そして時の最果てへ・・・

日々の雑感や趣味の歴史についてつらつらと書き並べるブログ

科学とはロマンチックなもの哉

2008-01-31 22:30:09 | 雑感
Nikon Universcale

まず発想がスバラシイ。そして説明に夢が溢れています。

この完成度の高さは尋常じゃないです

是非一度ご覧になってください。

―そう、私たちは「果てしない物差し」を手渡されている。

人間臭い

2008-01-29 23:30:06 | 雑感
遠藤周作は、キリスト教の持つ最大の救いの能力は、聖書に描かれるゴルゴタを上るイエスであるとしています。

罪人として拷問の末汚れにまみれ、自分を磔る十字架を背負い、しかも衆人から激しい罵声を浴びつけられ、姿が歴史上もっともみじめな、しかし美しい人間であるイエス。
誰にも認められず、汚く惨めな自分を、どこまでも無限に傍らにいて見守る人、そらがイエス=キリストである

「神はワレワレを人間にするために欠点を与えた」

確かコレはシェイクスピアの言葉だったと思いますけど、(三位一体説での)神であるイエスも醜い姿を晒すことによって人間に救済を与えた。そう考えれば人間臭いですね。

そういえば旧約聖書の冒頭のカミサマも人間臭い。

6日間で万物を創世し、満足して7日目にお休みした。

全知全能のカミサマなら、あらかじめ出来上がるものは予想できたはず。それなのに満足したということは、意外と自分の計算や知性を超えたいいものができたからなんじゃないでしょうか?

全てを見通すカミサマが、自分の作品の出来ばえに満足しちゃう。「実はラッキーパンチでした」ってな白状を聖書のノッケからしているあたり、人間臭い。

カワイイ奴め

心と言葉 その8:もっと言葉を尽くすことで

2008-01-28 23:23:21 | 雑感
心と言葉を考えるシリーズ。今回で最終回。

ワレワレの心は宇宙の法則をも超えられるのではないかと思います。傲慢だと思われるかもしれませんが、それでもワタシはそうであると信じたいです。そして、ワタシがそう思うことを誰にも止められないし、決して罪とはならない。心とは何と自由なんでしょうか。

その一方、言葉って本当にもどかしいものです。考えごとをするのに言葉を使わなければならない時、本当にわずらわしく思ってしまいます。

言葉で表現するということは、心を区切る作業だと前回書きました。一つの感情を言葉にしたとき、その言葉に収まりきらないどれほどの感情が失われるのでしょうか。

デジタル時計が一秒一秒時を刻んでゆくとき、その一秒一秒の間に存在した時間をワレワレの認識は取りこぼしてしまいます。それと同じように、言葉と言葉の間に存在したあまたの感情を失っているんじゃないでしょうか?前回も書きましたが、「楽しい」という一言で十分な感情なんてあるでしょうか?「悲しい」と一言で表現できる悲しみなんてあるでしょうか?

サリヴァン女史がヘレン=ケラーに「water」という言葉を教えたとき、一つの世界が広がったと同時に、一つの世界を失ったんじゃないかとワタシは考えてしまいます。

子供に猫が「ニャー」と鳴くことを教えたとき、子供はそれ以降「ニャー」以外に猫の鳴き声を表現する手段を失うのではないでしょうか。「英語圏の猫」は「mew」と鳴き、一度たりとも「ニャー」などと鳴いた事はないのに・・・。

言葉は考え方を限定する。

それでも人間は、言葉の世界を愛さずにはいられない生き物のようです。人間は動物として生まれ持った感覚を失う危険を冒してまでも、言葉を使って生きる道を選びました。ワタシもそうです。それは、言葉が思考を限定すると同時に、言葉は思考の幅を広げることを知っているからではないでしょうか?

言葉を発し、言葉を受け入れることによって、人間の思考の世界はどこまでも広がっていきます。ワレワレは言葉を尽くせば尽くすほど、思考の力が増していることを知っています。

言葉は本当に考え方を限定する。しかし、その限定された世界を突破するのも、やはり言葉です。

言葉を尽くせば、宇宙の法則をも超越した「無限」たる心に限りなく近付くことができるのですから。

心と言葉 その7:言葉を尽くすことで

2008-01-27 17:55:42 | 雑感
心と言葉を考えるシリーズ。今回はいよいよ「言葉」が登場します。

ツマンナイ小説とスバラシイ小説の違いって、どこにあると思いますか?

