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「埋蔵金伝説」あれこれ

2007年01月16日 | Weblog
今日は、全国津々浦々に語り継がれる「埋蔵金伝説」あれこれ集めてみました。

●豪商・鹿島清兵衛の埋蔵金
・東京オリンピックの前年の1963(昭和38)年
・東京都中央区新川の日清製油本社ビル改築工事現場から、2度にわたって江戸時代の金貨が見つかりました。天保小判1,900枚と、天保二朱金約78,000枚。発見当時でも、時価6千万円といわれていましたから、今だったら10億円近い額になるでしょう。これは文句なしに、史上最高の埋蔵金発見例です。
・その後の調べで、この金貨は、江戸時代の半ばから200年間以上、この地で大きな酒問屋を営んでいた豪商・鹿島屋の先祖、九代目鹿島清兵衛が埋めたものだということがわかり、その子孫に返還されました。


●小松ストアーの埋蔵金
・1956(昭和31)年 東京都中央区銀座
・多量の小判が発見されています。現場から掘り出されたわけではなく、江東区深川の埋め立て地へ運んだ土の中に含まれていたのです。土ならしをしていた作業員が拾い集めたのは、江戸時代に発行された10種類の小判の中で、最も金の純度が高く、希少価値もある「慶長」「正徳」「享保」の3種類の小判で合計208枚。
・そのほか、同種の一分金も60枚見つかっています。こちらは持ち主が見つからなかったこともあって、文化財扱いになり、現在は上野の東京国立博物館に収蔵されています。


●最上川で見つかった小判
・1961(昭和36)年の夏、山形県西置賜郡白鷹町の最上川
・箱めがねを使って魚とりをしていた小学生が、川底にあった1枚の小判を拾いました。うわさを聞きつけた人がどっと押し寄せ、それから半月ほどの間に、文政小判23枚をはじめ、文政二分金9枚、文政南鐐二朱銀358枚が見つかったのです。
・それは初め、発見者がそれぞれ保管していましたが、町が文化財に指定して一括保存することになり、現在は白鷹町役場の出納室の金庫に眠っています。
・天保年間に、この近くの船着き場で誤って川に落ち、おぼれ死んだ飛脚がいたそうで、川底に沈んでいたのは、この飛脚が商人に頼まれて届ける途中のお金だったようです。彼が持っていたのは金80両。見つかったのは合計72両と1分。ということは、あと7両と3分がまだ川の中?


●ぶどう畑から出た甲州金
・1971(昭和46)年、山梨県東山梨郡勝沼町の観光ぶどう園
・ゴミ捨て用の穴を掘っていたところ、地下から金色に光るものが出てきました。それは、水草のヒルモに似た細長い楕円形の「ひるも金」2枚と、古いタイプの甲州金18個。どちらも金の純度が高く、希少価値もあり、1枚数百万円します。そのほか、渡来銭(中国から輸入した銅銭)が約5千枚も見つかっています。
・この近くには、中世、武田氏の一族だった勝沼氏の館の跡があるので、同氏が隠していた軍用金の一部ではないかといわれています。


<日本3大埋蔵金伝説>
●豊臣秀吉の黄金~兵庫県川辺郡猪名川町多田銀山跡
・1598(慶長3)年夏、豊臣秀吉が死の床についたとき、後継ぎの秀頼はまだ6歳。政権を託すにはあまりも幼く、せめてもの不安の解消策として、勘定奉行の幡野三郎光照に命じて莫大な黄金を埋蔵させたという。それは、朝鮮出兵の軍用金の残り、天正長大判4億5千万両と金塊3万貫(112.5トン)で、場所は現在の兵庫県猪名川町の多田銀山の坑道内。

・もし本当なら、金の地金としての値打ちだけでも5兆円以上。天正長大判は1枚5千万円もするので、これで計算したら天文学的な金額となる。

・太平洋戦争後、三重県と大阪府のある旧家から発見された埋蔵秘文書をもとに、長い間さまざまな人によって探索が続けられてきたが、まだ黄金はかけらも見つかっていない。奈良時代から銅や銀の採掘が行われてきた多田銀山には、無数の坑道があり、中には埋まっている部分や水没しているところもあるので、黄金を探し当てるのは並大抵のことではないだろう。大判4億5千万両というのはとてもありえない額だが、なにがしかは隠されていてもおかしくない。


