ボクは雑草です

シフトクリエイティブ社長のブログです。

イラクの混迷~アリ・サクバン~

2015-02-22 21:52:15 | 報道/ニュース
さて、テロのついてまとめようとしましたがその前にもうひとつ番組を紹介します。“イラク・終わりなき戦争”バクダッド北部に住むある一家を10年に渡って記録したものです。2014年6月に放送され今年1月に再放送されました。イスラム過激派ISの原点とも言える内容でした。
2003年3月、アメリカは大量破壊兵器を持って他国を侵略しようとしているとしてイラクに侵攻。およそ40日でフセイン政権は崩壊しました。フセインの弟は逮捕その後スンニ派のフセイン大統領も逮捕処刑されました。アメリカ駐留後、シーア派のマリキを首相にスンニ派を副首相にして新政権を樹立、これでフセインの独裁から解放されたイラクは平和になるはずでした。ところがマリキは抑えられていたうっぷんを晴らそうとスンニ派を徹底的に弾圧。これがイラク混迷の原因となりました。
この番組はそんな2003年アメリカのイラク侵攻から始まります。アメリカの空爆は民間人を巻き込みました。バクダッドの病院です。次々と担ぎ込まれる民間人の中に5歳の女の子がいました。爆撃をうけひん死の状態です。付き添いの父親が血のついたシャツでカメラに向かって泣きながら言います。「これがアメリカの言う解放か。この子が何をしたというのだ。誰が責任をとるのか。」女の子は亡くなりました。父親の名前はアリ・サクバン31才。番組はサクバン一家を訪ねます。アリは爆弾の落ちた場所を指し「ここにいたんだ。ここに爆弾が落ちた。」それは民間の居住地でした。コンクリートを突き破って地面がえぐられています。アリ・サクバンは妻と子ども4人そして両親と弟の9人で住んでいましたが今回の爆撃で3人の子どもを亡くしました。
アリは仕事をする気力もなく隣の家のがれき片付けなどでわずかな収入を得るだけでした。多国籍軍の事務所に行き賠償を訴えましたが聞き入れられませんでした。1年後ひとり娘となったゴフランは小学1年生になっていました。仕事の見つからないアリはゴフランの成長だけが心の支えでした。2年後に尋ねるとアリには1歳の女の子ファティマができていました。政府や軍の仕事にはつきたくないと近くの市場で小さな八百屋を営んでいました。その間イラクは反米感情と宗派対立が激化。追い打ちをかけるようにファルージャでアメリカの車が襲撃され再び戦闘状態となり、それはバクダッドにも及んできました。反米とシーア派スンニ派の報復合戦でバクダッドは内戦状態。その撮影の1か月後、アリがもっとも頼りにしていた弟のラエードが武装集団に銃撃され殺害されました。アリは弟の家族の面倒も見なくてはなりませんでした。それから2年後状況はますます悪化、撮影に来た外国人がアリの自宅まで入れません。そのためアリがゴフランとファティマを連れホテルまで出てきて話を聞きました。「これが最後の戦争にしてほしい。こんな残酷で悲惨なことがあってはならない。イラクでもアフガニスタンでもあってはならない。時代はどんどん悪い方向に向かっている。恵みはどこにあるのだろうか。」その数か月後今度はアリ自身が銃撃により殺害されてしまいます。
番組はその後も追いました。戦争が始まって11年、アメリカ軍が撤退して4年、イラクの混迷は続きます。アリとラエードを失ったサクバン一家は両親だけがひっそりと暮らしていました。アリとラエードの妻と子どもたちは実家へ帰っていましたが撮影のため出てきてくれました。18才になったゴフラン、優しくしてくれた父アリとの思い出を話しました。「いまでも覚えていますが父はもういません・・」
バグダッドは今もテロが頻発。中古車販売店や露店が4回も爆発されました。撮影スタッフが婦人に聞きました。「これはジハードですか?」婦人は答えます。「犯人はテロリストかもしれない。でも私の友人や知り合いかもしれない・・」
番組の最後はアリ・サクバンの心からの叫びでした。「戦争の前は仕事から帰ると子どもたちが出迎えてくれました。今思えばそれが本当の幸せなんだと思います。人間は戦争をするために神につくられたのではない。」(つづく)

