そして時の最果てへ・・・

日々の雑感や趣味の歴史についてつらつらと書き並べるブログ

はなぢブー

2009-07-29 22:25:38 | 会社
「特定化学物質及び四アルキル鉛等作業主任者技能講習」というのを受けています。平たく言いますと、ヤバい化学物質を扱う職場で安全に仕事できるようなリーダーの資格を取るための講習です。

ヤバい化学物質関係のお話ですので、例えば水俣病とかイタイイタイ病なんかの事例も引き合いに出されるわけです。

そんな中で、
「ベンゼンを扱っていた工場の職員が造血器官に障害をきたし、汎血球減少症で死亡した」
とか
「ノルマルヘキサンを扱っていた工場の職員が末梢神経麻痺を起こした」
とか
「ホスゲンは毒ガス兵器として使用され、肺水腫を引き起こす」
とか、昔よく扱っていた薬品がでてきましたよ・・・。

当時から十分に危険性を理解していたはずです。

なのに、何だろう、この胸の中にジワジワと広がるやるせなさは・・・?


長身ハンサムが演じるゴリラについて

2009-07-26 20:36:40 | 雑感
香取慎吾が「こち亀」の両津さんのコスプレをして「うたばん」で歌ってました。

ジャニーズ事務所って、色とりどりのスイーツ(笑)を取り扱ってるお店だと思うんですよ。それなのに両津さんみたいな味噌田楽にスイーツ(笑)使って美味しくなるわけがないでしょうよ。

でも会社で働くようになって数年、営業さんの頑張りもある程度理解できるようになってきました。

以前までのワタシなら、
「バカみてー m9(^Д^)プギャー」
で終わりだったんですが、ジャニーズの営業さんが
「うちのスイーツ(笑)をサトイモの煮っ転がしに入れると美味しいかもしれませんよ!?」
と必死に売り込んだ(ジャニーズっていうバックグラウンドも使いつつ)、努力の結晶だとも考えられるようになってきましたよ。

でもそれで消費者が迷惑を被った例が「こち亀」とか「新撰組!」とか「ザ・クイズショウ」とかなわけで、甘いスイーツ(笑)を鍋に入れられちゃった、と。食べる人、作る人、素材本人の違和感がほったらかしにされちゃってるわけですよ。

ハンサムでスマートで、だからこそ似合わない役があるんですよ。

「こち亀」は好きな漫画なので、ジャニーズの政治力だとか、企画に詰まったテレビ局のサボりだとか、原作の投売りやってる集英社で穢されていくのは見るに堪えないです。

私的体験を公共言語で語る

2009-07-25 23:32:42 | 雑感
「奇跡の人」で哲学をやるシリーズ。

前回は「感覚を表す言語」に焦点を当てて考察を加えましたが、その結果、「感覚を表す言語」ってものすごくヤヤコシイものだということが見えてきました。

何でこんなことになってしまったんでしょうか?おそらく感覚などの「私的体験」を「公共言語」で表そうとするところに無理があったからではないでしょうか?

「みんなが『赤』と呼ぶ色」という『赤』の使い方と、「私が『赤い』と感じる色」という『赤』では、『赤』の意味内容が異なるのです。では、「私が『赤い』と感じる色」を他人に理解させることができるんでしょうか?それは原則的に不可能です。だって、その『赤』は私にだけ感じることのできる色なんですから。

では言語の公共性を捨て去り、私的言語で感情を語ることはできるんでしょうか?自分の中だけで通用する言語。

できることはできるんですが、やったところで意味がなくなります。

うん、ややこしいんですが、説明してみます。

公共性を捨て去ったということは、自分自身にしか使えない言語ということになります。で、赤い色を見て「これは私が『赤い』と感じる色だ」と言ったところで、世の中で自分以外の誰一人として、その言葉が正しく使われているか判定できないのです。となれば、同じシチュエーションに出くわして(赤い色を見て)、「これは私が『青い』と感じる色だ」と言ったところで、誰も「あなた、間違ってますよ」と言う筋合いがなくなります。

同じ感覚を違う言葉で言い表すことに矛盾が生じない、というのであれば、私的言語はもう言語ではなく、ただのうわ言に成り下がってしまうわけです。

私的体験は公共言語でも私的言語でも表現不能ということになってしまいました。

こ、これは困った。ヘレンどころかワタシまでもが感覚の表現をできなくなってしまったとういことでしょうか?

