そして時の最果てへ・・・

日々の雑感や趣味の歴史についてつらつらと書き並べるブログ

悪名もまた名なり

2008-03-30 11:33:01 | 雑感
この作りの安いHPを見て腰を抜かしました。

【モンスターファームオンライン】モンスターファーム調査班

さん、ハイ!




かなり規模の大きな会社が作った、夢のようにチープなページ。

何やってんでしょうか?


・・・と、ここで思い出したのが「平城京遷都1300年祭」マスコット。こいつ。


「ぶさいくブサイク」と祭りになればなるほど広報担当者はほくそ笑んでる気がします。いわゆる一つの「おいしい」ってヤツです。



彦にゃんに比べれば圧倒的に魅力がない。けれどもただ「目立ったモン勝ち」「釣られたモン負け」の広告の世界で、彼はGJと言えるでしょう。

だって、新聞の一面に載り、Yahoo!JAPANのトップにも掲載され、テレビでも特集を組まれたわけで。グッズも一部の「アレな人たち」(赤福や白い恋人の再開の際に行列を作ったような人たち)が「キモカワイイ」とか言って買うんでしょ?(投げやり)

これってすごいですよ。「悪名も名なり」ってアリストテレスも言ってたじゃないですか。「無難」だけれども誰も知らないワガ社のマスコット・NITTO君なんぞよりよっぽど名前を売っている。

そう考えれば冒頭で紹介した、ワタシのブログぐらいチープな
(;^ω^)ヾ(^Д^゜*)゜・。
HPは、広報担当者の深謀遠慮であり、こうして個人サイトで紹介しちゃったワタシは「一本とられた」ことになるのではないでしょうか?

資生堂のTSUBAKIがモノスゴイ金をかけて正統派のイメージ戦略を成功させましたけど、こちらはいかに安い元手で効果を発揮させるかの典型のような気がしました。

・・・いや、褒めすぎました。さすがにこういうのは嫌だな

今ワタシ酔っ払ってんのか?

2008-03-29 23:00:26 | 雑感
ふと気が付くと枕元が大変なことに・・・



空き缶13本(発泡酒)

学生時代からお酒の量が増えたのは経済的余裕なんでしょうけど、それでもまだ発泡酒なのは、ワタシが発泡酒好きだから(積極的選択)か、ワタシがビールに手が出せるほど裕福でない(消極的選択)かのどちらか。

で、結局どっちかって?

それは酒税が学生時代より高くなったからですよ・・・

ガソリン税はどうなるのかなぁ、フフフ・・・

ありがとうございました

2008-03-27 23:41:53 | 会社
4月1日付けで、1年以上お世話になった係長さんが異動なさいます。

なかなかに我とアクの強いオッチャンでしたが、仕事の進め方はまさしく超一流。院生時代にお世話になったドクターコースの先輩もスゴかったんですが、位相こそ違えど絶対値は同じくらいスゴイ人でしたね。とりあえず泣き付けば助けてくださった気がする。

で、今日(3/27)に壮行会を行わせていただいたんですが、その席でなんと婚約発表までしやがった!
( ゜Д゜)ホヘー

裏アンケート「開発部の中で結婚して欲しくない男」のナンバーワンに輝いてた人だったのに・・・
。゜(゜´Д`゜)゜。

飲み屋から出て花冷えの空の下、いつまでも絶えない人の輪の中の係長は、いつもよりもカッコよく見えましたよ。

独創的である!それだけ。

2008-03-26 23:26:43 | 雑感
チャップリンは「花はただ自身が『100%、120%その花であろう!』とすることにより、他の花にはない独創的な美しさを宿す」という趣旨の話をしたそうです。

平たく言えば、自分が自分であることというのは独創的であるということ。逆に捉えれば、自分の感じたことは常に周りとは違っていて、自分は独創的であることから逃れられないということ。

人間は安定的な価値観にすがりたくなる生き物である。それ故に「一般」とか「常識」という普遍の価値観を夢に見て「普遍的な価値」をでっち上げて、その価値観とは異なる「独創的であること」を潰そうとする。

歴史というのは普遍的と「呼ばれた」価値観と、独創的と「呼ばれた」価値観の相克であったと思います。普遍が勝れば爛熟に向かい、独創が勝れば革新が世の中を風靡する。独創は普遍によって異端であるとレッテルを貼られ指弾され、普遍は独創によって過去の遺物として価値を貶められる。

