ボクは雑草です

シフトクリエイティブ社長のブログです。

撮影を終えて (改訂)

2009-11-20 00:37:35 | 報道/ニュース
「沖縄に嘉手納基地があると言いますが、アメリカから見るとそうではありませんね。米軍の嘉手納基地を沖縄に置いているというのが正確のようですよ。同じようですがスタンスがまるで違いますね。嘉手納基地の住所は沖縄でも日本でもありません。カリフォルニア州USAなのです。」
何度もロケハンに行ったときの南風原町の課長さんの話です。
「この運動場の裏に山があるでしょ。あの土の下には今も数え切れないほどの骨が埋まっています。当時の防空壕を残した記念館がありますよ。見て行きませんか?」
それは沖縄地上戦のすざましい痕跡でした。色あせ引きちぎられたように破れた旧日本軍の軍服、汗が染みた一つ星の旧軍人の帽子、その横に抜けばもう粉々になりそうな軍刀。骨と皮のやせ細った人が水を求めている人形。血で書いた遺書。すべてが昨日のことのように並んでいました。わたしたちには昔の出来事のようですが、沖縄の人たちにとってはいまも続いている事実なのです。
「沖縄ではどの運動場にも断られてしまったのですが、どうして許可してくれたのですか?」課長と少し知り合いになれたときボクは素直に聞きました。彼は答える前に「他の運動場はなんと言っていましたか?」と逆に質問されました。「やはり、運動場が水浸しになるし、大きなライトでまわりの住民の迷惑になるとも言われました。」ボクはありのままに答えもう一度聞きました。彼はしばらく間を空けて「うちは水はけがいいし、山の上だから住民にも光は届きませんから。」短く淡々と答えました。
思えば課長はこんなことも言っていました。「僕はもうすぐ定年です。定年後はハワイへ行きます。」「ハワイ?淋しくないですか?」「気候が似ているし沖縄の人が大勢いますからね・・」ボクはこのときは定年後のうらやましい生活だなと思って普通に聞いていましたが今考えてみれば大変重たい気持ちを話してくれていたことに気がつきました。つまり沖縄の人は定年後にふるさとに残りたくないのです。どういうことでしょう。
撮影が終わった夜の9時過ぎ、課長はもう帰っていました。終わった後、運動場を見れば雨になったこともあり、グランドは池のように水がたまり水はけはぜんぜん良くありません。住民からもライトについて苦情が入っていました。まるで課長が言った通りではなかったのです。ボクははじめて解りました。ほかの運動場が撮影許可をしなかったとき、水浸しになるとか光がまぶしいと言ったのは口実だったのでは。本当は米軍の兵士がそこに登場することが許可できない理由ではなかったのでしょうか。あの課長さんはそれらをすべて知っていてボクたちに残された場所はないことを思い責任をひとりで背負い許可を出してくれたのです。
沖縄の人たちは働くことを終えたら出て行くしかありません。沖縄はまだアメリカの占領地であり、返還されたといっても収入も生活もアメリカの支配下、ならばそこに日本人の居場所はないのですから。広大な基地以外にも沖縄には何万人ものアメリカ人が民間人と暮らしています。米兵の子どもが万引きしても沖縄の警察は逮捕しません、しても釈放されてしまうからです。日米地位協定です。4年前に感じなかった沖縄の人たちの本当の気持ちがようやく少し解ってきました。

「沖縄に米軍基地はいらない。」というのは誰もが思うことです。ところがもう60年以上も沖縄の人たちは基地に囲まれて生活をしています。と言うよりそうせざるを得ないのです。基地がすべてなくなったあとの沖縄を想像できる人がひとりでもいるでしょうか。手の届きそうな高さをごう音とともに飛ぶ米軍機やヘリコプター、その真下で生活することを余儀なくされている沖縄の人たち、定年後には沖縄を出ることを考えなくてはならない人、沖縄の人たちの気持ちをみんなが共有しみんなで考える。そこから始まるのではないでしょうか。


沖縄での撮影 (三)

