の反知性化”です。
いつも聴いているピーター・バラカンさんのpodcastの番組に著者の白川優子さんがゲスト出演していて、本書の紹介をしていました。
白川さんは現在「国境なき医師団(MSF)」日本事務局に採用担当として勤めていますが、18回の派遣経験を持つ看護師です。
以前、白川さんが著した「紛争地の看護師」を読んだのですが、そこで紹介されている紛争地の実態に大いに驚きました。本書でも紛争現場の様々な立場の人々の素顔がリアルに描かれています。また、そういった現地の様子に直面した白川さんの心に去来する心情にも、大いに考えさせられるものがありました。
まずは、白川さん自身が痛感した紛争現地での理不尽さへの慙愧の念。
IS(イスラム国)に支配されたシリア・ラッカから地雷原を走破して脱出を図る住民たち、その医療支援の現場での思いです。
(p74より引用) 本来、医療の役割とは、患者さんの身体を治すだけではなく、精神的にも社会的にも包括的に支えていくことである。 ・・・
私たちはこの父娘の命を救ったが、その先までは手が回らない。・・・ ISの支配下で生き抜き、空爆と地 雷の恐怖をくぐり抜け、足を吹き飛ばされ、家族を亡くし、戻る家がない。生き残ったからこその地獄が始まるというのに、救命以外に何もできない私たち医療者はここでいつも、無力感に苦しめられる。
・・・この父娘のために生じた無力感がどれほど苦しくても、立ち止まる時間はないのは明らかで、私は自分で自分の背中を押すようにして、次の患者のために歩きだすしかなかった。
このISによる占領が終わったあとにも、住民たちの生きるための苦難はまだまだ継続します。しかし、その実態を世界の人々が知る機会はほとんどないのです。
(p115より引用) 紛争地に生きる人々はみな、戦争を「生き残った」その時から、「これからも生きる」という次の闘いに放り込まれている。ところが、その様子を伝える記者も、市民の訴えを聞く特派員もいなかった。奪還宣言後、彼らは即座に撤退したからだ。メディアが報じたかったのは「奪還の瞬間」であり、人生を破壊された一般市民の姿ではなかったのだ。奪還前はあれほど報道陣が詰めかけていたモスルだったが、奪還後は一瞬にして世界の注目から外れた。
メディアは劇的なシーンの映像を伝達するのが使命ではないはずです。改めて、“報道の本旨”“ジャーナリストの意思”が問われる指摘だと思います。
もうひとつ、白川さんのイエメンでの経験。
6ヵ月空けて再び派遣されたイエメンは一気に社会情勢が悪化していました。現場スタッフの生活も苦しくなっています。奪われたものは財産だけではありません。
(p169より引用) イエメン人について何か聞かれることがあれば、「おもてなしを大事にする心の豊かな人たち」と、私は迷わずに答える。その彼らが、私にジャガイモしかふるまえなかったことを、日本のみんなに知られるのが恥ずかしいと言った。その思いこそ、私は敢えてここで伝えたい。戦争は、そこに生きる人々の生命から尊厳に至るまで、こんな形で脅かすのだ。
そして、最後に、本書を読んで最も印象に残ったくだり。
「あとがき」に書かれていたアフガニスタンに派遣された時の白川さんが目にした当地の人々の様子です。
(p250より引用) 私が見てきた2021年のアフガニスタンには、戦火もタリバンの恐怖政治もなかったが、しかし、タリバンを制裁するための国際社会の措置が、真っ先に市民を苦しめていた。三年ぶりの現場、しかも初めて足を踏み入れたアフガニスタンの地で、武器を使わずとも市民が苦しめられているという、人道危機の根深さを改めて突きつけられた。報道ではほぼ触れられてい ない出来事だった。
国際社会による制裁措置はタリバンにのみピンポイントに機能させることはできません。その効果は、アフガニスタンという国全体の経済活動や社会生活を抑圧してしまうのです。現地の人々にとっては、生活を破壊するという点では、タリバンによる戦闘活動も国際社会による制裁も、どちらも同じく身に迫る危機そのものなのです。
白川さんの著作には、自らを美化するような記述は一言もありません。派遣された現地の様子を、それに接する自らの行動を、そしてそこで感じ考えた素直な想いを誠実な筆致で著していきます。
ともかく、白川さんをはじめとして「国境なき医師団(MSF)」のみなさんの献身的な活動には本当に頭が下がります。
(p250より引用) なぜ世界から人道危機がなくならないのだろう。同じ人間同士ではないか。なぜ理解し合い、助け合えないのだろう。医療援助、人道援助をあとどのくらい、どこまで頑張ったら人道危機は収まるのだろうか。どれだけの声をあげたら国際社会は耳を傾け、解決に向かってくれるのだろう。
白川さんの言葉が、世界の今を語り尽くしています。
元凶は同じ “人” なのに、なぜ・・・、との想いです。
いつもの図書館の新着本リストの中で目につきました。
完全にタイトルに惹かれて手に取った本です。
私は「文系」でしたが、高校時代は結構数学が好きで、当時「大学への数学」という月刊誌を読んでは、その着想の奇抜さや解法のスマートさに感動していたものでした。
本書でもそのころの感覚に近いものが味わえるのではとの期待をもって読んでみました。
が、本書は、そういった“鮮やかな解法” の紹介というより、真正面から「数学Ⅰ・A」の基本を解説するというのが柱だったようです。
その点で、改めて、私が理解し直した基本的な事柄をいくつか書き留めておきます。
