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南会津生活記

南会津での日々の〝ひとコマ〟をご紹介しています。
by s-k-y (presented by taito)

南山六義民の見た風景 久次右衛門編その1

2011年02月01日 06時01分45秒 | いにしえへの思い
南山義民のひとり、久次右衛門の里、新遠路集落です。新しい遠い路と書いて〝にとうじ〟と呼びますが、実はこの名前、今では字名として住所には存在していません。
探すのに苦労しました

明治二十年から大正六年にかけて行われた室井平蔵氏の調査によると「新遠路の遠祖は信州諏訪より来たれるものたり」とあります。集落名の由来である〝新しい遠い路〟とは、信州からここに至る道だったのかな?

さてこの集落、多くの集落は広い道路沿いに家々が張り付くものですが、ここは勾配の急な沢筋に沿って家々が張り付いています。奥の方には土石流を堰き止めるためのダムが見えます。水を求めて沢筋に伸びていったのか、それとも元々は沢筋の小道しか無くそれ伝いに家々が建てられていったのか…
集落の成り立ちに興味惹かれる集落です



翁曰く 「毎日雪かきだ~」「朝がらうぢの周りさやって、屋根の雪さおどしで、んで、きがいで飛ばすだども、つまっちまって」
ボク 「あらら大変ですね~
さらに翁曰く 「○○さんちで葬式だがら、△△あんにゃ(目上の男性を親しみを込めてこう呼ぶ)が車だしでぇーべぇー、雪かがねっか出ねーがらやってやったんだ。」
ボク 「はぁ!?」



ボク 「おじさんは義民のこと知ってますか?この辺出身で記念碑があるって聞いたんですけど?」
翁 「あぁ知ってる。どれ見に来た?」
ボク 「ど、ど、どれ?」「そんなにいっぱいあるんですか?」
翁 「そこにあんのど、□□あね(目上の女性を親しみを込めてこう呼ぶ)のどこど、向こうのスノーシェッドのどごどある。」「雪で見えるわげあんめー!とでもこれでは雪かげねえぞー(困ったように除雪機を見る)」
ボク 「いえいえ、雪かきしてくれって頼んでる訳ではなくて、どの辺にあるのかな~と思って聞いただけですよ



翁 「あんた大学の人が?」
ボク 「へ?いえいえ、単に義民に興味があって、写真を撮りながら回ってるんですよ!」
翁 「そうが、そんなごどしらべでっがら、てっきり大学の人がどおもったぁ
ふたり 「ハハハハハハハ(笑)」



翁との語らいは足先が冷たくなるほど続きましたが、仄々とした心地よい会話でした
どうやらここが久次右衛門がいた集落であることに間違いないようです。翁が指差した御堂の傍らにでも記念碑はあるのでしょう。
見事な積もりっぷりです



その裏の方には川が流れ、橋の向こうには耕作地らしき風景が広がります。
義民の記録誌によると、「税の取り立てに困った農民たちはこっそりと荒野や原野を開墾した」らしく、そんなことを想像させるような〝こっそり〟とした田畑がこの陰の方にもあったのかもしれません。



地名からは消えてしまった新遠路という名、集会所の名前として唯一それが残っています。
翁が残念そうに言っていました。「むがしは新遠路って言ったども、もうねぇんだよな~」
集落はあっても新遠路は無い。
名は文化であり歴史、そんなことを思わずにはいられませんでした。









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 喜四郎編その3

2011年01月27日 06時00分19秒 | いにしえへの思い
喜四郎の実家とされる家の前で通りを眺めます。
過ってはもっと道幅が狭く、除雪車も無かったので雪がテンコ盛りにあったことでしょう。



小栗山という名前を冠したものは無いかな~と探していると、ありました小栗山集会所!



喜四郎は打ち首に際し、歌を詠んだとされています。
「いたづらに花さく春を過ごしけり 寝ざめものうき秋の夜すがら」
〝ものうき〟とは、心が晴れない様?〝秋の夜すがら〟とは、寝られるの意味?
ようやくグッスリと安らかな眠りにつくことができる?とか、そんな意味でしょうか?国語、特に古文は苦手なのでよく分からんです



石碑によると喜四郎享年47歳。17歳の子どもがいたようですが、最後に会えたかどうか?
ただ、その子は曝されていた首を小栗山に持ち帰ることは出来たようです。



喜四郎の時代、通り沿いに家屋が張り付き、限られた平地で耕作し、木を切り出しまた植え、時には野尻川で魚を求め、山に入っては獲物を求め。。。
四方を山に囲まれた集落で税の厳しい取り立てに晒されていたとすれば、それはもう限りない閉塞感に陥ったことでしょう。