2009-11-20 00:33:09 | 報道/ニュース
撮影日の朝8時、ボクたちは南風原町運動場にいました。すでに大型の電源車は稼動し照明機材や撮影機材も搬入されていて、イントレの上には雨を降らす巨大ホースがあり先端から水が少し流れていました。ボクはすぐに撮影班、照明班、雨班、スモーク班、移動車班、それぞれをまわり、打ち合わせ通りに揃っているかひとつひとつ確認しました。撮影は夜7時からです。スタッフはもうみんな何年も一緒に仕事をしているかのように「あうん」の呼吸で準備が進められました。
昨夜、ボクは一睡も出来ませんでした。今回の仕事はあまりにも多くの知識が必要で、またやるべきこともつぎつぎと現れ、本当にこの日が迎えられるか毎日が真剣勝負だったからです。
寝不足と緊張感のせいか、およその準備が出来たところで、カメラテストのため兵士の代わりにカメラ前を飛んだとき、ボクは左足ふくらはぎに肉離れをおこしました。まだ朝なのに撮影は夜なのにボクは突然まったく動けない状態になりました。不覚です。スタッフが急きょ松葉杖と車椅子を借りるため町へ車を走らせてくれましたが、この姿ではもう指揮がとれません。絶体絶命です。出来る限り人にまかせましたが、お昼の弁当も喉に通りませんでした。
午後3時、米兵アメフトチーム16名が引率の軍曹とともにコーディネーターの案内で到着しました。車椅子のボクは遠くから眺めるだけです。早速ユニフォームに着替え守備位置の指導です。社会人アメフトチームの有名コーチが監修をしてくれましたから、車椅子のボクは後ろから見ているだけでテキパキ進んでいきます。やはり兵士とは言えユニフォーム姿は本場のアメフト選手そのものです。白人も黒人も若い兵士たちはお互いにユニフォームを直したり、フォーメーションを教えあったり、本当にいい子ばかりなんだと思い、毎日厳しい訓練を繰り返している兵士だということをすでに忘れていました。
いよいよリハーサルです。雨は太いホースから十分出ていますが風が強くなり思うように選手の真上にあたりません。そのうち本物の雨が降りはじめました。すでにユニフォームはべたべた、カメラも機材も雨をまともに受け、ボクもスタッフもずぶ濡れ、雨の中、何度も同じぶつかり合い練習を繰り返す選手たち対カメラマン対スタッフ、リハーサルからもう死闘が始まりました。まとめ役の軍曹は兵士の少しのミスも許しません。それでいて動きが決まったときは体を浮かせてほめ称えます。本番でも思いっきり彼らをほめ、士気を高めます。何回同じことをやっても誰ひとり手抜きなし、すべてのアクションに全力でぶつかり合います。ボクは足の痛みも忘れて立ちっぱなし、彼らの真剣さには胸を打たれたからです。もう倒れてもいいと思うほどひとつひとつのシーンと闘いました。午後4時のリハーサルから撮影が終了したのは夜の9時、15秒のコマーシャルです。
撮影が終わったころ、雨は少しおさまっていました。見ると役場の職員の人たちもグランドの片隅で見ていました。すべての参加者から大きな拍手が沸き起こりみんなで達成感を喜び合いました。ボクはすべての兵士と握手をしてお礼を言いたかったのですが悲惨な車椅子です。兵士のふたりが寄ってきてボクをそれぞれの肩にかついで段差を超えさせてくれました。がっしりとした筋肉の塊です。この子たちがまもなく戦場へ行くなどとはもう考えたくなくなりました。

沖縄での撮影 (二)

