「沖縄に嘉手納基地があると言いますが、アメリカから見るとそうではありませんね。米軍の嘉手納基地を沖縄に置いているというのが正確のようですよ。同じようですがスタンスがまるで違いますね。嘉手納基地の住所は沖縄でも日本でもありません。カリフォルニア州USAなのです。」
何度もロケハンに行ったときの南風原町の課長さんの話です。
「この運動場の裏に山があるでしょ。あの土の下には今も数え切れないほどの骨が埋まっています。当時の防空壕を残した記念館がありますよ。見て行きませんか?」
それは沖縄地上戦のすざましい痕跡でした。色あせ引きちぎられたように破れた旧日本軍の軍服、汗が染みた一つ星の旧軍人の帽子、その横に抜けばもう粉々になりそうな軍刀。骨と皮のやせ細った人が水を求めている人形。血で書いた遺書。すべてが昨日のことのように並んでいました。わたしたちには昔の出来事のようですが、沖縄の人たちにとってはいまも続いている事実なのです。
「沖縄ではどの運動場にも断られてしまったのですが、どうして許可してくれたのですか?」課長と少し知り合いになれたときボクは素直に聞きました。彼は答える前に「他の運動場はなんと言っていましたか?」と逆に質問されました。「やはり、運動場が水浸しになるし、大きなライトでまわりの住民の迷惑になるとも言われました。」ボクはありのままに答えもう一度聞きました。彼はしばらく間を空けて「うちは水はけがいいし、山の上だから住民にも光は届きませんから。」短く淡々と答えました。
思えば課長はこんなことも言っていました。「僕はもうすぐ定年です。定年後はハワイへ行きます。」「ハワイ?淋しくないですか?」「気候が似ているし沖縄の人が大勢いますからね・・」ボクはこのときは定年後のうらやましい生活だなと思って普通に聞いていましたが今考えてみれば大変重たい気持ちを話してくれていたことに気がつきました。つまり沖縄の人は定年後にふるさとに残りたくないのです。どういうことでしょう。
撮影が終わった夜の9時過ぎ、課長はもう帰っていました。終わった後、運動場を見れば雨になったこともあり、グランドは池のように水がたまり水はけはぜんぜん良くありません。住民からもライトについて苦情が入っていました。まるで課長が言った通りではなかったのです。ボクははじめて解りました。ほかの運動場が撮影許可をしなかったとき、水浸しになるとか光がまぶしいと言ったのは口実だったのでは。本当は米軍の兵士がそこに登場することが許可できない理由ではなかったのでしょうか。あの課長さんはそれらをすべて知っていてボクたちに残された場所はないことを思い責任をひとりで背負い許可を出してくれたのです。
沖縄の人たちは働くことを終えたら出て行くしかありません。沖縄はまだアメリカの占領地であり、返還されたといっても収入も生活もアメリカの支配下、ならばそこに日本人の居場所はないのですから。広大な基地以外にも沖縄には何万人ものアメリカ人が民間人と暮らしています。米兵の子どもが万引きしても沖縄の警察は逮捕しません、しても釈放されてしまうからです。日米地位協定です。4年前に感じなかった沖縄の人たちの本当の気持ちがようやく少し解ってきました。
「沖縄に米軍基地はいらない。」というのは誰もが思うことです。ところがもう60年以上も沖縄の人たちは基地に囲まれて生活をしています。と言うよりそうせざるを得ないのです。基地がすべてなくなったあとの沖縄を想像できる人がひとりでもいるでしょうか。手の届きそうな高さをごう音とともに飛ぶ米軍機やヘリコプター、その真下で生活することを余儀なくされている沖縄の人たち、定年後には沖縄を出ることを考えなくてはならない人、沖縄の人たちの気持ちをみんなが共有しみんなで考える。そこから始まるのではないでしょうか。
何度もロケハンに行ったときの南風原町の課長さんの話です。
「この運動場の裏に山があるでしょ。あの土の下には今も数え切れないほどの骨が埋まっています。当時の防空壕を残した記念館がありますよ。見て行きませんか?」
それは沖縄地上戦のすざましい痕跡でした。色あせ引きちぎられたように破れた旧日本軍の軍服、汗が染みた一つ星の旧軍人の帽子、その横に抜けばもう粉々になりそうな軍刀。骨と皮のやせ細った人が水を求めている人形。血で書いた遺書。すべてが昨日のことのように並んでいました。わたしたちには昔の出来事のようですが、沖縄の人たちにとってはいまも続いている事実なのです。
「沖縄ではどの運動場にも断られてしまったのですが、どうして許可してくれたのですか?」課長と少し知り合いになれたときボクは素直に聞きました。彼は答える前に「他の運動場はなんと言っていましたか?」と逆に質問されました。「やはり、運動場が水浸しになるし、大きなライトでまわりの住民の迷惑になるとも言われました。」ボクはありのままに答えもう一度聞きました。彼はしばらく間を空けて「うちは水はけがいいし、山の上だから住民にも光は届きませんから。」短く淡々と答えました。
思えば課長はこんなことも言っていました。「僕はもうすぐ定年です。定年後はハワイへ行きます。」「ハワイ?淋しくないですか?」「気候が似ているし沖縄の人が大勢いますからね・・」ボクはこのときは定年後のうらやましい生活だなと思って普通に聞いていましたが今考えてみれば大変重たい気持ちを話してくれていたことに気がつきました。つまり沖縄の人は定年後にふるさとに残りたくないのです。どういうことでしょう。
撮影が終わった夜の9時過ぎ、課長はもう帰っていました。終わった後、運動場を見れば雨になったこともあり、グランドは池のように水がたまり水はけはぜんぜん良くありません。住民からもライトについて苦情が入っていました。まるで課長が言った通りではなかったのです。ボクははじめて解りました。ほかの運動場が撮影許可をしなかったとき、水浸しになるとか光がまぶしいと言ったのは口実だったのでは。本当は米軍の兵士がそこに登場することが許可できない理由ではなかったのでしょうか。あの課長さんはそれらをすべて知っていてボクたちに残された場所はないことを思い責任をひとりで背負い許可を出してくれたのです。
沖縄の人たちは働くことを終えたら出て行くしかありません。沖縄はまだアメリカの占領地であり、返還されたといっても収入も生活もアメリカの支配下、ならばそこに日本人の居場所はないのですから。広大な基地以外にも沖縄には何万人ものアメリカ人が民間人と暮らしています。米兵の子どもが万引きしても沖縄の警察は逮捕しません、しても釈放されてしまうからです。日米地位協定です。4年前に感じなかった沖縄の人たちの本当の気持ちがようやく少し解ってきました。
「沖縄に米軍基地はいらない。」というのは誰もが思うことです。ところがもう60年以上も沖縄の人たちは基地に囲まれて生活をしています。と言うよりそうせざるを得ないのです。基地がすべてなくなったあとの沖縄を想像できる人がひとりでもいるでしょうか。手の届きそうな高さをごう音とともに飛ぶ米軍機やヘリコプター、その真下で生活することを余儀なくされている沖縄の人たち、定年後には沖縄を出ることを考えなくてはならない人、沖縄の人たちの気持ちをみんなが共有しみんなで考える。そこから始まるのではないでしょうか。