●徳川幕府の御用金~群馬県勢多郡赤城山麓
・幕末に大老となった井伊直弼の発案により、開国によって日本の金銀が海外へ流出するのを防ぐため、また、いざというときの軍用金にするため、徳川幕府の御用金およそ400万両が、上州(群馬県)方面へ運ばれて埋蔵されたと伝えられる。

・発掘は埋蔵直後から多くの人たちの手によって行われてきたが、物証らしいものはいろいろ発見されているものの、御用金そのものはまだ姿を現さない。この謎に挑戦する人は今もあとを絶たず、テレビ番組などでもたびたび紹介されるので、知名度では日本の埋蔵金伝説中ナンバーワンである。

・埋蔵地は、これまでは赤城山の麓が最有力とされてきたが、旧三国街道(現在の国道17号)や旧沼田街道(同国道120号および国道401号)沿いの村々にも、幕末に大量の物資が運ばれたという目撃談が残っているので、何カ所かに分散して埋蔵された可能性が強い。幕末の徳川幕府に400万両などという多額の御用金が残っていたはずはないが、数十万両程度なら、かき集められたはず。


●結城晴朝の黄金~茨城県結城市/栃木県南河内町ほか
・結城家の初代・朝光は、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたときに従軍し、手柄を立てて平泉の黄金のほとんどをほうびにもらった。それは代々同家に伝えられてきたが、十七代の晴朝のとき、徳川家康に狙われたため、現在の茨城県結城市から栃木県南河内町あたりに広がる旧結城領のどこかに埋蔵されたらしい。

・晴朝の重臣が書き残した文書によると、財宝は重さ約8キロの金の延べ棒がおよそ2万5千本、7キロ弱のものが2万5千本、それに30キロの砂金が入った樽が108個。黄金の総重量は約380トンにもなる。単純計算で3800億円だが、そんなにあるはずはないだろう。

・しかし、徳川家康をはじめ、大岡越前守も掘っているし、さまざまな根拠によって発掘をする人は今もあとを絶たない。結城市にある晴朝が建てた金光寺というお寺の山門には、意味不明の三首の和歌や絵が彫り込まれていて、この謎を解けば財宝のありかがわかるといわれている。


<3大埋蔵金伝説以外の伝説・出土>
【北海道】
●源義経の埋蔵金(千歳市恵庭岳/恵庭市盤尻熊ノ沢)
・東北から北海道にかけて残る義経の「落ち延び」伝説。
・その真偽のほどはともかく、義経軍の残党がいたことは確実でこの集団が北海道へと渡って、軍資金を埋蔵したというもの。
・恵庭岳の北側斜面とする説と、ライマナイ川の流域熊ノ沢に隠されたとする説の二つの言い伝えがある。ただし熊ノ沢は現在の地図には存在しない。


【岩手県】
●金鶏山の埋蔵金(西磐井郡平泉町)
・奥州藤原氏が栄華を誇った平泉、秀衡が菩提寺の鎮護を込め
中尊寺前に築いたといわれる金鶏山。その金鶏山に黄金作りの二羽の鶏などを埋蔵したとの言い伝えがある。
・黄金作りの鶏二羽、漆一万盃に黄金一億両


【神奈川県】
●大久保長安の埋蔵金(神奈川県足柄下郡箱根町)
・家康のもと、佐渡や岩見、伊豆などの金山、銀山奉行を勤めた長安は、その役職から莫大な財宝を着服したとして、死後の慶長十八年に死骸が磔となり、一族もことごとく切腹させられている。
・一説には奉行を勤めた金山などの半分近くを着服していたと言うから、その額は莫大だ。半分は誇張としても、磔刑の後、家康は残った者たちを尋問し、さらには実際に埋蔵金探しを行っているから相当な額が着服されたと考えていい。
・そのほんの一分、七十万両が家宅捜査で発見されたが、残りの大部分は仙石原の箱根山中に眠っているという。
・「箱根仙石原から南に数町行った富士山のよく見える場所、黒い花の咲くつつじの木の根元」の言い伝え。
・ちなみに家康が「みだりに探索や発掘してはならない」の禁令を出した。


