ボクは雑草です

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和歌山県太地町~イルカと共に~

2011-08-13 15:50:18 | 報道/ニュース
小さな港町に外国人がやってきた。和歌山県の太地町は映画「コーヴ」で有名になりました。ボクは今でもなぜあの映画がアカデミー賞なのか、アメリカのエンターメントビジネスにモラルはないのか、弱者を寄ってたかって攻撃する一方的な内容でいいのか、ドキュメンタリーとは言ってもいかにも賞狙いと金儲け見え見えで観る気がしない。などと思っていたら、先日NHKで「鯨の町に生きる」というETV特集を放送、これでその一端を見てしまいました。
太地町は紀伊半島の先端に近い和歌山県の東端、熊野灘に面した小さな港町です。人口およそ3500人。主に漁業と観光で生活しています。この港町に突然黒船がやってきたように外国人が押し寄せました。手には銃のかわりにカメラを持って手当たり次第に撮りまくります。何を撮ってどうするのかと思っている間もなく映画「コーヴ」は作られました。それを知った環境団体テロリスト、シーシェパードは今もこの港町をストーカーのようにうろついています。監督をしたルイ・シホヨスの言い分です。「自分は海洋環境保護に情熱を持っている。イルカ殺しは海の環境を汚染する、イルカ肉と魚介類には水銀が含まれ食べると水銀中毒になる、イルカを殺す悪い伝統はなくさなくてはいけない。そのためにこの映画を作った。」この支離滅裂さにはあきれます。水銀があろうがなかろうが食べない人種が言うのは余計なお世話でそれは食べる人の自由です。私たちが食べるものには多かれ少なかれなにかしら害になるものが混ざっています。ふぐの肝など食べたら死にますよ。ボクは食べませんが食べたい人は食べています。その人たちにふぐを殺すなと言えますか?
そもそも問題になっているのは鯨を捕っていいかどうかです。鯨を捕り過ぎたと国際捕鯨取締条約ができたのは1946年、日本が戦争に負けた翌年でした。1951年日本も国際捕鯨委員会に加盟、その後1970年代から捕っていいかどうかの議論が繰り返され、以来ほとんど捕鯨禁止です。もともと太平洋で最も多く鯨を捕っていたのはアメリカです。ジョン万次郎が助けられたのも鯨を追って小笠原まで来ていたアメリカの捕鯨船でした。ところが当時アメリカでは鯨を食べません、工場での機械油やランプの油として脂肪だけを使い肉は捨てていました。その後石油などの油が出て鯨の脂肪が必要なくなり、自分たちが捕り過ぎて少なくなったのを棚に上げ鯨を守ろうと言い始めたのです。日本では昔から鯨を食べていました。大切な食料源とともに捨てるところがないほど皮から骨まで有効に使っていました。鯨を捕っていた町には供養塔があり恵みへの感謝を込めて手を合わせます。それから半世紀、いまではいろんな食材があふれ鯨の肉はもうメジャーではありません。しかし肉を食べていた日本と肉を捨てていたアメリカでは鯨に対する思いが違います。ルイ・シホヨスがいかに自分勝手な屁理屈をならべているかはもう歴然ですね。つまりこいつは自分以外の価値観が理解できない只の三流低俗監督なのです。イルカ殺しは海の環境を汚染するなどは自分たちのように肉を海に捨てる発想なのです。
ETV特集ではイカレタ団体シーシェパードの執拗な攻撃に耐えかねて「鯨の目を見たらもう殺せない。」と鯨漁をやめようと苦悩している漁師がいました。ボクは言ってあげたい。「牛の目だって真っ黒でまん丸でとてもかわいい。でもステーキはおいしいです。」ってね。高校2年の少女は「私たちは日本の伝統を守って鯨を捕っているだけなのにどうして外国の人は捕っちゃいけないと言うの?」と苦悩するおとうさんに泣いて訴えました。ボクは言ってあげたい。「お父さんは伝統を守って鯨を捕っているだけではないよ。鯨が高く売れるから捕っている、ほかの魚では子供を学校へ行かせてあげられないんだ。別の良い収入源があればいつでも捕鯨はやめますよ。やめたって太地の鯨漁の伝統は永遠に残るんだ。」ってね。
現在シーシェパードの妨害で日本の調査捕鯨は中断しています。オーストラリア政府に遺憾の意と言っただけで日本政府は何もできません。太地ではシーシェパードとのトラブルで駆けつけた英語が分かると思われる若い警官は「No problem!」と言われスゴスゴ帰りました。どうやら問題はこちらにあるようですね・・

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