※これは映画でもない小説でもないイラクの現実です。

2015/02/22

見えない脅威~アフガニスタンのタリバン~

2015-02-14 16:41:18 | 報道/ニュース
NHKに「ドキュメンタリーWAVE」という番組があります。イラクのある家族を10年追ったものや、イスラエルでユダヤ人とアラブ人が共存している村など興味深いものを制作しています。先日放送の “アフガニスタンの遠い春”はアフガニスタンでタリバンと戦う政府軍に密着したドキュメント。実弾の飛び交う中をよく撮影できたな、と感心して見ていたらようやくタリバンの実像が分かってきました。
ジャラル・ディーンは27才。アフガニスタン政府軍の中隊長です。タリバンの掃討が主な任務。9,11以降アメリカのアフガニスタン侵攻でタリバンはいなくなったと思いきやなんのことはなくいまだ増殖中。ビンラデンを殺してもタリバンに何の変りもなかったのです。
タリバンはどこから撃ってくるのか、いつ撃ってくるのか分かりません。タリバン支援者のいる村の捜索です。村の警察と話します。タリバン支持者を教えろと言っても反応なし。村の検問所から軍に向けて発砲があり「ここから撃ってくるんだ。」と言っても村の若者は「ここじゃない、別のところだ。」と言う。タリバン内通者らしき若者を拘束してひとまず引き返す。次の日、タリバンが収入源としている麻薬の原料ケシの栽培をしていないか農民に尋ねると小麦を作っているだけ。と言う。そのすぐとなりには多くのケシの花が咲いている「これは?」と聞くと「いとこの畑だ。」タリバン支持者を通報しろ、と言って帰る。兵士の後ろ姿に農民がつぶやく「誰がタリバンなのか分かる訳がない・」そうかタリバンはタリバンだと言わないんだ、確かにテロを起こす前にオレはテロリストと名乗るはずがない、そのうえ農民はある時はタリバン、ある時は政府寄りに使い分けている。これでは農民が言うように誰がタリバンかなんて分かるはずがありませんね。
ジャラル・ディーンが出発前兵士に言いました。「絶対村人を撃つな。撃ったらこっちが殺されるぞ。」兵士は村の捜索時は顔を覆面で隠します。兵士の顔が知られるといつどこから撃たれるか分からないからです。
村の長老たちを集めてケシの栽培をやめるよう交渉します。長老たちは言います「国が小麦を高く買ってくれたらケシはやめる。ケシが高く売れるから作るだけだ。」交渉は物別れでした。
タリバン掃討大作戦の日です。ジャラルの中隊も参加します。突然どこからともなく発砲されます。カメラの前を銃弾が飛び交います。四方八方からの銃撃にジャラルの中隊は村の民家に駆け込みます。タリバンに囲まれました。本隊に応援要請。日没がせまっても応援はきません。ジャラルは単独で本隊に戻る決断をします。数名が銃弾を浴びましたが死者は出ませんでした。命がけの作戦が終わりました。
こんなに危険でも給料がでる仕事です。兵士は少ない給料の中から家へ仕送りしています。しかしその給料も途絶えがち、兵士は「戦闘は怖くないけど給料を9か月もらっていない。」とジャラルに訴えます。「上に言っておくから今は集中しろ。」ジャラルも同様でした。
9.11以降アフガンに大侵攻したアメリカは最新兵器でアフガンを破壊しまくって引き上げました。残った基地には何もありません。「あいつら電線まで持っていきやがった。」ドアノブを引きちぎって兵士が怒ります。「アメリカは来て良かったけど、横柄な態度はゆるせなかった。」6才の時からアメリカ兵を見てきた若い兵士がつぶやきました。
“テロとの戦い“はいまやスローガンになっています。しかしこの番組は伝えました。「テロなんてどこにいるのか分からない。そして誰がテロリストになるのかも分からない。」小麦を作っている農民が明日はケシを作る、生きるために仕方がないのかもしれません。「政治家は自分のことしか考えない。国民のことなど考えていないんだよ。」中堅の兵士が言いました。「日本も同じか。」と言われませんように・・(つづく)

