大学時代にお世話になった先生のブログで、こんな
論旨のエントリーがありました。
>理想像として人を尊敬するのなら、坂本龍馬を尊敬するのも、島耕作を尊敬するのも同じですわな...。
>科学上のモデルと同じように、「理想状態」は、実在する必要はないということがいいたかっただけなのです。
う~ん、さすがにシンデレラ(非実在)に憧れる人と、キング牧師(実在)を尊敬する人を同列に扱うのは乱暴だ、と思うのはワタシだけか?
('A`)
というわけで、ワタシが歴史に名を遺した偉人さんたちを好きな理由を分析してみました。
(どうでもいいですが、「歴史上の人物」という言い方は好きではありません。自分も歴史に参画している事実から目をそむけようとしてませんか?)
さて、歴史に名を遺した偉人と創作上のキャラクターの違いは、実際の人間社会に大きな影響を与えた点と、「生身の人間」である点。リアリティーが違います。
まず一点目。歴史に名を遺した人、特に民族のプライドやアイデンティーを守ったような人の場合は、その民族のDNAに尊敬の念が刻み込まれています。
日本では民族的英雄と呼ばれる人はいません(だから歴史に名を遺した人への尊敬が薄いんでしょう)けど、「13世紀の世界最強だったモンゴル人の侵略を撃退して領土を守り抜いた人」とか「黒人の権利を命を懸けて主張した人」などの場合は、実際に救われた人が大勢いるだけに、創作上のキャラクターと同列に扱うのはデリカシーがないと思いますよ。「民族の誇り」という合理的ではないけれども確実に存在する部分に障ることになりますから。
もう一点。その人が「本当にいた」ということ。凡人が言葉を失うぐらい輝かしい業績を遺した人でも、「自分と同じ」人間である。彼らも「自分と同じ」ように友情を温め、恋を語らい、悔し涙を流した。その「自分と同じ」という部分が、どれほど人々を勇気付けるか!
確かに先のブログにあった「理想状態」とやらは実在する必要はありませんけど、その「理想状態」が、ホントに存在した、っていうことがスゴくて、ウレシくてたまらないわけです。人間の能力の際限の無さを示し、そして自分も「理想状態」になれる可能性を担保してくれてますからね。
やっぱりでっち上げのホラ話ではなく、人間社会に大きな足跡を遺したという部分は説得力になるんですよ。
人間の歴史を綴ってきたのは、神ではなく人間。創作ではなく実在なのです。人間は笑って泣いて、悩んで苦しんで歴史を綴ってきた。そのことをたいへん尊いと思えばこそ、坂本龍馬と島耕作の間に存在する事実というものの重みを感じられると思います。
上の話、厳密に議論をするとヤヤコシイので別枠に書いてみますが・・・。
もちろん、シェイクスピアや司馬遼太郎みたいな作家とか、民間伝承によって神格化されているケースがほとんどですが。そしてこの「神格化された」という部分をどの程度重要視するかで態度が変わってくるでしょうね。
「イエスは当時の人々に魂の救済を与えた活動家である」というのも事実ですが、「生き返ったなんてホラ話くっつけて無理矢理神様に祀り上げたのは後世の人間でしょ?」というのも事実。ここに「事実と創作の曖昧さ」があって、イエスの純粋な業績や人間性を批評するのではなく、神格化され創作上のキャラクターに変わったイエスを批評する態度が生まれてきます。これが坂本龍馬を島耕作と同じ次元に近付けてしまうメカニズムですね。
ここはもうその人のよって立つ価値観なんですが、ワタシの立場としては、イエスのナマの業績や人間性は高く評価しますが、後の世に付け加えられた部分は余計だな、と思います。坂本龍馬本人は尊敬するけど、司馬遼太郎の書く坂本竜馬は嫌いだ、と。もちろんイエスの神性を肯定して評価する立場や、歴史的事実でなくとも文学的真実であり、それを理解したうえで(創作上のキャラクターとして)イエスを評価する立場だってあります。
でも、イエスをはじめとした歴史に名を遺す偉人さんたちを創作上のキャラクターに堕してしまっては「もったいない」と思うんですよ。やっぱり「現実にいた」っていうことに何かしら価値を見出してしまいますね。