やさしい時間

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何気ない日常を写真とともに綴ります

迷い

2014年09月08日 | 介護
先週、痙攣発作を起こして 母はまた入院していた。


トイレで急に痙攣が始まり、

私の腕の中で意識を失くしてぐったりとした時には、看護師の私でも 

『このまま逝ってしまうのではないだろうか…』とちょっと不安になった。

幸い 妹がいて

『痙攣が始まったから、救急車を呼んで』という声で

冷静に救急の電話対応をしてくれた。


一人だったら、どうしただろうと ずっと考えていた。

母は意識を失ってグニャグニャ状態で、寝かせようにも

トイレの入り口は車椅子で塞がっていた。

しかも最悪の事に、その時電話も持っていなかった。


多分、出来るだけの事をして 救急搬送するのだろうけど、

これからの指針を沢山残してくれた出来事だった。


いつもは一人なのだから、常に携帯電話を持っておく事、とか

車椅子は少し離して置いておく事、とか…



母は無事に退院したのだけど、たった5日の入院で

立つことができなくなった。


今日は、退院したばかりの一番大変な一日だというのに

妹が一人で看なければならなくて、

本当に大変な思いをさせてしまったんだと

夜、一日の出来事を話をしていて気づいた。

私でさえ抱えるのが大変なのに、

怖かっただろうな…と思う。


自分がしてきたことが、誰にでも出来る事ではないと

改めて思い知る。

看護師だから、訪問看護をした経験があるから、

今もデイサービスで様々な利用者さんを介護しているから…

そういった色々な経験があるから、在宅に拘ってしまう。


入院して動けなくなるより、在宅にいて

出来るだけ人間らしい生活を送ってほしい。


そんな私の我儘が、周りの人を混乱させているのかもしれない。



『その時』

が刻々と迫ってきているのは事実だ。



母の静かな息遣いに、ほっとしながら…



<名前の分からない花がまた咲きました>






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2 コメント

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終の棲家 (architect)
2014-09-12 23:58:04
在宅できるQOLを維持してほしいと思っていても、いつかその限界点を下回り、介護できなくなる。
その限界点は、介護する人によって幅がある。
人の幸福とは、何か?長く生きる事だけではないのかとも思う。
ただ、家族の思いは、長く生きてほしいと・・・
そこに葛藤があり、迷いが生じる。
入院か?在宅か?・・・

病院であれどこであれ、いつでも皆が集うことができる処が、終の棲家であってほしい。


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Unknown (nashiko)
2014-09-13 00:37:08
architectさん、
コメントありがとうございます。

私たちの思いはただ長く生きてほしいと
思っているわけではありません。
出来るだけ長く人間らしい生活を送ってほしいと
願っているだけです。

病気が脳を支配し、
思うように身体を動かしてくれなくなり、
やがてはすべての活動を停止する時が来るのだと…
そんな日が来ることは頭では分かっていても
なかなか納得が出来ません。

もう少し笑いあえる日が続いてもいいのではないかと
そう思っていました。

『終の棲家』というのは、
自分が自分として生きていられる所だと思います。

そういう意味では母にはもう『終の棲家』は
なくなってしまったのかもしれません。

在宅療養は、一人ではできません。
たくさんの人の力が必要です。
そして本人の生きる力が必要で、
私たちにはその選択の機会はなくなりそうです。

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