2009-11-18 02:08:29 | 報道/ニュース
いよいよ撮影の前日、ボクは空港にいました。すべての準備はしたという気持ちと、まだ明日が本番という気持ちが交錯し、乗り慣れた沖縄行きの飛行機が特別なものに感じられました。機内に入るとき、2才ぐらいの女の子を抱いた若いお母さんがボクの後ろでした。赤ちゃんの気配を感じたボクが振り返るとお母さんは「この子は生まれてはじめての飛行機です。私たちも沖縄は初めてです。」ボクはかわいい女の子に「重量オーバーですよ。」と冗談を言い、そのお母さんと笑いあいました。座席に座り目をつぶるとなぜかボクは審判を待つような神聖な気持ちになり、頭の中で撮影までの6ヶ月間を振り返りました。
ユニフォームはサイズが合うだろうか。シーズンオフで日本には在庫がなく米国ミズノに特注し、ぎりぎり間に合ったものの兵士たちの中で誰が出られるかは前日までわからず、サイズが合わなかったら試合が出来ません。とくにヘルメットは頭にぴたりと合わないとけがをするからです。心配です。長野・静岡・神奈川など各地のアメリカ人の若者には申し訳ないことをしました。もし米軍兵士が出られなかった場合に備え沖縄に一緒に来てもらう約束をしていましたが、兵士のほうから息が合わないと迷惑になると断られたからです。あの子たちにも誤らなければ・・またサイズが合わないときのため、かつてのコザ(沖縄市)のスポーツ店に入りユニフォームの事で尋ねようとしましたが日本人と見て無視されました。聞けば、基地周辺のアメリカ軍兵士たちの行く店はほとんど外国人の経営で日本人はそこでパートとして働いているのです。ボクが無視されたのもたまたま店にいたのがインド人の経営者でそこはアメリカ人専用だったようです。つまり基地の中だけではなく周辺の多くの店は外国人が権利を持っていて、日本人を雇って営業しているのです。経営はアメリカ人、お客もアメリカ人、雇われているのが日本人、これが沖縄全体の構図でした。まだ沖縄は日本ではない、そう感じたことが何度もあったのです。
那覇空港に着き、一緒に準備をしてきた沖縄のスタッフとともに、ボクたちは具志川市(現うるま市)のキャンプコートニーへ直行しました。明日の撮影のコンテを兵士たちと打ち合わせするためです。キャンプコートニーの入り口はやはり厳戒態勢でした。しかし手続きを済ませ中へ入るとまるで別世界。アメリカです。広い道路、きれいに整備された芝生、建物は外観も内部もすべてアメリカ仕様、休憩室は大画面テレビをはじめ娯楽設備はすべてあります。そこへ兵士たちがやってきました。みんなもうリラックスしています。写真より若い、しかし体格はまるでサイボーグです。引率の黒人は30代ですが、明日試合をする人はみんな20前後。撮影内容の説明のあと数人にユニフォームの試着を頼みました、さすがに統率が取れています。着替えを見てボクは、彼らは軍隊だと実感しました。NFLスーパーボウルの試合をテレビ録画したものから15秒に編集し彼らに見てもらい、「このようにかっこよくやってください。」とボクが言うと、みんなちょっと和んで「Great!」。さらにボクが今回のコマーシャルについて「Is it cool?」と尋ねたら、全員で「Oh!Yah!」です。話が進むとみんな性格の良さそうな若者ばかりで、ボクたちが彼らを見ているのではなく、なぜか彼らにこちらが見られている気持ちになりました。沖縄に来たばかりの彼らにとって日本人はstrangerなのです。なぜならここはアメリカ合衆国なのですから。(つづく)

沖縄での撮影 (一)