【山梨県】
●穴山梅雪の埋蔵金(山梨県南巨摩郡身延山麓)
・百十九貫という莫大な黄金を算出し武田家を支えた、信玄の
「牛の金鉱」黒川金鉱。この財力をバックに信濃、駿河、西上野、遠江と勢力圏を広げた信玄だが、戦略道路として有名な「棒道」を作り、その各所に軍資金を分散して埋蔵したという。
・その作業を担当したのが信玄の姉の子梅雪。「武田三代軍記」によれば家康に内通していたと言われるが、勝頼との軋轢が離反を決心させたのかもしれない。それはともかく、梅雪は行く末の配慮からか棒道の軍用金を独自に移し替えたのだ。
・信長伐たれるの報に引き返す梅雪だったが、土民に襲われ命を落としてしまう。この時の土民のリーダーが梅雪の「武功緑」に記載されていた埋蔵場所を調べ、一分を発見。しかしその親分も子分に狙われ落命。そして時代は下って明治時代に入って偶然子孫が「千馬の槍」の柄に隠された古文書を発見。
・「隠し湯の湧きて流る窟穴を、のぼりて指せや‥」で始まる秘文をとくと、信玄の湯治場、下部温泉が浮かび、そして埋蔵地は樹海、本栖湖畔、一枚岩の洞穴。


●平八郎長者の埋宝(山梨県富士川源流、鶏冠山麓)
・武田の埋蔵金とも関連する鶏冠山。国師岳の麓に住む平八郎という猟師が鶏冠山で“黄色い砂”を発見、妻に教えられるまで砂金と知らなかったという。この砂金を集めて洞窟に隠した。


●舂米の埋蔵金(山梨県巨摩郡増穂町)
・各地に残る小栗埋蔵金伝説の一つ。知行所でも無いこの地に
伝えられたのは妾宅が有り、庶子忠広が居たからという。忠広の子、秀守が厳しい追及を逃れ、26歳になったとき、家臣多田徳次郎から埋蔵金の秘密を明かされる。それによれば、幕府御用金は上州のほかに富士川をさかのぼり釜無川と笛吹川が合流する鰍沢で陸揚げされ舂米に埋蔵されたという。出土物から徳川初期のものという説も強い。


●武田勝頼の埋蔵金(山梨県西八代郡本栖湖)
・武田家滅亡に瀕した勝頼が、部下に命じて武田家財宝を本栖湖に沈めたというもの。信玄の財宝伝説でも本栖湖はキーワードに。


●武田勝頼の埋蔵金(山梨県韮崎市大草町)
・悲運の将、勝頼が新府城を立ち退くときに、城内に埋蔵した
といわれるもの。家臣の長坂釵閑が実行者で、後に秀吉の命で甲府領主となった浅井長政が城内の捜索を行ったが発見できなかった。埋蔵額:三十万両


●武田信玄の埋蔵金(山梨県大月郡笹子峠)
・穴山梅雪が埋める。甲州から上野に出る戦略道路の要衝、笹子峠。その笹子峠の地蔵小坂に武田家の軍資金の一分が埋められているというもの。


●武田信玄の埋蔵金(山梨県塩山市鶏冠山)
・天分年間に実に百十九貫三百七十匁の黄金を産出した記録が
残る「信玄牛の金鉱」黒川金鉱。秀吉同様、急に採鉱を止め、坑道の一つに軍資金を埋蔵したというもの。黒川谷付近。


【静岡県】
●細田杢右衛門の埋蔵金(静岡県引佐郡細江町油田)
・細江町に残るもう一つの言い伝えは家康に関するもの。今川勢に捕らわれそうになった家康を一人の老婆が大かごに隠して救い、そのお礼にと、老婆と息子の杢右衛門に土地と金を授けたという。これが埋蔵金の元に。
「朝日さし夕日かがやく虎の尾に黄金千ばい二千ばい」