しかし、この閉塞感から彼は動きます。
親交のあった黒谷村儀右衛門のところ、相談役であったとされる大田集落の観音寺や直訴の作戦会議が行われた界集落の安照寺、さらによく訪れていたという小塩村清左衛門のところと、いずれも吉尾峠や松坂峠あるいは鳥居峠を越えての40キロ前後の踏破行。。。



吉尾峠は現在では県道小林会津宮下停車場線といいますが峠手前で道路が無くなっている交通不能の道路です。松坂峠は現在では県道布沢横田線といいますが冬期通行止め。鳥居峠は国道401号といいますがやはり冬期通行止め。。。難所ばかりですね!
代官所のある田島までは舟ヶ鼻峠を越えてやはり40キロ。舟ヶ鼻峠は現在では国道400号といい、最近新しいトンネルが出来て雪道でもOK でも、それまではやはり冬期通行止めの難所でしたから、ここ小栗山から出ていこうとすると雪山登山モードでなければ無理無理



「旧暦の12月に安照寺に集まり」とありますから、畑仕事の終わった秋以降に行動を起こし、そして雪降る中、方々行き来をしていたことになります。
ここに佇み、この山々を歩いて越えて隣町に行こうなどとは考えもつかない!
その強い意志、思いは及びません。



物語の中では最も取り上げられる喜四郎。
彼の思いを垣間見るまでには至りませんでしたが、ここ小栗山を後にし、次の義民の里へ向かいます。









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 喜四郎編その2

2011年01月26日 05時49分28秒 | いにしえへの思い
集落内を歩いていると、昔からの家屋を利用した民宿があっちにもこっちにも!?
どうやらすぐ近くにある沼沢湖周辺の観光地化に即応して、民宿業が営まれてきたようです。
沼沢湖周辺には自然休養村センターあり、妖精美術館あり、湖水浴場あり、スキー場もあり。。。訪れる方々が多いんでしょうね!かねやま観光ガイド



以前は農林業中心だったでしょうが今ではそれで生計を立てるのも厳しいでしょうし、サービス業が中心の町となってきているのでしょうか。。。
昔の古民家の佇まいはそのまま活かしてあって、おかけで田舎暮らしを体験するには最適



農業といってもこの辺では稲作ではなく、からむしや大麻の栽培が中心だったと思われます。
すぐお隣の昭和村では伝統工芸としてからむし織が伝承されていますし、御蔵入騒動から66年後の天明8年(1788年)の記録に「古町村から梁取村を経て布沢村までの沿道の畑には、からむし、大麻が多く、からむしを用いて布を織っていた」とあります(川口洋著「18・19世紀における会津・南山御蔵入領の人口変動とその地域的特徴」より)。古町や梁取は伊南川沿いですので地域は多少ずれますが、それでも布沢は昭和村と吉尾峠ひとつ隔てたお隣さん、この地域全体がからむしの産地であったことが伺えます。何より、からむし織のメリットは畑仕事が出来ない冬期の内職として、雪国に広まっていたようです。
おや?爺様、それはからむし?ではないか



からむし織などの付加価値の高い製品が珍重されるようになったのはいつ頃だったか?御蔵入騒動の頃はまだまだで生活は困窮を極めていたのでしょう。家族や親類縁者、村人たちの窮状を眺めながら、喜四郎の胸の内には湧き上がるものが 喜四郎は無二の親友の黒谷村儀右衛門を自宅に招き、直訴への決意を打ち明け、儀右衛門もそれに応えます。



親友が第一陣として出発する際、儀右衛門が別れの歌を詠んでいますが、喜四郎もまた尽きぬ思いを歌で残しています。
「民のため身は武蔵野に消ゆるとも かねてちかいし事な違ひそ」
江戸で命を落とすこととなっても、願いは叶えるぞ!と、そんな決意の歌でしょうか?



メイン通りをそれて路地裏をぶらり
国道400号の山側と谷側、それぞれ一本ずつ町道があり、それ沿いの狭いエリアに家屋が肩寄せ合っています。



最近は温泉も出たらしく、こちらのお宿は唯一温泉が楽しめるそうです。
この時はそうとは知らず…、分かってれば入ってきたのにな~



見上げれば白山神社、登って上から見渡してみたいけど。。。無理だな~









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 喜四郎編その1

2011年01月25日 06時22分12秒 | いにしえへの思い
演出家平田大一氏による舞台「南山の息吹」で取り上げられている御蔵入騒動、そのサブタイトル「南山義民喜四郎伝」として名前が挙がっているのが小栗山村出身の喜四郎です。

現在でいうところの金山町大字小栗山。
ボクの住む南会津町田島から国道400号で昭和村を通り過ぎ金山町へ向かい、国道252号との交差点の2キロ程手前、谷深くには野尻川が流れています。

ここに立って見渡す限り、耕作地に適した平地は少なく、あるとしても谷沿いの斜面に段々畑がある程度かな?雪が多くてよく分かりませんが
南山御蔵入騒動記録研究会による「南山六義民の碑建設記録」誌(以下「記録誌」と呼びます)によると、ここから見える屋根の家が喜四郎の実家とされ、末裔が住んでいると記されています。
ここか~~~と想像以上の環境に絶句です。。。



集落内の広場には〝義民の碑〟が建てられています。石碑は大正9年、案内板は平成6年にそれぞれ建立されたようです。
義民と言って真っ先に上がる名前、喜四郎。なぜに喜四郎なのでしょうか?

