以前、よく似たタイトルの本、御手洗 冨士夫・丹羽 宇一郎両氏 による「会社は誰のために」を読んだことがあるのですが、そちらの本は「経営者」の視点から、今度の本は「経済学者」の視点からのものです。
著者は、まず「法人」という言葉から「会社の両義性」を話題としてとりあげます。
(p16より引用) 会社という存在は、実は、モノであるのにヒトでもあるという両義的な性質をもった法人です。つまり、ヒトとモノをきちっと分けたことから出発したはずの近代社会のまんまん中に、まさにその前提と矛盾するヒトでありかつモノであるという会社が存在し、しかもその物質的な活動の中心を占めている。これは本当に驚くべきことです。
著者は、この会社の両義性を「二階建て家屋」に見立てて、アメリカ的会社観・日本的会社観の意味を説明しています。
「会社」は、株主に「モノ」として所有されている層と、その株主に所有されている会社が「ヒト」として会社資産を所有している層からできているというメタファです。
そして、「会社は株主のもの」という米国型の株主主権論は、この前者の「モノ」としての会社の性質を強調したものだというのです。
さらに著者は、この「会社の両義性」のうち「ヒト」という性質からCSR(Corporate Social Responsibility)の意味づけを行なっています。
(p94より引用) 法人とは、社会にとって価値を持つから、社会によってヒトとして認められているのであるという、法人制度の原点に立ってみましょう。そうすると、少なくとも原理的には、法人企業としての会社の存在意義を、利益の最大化に限定する必要などないことが分かります。社会的な価値とは、社会にとっての価値です。それは、まさに社会が決めていく価値であるのです。そして、ここに、真の意味でのCSRの出発点を見いだすことができるはずです。すなわち、たんなる長期的利益最大化の方便には還元しえない社会的な責任という意味でのCSRです。
「ヒト」である以上、そこには、市民社会の構成員であり、市民社会に属する以上、自己利益を超えた「社会的責任」を持つのは当然だという考え方です。
(p95より引用) ここで重要なことは、このような市民意識の成熟が、同じ社会のなかで法人として活動している会社にたいして、それをヒトとして承認するための社会的な存在理由として、たんなる利益の追求を超えた何か、法的な義務を超えた何か、を要求し始めているという事実です。それが、現在、CSRにたいする、全世界的な関心の高まりの背景にあるのです。
会社はだれのものか 価格:¥ 1,470(税込) 発売日:2005-06-25 |