【愛知県】
●前野小平治の埋蔵金(愛知県知多郡南知多町)
・備州内海の回船問屋、前野小平治は知多半島南端で商才と
地の利を生かし、五代目小平治の頃には有数の回船問屋として成功していたが、その小平治に数十万両の借金を抱える尾張藩にとっては目の上のなんとか、の存在となっていた。
・ときあたかも天保四年の大飢饉で関東、東北を中心とした凶作に見まわれ、江戸の台所は火の車に。奉行は米商人や回船問屋に協力を求めたが、江戸の商人達にとっても無い袖はふれずの状態。そこに登場したのが小平治。江戸の難儀を救った小平治は一躍脚光を浴びた。しかしこれが命取りとなった。
・尾張藩には貸し渋るくせに、江戸には気前良い。いっそのこと潰して借金を帳消しに、という策謀につながってしまった。ただ小平治も切れ者みすみす取りつぶされてたまるかで、めぼしい財宝のすべてを埋蔵して対抗したのだ。こうして小平治の埋蔵金伝説が生まれた。
・後に末裔が傾いた同家を立て直すためと、発掘を試みたがついに発見できなかった。埋蔵地は没収される恐れのある屋敷内ではなく、裏の高宮神社境内か。


●木曽川の埋蔵金(愛知県津島市)
・昭和56年、木曽川でシジミ取りをしていた漁師が川底から壷を引き揚げた。中から永楽通宝など三十五種、七千五百枚の古銭が出てきたのだが、県境の川だったことから愛知県と岐阜県で管轄を巡って紛糾問題となった。「埋蔵物」か「沈没品」にあたるかも争点の一つに。


●小笠原監物の埋蔵金(愛知県西春日井郡清洲町)
・関ヶ原の戦い後清洲城の城主となった松平忠吉の重臣、小笠原監物が忠吉の死後、お家が断絶に際し主家復興を願って埋蔵。享保年間に村人が慶長大判など六十枚を掘り当てたとの古文書あり。


●名古屋城の御用金
・地下御金蔵に尾張藩の黄金を保管していた。
・御金蔵に大判、小判、金銀がどのくらいあったのか。そして明治維新の混乱期にどう処分されたのか、全く記録がなく謎。
・名古屋城の黄金を推測する一つの材料として、夏の陣で落城した大坂城の財宝を家康が御三家に配分した記録が残る。
・いったん静岡の駿府城に納められたため、「駿府御譲金」として尾張徳川家へ配分された黄金量をざっと計算すると、大判3200枚、小判21,000両、銀塊約7700貫など。
・財政難の藩の台所、しかし家康から拝領したいざという時に備えての「軍用金」だけに、たやすく手がつけられなかったはずだ。
・明治新政府への引き渡しのどさくさにまぎれ、勘定奉行の小栗上野介が幕府軍用金を運び出し、どこかへ埋めたという江戸城の黄金伝説は有名。名古屋城も同じ様な状況だった。
・しかし維新後の金庫室は空っぽ、黄金の井戸の慶長大判も跡形もなく消えていたのはなぜか?誰かがどこかに埋めたのではないか。


【岐阜県】
●帰雲城(かえりくもじょう)の埋没金(岐阜県大野郡白川村)
・楠木正成の弟正氏の末裔といわれる内ヶ島家。その内ヶ島家の居城帰雲城が天正十三年、山津波により三百戸あまりの城下とともに一瞬にして埋没してしまった。天正大地震によるものだった。
・もともと内ヶ島氏は長野の松代の出で、足利義政の命で白川郷に移って来たもので、一帯は砂金の堆積による紫金鉱が多く見られ、財政的にも重要な拠点だった。金山が九つ、銀山が二つ有り、名古屋の金鯱や京都の銀閣寺の銀もここから産出したものを使ったと言われるのだ。
・その財力は秀吉も目を付け、金森氏に越後出兵中の留守を狙わせたほど。このときは秀吉の遠謀のためか城に戻ることができたが、それも金銀の産出を条件であった。
・その黄金と帰雲城が埋まっていると見られるのが、帰雲山の東側斜面で、現在も崩れた山肌が見られる。