小牧大陣地帯の出現

2009-07-21 21:58:02 | 歴史
小牧・長久手戦役シリーズ。

羽黒の戦いの敗報に接した秀吉は、少なからず衝撃を受けました。勢いそのままに犬山城を奪い返されるようなことがあれば、今度は逆に織田・徳川連合軍が美濃へ侵攻して来る事になります。

3月21日、紀州で一揆勢が隙をうかがっている状況にもかかわらず、大坂に2,000だけを残し、秀吉は30,000の大軍を引き連れて犬山へ向かいました。

その翌日、早くも10,000を超える一揆勢が北上してきましたが、中村一氏、黒田孝高、蜂須賀正勝らの逆襲を受け惨敗。職業軍人と寄せ集め軍団の差がモロに出ましたね。これで紀州勢は侵攻能力を失い、畿内の戦況はほぼ安定しました。

3月27日に秀吉は犬山に着陣。29日には織田信雄と徳川家康が小牧に入りました。各陣営が防御施設を構築し、小牧から羽黒までの平野部は、いたるところに掻き揚げの土塁や壕がひしめき、大軍の運動には全く不適当な地形に変貌してしまいました。

かくして両軍合わせて100,000に迫る軍勢が至近の距離でにらみ合いながらも、双方が全く手を出すことすらできず、戦場には静寂が訪れるという特異な状況となったのです。

時間が経てば羽柴勢が伊勢平定を完了するかもしれませんが、逆に織田・徳川勢の健闘に長宗我部、毛利、佐々、北条が同調し始めると、羽柴勢は尾張どころの話ではなくなります。羽柴勢としては、そうなる前に相手の体制を崩し、決戦へ引きずり出す必要があります。

そこで考え出されたのが、別働隊による三河侵攻作戦でした。

都市伝説と同じレベルだと困るんです

2009-07-21 18:54:02 | 雑感
とうとう麻生総理大臣が伝家の宝刀、国会の解散を行いました。

抜けば玉散る氷の刃

抜けば錆散る赤鰯


麻生さん、実はそれほど失政らしい失政やってない?と最近思い始めました。だって、基本的に官僚に操られてるだけですから。

官僚って、ムズカシイ試験をパスしたアタマのイイ人間ですから、自分たちに都合のいいような政策をやってることに目をつむれば、官僚主導の政治の平均点は高いんですよ。官僚が自分たちに利益誘導するのを、ある程度我慢すれば、大外しはしない、と。で、そんな官僚に操られてた人形は、それほど失策をしていない、と。

ただまあアホの子ですから、曲がった口から曲がったことをこぼしちゃって、袋叩きにあう。別にあの総理大臣が曲がったこと言ったとしても、実際に政治をやるのは官僚達ですから、今思えばワラ人形を必死でボカスカ殴ってただけだったんだなぁ、と。


さて、民主党は政治家が行政をやる、と言ってます。そうすれば官僚のお手盛りをなくすことができます。が、今まで実質的に行政を担ってきた官僚にそっぽを向かれて、民主党は立派に機能する内閣を運営できるんでしょうか?

あの人たちはで「俺たちならできる」と言ってます。英訳すると「Yes we can」。

信じるか信じないかは、あなた次第です・・・。

まあそんなもんだよな・・・

2009-07-20 20:56:43 | 雑感
7/18・19と二日連続でカープの応援に行ってきました。

18は逆転して勝ったんですが(勝ち方に問題があったことはナイショです)、19日はヤクルトの石川にバッチリ抑えられて負けました。

二日連続で応援しに行って、2連勝したことがないんですよね。




資本主義と結婚

2009-07-16 23:01:14 | 雑感
なんだかよくわからないうちに結婚というシステムを考えるシリーズ。

前回は、結婚が「男性による女性の所有宣言」から「両性の幸福の追求」へと変化したことを指摘しました。

そんな結婚システムの変化によって結婚に与えられた価値観は、純粋に「人間同士が惹かれあって」というものだけでなく、社会的に「結婚するのが当然。結婚しないヤツは異常だ」という価値観までが混ざり込んでしまいました。