2009-11-16 23:12:47 | 報道/ニュース
4年前、ボクは那覇市の南、南風原町(はえばる)の陸上競技場でCMの撮影をしていました。沖縄の撮影というと、青い海、白い砂浜、海の中のきれいな熱帯魚を想像するかもしれませんが、今回はそのような風景はまったくありません。漆黒の闇の中で光に照らされ豪雨に打たれ、必死で闘うアメリカンフットボールの選手たちの撮影です。当初、この企画は東京か名古屋での撮影を予定していましたが、アメリカンフットボールを実際にやっている人でなければフォーメーションが決まらず迫力のある試合シーンが撮れないことが分かり、モデルを含めあらゆるプロダクションに問い合わせましたが、経験者はいませんでした。アメリカ人はいてもアメフトが出来ない、カナダ人はいるけどアイスホッケーなら出来る、といった具合です。日本のアメフトチームにお願いすればとも思いましたが、やはりコマーシャル的に考えるとこの企画はどうしても黒人も含めアメリカ人の体形が必要でした。
その内、米軍基地にサークルでアメフトチームがあることを知り、横田をはじめ日本各地の米軍基地に問い合わせてみましたが答えはもちろん直ちにNOです。考えてみれば出来るはずがありません。当時はイラク戦争の真っ最中です。米軍は臨戦態勢で軍の兵士が日本企業のCMに出るなどということはあるはずがないからです。こうなったら日本中からアメリカ人のアメフト経験者を集めて即席チームを作り撮影するしかないと思っていた時、沖縄のコーディネーターから嘉手納基地にいる高校生のアメフトチームならなんとか交渉できるという返事が来ました。ボクはすぐに沖縄へ行き、嘉手納基地の正面近くの喫茶店でアメフト部顧問という体育の先生を紹介してもらいました。気さくな白人の中年の先生でした。ジャージの上下を着てリラックスした様子で話を聞き、「協力しますよ。」と言われ握手をした時、手のやわらかさにびっくり、「この人は軍人ではない。」と感じました。その後、高校生たちにも会いました。が、やはりこちらの期待する体形ではありません。困っているボクたちの様子を知ったその先生が、「だめかもしれないが軍の上層部に聞いてみる。」と言ってくれました。
それからおよそ2ヶ月、軍の司令部から「緊急の場合はすぐ基地へ戻ること。」を条件にOKが出ました。ボクは驚きました。どうして許可が出たのかわかりません。聞けば、少し前に普天間基地の米軍ヘリコプターが大学に墜落、さらに米兵による少女への暴行事件などもあり、米軍と日本の関係が悪くなるのを懸念した司令部が信頼回復のため特別に許可したとのこと。もちろん戦後60年、米軍が沖縄に駐留して以来、過去にもないことでこれからもあり得ないでしょう。今でも信じられません。ボクは「これでもうこのCMは半分出来たようなもの。」と気持ちも高揚し、それから何度も沖縄へ行きロケ地を探しました。ところが今度は撮影場所の許可が下りません。確かに陸上競技場を借り切って夜巨大な照明を照らし大雨を降らして地面を水浸しにするのです。まわりの住民には知らせなくてはいけないし競技場もしばらく使えなくなります、許可が出るはずがありません。必死で沖縄中の競技場をまわりました。しかしどれだけ頼んでもダメでした。そしてもう明日には帰らなくてはならないという時、那覇に泊まっていたボクたちに朗報が入りました。那覇のすぐ南の南風原町の役場の課長さんがOKをくれたと言うものです。翌日すぐに現地へ行き、課長に挨拶をしてやっと撮影場所が決まりました。出演者は普天間基地に所属するアメリカ海兵隊の若い兵士で現役のアメフトチーム16名、そして撮影場所は南風原町の町営陸上競技場、照明にも雨にもまさに申し分のない一級のロケ地です。夜のアメフトシーンのCMはこうして実現することになりました。(つづく)