●神戸町の渡来銭(岐阜県安八郡神戸町)
・昭和52年、揖斐川近くの砂利採取場で唐銭「開元通宝」や宋銭「太平通宝」などが詰まった壷を発見。その数およそ一万三千枚。


●黒岩の埋蔵金(岐阜県加茂郡坂祝町)
・坂祝町黒岩で耕地整備中に大瓶を発見。中から永楽通宝、宣徳通宝、大観通宝など二十種、五万枚の古銭が出たきた。


【富山県】
●佐々成政の埋蔵金(富山県上新川郡大山町)
・秀吉と戦った織田信雄についた富山の佐々氏。しかし信雄は勝手に秀吉と講和してしまい、困った成政は同じ信雄側についていた家康の説得に当たるため、雪の立山連峰越えを計った。有名な成政の「雪のアルプス越え」だ。
・加賀の前田、越後上杉、飛騨金森と秀吉側に囲まれた成政最後の賭ともいえるものだった。つまりは家康の説得に失敗すれば滅亡の運命が待っていた。
・そこで成政は佐々氏の財宝の埋蔵も兼ねて出発したのだ。冬のアルプスを甲冑を着けた武者姿で。しかも、黄金百万両を積めた四十九個の壺を持参しての行軍は想像を絶するものがある。
事実、富山を発った時の家臣六十数名が信濃にたどり着いた時、わずか六、七名だったという。ただすべてが冬山の犠牲となったのではなく、七カ所に分散して埋めたという宝を守るため残ったのでは。
・この埋蔵金が世に知れたのは、重臣の子孫というものが一部を発見、また、山岳研究家と名乗る男と鉱夫の物語など多くの事実が現れてきている。さすがに分散して埋めたというだけあり、大山町の鍬崎山ほか針ノ木峠、有峰の里などの説が。


【滋賀県、京都府】
●明智光秀の埋蔵金(滋賀県大津市琵琶湖/京都府亀岡市亀山城跡/京都府北桑田郡京北町)
・生き延びた光秀は財をなして「護法救民のために宝を埋めた」という。
・その護法救民の書の中に「身をも名も 惜しまねばこそ 松のみとりいろ濃き 弥生空 くちなは頭の影をふむ 岩戸苗のその下に こかね三百しろかね千貫」の歌が残っている。
・埋蔵地と考えられているのは、家臣の能見晴長が琵琶湖に沈めたという説。
・元光秀の支城だった亀山城跡、京北町の光秀の菩提寺、滋眼寺近くに埋めたというものなどがある。


【香川県】
●村上水軍の埋蔵金(香川県小豆郡小豆島皇踏山麓)
・豊臣秀吉の四国攻めに際し、本拠地の能島城を滅ぼされた大海賊村上氏の埋蔵金。
・別名「村上水軍」と呼ばれるほど瀬戸内海に影響力を持った一大勢力で海賊と言うより一つの国といえる規模だったことが伺える。この村上氏が財宝を埋めたというのが小豆島の皇踏山麓ということになっている。
・倭寇と呼ばれる海賊全盛時、朝鮮や中国沿岸にまで遠征して略奪してきた財宝だから、額としてはダントツだろう。
・だだ、小豆島伝説には疑問視をするものが多い。それは東の小早川軍に襲われながら、自身は屋代島に逃げた村上氏が、何故東に二百キロ離れた小豆島に大切な財宝を隠したかということ。瀬戸内海には無人の島も多く、隠すには事欠かないはず。


【徳島県】
●ソロモン王の秘宝(徳島県三好郡東祖谷山)
・ソロモン王といえば古代イスラエルを支配した巨万の富を誇った王。そのソロモン王の埋蔵金が日本にあるという説。
・聖書研究家の碩学高根正教授が渡日説を唱えて話題となった。ヨハネ黙示録の中に出てくる御座が剣山で四国が黙示録の説明に合致したとか。


【長崎県】
●バルチック艦隊の埋蔵金(対馬沖)
・日本近海の海底の黄金の代名詞のように言われるナヒモフ号や<イルティッシュ号のバルチック艦隊の沈没船。たびたび引き揚げ計画が話題になるが、引き上げ自体にも数十億単位の金がかかる一大事業。