その原因が、ずばり資本主義。ミシェル・フーコー(「Foucault」だから「フコー」と音写するのが正しいかな?)が「生の権力」と呼んだメカニズムです。

旧来の権力とは、臣下・国民の生殺与奪権を握る抑圧的な「殺す権力」だったんですが、近代では生活水準や福祉などを向上する方向へドライブする権力へと姿を変えてきました。

資本主義の場合、社会を発展させるためには子供を増やし、十分な教育を受けさせて将来を託していくプロセスを繰り返す必要があります。

そんなわけで、資本主義は結婚を「正常」な家族形態とし、資本主義に資することのない家族形態は「異常」や「狂気」のレッテルを貼られ、「排除」や「抑圧」や「矯正」や「治療」の対象にされてしまったのです。

そんなわけで世のお母さん方は息子・娘に対して「早く結婚しなさい」と言い、独身者を税制その他で締め上げる社会が誕生しました。

以上が「結婚」という紙切れ一枚の絆に「頼もしさ」や「確かさ」を感じさせる理由になります。

意外とヤヤコシイ話なんですけど、結婚てこんなもんかと。

マジック

2009-07-13 18:53:21 | 雑感
7月12日にセ・リーグ首位の巨人が勝ち、4位の広島が負けたため、巨人にクライマックスシリーズ進出マジック55が点灯したそうです。

内海1失点完投で4勝!CSマジック55点灯!


・・
・・・

7月3日~8日の横浜、阪神(6位、5位)戦を5勝1敗だからと言って、3位中日に8連敗してたらクライマックスシリーズに行けないんですよ!



整備兵「80%? 冗談じゃありません! 現状で、CSへは100%出られません!」
シャア「5勝1敗じゃないか」
整備兵「あんなの飾りです。偉い人にはそれがわからんのですよ」

カエル

2009-07-09 22:12:42 | 雑感
今朝会社に行く道すがら、アマガエルが木の葉にデンと座っているのに出会いました。

生命力に満ち溢れた濃く深い緑の葉に、目が覚めるようなライトグリーンの体、更に鮮やかな光芒を放つまぶたの金色。

青蛙ぱつちり金の瞼かな (川端茅舍)

青蛙おのれもペンキぬりたてか (芥川龍之介)

夏です!!!

逆転スペクトル

2009-07-07 23:09:52 | 雑感
「奇跡の人」で哲学をやるシリーズ。前回は「自然科学だけでは世界を記述しきることは無理で、感覚、感性を記述する言語が必要ではないか?」という結論で終わりました。

感覚を記述する言語、ということで、とりあえず「赤いものを見て『赤い』と感じる」ことについて考えてみます。

さて、ワタシが「赤」と呼んでいる色と、あなたが「赤」と呼んでいる色は同じ色なんでしょうか?

いやいや、色盲とか色弱の方は、赤いものが赤いとわからず、実際上の滞りが生じるわけですけど、今回問題にしたいのは、赤いものを見て「赤」と言い、青いものを見て「青」と呼ぶ、普通の人です。会話のやり取りも普通にできるし、信号に従うことも不都合はない人。

でも彼が「赤」と感じた「感覚」をもしもそのままワタシに植えつけることができたら、ワタシはその「感覚」を「青」と呼ぶかもしれない、というもの。彼が「赤」と黄色を混ぜて橙色を作った場合、ワタシにはその「感覚」が、「青」と黄色を混ぜた緑だと感じる。こういうふうに、生まれた時から体系的に上手くずれている場合、日常生活ではまったく不都合が生じないわけです。

彼が「ヒリヒリする」という「感覚」をそのままワタシに植えつけると、それは「チクチクする」と表現するべき「感覚」かもしれません。こんなふうに、他人の知覚世界は自分の知覚世界と全く異なるかもしれません。

では赤いリンゴを見て「赤」と言いながらも、全く異なる知覚世界に住むAさんとBさんの二人が出合って、このことについて議論したとします。

A「このリンゴは何色に見えます?」
B「『赤』だね」
A「私も【赤】に見えます。それで、あなたの言う『赤』と呼ぶ色は何色ですか?」
B「は?」
A「ヘンな注文になりますけど、まともな日本語で答える場合、あなたが『赤』と呼ぶ色は何色なんですか?」
B「答えようがないなぁ・・・」
A「そんなことはありませんよ。あなたが『赤』と呼ぶ色は、つまり赤い色なわけでしょう。赤という日本語で正しく呼ばれる色が青かったら、それはマズイでしょう」

さて、複雑怪奇になってきました。感覚を表す言語って、なんだか非常にアヤシイものなのではないでしょうか?