御蔵入騒動の伝聞としてまとまったモノははっきりせず、記録誌によると明治二十年から大正六年にかけて行われた室井平蔵氏による調査と昭和三年に建立された石碑によりあらすじが垣間見えます。
その後、昭和三十八年に義民の一人である界村兵左衛門が書き残したとされる名主文書が発見され、これにより御蔵入騒動の全容が判明し、絵入りの昔話として物語が確立されたようです。
つまり、物語の構成の拠りどころとされているのは兵左衛門の名主文書であり、この中で喜四郎に関する記載が多くあることから物語の中心に据えて描かれることが多くなっていると思われます。



また、喜四郎は南山領内→江戸→南山領内→宿屋小川屋潜伏中に逮捕、と移動していることから活動的に描きやすく、また坂本竜馬の寺田屋事件を思わせる逮捕劇に様々なエピソードを盛り込み易かったのかもしれません。
義民6人の中で喜四郎は唯一、代官所のある田島で打ち首になっています。
領民の見ている前で死んでいった喜四郎に皆の思いが惹かれていったのは自然なことかもしれません。



ただ、冷静に見てみると…
六義民の内、黒谷村儀右衛門、布沢村茂左衛門の2人は江戸で直訴途中で投獄されているので別として、御蔵入領内で資金調達をしていた4人の内、喜四郎以外の界村兵左衛門、新遠路村久次右衛門、滝沢村喜左衛門は江戸へ送られ、そして5人は江戸で打ち首となっています。しかし、喜四郎だけは江戸へ送られることなく南会津町田島の代官所で打ち首となっています。
なぜ喜四郎だけが?喜四郎は特別だったのか…

その理由は…、おそらく名主層と領民という格の違いだったのでは?
直訴が江戸の奉行所で審議されている間、領内の主要な名主は呼び出され聞き取り調査を受けていました。つまり、名主は奉行所の取り調べ対象であり必然的に刑罰を下す対象であったのでしょう。一方、領民はその対象ではなく代官所の管轄であり、従って刑罰を下すのも領民に対しては代官所が行う必要があったのではなかったか。。。

結果として、喜四郎は地元で打ち首となり、そのお蔭で英雄でありかつ涙を誘う対象として長く愛されることとなったのでしょう。



記念碑の近くには小さなお宮様。喜四郎の実家とされる家のすぐ近くでもあります。



その裏には小さな公園。。。すべて雪で埋まってます




ブラブラしていると地元のじい様登場!「何撮ってんだ?」「義民?この上の方さ墓があっけど、埋まってる。今頃来てはダメだべ~、ハハハハハッ(笑)」
義民と尋ねて直ぐに反応が返ってくるあたり、やはり地元では有名なのですね!
今頃来てはって…、ごもっとも!もう少し早く来ようと思ってたんですけどね~



昔ながらの木製の電柱、凍て付きます。。。









●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1その2

エピローグ





南山六義民の見た風景 プロローグ

2011年01月21日 06時28分32秒 | いにしえへの思い
南会津には江戸時代から永く語り継がれてきた「南山御蔵入騒動」という歴史物語があります。

そのあらすじ
「1720年(享保5年)の初冬、南山御蔵入の農民が年貢の引下げなどを求め、当時ここを統治支配していた幕府の代官に直談判!埒が明かないと見るや翌1721年(享保6年1月)、百姓代表15名(後に18名追加)が江戸へ登り幕府勘定所へ訴状を差し出した。
初めのうちは南山領内271ケ村が結束した行動を示したのですが、幕府側は地元の切り崩し策を図り、結局は1722年(享保7年7月)、『農民を扇動して一揆を策謀した』として、指導者と目される名主3名、百姓3名を斬首のうえ、見せしめのため田島鎌倉崎にさらし首にした。
しかし、百姓が差し出した願いは的を得ており、幕府は直轄支配から会津藩への預け支配に切り替えつつ、百姓の要求に沿った改善を行い、打ち首となった農民らの努力は報われたのでした。」
これを「南山御蔵入騒動」といい、犠牲となった6名は南会津の人々によって「南山義民」と讃えられています。