上に書いたことはまさしくヘーゲルの弁証法なんですけど、違う点は生まれながらにして独創的であるはずの人間が、いつの間にかテーゼを擁護する側に回ること。本来一人ひとり違うはずの価値観を共有化できたと「思い込む」ことによって、異端だと「決め付けた」価値観を批判すること。

この矛盾は相手を貶めることで相対的に自分の立場を上げようとする気持ちに根差しているような気がします。ワタシも、ワタシの人生を正論で否定された場合、たとえ自分が間違っていたとしても相手を潰そうとしてしまう気がします。
(´・ω・`) チイサイオトコダナ

ニュートンやライプニッツなんかも独創的だとは思うんですけど、お互いに罵り合ってて
ヽ(´エ`)ノ ナンダカナー
てな感じです。

そこへもってくると、劉秀や坂本竜馬、ファインマンなんかは、徹底的に自分が自分であろうとしただけで、他人など気にしなかった。そのことが逆に人を惹きつけてやまない原因なんじゃないかと。

わりと簡単な話なんですよ。独創的である!それだけ。

(あ、ライバルを頑張ってヨイショして、「そいつに勝ったオレちゃんってスゴイ!」という売り方をしたカエサルみたいな人もいますか。)

エラい!!!

2008-03-24 23:45:29 | 雑感
ある程度の大きさの「何か」を創り上げた人は、掛け値無しにエラいと思います。心の底からそう思う。

簡単だけどおいしい料理を作る人、拙いけれど一つの絵を描き上げる人、一つの製品を作り上げた人、あるいは一つの小説を書き上げた人。

ワタシはそんな人たちを本当にエラいと思っています。

ごはんを食べるとき、絵を眺めるとき、何かの製品を使うとき、そして物語を読むとき。どんなものであっても、そんな思いを直接言う機会はないけれど、いつもそう思っています。

大阪で暮らした学生時代に、一番好きになった言葉・音は「エラい」というものでした。

「エラい」と発音された音は、状況次第でたくさんの意味になります。例えば、「エラい早いやんけ」というように、この音は時に「とても」という意味になります。また、その「エラい」という言葉は時には「疲れる・しんどい」という意味に響くこともあります。例を挙げれば、「エラい目にあったわ!」という具合。もちろん、その「エラい」という音が「偉い」という意味に聞こえることもあります。同じ発音の「エラい」という言葉が、こんな多くの意味を持つ。

ある程度の大きさの「何か」を創り上げた人、あるいは、そこに伴う作業をワタシは「エラい」という音が持つあらゆる全ての意味において「エラい」と心から信じます。

「エラいエラい作業をエラいこと続け、ちゃんと形にするなんてエラいエラいなぁ」と思います。


論文を書き上げた卒業生の皆様。関西弁のイントネーションでお願いいたします。

アンタはエラい!!!

卒業式の日に見上げたもの

2008-03-24 00:46:04 | 雑感
ワタシは大阪の大学に修士も併せて6年間在籍したんですけど、修士の卒業式(正しくない言い方ですけどこう呼んでおきます)の日まで、吹田市の万博記念公園にある「太陽の塔」をじっくりと見たことがありませんでした。

何度か万博記念公園に遊びに行き、入り口からすぐの正面にドデカイのが立っているのを視界の端にとらえてはいたんですが、じっくり見たことがない。

と言いますのも、1981年生まれのワタシにとって、70年万博すらおとぎ話の世界でしかないからです。万博のシンボルたる「太陽の塔」も、物語に添えられたキャラクターでしかなかったのです。役目を終えたキャラクターは「玉手箱を開けた後の浦島太郎」のように過去だけを背負えばよく、それでもまだ在り続ける姿から、「時代にこびり付いた寂しい垢」なんだろう、と。

その日までワタシはそんな風に勝手に考えていました。

今からちょうど2年前の3月24日(だったと思います)。院の卒業式が終わって、帰りのモノレールの混雑ぶりが酷かったので、混雑を避けるため友人のY君と一緒に、式場からわりと近くにある万博記念公園へ時間つぶしに向かいました。

式に出た時のスーツ姿で、塔の手前でボンヤリと塔を眺めていますと、しかめっ面をしている灰色の顔と目が合いました。



白くてドデカイ身体、というよりも「肉体」と表現すべきフォルムは、そのもの自体には人間らしいところが無いにもかかわらず、よくあるブロンズ彫刻よりもよほど肉感を感じました。

