Learning Tomato (旧「eラーニングかもしれないBlog」)

大学教育を中心に不定期に書いています。

vol.424:学生と授業をつくる -今ここでの体験学習

2011年10月02日 | eラーニングに関係ないかもしれない1冊


(塩谷政憲著、プレスタイム 1998年)

仕事柄、色々な先生の授業をオブザーブさせていただきます。時折、腰が抜
けるくらい感動することがあるのですが。今回の著者である塩谷先生の授業
はその1つ。本書はその講義録ともいえる1冊です。上智大学の出身→国士
舘大学の教授という、関東西部に70年代を過ごしたご同慶にとっては少し
(だいぶ)ストレインジな足跡からも先生の生きざまの一端が彷彿されます。

この本は、塩谷流の授業の儀式の紹介から始まります。
塩谷先生は毎回の授業の最後に学生に小さな紙片を配ります。ルールは2つ。
本名を書かないこと。そして「何か」書くことです。授業の感想・質問はも
ちろん、私的な悩みでもなんでもよい。書きたくない場合は「書きたくな
い」ことを書くこと、というわけです。元三重大・織田揮準先生の「大福
帳」をぐぐっとフランクにした、といってもいいかもしれません。そして次
回の授業でそれをコメントをつけながら披露します。匿名にしたのは、その
折々のより本当の学生の気持ちを確かめるためです。

先生はどんな質問も実に真摯に答えていきます。
例えば(書くに事欠いたと思われる)学生の「先生が尊敬する人は誰です
か」というカードに対しては、
「この国にも、尊敬する人は誰ですか、と問われて(中略)姿勢をただし、
気迫演技を加えて『東郷平八郎元帥です』と言わなければならない時代があ
ったのです。(中略)でも、今は安心して答えることができます。こう言う
時代を作るために犠牲になった多くの人々に私は襟を正さねばならないと思
っています。(後略)」と言う具合です。

もう1つの儀式が「Gestalt pray」(パールズの祈り)です。毎回、先生は
チャイムが鳴る前に教室に着き、そして鐘の音とともに教壇に立ち、あのゲ
シュタルト療法の創始者パールズの遺した詩の唱和からスタートします。

我は、我がことをなし、汝は、汝のことをなす
我、この世にありて生きるは、汝の期待にそわんがためにあらず
汝もまた、我が期待にそわんとて、この世に生きるにあらず
汝は汝、我は我なり
されど、我らが心、ともにふれあうことあれば、これにこしたことなし
たとえ、心ふれあわずとも、それはそれで、せんかたなし

(訳 塩谷先生)

先生はこの詩に自分の授業スタンスが集約されていると初回冒頭に言い切り
ます。個人主義、ですね。しかしこれは利己主義ナドではなく、世間の評価
におびえたり、他人に依存したりおもねたり、あるいは他人を操ろうなどと
してはいけない、という非常に崇高な要求を内包しているようです。そして
「その過程で私とあなたに思いが通ずるところがあればラッキーだけど、な
ければないで仕方ないよね」
という超然が織り込まれています。そのくらい、他との比較ではなく、自分
を自分として紡ごうよ、というメッセージが伝わってきます。

この書によれば、この大学の学生さんは、必ずしも喜んで入学して来たとは
限らないようです(実際はもう少し直接的な表現をされています)。例えば
東横線に乗っていると慶大の学生さんの服やバッグから「KEIO」や「ペンペ
ン」がこれでもかと目に飛び込んできます。が、この学校は最寄駅でもその
校名をあまり見かけません。このことからも彼らの心のありようが慮られま
す。
明言されませんが、これは、先生があえてこの大学で教鞭をとる理由の1つ
のような気がします。

「他との比較」で打ちひしがれて中高を過ごし、そして大学入学後もそれが
強化される彼、彼女たちも、この塩谷流の営みの中で徐々に「個」を確立し
ていきます。
期も進み何回目かの授業で、「職業の社会的威信」(日本の約80の職業に
ついて社会的威信の高低をアンケート調査し、スコア化したもの)をとりあ
げた時のこと。先生が何人かの学生にトップの職業を聞いていくと、「弁護
士」「社長」「芸術家」「医師」、、と続きます。その中、ある女子学生が
「漁師」と答えました。先生は「おいおい、、」とたしなめながらもハッと
します。そしてその年度末試験の答案にその学生からメッセージが添えられ
ていました。

「父は漁師です。(中略)(調査で)偏差値35.9の漁師の父は、一人で舟に
乗って沖に出ます。すると漁船の船長ということで偏差値は57.3になるので
しょうか。でもそんな偏差値、漁には関係ありません。その漁師の父が、自
分を東京の大学にこさせてくれました。」

彼女が1年間塩谷先生の授業を受けたからこの凛とした学生になったのかど
うかはわかりません。ただ、もしかすると連綿とした「比較」のために20歳
そこそこで人生をどこか悲嘆している彼らに、先生の授業は、個として社会
とかかわるための大きな力となる営みであったと思う次第です。
(文責:シバタ)


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