ちょっと前に「永久保存版「知の巨人」立花隆のすべて」というMOOKに採録されていた立花さんの代表作「田中角栄研究―その金脈と人脈」を読みました。まさにこのころ、小沢一郎氏は、若手議員の中で「田中の秘蔵っ子」として力を振るい始めていました。
本書は、その小沢一郎氏の“家庭”にまつわるノンフィクション作品です。
内容についていえば、これといって特段興味を惹いたところはなかったのですが、一か所だけ、1974年、文藝春秋に立花さんのレポート「田中角栄研究」が掲載されたときの角栄氏の様子が書かれているところがあったので書き留めておきましょう。
(p170より引用) 小沢が「育てのオヤジ」と公言する角栄は、七四年に総理を辞任して陽のあたる表舞台から姿を消していく。
『文藝春秋』七四年十一月号に二本のレポートが掲載されたことがきっかけだった。立花隆の「田中角栄研究―その金脈と人脈」と、児玉隆也の「淋しき越山会の女王〈もう一つの田中角栄論〉」である。
主に立花の記事をもとに、国会で追及を受けて田中内閣総辞職するのだが、角栄自身としては、それよりもむしろ児玉のレポートによって、佐藤昭子という公私にわたるパートナーの存在が表沙汰になったことのほうが痛かったようだ。
十数年にわたって担当記者をしていた元時事通信政治部記者の増山榮太郎は、『文藝春秋』が出た直後に角栄と会うと、挨拶もなしにいきなり、「おい、まいった。文春だ」と言われたのだという。
「当時、娘の眞紀子さんが嫌っていたのが、神楽坂に住む愛人の辻和子さんと、秘書の昭さんでした。角さんが『眞紀子に責められる』と言っていたので、やはり児玉レポートのほうがシヨックだったんだなと確信しました」
さて、本書、私は取材内容の真偽について判断する材料を持ち合わせていないので、その点についてのコメントは控えますが、その取材内容を料理するにあたっての「著者の価値観」については言及できるでしょう。
その点に関していえば、本書に通底する思考スタイルには少々違和感を抱きました。小沢氏の人間性に関するところではなく、“政治家としての姿勢”について評価している部分です。
どうも著者は政治家に対して“前近代的な姿”を求めているようです。地方選出の「国会議員」は、“選出された地方(出馬した選挙区)への利益誘導者”ではないはずです。
もちろん、私も、一部の有権者がそういった期待を抱き、政治家がそれに応える実態を全否定するものではありませんが、それは、あくまでも合法的なルールの中での許容された応用動作の範囲内であるべきでしょう。
私は、政治面において小沢氏の思想や行動を殊更支持してはいませんが、著者の記述のように、地元への忠誠度が薄いからといって、それを根拠に人格的にも否定するような描き方は好ましいものではないと思います。