秋になるとよく栗を買ってきて、自分で煮てたべます。家族のうちで栗を煮て食べようとするものは僕だけです。他のメンバーは僕が、煮て、包丁でふたつ割にして、おいしそうに食べていると、少し食べるだけです。いつもは近くの朝市で買うのだけれど、スーパーで愛媛県産の中山栗を買いました。粒は大きいけれど、味が大味で、栗の香りもあまりしませんでした。促成栽培でとにかく大きくしただけの様な栗でした。いつものを買えばよかった。失敗。
僕の食べ方は、包丁でふたつ割にして、スプーンで食べます。決して皮は剝きません。それは縄文時代の食べ方です。(ホントかよ)栗ご飯にもしません。ただひたすら、スプーンで食べます。速いし、指先も痛くならない。
食べ方で特徴があるのは、桃の食べ方です。皮を剝き、流しのところへ行って、丸カジリするのです。垂れた桃の汁は流しのなかに落ちるので、周りを汚しません。ただひたすらにムシャぶるのです。その間5秒、過激な食べ方と桃の甘さと香りの中ですべてを忘れる、至福のときです。娘たちが小さいころはよく一緒にやっていました。母や嫁さんは『お行儀が悪い。』と言って、娘たちにそれをさせないようにしていましたが、僕が先頭切ってやるので、止めれません。娘たちも母親が嫌がることを堂々とやれるので、嬉々として、食べていました。ただ彼女たちの食べ方は遅かった。彼女たちが、速く豪快に、ちょっと下品に食べることにこの食べ方の真髄があると気づくのはいつの日だろう。人の目や、常識というシステム化された掟から自分を解放するには、原点に帰る必要がある。動物になりきって、心を自由にするんだ。(マジですか?)
~里の秋~ 倍賞千恵子