そして時の最果てへ・・・

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近代と現代の差異

2008-03-23 10:38:26 | 歴史
5つ前の記事で、「個」に分解せず「衆」を「衆」のまま操るのが現代の技術の特徴だ、と書きましたが、これは自然科学だけでなく、社会科学の分野にも当てはまると思います。

その代表が社会学です。「近代」においては、ロックにしろルソーにしろ、まずは「個」の分析から操作を開始して、総合へと至ります。社会契約論はそういった分析的な知のあり方のまさに見本みたいなものです。

しかし、1897年に発表されたデュルケームの「自殺論」は、自殺の原因を個々の人間の心理から説明するのではなく、社会の特徴から人口に対する自殺を算定しようとしました。
「自殺論」はそういった「衆」を扱う知の見本と言えますが、そのような様式は1860年頃から「道徳統計」という形で集約されつつありました。社会学もやはり、「個」を析出せずに「衆」を操作する技術を目指したのです。

法学の分野では、「個」の析出を前提として組み立てられる「自然法」の発想が退けられ、「衆」を操作する技術としての実定法が前面に出てきます。行政学の発展と「社会政策」の登場も、「衆」を「衆」のままで操作することを目指しています。

熱力学において個々の分子の動きが無秩序であっても全体としての熱量を操作することが可能であるように、社会学や法学は個々人の動きが無秩序であっても全体としての統治と操作を可能とするような知を目指しました。憲法なんて、人それぞれに違う思想や利害関係を緩く、かつ上手いことまとめた職人芸みたいなものです。

ミシェル=フーコー(フランス語でFoucaultだと「フコー」と音写するべきか?)が言うところの「規律=訓練」型の権力は「個」の制御を通じた全体の統治を目指すものですが、「牧人司祭」型の統治は、おそらく一人一人の制御に関心を持つというより、羊の群れをひとまとめに扱うように、「衆」を「衆」のまま操作することを目指ものでしょう。


(完全に余談ですが、ワタシが大学時代勉強していた研究室は、高分子という「衆」を「衆」のまま扱う分野でありながら、分子量分布や立体規則性のバラつきといった「衆」の特徴を排除し、徹底的な「個」の析出にこだわっていたところでした。ハードをブラックボックスとしたままソフトの改良に取り組みがちな現代において、ハードの部分を真摯に見つめる姿勢を学べたことは、たいへん良い経験をさせていただいたと思います。)


結論として、もしも「近代」とは異なる歴史的なステージがあって、それが現在までも続いているとして、それを「現代」と呼ぶのだとしたら、その特徴は「衆」とそれを操作する知と技術の体系にある・・・と。どうですかね?書き出しと変わってない?
ヽ(;´Д`)ノ