ワタシが生まれる前からそこに在り、万博というイベントと切り離された後でもその物理的存在は揺らいでいませんでした。「そんな時代もあったよね・・・」という、過去の確認作業以外の価値が、確かにその塔は湛えていました。

伝統は、価値の変遷が築きます。

芸術は創られた当初から伝統を背負っていたわけではありません。宗教の道具として、権力者の栄華の象徴として、時代の熱情の表象として、破壊や憎悪の対象として、長い年月を経つつ、時代や文化の流れに応じて役割や意味を変動させてきたからこそ、現在まで生き延びてきたからこそ「伝統」という重みを身にまとったのです。もし一つの時代にとっての一つの価値しか持てないようなものであれば、その時代の終焉とともに滅び去っていたに違いありません。

変わり続けるであろう価値の視線に対し、様々な表情を持った太陽の塔は、一過性ではない長い文化の意味をワレワレに問いかけ、なおかつ自らも伝統になることの自負を示しているようでした。「伝統」は「伝統」として在るわけではなく、その瞬間も「新たな伝統」に変化し続けている事実を、太陽の塔は雄弁に語っているようでした。


ワタシが大学に入る前から太陽の塔はそこに在り続けていました。

さて、ワタシは先輩方から受け継いだ伝統を新しく作り変え、後輩達に伝えることができただろうか?青空の中どすんとそびえる塔を眺めながら、そんなことを考えました。
(少なくともその日の夜はどうしようもないダメな先輩だったなぁ)

それでもワタシの大学院卒業とは関係なく、太陽の塔はそこに在り続けているようです。


「太陽の塔」は、今、どんな表情をしているだろうか・・・。

近代と現代の差異

2008-03-23 10:38:26 | 歴史
5つ前の記事で、「個」に分解せず「衆」を「衆」のまま操るのが現代の技術の特徴だ、と書きましたが、これは自然科学だけでなく、社会科学の分野にも当てはまると思います。

その代表が社会学です。「近代」においては、ロックにしろルソーにしろ、まずは「個」の分析から操作を開始して、総合へと至ります。社会契約論はそういった分析的な知のあり方のまさに見本みたいなものです。

しかし、1897年に発表されたデュルケームの「自殺論」は、自殺の原因を個々の人間の心理から説明するのではなく、社会の特徴から人口に対する自殺を算定しようとしました。
「自殺論」はそういった「衆」を扱う知の見本と言えますが、そのような様式は1860年頃から「道徳統計」という形で集約されつつありました。社会学もやはり、「個」を析出せずに「衆」を操作する技術を目指したのです。

法学の分野では、「個」の析出を前提として組み立てられる「自然法」の発想が退けられ、「衆」を操作する技術としての実定法が前面に出てきます。行政学の発展と「社会政策」の登場も、「衆」を「衆」のままで操作することを目指しています。

熱力学において個々の分子の動きが無秩序であっても全体としての熱量を操作することが可能であるように、社会学や法学は個々人の動きが無秩序であっても全体としての統治と操作を可能とするような知を目指しました。憲法なんて、人それぞれに違う思想や利害関係を緩く、かつ上手いことまとめた職人芸みたいなものです。

ミシェル=フーコー(フランス語でFoucaultだと「フコー」と音写するべきか?)が言うところの「規律=訓練」型の権力は「個」の制御を通じた全体の統治を目指すものですが、「牧人司祭」型の統治は、おそらく一人一人の制御に関心を持つというより、羊の群れをひとまとめに扱うように、「衆」を「衆」のまま操作することを目指ものでしょう。


(完全に余談ですが、ワタシが大学時代勉強していた研究室は、高分子という「衆」を「衆」のまま扱う分野でありながら、分子量分布や立体規則性のバラつきといった「衆」の特徴を排除し、徹底的な「個」の析出にこだわっていたところでした。ハードをブラックボックスとしたままソフトの改良に取り組みがちな現代において、ハードの部分を真摯に見つめる姿勢を学べたことは、たいへん良い経験をさせていただいたと思います。)


結論として、もしも「近代」とは異なる歴史的なステージがあって、それが現在までも続いているとして、それを「現代」と呼ぶのだとしたら、その特徴は「衆」とそれを操作する知と技術の体系にある・・・と。どうですかね?書き出しと変わってない?
ヽ(;´Д`)ノ

これがフリーソフトだと!?

