通常の常識からは、「データ」といえるものは、誰が見ても(聞いても、計測しても・・・)同じもの(結果)でなくてはなりません。
しかしながら、氏は、観察されたデータは「主観的なもの」だと言います。あくまでも「観察者」に依存するものであり、観察者が変わるとそこで事実として把握される内容も変わるのです。
(p151より引用) 今わたくしどもが、天然自然の姿として認め、知っているものは、たまたま、わたくしどもが、今のわたくしども程度の大きさをもち、わたくしどもの感覚器官が、今の程度の分別能力をもっていることに結果としてのものなのであって、それらの条件が変われば、自ずからそれにつれて、外界の有様も変わる、ということは認めなければなりますまい。
確かに、人が見る外界と、イヌが見る外界と、コウモリが見る(聞く?)外界とは、同じものを見ても全く異なって見えるはずです。それぞれの感覚器官の能力が違うのですから。
そうなると「事実から理論」という帰納的アプローチはその拠って立つ礎が不安定になってしまいます。
(p181より引用) 科学についての常識的な考え方に従えば、理論は、データから、帰納によって造られることになっていました。しかし、ここに到って事態は完全に逆転したからです。「事実」が科学理論によって造られる ものと考えられることになりました。
氏の立論では、「『前提となる理論を共有している人々の間』で『事実』が認められる」ということになるのです。
従来の常識では、それまで正しいとされていたある理論に対し、それに反する「事実」が見出されることが、新たな理論構築のきっかけになると考えられていました。
しかし、「事実は理論に依存する」となると、そうは言えなくなります。
客体である「事実」をトリガとしないで科学理論が変化するということは、主観側に、その要因を求めることになります。すなわち、「人間の意識構造の変化」です。
この考え方の例示として、氏は、自然科学的な「原子論」の現出を挙げています。
ボイルやニュートンに代表される原子論が唱えられ始めた16から17世紀にかけてのヨーロッパでは、まさに「近代の個我の成立」「自由主義の萌芽」が見られました。
(p193より引用) 17世紀ヨーロッパ社会が底流としてもっていた基本的な考え方と、自然科学的な「原子論」の確立との間には、単なる現象面での同型性以上に強い関係があると考えてよいでしょう。
「個人」と「原子」のアナロジーです。
氏は、「『自然科学』が一人歩きする」ということはおかしな話だと言います。
(p194より引用) 科学理論の変換の起こる過程は、単に特定の科学理論の場面だけでの操作が関与しているのではなく、それを組み込んでいる全体的な世界像や自然観などとの有機的な構造の総体が関与している、ということだけはいえると思います。
当然ですが、「科学はもともと人間の営み」です。
新しい科学論―事実は理論をたおせるか 価格:¥ 861(税込) 発売日:1979-01 |