とまぁ、このあらすじは相当に短縮していますので、興味のある方はこちらをどうぞ→〝旧南会津郡役所HP〟

お代官様への一揆そして弾圧、という時代劇に出てきそうなストーリーですが、善悪二元論のハリウッド映画的には捉えたくはないので、少々調べるとなるほど面白い


まずは人口
1603年に江戸幕府がスタートしてから人口は増え続け、1713年にピークに達したようです。それから徐々に減少し天保の大飢饉で有名な1840年代に底を打ちます。その後は明治にかけて増加・・・
さて、南山御蔵入騒動は1720年に勃発!人口面で言えば最も人口がピークの頃に起こったといえます。
生産量が上がらなければ、当然食料には事欠く訳で、騒動の遠因かな~と素人考えを巡らせます
(参考文献:川口洋著「18・19世紀における会津・南山御蔵入領の人口変動とその地域的特徴」)



では生産量は?
南会津地方は平地が少なく、耕作地には恵まれていません。
お隣の会津藩石高23万石に対し、南山御蔵入領は5万石程度。。。
しかも、この頃は気象学的に「小氷期」と言われる低温期であったらしく、有名な天保の大飢饉があった1800年代程ではないにしろ、低温障害の稲が多かったことでしょう。
人口は過去最大、しかし農作物は冷害で不作と来れば、生活はキビシイ限り
(参考文献:「江戸時代の気候」



次に財政危機・・・
歴史の教科書でも有名な「徳川吉宗の享保の改革」!
享保の改革の目玉施策がスタートしたのは1722年以降のようですが、それ以前から「倹約と増税」による財政再建が始まっていたでしょうし、中央政府が出先機関である代官に税徴収の厳格化を強いたのは容易に想像できること!南山御蔵入領の代官も中央政府の手前、厳しい態度で望んだのかな!?とも想像できます。
本社の指示を実直にこなそうとする出先支店長の悲哀を感じます



深読みしすぎかもしれませんが。。。
赤穂浪士の討ち入りは1702年。御蔵入騒動の18年前です。いくら情報伝達が遅い世とは言え、当時の大ニュースが人伝では伝わっていたでしょう。騒動当初に『下郷の石窟に47人が結集し行動を起こそうと決意した』という下りを読むと、伝聞した人たちが多分に赤穂浪士を意識して脚色したことが伺えます。
まっ、南山義民たちがこの物語の影響を受けたかどうかは分かりませんが、〝決死の行動〟であることでは共通しています。
何より、こういった行動を受ける側が「もしやあんな事になったら!」と危機意識を強め、断固とした措置に出る事も考えられます。しかも相手が〝浪士〟でもない〝農民〟とくれば「○○の分際で!」と厳しさも一層高まるもの



最後に。。。
当時、税の徴収役として郷頭という役人が置かれていました。
他の地域では廃止された役職が南山御蔵入領には残されており、悪い事に郷頭の中には私腹を肥やす者もいたことから、この中間管理職的郷頭と地元代表の名主との摩擦はあったようです。
勿論、悪い郷頭もいれば農民側に立った良い郷頭もいたようですが。。。
広大で山々に隔てられた南山御蔵入領内を統治するには何らかの管理システムが必要だったでしょから、郷頭制度が残っていたというのも必要に迫られてのことだったのでしょうが、その役職を担う人格が問題だったのでしょうね!
まっ、〝システムは良くても人の資質による〟というのは現代にも共通する事ですが



これらを眺めてみると、人口や気象といった大きな流れに税制や人の資質といった人災が組み合わさって起きた不幸な出来事、と見えて仕方ありません
そんなことに思い巡らしつつも、行動を起こした33人、その中でも打ち首さらし首となり義民と呼ばれるようになった6人、彼らはどんな景色を眺めながら「やらねば!」と思ったのか


さらし首となった瞳にこの風景が映ったかどうか…
でも、山々はその時と同じように彼方にそびえ、月が流れ行きます。

イタリアの歴史モノ著書で有名な塩野七生氏は、著書の中で「歴史と地理は表裏一体であるというのが私の信念」と言っています。ボクも同感です!彼ら義民がどういう風景の中で生活したのか、それぞれの集落に立って、彼らの目線でそこから見える風景を見てみたい


プロローグが少々長くなりましたが、「南山義民の見た風景」シリーズのスタートです。
構想2年、草稿2ヶ月、なかなか文面がまとまらなかった企画ですが、興味のある方はお楽しみ下さい





●●●○○○  南山六義民の見た風景  ○○○●●●


プロローグ

喜四郎編(小栗山集落)
その1、 その2、 その3

久次右衛門編(新遠路(にとうじ)集落)
その1その2

喜左衛門編(滝沢集落)
その1、 その2

茂左衛門編(布沢集落)
その1、 その2

儀右衛門編(黒谷集落)
その1、 その2

兵左衛門編(界集落)
その1、 その2

エピローグ