●デウス号の埋蔵金(長崎港口)
・ポルトガル貿易船、デウス号が有馬晴信との三日に及ぶ戦いで火災を起こし、ペッソア提督自ら火薬庫に火を放ち沈没した。徳川時代に何回か引き上げが実行されたが八百貫程度しか回収されていないという。


●伊藤小左衛門の埋蔵金(長崎県・壱岐島)
・筑前粕屋郡の貧農から身を起こし当代の豪商にのし上がった
小左衛門。個人で小判を吹くほどの勢いを、さらに二代目の小左衛門が隆盛の裏には、回船問屋の顔と、海賊という裏の顔があったという。
・その裏家業で稼いだ財宝の隠し場所が壱岐島だったという。そして黒田藩に小左衛門が捕らえられた時の没収額が二百五十万両。当然裏の財宝はそれ以上は確実で、懸命の黒田藩の追求にもとうとう黙りを決めたまま冥土の土産、と道連れにした小左衛門だった。
・だが、これだけの埋蔵金情報が漏れないはずはなく、生き残った部下の久三郎という男が一部を掘り出し贅沢三昧。その息子に伝わった秘密の場所も、思いもかけない恐怖の出来事で、埋蔵金には近寄らなくなったという。そして小左衛門の宝はそのまま現代に残る。


【大分県】
●大友宋麟の埋蔵金(別府市四極城跡/大分市府内城跡/臼杵市臼杵城跡)
・南蛮貿易で巨万の富を得た大友宋麟。その富を埋蔵したというのだが、最も有望視されるのは難攻不落とされた四極城で四つに分けて埋蔵そのうち三つは軍資金に使い、一つは発掘され、府内城のものも城の手入れ中に発見。臼杵城は地形変化で海中に没したと見られている。


【熊本県】
●天草四郎の埋蔵金(熊本県天草郡下島本渡)
・キリシタン弾圧による寛永十四年の島原の乱で、原城に立て
籠もった一揆軍のリーダー、天草四郎。二ヶ月を越す長期戦でついに勇猛果敢な戦いを示した一揆軍も落城覚悟。その際、四郎は女、子供、そして老人を密かに天草に帰すことを決意。同時に軍資金など、すべての財宝を隠してキリシタンの子孫に残すことにしたのだ。
・六キロの黄金の十字架、金銀製燭台二十基、南蛮塗りの宝石をちりばめた王冠、そして大判小判。
・財宝の守り役として選ばれた小山田慶信が後に埋蔵地を表すと思われる書き付けを残し失踪。そこには大きな目印となる三角池が描かれていた。そして上島から出た十字架に「さんしゃる二 こんたろす五 くさぐさのでうすのたからしずめしずむる」の文字。内野河の源流が三角池か。


【鹿児島県/沖縄県】
●キャプテン・キッドの埋宝(鹿児島県・南西諸島の宝島/沖縄県・西表島)
・ことの起こりは昭和12年「日本東京・日本領事館」宛で「コネチカット州サウシントン市米国探偵家秘密情報員」から届いた一通の郵便であった。
「この地図は1700年頃キッド自身が書き残した記録の写し…」で始まる内容は実に荒唐無稽と言うもの。
・そこにはなんと、海賊キッドが東シナ海で稼いだ財宝を南西諸島の宝島に埋めたというのだ。夢のような内容だがこれが新聞報道されるや南の島は空前の宝探しブームにわいた。
・「宝のある場所は、死の谷と名付けられる窪地、活火山から噴出する有毒ガスが常によどんでいる」
・宝島では東側の経ヶ峰が当てはまる、そして鍾乳洞の洞窟もあり絶好の場所。しかし、何度かのブームによる宝探しが行われたが発見したという情報はない。

・キッドが残したという島の地図が西表島にそっくりという根拠で。


参考にしたHP
http://members.at.infoseek.co.jp/tokimeki3/nanda001201-001231/takara01/takara01.htm
http://www5d.biglobe.ne.jp/~DD2/oscilloscope/c-kaerikumo/kaerikumo.htm
http://www.komiyama.gr.jp/treasure.htm
ウィキペディア(Wikipedia)ほか


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