いつもの図書館の新着本リストの中で見つけた本です。
最近は “読書法”“読書論”といった類の本は読まないようにしているのですが、この本はちょっと切り口が違いそうだと期待して手に取りました。
著者の荒木博行さんが説く「本との付き合い方」から、私の興味を惹いたところを覚えとして書き留めておきます。
まず、「どのような本を選ぶべきか」について提示した荒木さんのヒントです。
(p81より引用) 本は「問い」と「答え」が自分にとって新しいかどうかを整理することで、3つのカテゴリー、つまり「問いの発見」「答えの発見」「既知のリマインド」に分けることが可能になります。
そして、読書経験を重ねるにしたがって、この3つのカテゴリーの本のポートフォリオを変化させていくのです。もちろん最も自分を進化させるのは、自らの認知行動自体を変える「問いの発見」のカテゴリーの本です。
(p102より引用) 自分が考えている「当たり前」って、そもそも正しいのだろうか......?
こうした当たり前の「問い」に戻ることの重要性を教えてくれるのが、この「問いの発見」のカテゴリーの本なのです。
私にとっては、「ソクラテスの弁明」や「方法序説」がそれに当たるような気がします。
とはいえ、要は、その時の自分の状況を踏まえた「ポートフォリオ」が大事ですね。適度に「既知のリマインド」も混ぜ込むのが読書を楽しむコツだと思います。“既知”のことであっても、そこに辿り着く新しい道筋が見つかるのはいい刺激になります。
次に、印象に残った2点目。荒木さんが、自身の「読む本」が変わっていった背景を語っているくだりです。
(p174より引用) なぜ読む本を変えたのか。それに答えるために、経済学者の内田義彦の「読書と社会科学」の一節を引用したいと思います。
「読む」と一口にいっても、読み方に二通り、根本的に性格が違う読み方があると思うんです。ここ(黒板)に書いた「情報として読む」のと「古典として読む」の二つです。
この内田の言葉を借りるならば、私は「情報として本を読むこと」に疲れてしまったのかもしれません。・・・内田は同書で「情報を得るための読書と、情報を受け取る眼を養うための読書」という表現も使っていますが、まさに自分は「眼を養う」ことへと移行したのです。
この感覚は私にも心当たりがあります。
数年前から私もめっきり「ビジネス書」は読まなくなりました。「情報を受け取る眼を養う」とまではいきませんが、「直接『情報』を得る」ための読書を意図して減らしていったのは事実ですね。そのかわり、「それまで近づくことがなかったようなジャンルの本」を意識して手に取るようにしてみたのです。
とはいえ、本来の順番は逆のはずですね。「情報を受け取る眼」をしっかり準備してから「得るべき情報」を受け取るのでしょうが、私を含めほとんどの人は「目を養う方が後」になっているのが現実だと思います。
“有益な情報”は何も本からしか得られないものではありません。ですが、まずは「身近な読書」によって新たな知識や気づきを得ることに慣れ、その積み重ねで “いろいろな指向性をもった高感度アンテナ”を身に付けられるようになるのでしょうね。
そして、3点目。荒木さんからの最も大切なメッセージ。
(p220より引用) そこで感じるちょっとした違和感に対して、「なぜだろう?」「どういうことだろう?」という「懐疑」を忘れてしまった人は、「熱狂」させられていることに気づかず、やがてはプラットフォーマーなど大きな見えない力にコントロールされていきます。まるでアイヒマンが、悪びれることなく、自分は組織の命令に従っただけであり、悪いのはナチスだと語ったように......。
多続であればよいというものではありません。よい本を読み、その思想に熱狂しつつも、「懐疑」を忘れない。そして、そこから生まれた「問い」を抱え続け、そのモヤモヤとした状況に耐えうる力を鍛えること。それこそが、私たちが「読書」をするときに忘れてはならない姿勢なのでしょう。
“「懐疑」を持ち「問い」を抱き続けよ”。ネット社会での営みのウェイトが増加し、「同調圧力」とか「正常性バイアス」とかの発露が以前に増して顕在化してきた今日、特に重要なアドバイスだと思います。
さて最後に、「読書」そのものについてではありませんが、本書の中で私にとって最もインパクトがあったフレーズを紹介しておきます。それは、「はじめに」のこのくだりでした。
(p5より引用) 教育のパラドクスとは、教える側がわかりやすく教えれば教えるほど、受け手は考えなくなる、という矛盾です。
手取り足取り丁寧に示せば、受け手は無批判でそのナレッジを受け止めてしまう。その結果できあがるのは、「教える人の劣化コピー」です。
だからこそ、何かを教えるときは、全体像を見せてはなりません。・・・何かを教えるときに、教育効果の最も高い「全体像を考える」という行為を、教える側は奪ってはならないのです。
「教える人の劣化コピー」という一言は強烈です。確かにそのとおりですが、教え方の塩梅は悩ましいですね。相手によっても、具体的な接し方や届け方は変わりますから。