2008-03-22 08:55:40 | 雑感
フリーの対戦格闘ゲーム「キン肉マンマッスルファイト」



なつかしすぐる・・・デキがよすぐる・・・。
゜+。:.゜ヽ(*´∀`)ノ゜.:。+゜

少し調べてみますと、「2D格闘ツクール」という市販ソフト上で作られたものらしい・・・。
( ゜Д゜)ポカーン

これ、有料にしても絶対売れますよ!

ドラえもんの映画

2008-03-21 23:04:51 | 雑感
一つ前の記事でドラえもんの秘密道具のような付録のお話をしましたが、今日(3/21)はドラえもんの映画をテレビで放送してたので観ました。

( ;∀;) イイハナシダナー

23年の時を経てリメイクされた「ドラえもん のび太の新魔界大冒険 ~7人の魔法使い~」。基本的に原作をなぞってるんですが、満月美夜子の母親が娘の難病を治すために悪魔と契約して・・・などオリジナル要素も十分面白い。

ワタシが初めて単行本で原作を読んだのは、原作が公開されてから10年後の13歳の時。13歳当時でも、26歳になった今でも新鮮さを失っていませんでしたね。

ただ、美夜子の声優さんに迫力がなかった気がしました。調べてみると・・・この人か。


と、気が付くとワタシは美夜子よりもおそらく年上なんだなぁ・・・と、昔のび太くんだった自分を遠い目で見るワタシがここにいましたよ。
(´・ω・`)

20と6歳のワタシに

2008-03-21 22:10:31 | 雑感
昨日(3/20)の「スーパーニュース」で、「小学一年生」という雑誌の付録が紹介されていました。

その付録は「ドラえもん どこでも ゆびピアノ ドレミくん」というもの。手に取り付けるだけで、どこでもいつでもメロディを奏でることができる、ドラえもんからもらった「ゆびピアノ」。指先にスイッチを取り付けて、指先で何かを押したり叩いたりすれば、思った通りの音程を奏でることができる仕組みです。



この「ドラえもん どこでも ゆびピアノ ドレミくん」は「ちょうど20年前に、小学一年生だったワタシ」の心を、とても惹きつけました。500円玉と50円玉を一枚づつ掌に握り、近くの本屋さんへ行き、「小学一年生」を探しましたが、今月一日に発売された月刊誌ということで見つけることができませんでした。

小学一年生の子供でなく、二十歳も過ぎたワレワレにこそ、この「ゆびピアノ」は似合うと思う。 そんな気がします。

本屋さんで「小学一年生」を見つけたら、是非このチープな、そして「過去に夢見た未来」の音を奏でる楽器で遊んでみたいものです。

自然科学の近代と現代

2008-03-20 16:55:19 | 雑感
久々に歴史のお話。と言っても、今回はいつもの戦史ではなく科学史のお話をしてみたいと思います。


自然科学や社会科学において、近代と現代を分かつものって何なんでしょうか?いろいろ考えてみた結果、ワタシは「個と衆」なんじゃないかと思います。で、たいがいの分野において、19世紀が画期となり、20世紀前半で一つの形となるパターンが多い。

数学は、1874年カントールの集合論から始まり、ヒルベルトプログラムを経て、ゲーデルの不完全性定理(1931年)によって極大点を迎えます。

物理学では、ニュートンの古典力学とは異なる発想に基づく熱力学の領域を19世紀半ばから成熟させ、クラウジウスが1865年にエントロピーの概念を創出します。そして熱力学は、黒体輻射の問題を通して量子力学の起源となり、シュレーディンガー方程式(1925年)によって基礎付けられます。

化学の領域では、1828年にヴェーラーが尿素を人工的に合成したことによって有機物も炭素や水素、酸素などの集合であることがわかり、1920年にシュタウディンガーが高分子説を唱えるに至りました。

生物学は、1859年に「種の起源」が出版され、哲学の世界にまで激震を走らせます。ダーウィンの発想は染色体説を経て遺伝学や分子生物学の母体となります。

これら自然科学の展開を強引にまとめますと、知の対象を「個」に分解せず、「衆」を「衆」のまま操作する技術が確立する過程と言えましょう。

「近代」において知とは、「分析」と「総合」の技術であり、ある対象をこれ以上は分割できない最小単位まで「分析」することが、操作の基本でした。

しかし、「現代」の発想に「近代」と異なる特徴があるとすれば、知の対象から「個」を析出せず、「衆」のまま操作する点にあります。

「個」ではなく「衆」を「衆」のまま操作する技術は、自然科学だけではなく社会科学の分野にも及びました。そのことはまた次回お話します。