ひめはぎのはな

踏青。翠嵐。蒼穹。凛然。…爽やか、山日和。by sanpoiwa1736

九州を席捲した剽悍な薩摩隼人

2008-10-20 22:20:04 | 小説.六韜三略
・・・・・・島津義弘(1535~1619)

 第四回は、江宮隆之の“島津義弘”(学研M文庫)です。
もともと義弘の島津家は分家でした。父・貴久が本家から、その器量を見込まれ家督を譲られて、島津家を統一した経緯があります。その島津家は幕末まで存えます。ちなみに2008年のNHK大河ドラマ“篤姫”は今泉家の娘で、島津家の分家にあたります。
 武勇に秀でた島津義弘という人物を二回に渡って紹介したいと思います。まずは九州統一戦です。
 島津貴久の次男として生まれ、天文二十三年、兄・義久、三男・歳久とともに初陣を飾ります。さらに四男・家久がいます。武名高き四兄弟です。兄・義久が家督を継ぎ、義弘以下兄弟は戦の前線で指揮をとります。
 元亀三年、日向の伊東軍が挙兵。その数三千。対する島津軍は義弘を大将に僅か三百。義弘は百二十ほどを引き連れ、敵にひと当たりして敗走・・・。


「よいか! 我らは敵に敗れて退いたのではない。これは策略だ。敵を十分に引き付けておいて、鉄砲で一斉射撃する。その後、建て直した態勢を維持しつつ、敵に突っ込む。その時が我らの勝敗の分かれ目である! 味方の援軍はそこまで来ている。持ち堪えよ!」
若武者たちの奮戦を見て義弘は、自ら軍の先頭に立った。


(本文抜粋)


 十倍の敵を破った「木崎原の合戦」は、後に“九州の桶狭間”と呼ばれ、義弘の武勇を高めます。
その後、島津家は薩摩・大隈・日向を統一します。すると天正六年、今度は九州一の大名・大友宗麟が七万五千の大軍を持って日向に進軍。宗麟自信は一万四千あまりとともに途中、無鹿で停止。それでも敵勢六万。迎え撃つは島津軍三万。小競り合いから島津軍の先鋒五百人が敗走します。それを追って大友軍の二陣、三陣、さらには本陣まで動きます。義弘は采配を振るう。島津の得意戦法「釣り野伏せ」です。

この「耳川の合戦」の勝利によって九州は大友という観念から、島津・大友・龍造寺の三つ巴の状況が生まれます。その島津軍の次なる敵は「肥前の熊」と恐れられる龍造寺隆信です。
島原半島の有馬晴信の要請に応じ、義弘から戦術、地勢の指示を得た家久が救援に向います。島津軍・有馬軍併せて五千をやや越える程度。対して龍造寺軍はその十倍。「沖田畷の合戦」です。
この戦いで龍造寺隆信が討ち取られます。戦場で首を取られた大名は、今川義元と龍造寺隆信のただ二人だけです。

 薩摩隼人、恐るべし。島津義弘、恐るべし。まさに軍神。