やさしい時間

「写真でブログ」タイトルを変更しました
何気ない日常を写真とともに綴ります

初七日

2015年09月16日 | 家族  思い出



先週、9月9日 母が亡くなり

今日は初七日でした




祭壇に 母のために

ビールをほんの少しだけ供えて

私はなみなみとビールを注ぐ



たまに一緒にビールを飲んだ

『お母さん、飲む?』

聞くと

『ちょっとだけね』

そう言ってコップに注いだ少しのビールを

おいしそうに飲んだ




そんな母が疎ましいと思うことがあった


ご飯を食べた事を忘れてしまった時の

『ふん』と言うような笑い方とか

排泄を失敗した時の怒り方とか

いつまでも世間体を気にする所とか・・・


そしてつい言葉が荒くなる




病状が進み、入院してから1年


痩せてしまって そして

何も話せなくなっても

母はいつも私を見ていた

何を話すのか聞いていた


そして時々

『仕方ないな・・・』

という顔をする




毎日病院へ行き

顔の清拭、口腔ケア、手足のマッサージ、機能訓練

途中からは機能訓練することも難しくなった


そうやってケアをしていても

何か母に対する負い目がある




皆、口々に

『3年間、良く介護しましたね』

そう言ってくれる

だけど、私自身はそうは思わない



もっと、やれることがあったのではないか

もっと、優しく接することは出来なかったのだろうか・・・と

後悔ばかりだ




こうして、祭壇の前で改めて母を想う時

おちゃめで可愛い母の姿しか思い浮かばない






最期まで色々な事を教えてくれた母に

お疲れさま  そして

心から 
 
‶ありがとう" 














母との旅  埼玉へ  ①

2013年07月16日 | 家族  思い出
先週末、弟の3回忌で埼玉県へ行ってきました。


母を連れ朝8時半に出発し、北九州空港から羽田まで。
京急に乗り換え、品川、上野を経由して
宇都宮線で最終目的地の栗橋まで。

3泊4日でお世話になる妹の家に着いたのは
もう夕方4時過ぎていた。

移動に1日掛かったけれど、うれしいことに
どこでも車椅子の母と私を親切に介助してくれて
本当に感謝の1日でした。

実際に経験してみないと分かりませんね。
それぞれ次の降車地へ連絡し、私たちを待っていてくれました。
そういった連携が素晴らしいと思いました。
他には、私たちに遠慮させないように、細かな気遣いも
うれしかったです。

京急には女性の駅員さんがたくさんいて、
その方々がとても素敵でした。
厳つい男性駅員さんよりも柔らかい感じが良いように思います。
勿論、男性駅員さんも素敵でしたけど。





1時間半の飛行機の旅、母は満喫したようです。
私は突発性難聴を患った頃から、降下する時に
耳抜きが出来なくて、本当に耳を押さえて苦悶状態で
スチュワーデスさんから「大丈夫ですか?」と
声をかけられてしまいました。


