いつも聴いている大竹まことさんのpodcastの番組に著者の石井光太さんがゲスト出演していて、本書の紹介をしていました。
石井さんの著作は、以前にも「ルポ 自助2020- ― 頼りにならないこの国で」という本を読んだことがあります。
本書も前作と同様に、石井さんの現場に入り込んだ渾身の取材からの多面的な考察は刺激に富んでいて、なかなかに面白いものがあります。
その中から、私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきましょう。
まずは、序章で紹介されているエピソードです。
国語の授業における今日の小学生が話す「ごんぎつね」の情景解釈は心底ショッキングでした。本書での石井さんの問題意識はここに始まります。
(p15より引用) そもそも学校現場で見られる子供たちの思考力の欠如や珍妙な解釈を、「読解力の低下」という問題だけに留めて考えていいのかということである。文章を正確に読んで理解する以前のところで、子供たちは何か大きなものにつまずいているのではないか。
そして、ここ数十年の教育方針の迷走。「ゆとり教育」の失敗からの反動は、本質的な課題の解決とは全く異なる方向に進んでいるようです。
(p100より引用) 大学にせよ、産業界にせよ、彼らは彼らなりに、今の子供たちに必要な力を与えたいと考えて提案しているはずだ。子供たちが必要最低限の知識をつけて大学でスタートを切れるように、グローバル化や情報化の波に乗り遅れないようにと善意で行っているのだ。
しかしながら、子供たちに国語力という基盤がなければ、砂上の楼閣だ。日本語でしっかりと物事を考えて表現できない人が英語で何を語ろうというのだろう。他者の気持ちに寄り添え ない人がプログラミングで何をつくろうというのだろう。今の日本の教育において盲点になっ ているのは、まさにこの部分なのではないか。
国語力の劇的な低下の実態は、他人とうまくコミュニケーションを取れず社会的生活が営めないというレベルではなく、そもそも言葉を発すること自体できなくなり、言語によって考えるということすらできなくなっているとのこと。
たとえば、ゲームにのめり込む“ネット依存”。奪われるのは「言葉」だけでなく「精神や身体の健康」にも及ぶのです。
(p212より引用) 依存症の子供たちは、ゲームの世界にしか自分の居場所がないと思い、言葉で考えることを止め、一方的に外の世界との間に壁を築いている。自分の身に異常が現れ、命の危険にさらさ れていることも気づかない。
そんな子供たちを再び現実の世界に連れ戻すには、ゲームを物理的に奪うだけでなく、外の場所に居場所をつくらなければならない。陶芸でも運動でも何でもいい。何かしらのことを通して周囲から認めてもらい、それをつづける意欲を抱かせる。それによって他者とつながれば、その子の居場所ができるのだ。
ネット依存からの脱出を目指し支援する動きも始まっています。ただ、ここでも“公”の動きはやはり緩慢です。
さて、本書を読み通して改めて振り返ってみたとき、学校教育における「国語科」の位置づけや意味づけ、別の言い方をすると「国語を学ぶ意味」「国語養育の目指すもの」が、あまりにもファジー(あやふや)であり、それに関わる当事者の間でもバラツキがあることに思い至りました。
「国語科」をすべての教科の中心に据えた教育を実践している日本女子大学附属中学校・高等学校。文庫本一冊を一学期かけて精読し、それを材料に、考え、書き、話す力を養う、そういったユニークな授業内容をつぶさに取材した石井さんはこうコメントしています。
(p295より引用) 読解力や表現力はもとより、チャレンジ精神や称え合う姿勢も身につく。生徒間のコミュニケーションは、ネットにありがちな安易な他者への攻撃とは対極に位置する豊かで優しいものになる。こうした能力は、社会に出た後に豊かな人間関係を構築するのに役立つ。
2022年度、文科省が実施した新学習指導要領の変更では、契約書や企画書といった実用的文書の読解等による実用的能力の向上が目指されているとのことですが、それで子どもたちは独り立ちして生きていく力を体得できるのか、現在の社会的な課題が解決に向かうのか・・・。
現下の教育現場において、社会の礎たる「人」を育てるという重要な使命をどうやって果たしていくのか、今の教育現場の取組みは、どうにも即物的かつ皮相的な営みに終始していうように思えてなりません。