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弁論術 (パイドロス(プラトン))

2010-04-22 20:51:12 | 本と雑誌

Platon_2  本書での「弁論術」批判の立論は、比較的論旨をたどりやすいものだと思います。もちろん、完璧に理解し切れてはいないと思いますが・・・。

 まずソクラテスは、「語ろうとすることの『真実』」について問います。パイドロスの答えはこうです。

 
(p93より引用) 将来弁論家となるべき者が学ばなければならないものは、ほんとうの意味での正しい事柄ではなく、群衆に・・・その群衆の心に正しいと思われる可能性のある事柄なのだ。さらには、ほんとうに善いことや、ほんとうに美しいことではなく、ただそう思われているであろうような事柄を学ばなければならぬ。なぜならば、説得するということは、この、人々になるほどと思われるような事柄を用いてこそ、できることなのであって、真実が説得を可能にするわけではないのだから・・・

 
 まさに、「弁論『術』」の本質を突いた台詞です。
 これに対しソクラテスは、例の問答を通して、「真実そのものの把握なしには、真実らしく思われるように巧みに語るということさえ、本来不可能であること」(巻末解説)を明らかにしていきます。

 
(p100より引用) してみると、君、言論の技術というけれども、もしひとが真実を知らずに、相手がどう考えるかということのほうばかり追求したとするならば、どうやらその技術なるものは、何か笑止千万なもの、そして技術としての資格がないものとなるようだね。

 
 とソクラテスは語ります。リュシアスをはじめとする弁論家の説くところは、まだ「術」にすら至っていないというのです。

 
(p119より引用) ある人々は、ディアレクティケーの知識がないために、弁論術とはそもそも何であるかを定義することができず、そしてそのように弁論術の何たるかを知らないことの結果として、技術にはいる前に予備的に学んでおかなければならない事柄を心得ているだけで、弁論術そのものを発見したと思いこむものだ。

 
 ソクラテスにとっては、「技術」といえるものも「物事の本質の追究」を経て完成されるものなのです。

 
(p120より引用) およそ技術のなかでも重要であるほどのものは、ものの本性についての、空論にちかいまでの詳細な論議と、現実遊離と言われるくらいの高遠な思索とを、とくに必要とする。

 
 本質の追究にあたっては、ロジカルな「分割法」が採られます。
 まずは、目的を明確にします。目的が明確になると、働きかけるべき対象が明らかになります。そして、その対象を分割し個々に分析していくという方法です。

 
(p125より引用) そもそも言論というものがもっている機能は、魂を説得によって導くことにあるのだから、弁論術を身につけようとする者は、魂にどれだけの種類の型があるかを、かならず知らなければならない。

 
 分割・分析により規定された各々の類型に対して、それぞれ適した話を対応させることにより、個々の魂の説得を行うのです。

 さて、「弁論術」についての論考を進めた後、最後にソクラテスは「書かれた言葉」についての議論を採り上げます。

 
(p136より引用) 言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く。

 
 したがって、言葉はその真意を守らなくてはなりません。パイドロスは、ソクラテスの語る意味をこう理解しました。

 
(p137より引用) あなたの言われるのは、ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉のことですね。書かれた言葉は、これの影であると言ってしかるべきなのでしょうか。

 
 ソクラテスが著した書物は、1冊も残っていないと言われています。
 
 

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