2015/02/14

イスラム国現る

2015-02-09 22:04:32 | 報道/ニュース
発端は1月7日パリのシャルリ・エブドの襲撃でした。過激武装派2名が銃を乱射、編集長らスタッフ10人と警官2名を射殺後、印刷会社に立てこもりました。翌8日別の男が警官2名を射殺、ユダヤ系食品会社に立てこもりました。翌9日には特殊部隊がほぼ同時に犯人を射殺しましたが、警察官4名と市民13名の計17名が犠牲になりました。
イエメンのタリバン系過激派が犯行声明をだし、フランス全土では厳戒態勢。「これはフランスの9.11だ。」と国中が戦争ムード一色となり、「風刺画はフランスの文化、わたしはシャルリ」のスローガンのもと370万人が参加するデモ行進に発展、パリでは世界40か国の首脳が腕を組んで先頭に立ちました。パレスチナのアッバス議長イスラエルのエタニアフ首相が揃って行進している姿が話題になりましたが、その後アッバス議長はトルコのエルドアン大統領との会見で「エタニアフはどの面下げてあそこへ行ったのか、ガザで2500人を殺すテロを起こしながら・・」と怒っていました。
そもそもシャルリ・エブドは風刺画で作られている大衆週刊誌。たいした発行部数ではないとはいえ3万部をフランス全土に置いています。今回の襲撃事件のあと再びモハンマドを風刺した追悼特別号を出しましたが、その発行部数はなんと300万部。英語アラビア語など16か国語に翻訳され世界25か国で発売されました。まさにテロリストと反イスラムの戦いの構図が作られました。
と、ここまでは日本にとっては遠い中東と西欧の話ぐらいに聞いていましたが、そのあと事件は起きました。世界中を反テロ旋風が吹き荒れ、フランス歴史上最大規模のデモが起きた1週間後日本の総理大臣が中東4か国を訪問したのです。エジプト・ヨルダン・イスラエル・パレスチナです。これには素人のボクまで嫌な予感を感じましたね。なんて危ない所へ。そしてその通りになりました。イスラム国が現れました。昨年8月と10月に拘束していた日本人ふたりをネットに公開し2億ドル払わなければ殺害すると脅したのです。ルンルン気分の日本の総理大臣は青ざめました。記者会見の質問にも何を話していいのかわからず文章を読み上げるのが精いっぱい。予定を切り上げ帰国しました。まさに想定外だったのです。
それから以後、日本のメディアはイスラム国一色、テロに屈しないとか、イスラム国ってなんだとか、その間政府は打つ手なし。72時間の期限切れとともにイスラム国はひとりを殺害、もうひとりのジャーナリスト後藤健二さんとヨルダンに収監されている自爆テロ犯の交換を要求してきました。イスラム国の交渉相手はヨルダンに変わりました。死刑囚と交換しなければ拘束しているヨルダンのパイロットを殺すと脅してきました。
当事者でなくなった日本政府は、情報収集中の繰り返しです。テレビは毎日同じ話ばかりです。時間は流れ、結果後藤健二さんは殺害され、パイロットも殺されていました。怒ったのはヨルダンでした。イスラム国をぶっつぶすと空爆を繰り返しています。
確かに日本と中東は石油で深いつながりがありますが、今回の4か国は何で?と思うところばかりですね。どう考えても石油のことではないようですよ。ヨルダンは石油が出ないのです。イスラエルとパレスチナは戦闘状態、エジプトは中東紛争のまとめ役。しかも週刊ポストインターネット版によると外務省内からタイミングが悪いという声が上がったとき総理の反応は逆でした。「フランスのテロ事件でイスラム国がクローズアップされている時に中東に行けるのだからオレはツイている。世界が安倍を頼りにしているということじゃないか。」また総額25億ドルの中東支援については「日本にとってはたいしたカネではないが中東諸国では大変な金額だ、どの国でもありがたがられるだろう。」と自信満々。周囲は異様に感じ、常人の感覚ではないと思ったとか。
おりしも日本の国会では「非道卑劣なテロに断固として戦う決議案」を全会一致で採択しました。その様子はまるで開戦前夜のような盛り上がり。う~ん・・ちょっと異様に感じましたね。(つづく)

2015/02/09