ちょっと前に、後藤正治さんの「拗ね者たらん」を読んで、ともかく本田靖春さんの著作を読んでみたくなりました。で、まず手に取ったのが、代表作のひとつを言われている本書です。
確かに緻密な事実の堆積に加え、それを描き切る本田氏の並々ならぬ筆力を感じます。
(p246より引用) 泉検事は国家権力を半ば暴力的に行使して、彼自身の同僚であり、同時に立松と交情のある検察関係者を売り渡すよう、背信行為を迫ったのである。
「最後の誇りまで捨てさせないで下さい」と立松が懇願するようにいったのは、新聞記者の矜持から出た峻拒というよりも、それこそ最後の一枚を剥ぎ取られかかった生身の悲鳴に近い。立松は裏切者にはならなかった。しかし、屈辱の思いは刻み込まれたのである。
評判どおりの骨太で高密度のノンフィクション作品ですね。
ただ、私の好みかといえば、どうもちょっとしっくりこないものがありました。
私がよく読んでいたのは吉村昭さんや柳田邦男さんたちの作品群だったのですが、「どうしてかな?」と考えてみたところ、ひとつ気づくところがありました。
この「不当逮捕」には著者の本田氏本人も主人公と深い因縁をもつ関係者のひとりとして登場するんですね。ここにおいて、著者は第三者ではなく、作品も「完全なる客観性」に徹した記述ではなくなっているわけです。
もちろん吉村作品や柳田作品に主観的記述がないかといえば、そうではないでしょう。ただ、主人公への思い入れの浸潤度合いは、質的にも量的にも異なっています。
ノンフィクションとしての是非ではなく、私が抱いた(私が思うノンフィクション作品との)“違和感の源”はここだと思いました。