まずは、「集合と命題」の章から「命題を証明する方法としての『対偶』と『背理法』の基本」について整理したところ。
(p65より引用) 「pならばq」であることを示したい場合、対偶を用いた証明は、「qでなければpでない」 を示します。
一方、背理法では「pである」ことと、「qではない」ということの両方を仮定して、矛盾を導きます。
こういう論理的な思考法はしっかり押さえ直したいものです。
ちなみに、この章にはこんなコメントが続いて記されていました。
(p58より引用) 「AならばB」 だから 「BするためにはAが必要です」と説得してくる人は多いものです。しかし、それが本当なのかどうかは、こうやって論理を追って検証しなければなりません。
これは、まさに今、大切にすべき指摘です。
現下の新型コロナ禍において「新型コロナに感染しない(B)ためには、〇〇(A)が必要です」といったアナウンスが喧しいのですが、その当否を冷静に判断するために大いに役立つものですね。
“感染しない(B)ためには〇〇(A)以外の方法もある”ので、“必ずしも「〇〇(A)が必要」とは言えない”わけです。これは、〇〇(A)の効果を否定しているわけではありません。〇〇(A)以外の方法もあり得ることを冷静に理解して判断すべきと説いているのです。
「新型コロナ禍」を話題にあげたので、もうひとつ参考になりそうな例題。「条件付き確率」の問題です。
(p208より引用) 99%確かな検査で、1万人に1人の不治の病であると診断されたとき、真に陽性である確率を求めよ。
全被験者が100万人の場合での解説はこうです。
不治の病の人は100人、不治の病でない人は99万9,900人。それぞれ、検査を受けて正しく陽性と判定される確率は99%ですから、
(p210より引用) つまり、この検査で陽性になる人は、本当の病になっている99人と偽陽性の9999人を合わせて、1万98人です。1万98人の中で本当に陽性の人はわずか99人、その確率は0.98% ぐらいしかありません。
直感的な感覚とは大きく異なりますね。さらに、解説は続きます。
(p210より引用) なお、先ほどの例では、1万人に1人の不治の病としましたが、これを「100人に1人」に変えると結果は大きく変わってきます。この場合、陽性と診断されて、なおかつ本当に病である確率は50% に跳ね上がることになります。
このあたり、大きな誤解をしないために、「確率」の基礎をしっかり理解しておくことがとても重要になります。
しばしば、メディアの報道やSNS上で流布する情報は“煽情的”に走る傾向がありますから、その確信犯的欺瞞や発信者の無知を見抜く力を「情報の受け手」である私たちが持っておかねばならないのです。
特に「変化率」や「〇倍」と表現されている場合は要注意です。その場合は「実際の数(量)」をイメージしてみましょう。同じ10倍でも、5%が10倍なら50%ですが、0.1%のものが10倍になっても1%に過ぎません。
さて、本書を読み通しての感想ですが、私にとっては、ちょうど期待していた程度(難易度)の内容で興味深く読めました。
「数学I・A」の範囲をざっくりとカバーしており、その個々の単元ごとに“基本中の基本”の公理から“応用編への入口”のような例題までバランスよく取り上げて、数学的考え方や解法(論理プロセス)をわりやすく紹介してくれています。ところどころに差し込まれた数学史に関わるエピソードも興味深いもので効果的だったと思います。
こういったテイストの「数学Ⅱ・B」版があれば嬉しいのですが。
いつも利用している図書館の新着本の棚で目についた本です。
高橋源一郎さんの思い出に紐付いた“東京のスポット”をテーマにしたエッセイ集。他の本を読む合間にパラパラとページをめくってみようと読み始めました。
今から15年以上前に読んだ中沢新一さんの「アースダイバー 」での記述がところどころに引用されていましたが、確かに似たようなテイストも感じられる著作ですね。
本書で取り上げられた都内の9か所のうち7か所は私も訪れたことがありました。ただ、(当然ではありますが、)その土地に対する想いや記憶のインパクトが全く違うので、どこも高橋さん流の深い感慨を抱くには至りませんでした。とはいえ、それゆえに新鮮な気づきも数多くあって、なかなか興味深く読むことができましたよ。
御茶ノ水の「文化学院の歴史」、新国立競技場の「学徒出陣と1964年の東京オリンピックの記憶」・・・、その中で「渋谷」を扱った章から、一部、覚えに書き留めておきます。
明治29年、田山花袋が渋谷に国木田独歩を訪ねたときのようすです。
(p153より引用)
「国木田君は此方ですか。」
「僕が国木田。」
田山花袋と国木田独歩、近代文学の巨人たちの最初の出会いである。そして、「好い処だ」という花袋に、独歩はこう答える。
「武蔵野って言う気がするでしょう。月の明るい夜など何とも言われませんよ。」
花袋が訪れた「丘の上の家」は豊多摩郡渋谷村上渋谷一五四番地、現在の渋谷区宇田川町、NHK放送センターの前、道路をはさんだ歩道の脇に、小さく「国木田独歩住居跡」の標示が見つかるはずだ。・・・
独歩が歩いた「武蔵野」は渋谷のことだった。そして、渋谷はその頃、深い林だったのである。
なんとも、これは意外でした。武蔵野の林は今の渋谷あたりまで迫り出していたのですね。
当時の街の広がりを思うと、その後の急激な街域の拡大スピードは驚異的です。瞬く間に、「武蔵野」はコンクリートとアスファルトに埋め尽くされていきました。