またひとつのお別れがあった。
加藤 鰹さんの訃報。
年明けから体調が思わしくない中、
代表をつとめておられた静岡たかね川柳会の
新年句会をぶじに終えられ、
その後まもなく入院されたときいて
心配していた。
膵臓がんで余命3ヶ月と言われていた鰹さんが
体調をくずして入院されたとなれば、
その病状のきびしさは、想像に難くないから…
それでも、回復を祈っていた。
鰹さんとは、ブログを通じて知り合って、まだ3ヶ月ほど。
それでも、すぐにそのお人柄にひかれ、
句を読んでますますファンになった。
手紙を書いたら、
ていねいなお返事をいただいた。
2月の豊橋番傘大会に行こうと思います、
と書いたわたしに、
そうですか、
思いきっていらっしゃいますか。
僕も必ず行きますので…
と。
添えてあった句は、
すきま風入らぬように抱き合おう
たかねの新年句会に、欠席投句で参加させていただけたら、
とお願いすると、
どうぞどうぞと歓迎して下さり、
たかね誌最新号とともに、投句の要領をていねいに書いて
送って下さった。
豊橋の大会でおあいできるのを、楽しみにしていた。
けれど、もしその日がだめでも、
鰹さんがお元気になって下されば
また機会はあるのだから。
どうか回復されますように…
と、こころから祈った。
けれど、鰹さんは入院後まもなく旅立ってしまわれた。
1月25日。
ほんとうのであいがかなわないままに訪れた、お別れ。
あえるはずだった2月14日は、もう永遠に来ない。
余命3ヶ月と言われてからの半年、
抗がん剤の効果もあったようだが
ご本人の精神力、望み、覚悟、
そして周囲のかたの支えによるところが大きかったのであろう、
お元気に精力的に、いつも明るく笑っておられたそうだ。
ごく身近な、気をゆるせるお友だちの前でだけ、
「死にたくない」
と泣いておられたと、あとで知った。
そのようなかたが、鰹さんのそばにいて下さってよかった。
とても救われていたことと思う。
全国の川柳大会に出かけられ、旅行もし、
あいたい方々に会い、ひとの輪をつなぎ…
余命を言われてからの日々は、
きっと密度の高い、濃縮されたものであったのだろうと思う。
ご本人は、いのちつながる希望を持ちつつ笑っていながらも、
いつそのときが来てもいいように、
悔いのない生き方をされたのだろう。
あいたいひとに会い、
句集と句碑をかたちに残し、
かかわった人々の胸にあざやかな絵を描いて、
逝ってしまわれた。
わたしのなかにも、大きな存在として刻まれている。
忘れることはない。
いつか、鰹さんをよく知る身近な方々に、
鰹さんのお話をたくさんきかせてもらいたいと
願っている。
誰からも愛されていた鰹さん、
もう、痛みや不安や、つらいことからは解放されましたよね。
きっと笑っておられますよね。
ありがとうございました。
(加藤 鰹さんの句) 句集「かつぶし」&たかね誌 より
十八の僕がハチ公前にいる
すきま風入らぬように抱き合おう
ライバルの絵馬にも春が来ますよう
卑弥呼ならうちの茶の間にいますけど
目に見えぬものがいちばんおそろしい
ひまわりの振りがしんどい時もある
妻よ子よ俺は負け組だよゴメン
沢ガニも君もそーっと掴まえる
泣かないでくれよ桜は散る定め
めぐり遇おう今度生まれて来る時も
にほんブログ村