埼玉での事はまたいずれ。




面影

2013年07月10日 | 家族  思い出
もうすぐ弟の3回忌がやってきます

時間が経つのは早いですね

この週末、少し早い3回忌の法要をする予定です



2年前、弟は電車の中で倒れて

同乗していた多くの方の懸命な救命処置にも関わらず

私たちに二度と笑顔を見せることなく

亡くなってしまいました


亨年53

若すぎる死でした





母の面倒なことを

一手に引き受けてくれていた弟

彼がいなくなってしまう事を

誰が想像していたでしょうか







時々、彼の笑顔を思い出します

何でもない事をいろいろ話したあの頃

母の介護の事ではぶつかることも多かった

それはお互いを信頼しているからこそ

言い合えたのだと思います


こんな風に彼を思い出していたりすると

何か企んでいそうな半分だけ上げた眉毛で

「何やっているんだよ」

そう言われそうで、胸につかえた涙を堪えます



もう一度、話してみたい


それは 叶わぬ願い・・・









2011年08月04日 | 家族  思い出



孫たちは夏休みになった

毎日のように喧嘩して

どっちが先に手を出したとか

うるさいとか

遊んでくれないとか・・・

其々の言い分ばかり言っている



そうして 喧嘩して泣いていたかと思うと

もう甲高い声で笑っている

「そこは危ないよ」

「待って~」

お互いを慕い、気遣う声にほっとする

二人の孫を見ていると兄弟っていいな・・・

本当にそう思う






私には兄がいて、妹、弟の4人兄弟だけれど

弟が一番仲良しだった


4歳下の弟とは

本当に小さい頃には

蟻さんごっこなる遊びを

日曜日の朝に「うるさい」と親に怒られないように

布団の中でこっそり遊んだ

中学生の頃には 

私と同じバレーボールをするようになり

よくパスをして遊んだ

高校生の頃には

私の友達たちとマージャンをしたり

こっそりお酒も飲んだりして

年上の男友達に憧れて彼らといろんな話をしていた

将来の夢や希望を語りあっていたのでしょうか


私が結婚して子供が出来ると

暇さえあるとやって来て

楽しそうに一日子供たちと遊んでいた

一緒に旅行も行ったし

楽しそうな事を提案してくれるのも弟だった


最近は、母や伯母の介護の事で

たくさん話し合ったけれど

私は九州の人で

母の介護には病状把握と意見を言うしかなく

弟が全面的に介護に関わってくれていた


昨年会った時に 

主治医から言われた事を弟に話していたら

どうやら彼を責めているように受け取られたようで

そのことがずっと心の中でしこりになっていたように思う

お互いに話し合わないといけないと感じていながら

先月会った時にもその事には触れないままに

過ぎてしまった


次に会った時には絶対謝ろうと

9月か10月に東京に行こうと決めていた







そんな矢先だった


弟が 電車の中で倒れた  

そう言って 兄から連絡を受けた


混乱した頭で

妹や関係者へ連絡し・・・

そうしているうちに

死亡した と追加の連絡が入った


 
突然の事で 理解するのに時間がかかる

翌日に弟の顔を見ても

実感が湧かなかった


棺の中で目を閉じた弟が

今にも

「ねえちゃん、冗談だよ」

いつものひょうきんな顔をして

起き上がりそうな気がして

その頬に触れた


少しだけ左に傾いた顔が

尋常でなく冷たくて

手や足の硬さが

もうこの世には戻れないと語っている




明るい声も
 
左の眉毛を少し上げて冗談を言う顔も

独特の笑い声も

もう二度と聞く事が出来ない







きっと今

弟は安らかな気持ちで

私の気持ちを理解し

許してくれていると思う





彼が弟で良かった

彼と兄弟で良かった



ありがとう



















ご飯は好きですか

2011年01月14日 | 家族  思い出
昨日は外ご飯。

一度食べてみたいと思っていた
ちょっと古い中華のお店に行ってみました。

カメラは持っていなかったので
今回は写真なしです。

食べたのは、
エビチリ
豚肉とキャベツの胡椒炒め
餃子
卵スープ
ごはん

ウォーキング仲間と二人だったので、
あまり沢山は頼みませんでした。

お店の外観に似合わぬ美味しいさ。
おじいさんとおばあさんの二人で
手際良く作ってくれたお料理は
どれも美味しくて、ご飯が進んでしまいました。


帰ってから、美味しかったご飯のことを考えていて、
ふと、思い出した事がありました。
それは、父の事です。



父はご飯が大好物でした。
お風呂上がりにタオル1枚腰に巻いて、、、
父はよく晩酌をしていました。
私たちが夕飯をすっかり食べてしまってから、
父はご飯を食べ始めるのが常でした。
今考えると、子どもたちにお腹一杯食べさせたくて
そうしていたのかもしれませんね、家は相当貧乏でしたから。

父の食べるご飯におかずはほとんど残っていませんでした。
それなのに、父はいつも美味しそうにご飯を食べていました。
あまりにも美味しそうだったので、
父から一口もらって食べた事があります。
何か特別な物が入っているのかと思ったんです。
でも父の食べているご飯は、さっき、私が食べたのと同じご飯でした。

「何だと思ったんだ?
 お父さんは、ご飯が大好きなんだよ。
 だから、何もなくってもご飯が食べられるんだよ」

父がそう言って、笑っていたのを思い出しました。


私は父が嫌いでした。
酒癖が悪くて、
酔っぱらうと物を投げたり、母を殴ったこともありました。
父は怖くて、近寄りがたい存在でした。

でも、ご飯に関する思い出の中で、
父はいつも笑っています。

「ご飯くらいはお腹一杯食べろ」

父はいつもそう言っていました。

子供の頃食が細くて
少ししか食べる事ができなかった私は、
父にとって可愛くない子供だったのかもしれません。






<東京・合羽橋で 蝋細工の果物とおすし>


小さいころに見たら、きっと食べてしまいそうなほど
本物そっくり。
こんな果物やおすしをお腹一杯食べたかった頃もありました。


今思うと、父が私たち兄弟を嫌いだったはずがありません。
表現力が足りなかっただけなのだと思います。
生きているうちに、父ともっと話したかった。。。

そういう私も、気持ちを表現するのがちょっと苦手。
すれ違ったまま、大事な物を失くさないようにと
父が教えてくれているのかもしれません。