「あなたに言われたくない」野党の自覚

2009-11-03 01:47:26 | 報道/ニュース
国会が始まりました。衆・参両議院での民主党・鳩山総理大臣の所信表明から、自民党などの野党代表質問、そして今日からは衆議院予算委員会での質疑応答です。しかしヤッパリと言うかなんだと言うか中身がほとんどありません。当たり前の抽象的な質問ばかりで具体的な話にならないのです。民主党はまだ政策をなにも実行していませんから、このようなやりとりはやむを得ないのですが、それにしても野党第一党の自民党の偉そうぶった質問にはあきれるばかりでした。「マニフェストが実現できなかったらどういう責任を取るのか。」「沖縄の基地問題はいつ決めるのか。」「マニフェストの変更はあるのか。」「君たちは与党になったんだからこうしたほうがいい。」「今回の選挙は民主党が勝ったのではない自民党が負けたんだ。」とか自民党の歴史を延々と話したり、だからなんだと思うものばかり。先日の衆議院での代表質問では鳩山首相の所信表明にビジョンがない。と谷垣総裁が言って「あなたに言われたくない。」といなされていましたが、やはり自民党は野党になってもビジョンがない、というか自覚がない。これではこの先、「本当の野党」不在の国会になってしまうのではと心配になりました。
民主党が政権を取っておよそ2ヶ月、50年も自民党の独裁政治が続いたのだから、一気に変われるものではありませんが、まだ自民党には与党の感覚がしみこんでいます。古き昔をなつかしむ会社定年後のおっさん感覚です。もう役職もなく会社にもいないのにまだ現役の頃の武勇伝を話している、あのやっかいなおっさんです。これでは与党VS野党のまともな国会論戦とはいきません。自民党は少数の古手が残って、民主党は大多数が新人ばかり、自民党の古株に民主党の新人が恫喝されているようでは論戦は期待できません。
高速道路無料化、子ども手当て、農家の戸別補償、沖縄基地の県外移設、ガソリン環境税、タバコ増税。など民主党がやろうとしている政策には矛盾がいっぱい、選挙目当ての無理な公約がつけとなって自らの首を絞めています。野党としてチェックしていく項目は山ほどあるのに自民党がいまだに与党ボケでは困ったものです。政権与党をチェックする良識ある野党がいてはじめて国会議論が成立するのです。あなたがたはもう野党なのだから役職はないのです。すわる机もありません。早く自覚を持ちなさい。鳩山首相は本会議の代表質問で「あなたに言われたくない」と言ったことを今日の予算委員会で自民党に遺憾の意を伝えていました。総理大臣がそんな弱気でどうするんですか。由紀夫くん、もっと自信を持ちなさい。「あなたがた」に謝ることは何もありませんよ。その通りなのですから。
それからどうでもいいけど議員になってから政治の勉強している民主党新人議員の数々、それなら給料返上して授業料払えと言いたいね。国会議員はひとり年間1億円もの歳費が税金から出ていることを肝に銘じて欲しいものです。こればかりは「あなたに言われたくない」とは言わせませんよ。

貧困について

2009-11-03 01:15:43 | 報道/ニュース
厚生労働省が10月20日に発表した「相対的貧困率」。日本は統計を取り始めて最悪の15,7%だそうです。1998年から調査をしていたのですがいままで発表してこなかった。今度民主党政権になったから発表したのだそうです。う~ん、10年以上も前から統計を取っていてなぜ発表しなかったのでしょうか。国がこっそり国民の実態を調べていて発表しない、これではまるで共産主義独裁国家ではありませんか。まだ国民に発表していない事がいくらでもありそうですね。
ところでこの「相対的貧困率」ってなんだ?全人口の可処分所得の中央値の半分未満しか所得がない人の割合だそうです。もっと?分からなくなりました。手取りの収入が全人口の真ん中の半分以下の貧しい人とでも解釈しておきましょう。ちなみに15.7%というのは2006年調査のもので年間手取りが114万円以下の人だそうですよ。今、回りを見ればこれ以下の人なんていっぱいいますよ。日本はますます貧しい国になっているようです。これがトルコ、メキシコ、アメリカについで世界4位とすれば、もしかするといまは世界一貧しい国ではないでしょうか。何で日本はこんなに貧しい国になってしまったのでしょう?どうやらこれは政治の失策から生まれたようです。
日本は明治以降戦争に明け暮れ決して裕福な国ではありませんでした。イギリスからお金を借りてロシアと戦争したほどの貧乏な国だったのです。そして敗戦。焼け野原からの復興で連合国は特別な改革をしました。小作人に土地を与える農地改革、財閥解体、金持ちやぜいたく品に高い税金をかける税制改革(シャープ税制)これらの政策により、1億総中流と言われる経済復興を成し遂げました。ところが1億総中流と言われても、まだみんな日本は貧乏な国と思っていました。より豊かになるために、もっと働いてもっと稼がなくてはと日本中が思っていました。そして世界第二位の経済大国(と言ってもアメリカとはずいぶん差がありましたが。)になったのです。
バブルがはじけて、市場原理だの競争主義だのと国民の事を考えない政治に変わってから、日本は貧乏な国へまっしぐらです。そして小泉・竹中路線はさらに格差を作りました。しかし問題はそれだけではありません。以前、経済大国と言われたとき日本はまだ貧乏だと思っていたのに、いまほんとうに世界一貧乏になっても国民はまだ貧乏という実感がないのです。これがみんなが政治を考えない元凶なのです。貧乏をつくっているのは実は政治なのです。
好きで貧しくなっている人は世界中ひとりもいません。金持ちにあこがれて失敗した人もいるでしょう。もともと貧しい人もいるでしょう。でも貧乏人をより貧乏に、金持ちをより金持ちにすることは政策によって可能なのです。為政者が優れている国は貧乏人を作りません。たとえお金がなくても心が貧しくないからです。みんなが100円持ってるグループは幸せですが、みんな1万円持っていてひとりが100円しかないグループは惨めです。そしてもっと惨めなのはみんなが100円しかないのにひとりだけ1万円持っている、今の日本なのです。貧困は絶対的なものではありません、人が感じる相対的なものなのです。