羽黒の戦い

2009-07-05 18:25:04 | 歴史
小牧・長久手戦役、前回の続きです。

犬山を池田恒興に攻略されたという報を受けた家康は、伊勢戦線に投入する予定だった自らの軍勢を強引に北上させ、犬山の南、小牧の辺りまで兵を進めました。この家康の行動に対して恒興は、敵中に孤立してしまうのを避けるため、小牧確保を放棄して犬山にとどまることにしました。

これによって得た兵力的、時間的余裕は、織田・徳川連合軍の防御体制を著しく向上させることとなります。犬山口に橋頭堡を築かれてしまったものの、小牧山を確保できたことで、羽柴勢の尾張侵攻を頓挫させることに成功したのです。

何ともしまらない結果になってしまうことを焦った羽柴方の森長可は、犬山口の先陣を願い出ました。舅である池田恒興が独力で犬山を攻略したのに対し、初動で遅れた長可は功も焦っていたこともあり、犬山から4 kmも離れた羽黒に陣を張ってしまいました。

羽黒の地は策源である前哨拠点として、また羽黒川渡河点を扼した攻勢拠点として、戦略的にも戦術的にも重要な地点であり、羽柴方としては是非とも抑えておく必要がありました。

ただし、犬山にいる池田本隊・10000との連携は甚だ心もとなく、羽黒の森勢3000の救援にはとても間に合わない位置関係だったのです。

相手の不用意な兵力分散はすぐに家康の目に留まるところとなり、酒井忠次、榊原康政ら5000を北上させ、羽黒川を挟んだ森隊を攻撃させました。川越えの正面攻撃とはいえ、倍近い兵力差に圧倒された森隊は、遅れて到着した徳川本隊の側面攻撃で総崩れとなり敗走しました。

尾張での最初の野戦は、徳川方の水際立った勝利で終わったのです。

自由意志と結婚

2009-07-05 17:36:32 | 雑感
二つ前の記事で、結婚するとかしないとかの理由を考えていたはずが、知らない間に結婚と呼ばれる制度の枠組みを考えることになってました。もう自分でもよくわかりません。
ヽ(;´Д`)ノ

さて、結婚というシステムが今の形になったのはいつ頃か?近世まで日本もヨーロッパでも男尊女卑上等!の世界でした。奴隷と貧乏人と女性と異教徒には人権が認められてませんから。

現代の感覚尺度だとひどい話なんですが、女性をレイプした場合の罪は「処女を金持ちに高く売りつけようとした『親』」、もしくは「自分のオモチャを傷物にされた『夫』」への賠償という形で償わされていました。何度も言いますが、現代の価値基準では考えられないことが、近世までは常識だったわけです。

だからそれまでの結婚とは「男性が女性の所有者としなることを宣言する」のに等しかったわけです。

しかしフランス革命が起こる18世紀になると、「人間は誰しも自分のものは自分のもの」という自我の考えが流布されるようになります。カントの考え方を乱暴に解説すると、人間を肉体(感性界)と精神(可想界)の二つに分け、自分の肉体は自分の精神にのみ従うものであり、他人に肉体を支配されることはない、と。これが「自由意志」という考え方。

この理屈により、奴隷は理論的に否定されるようになり、レイプも自由意志に対する犯罪になるわけです。

そんなわけで、女性にも自由意志が認められるようになると、これまでの男性の所有のための結婚から、両性の幸福を追求するための結婚へとベクトルが双方向化しました。

・・・と、ここで話が終わればロマンチックな結論でオシマイなんですが、もう少しドライな背景も考えなければ正しい結婚制度像を把握できないので、それは次回に。