ちょっと前に「中世芸能講義」という本を読んで、久しぶりに網野善彦先生の著作に手を伸ばしたくなりました。
本書は、網野氏をはじめ4名の中世史研究の大家の論考10編を採録したものです。
かなりマニアックなテーマを扱ったもので、正直取っつきにくい内容でしたが、強いてその中から私の関心を惹いたところを覚えとして書き留めておきます。
まずは、網野善彦氏が解説する「8 博奕」から。
(p127より引用) 十世紀から十一世紀にかけて、博打(博奕打)は確実に「所能」「芸能」の一つとなる。周知の通り『新猿楽記』の「大君の夫」は、賽の目を意のままにしうる「高名の博打」であった。そこには雙六の名手、宴丸道弘・豊藤太·竹藤掾などがあげられており、『二中歴』にも宴丸道供(弘)をはじめ、多くの名の知られた雙六の名人が列挙されている。これらはいわば、博奕の「職人」であった。
(p129より引用) こうした博突の「職人」が、清水次郎長などの江戸時代の渡世人、明治の草莽隊や自由民権に大きな役割を果し、大正期には百万以上を数えたという博徒の集団につながることはいうまでもない。「芸能」としての博奕も、また古代後期以降、まさしく超時代的につづいてきたといってよかろう。
博奕が、古くは7世紀末の文献(続日本紀)に登場し、さらに10世紀ごろからは「芸能」の一つと位置づけられ、江戸から明治・大正と連綿とその系譜が続いていたとは驚きです。
そして、巻末の桜井英治氏の解説のなかで、本書での議論を一部総括しているくだり。
(p288より引用) 中世の人びとにとって、犯罪とは穢にほかならず、したがってそれにたいする刑罰も、犯人を処罰することよりも、むしろ正常な状態を回復することに重点がおかれた。さまざまな犯罪の分析がいずれもこの一致した結論を指し示しているとすれば、それが「中世の罪と罰」の核心を突いている蓋然性はきわめて高いといえよう。
こういう整理はとても分かりやすいのですが、本書内で開陳されている4名の泰斗の方々の論考は、正直、私の貧相な知識ではついていくには専門的過ぎました。
(p290より引用) 本書を通じてあらためて浮き彫りになるのは、中世社会が、現代人の常識や価値観では容易に解釈できない社会だということ、つまりそれは私たちにとって彼岸=異文化にほかならないということである。そのことを教えてくれるのも本書の重要な意義といえそうだ。
との点は、大いに首肯できるのですが。
まあ、ともかく、時には日ごろ読まないようなジャンルの本に手を出すことは、(玉砕するのがオチではありますが)できるだけ続けていきたいと思います。