矢沢永吉ライブ/感動の映像美

2009-11-01 18:10:00 | 報道/ニュース
昨夜、NHKで東京ド―ムでの「矢沢永吉ライブ」を放送していました。60才になった矢沢永吉さんのステージはまさに完成品でした。う~ん、さすがですね。ステージの照明もセットも演奏しているバンドの人もいわゆる一流を感じさせる上品なものでした。ステージを生で見た永ちゃんフアンにはたまらないものだったでしょうね。ボクはテレビ放送という状態で見たのですが、映像表現にも一流を感じさせました。いわゆる職人技を見た気持ちです。今日はその映像美について記録しておきたいと思います。
通常、ライブ中継には多くのカメラがいろんな角度から撮影するよう配置され、生放送ではスイッチャーで各カメラの映像を切り替えて放送します。ゴルフ中継やマラソン中継などはまさに撮影しているカメラマンと中継映像を選択するスイッチャーやディレクターの腕の見せどころとなる訳です。良い放送映像をつくるには三つの大事な要素が必要です。まず、被写体が良いこと、カメラのアングルやピント、絞りといった撮影映像が良いこと、そしてスイッチャーのセンスが良いこと、この三つが上手くかみ合ったとき、良い映像表現が出来、放送を見ている人が感動するのです。最近の民放の番組などはこの三つがいずれもレベルが低く薄っぺらな映像になってしまっているのです。映っていればいい、画面をパカパカ変えればいいといったものばかりで心に残るものになっていません。
ところが昨夜の「矢沢永吉ライブ」はまったく違いました。およそ20台以上(もっとかもしれません)のカメラがあらゆる角度に配置されそれぞれの映像がいままでの放送では見たこともないすばらしいアングルで撮られています。そのうえ画面の切り替え(スイッチャー)が実にうまい。ひとつひとつが優れた映像ならどんなに短いカットの積み重ねでもこれほど良い映像表現になるという見本を見た気持ちになりました。広い場面(ロング映像)でも各所で撮影しているカメラマンの姿が画面に入っていません。これも大変な技術です。普通、ステージを放送するとき、ロングの映像になるとステージ前で撮影しているクルーの姿が入り込んでしまうものですが、見ているかぎりでは全く見えません。カメラが隠れているかよほど遠くへ下がって撮影していたのでしょう。遠くへ下がれば望遠レンズになる訳で遠近感はだせますが、技術的には高度になります。カメラが少し動けば画角は変わってしまいピントも難しくなるからです。1ミリもカメラが動けば良いアングルにはなりません。ところが昨夜の放送画面は望遠レンズの特徴を見事に生かしていました。永ちゃんの娘さんとの2ショットなど、永ちゃんにピントを合わせ隣の娘さんをややぼかしていました。全てのカメラマンに相当の腕がないとこのような映像は撮れないのです。また、画質の美しさ、滑らかさにも驚きました。ハイビジョンで照明はステージのものです。どうしたらあの滑らかさがビデオで出せるのか、まるで一流映画を見ているような映像ばかりでした。ひとつの映像が素晴らしいだけではなく、数十台(移動や手持ちも含めて)全ての映像がすばらしく、スイッチャーのタイミングも絶妙で、まさに完成された1時間30分の番組でした。矢沢永吉さんのステージを知り尽くしていないとこのような映像表現は出来ないでしょう。
矢沢永吉さんのステージも演奏も申し分のないものでしたが、それを放送した技術の皆さんの見事な職人技に久しぶりに大きな拍手を送ります。