その指標の一つとして、「表現力」がありますよね。

一番極端に言いますと、「楽しい」とか「悲しい」とか。そんな一言で十分な感情なんてあるか!?

しかしスバラシイ小説を読んでいると、自分自身がその小説の登場人物となり、その小説の中の風景を直截に見聞きし、ほぼ同じ思考回路で「楽しい」や「悲しい」を感じられます。適切な言葉を十分に尽くすことで、登場人物の感情をほぼ正確になぞる事ができます。

ワレワレは普段、「何となく」楽しいや悲しいを感じています。例えばハラハラと降る雪を見て、素朴で牧歌的で、子供の頃に感じたままのウキウキした気分になることもあれば、叶わなかった夢、実らなかった恋などと儚い雪を重ね合わせ、切ない気分になることもあります。

では―

何で楽しいと感じたんですか?
何で悲しいと感じたんですか?
何でおいしいと感じたんですか?
何でそんなに頑張ってるんですか?
何でそんなにあの人のことが好きなんですか?

こういったことを、ふと我に返って説明しようとしたとき、完璧に説明できる人なんていない。

でも!

適切な言葉でもってその時の感情を限りなく正確に描き出すことは可能です。普段はそんなことをいちいちしていられませんが、説明することは可能。

降る雪を見て何らかの感情をもった。それを無限回の説明でもって解説し、その時の感情に限りなく近づくことは可能。ほら、ワタシがA君とB君の追いかけっこのときに説明した「可能無限」によく似ていませんか?

「心」という無限を説明し、ぼやけた輪郭をハッキリと浮かび上がらせるためのツールが「言葉」。今のところワタシの考えはこういったものです。

心と言葉 その6:心は実在するか

2008-01-26 18:08:52 | 雑感
久々に更新、心と言葉を考えるシリーズ。今回は「心は実在か?」ということを考えます。

さて問題。「心って何?」と尋ねられたら、あなたはなんと答えますか?

「魂」とか「精神」のように答える人、要するに「心」というものがお皿やパソコンのように実際に存在すると考えている立場ですね。プラトンのイデア論は魂、デカルトなんかは精神を実際に存在すると主張する考え方。こういう「心は身体と独立して存在する実体だ」という主張は実体二元論と呼ばれています。

もう少し風呂敷を広げますと、唯心論というのがあります。一元論的な唯心論というのは、言わば「この世の中は心が見せる『幻影』にすぎない」という主張。自分に手足があると思い込んでいるのは心がそう錯覚させているだけだ!というわけ。

・・・もちろんそれぞれの主張は偉大なる思想家たちが説得力のある説明をつけていますけど、ここでは乱暴ですけど紹介しません。とにかく「心は実体として存在する」と主張する人は少なくないのです。

しかし科学が進歩してロボットという「物体」を考えるようになると、心は実体であるという主張はなかなか難しいかな、と。

鉄腕アトムやドラえもんのような「心を持ったロボット」の「心」は、プラスチックや金属なんかでできた「物体」ですよね。物質を組み合わせただけで「心」が出来上がる。「心」は「物体の状態」に還元できる。こうなると「心は実体である」という考え方は間違っているわけです。

「ロボットの『心』なんて、所詮人間の『心』とは別のニセモノだ」という主張をされる方は、どこがどう違っているのか説明する義務が発生します。金属やプラスチックの塊であるロボットの「心」はニセモノで、肉の塊である人間の「心」はホンモノだ、とはこれいかに?その違いにこだわるのは単なる思い込みや偏見の類であって、そういう考え方がアトムを泣かせているのです。

以上のような考え方で、ワタシは「心は実体ではない」と考えます。次回は
・「心」は無限に分割して解説することは可能
という点を説明したいと思います。

木になる

2008-01-26 14:30:10 | 雑感
今週ずっと更新してませんでしたね。
ヽ( ゜д゜)ノ┌┛)`Д゜)・;’

風邪がひどくて仕事が忙しくて、そしてまた風邪が悪化して・・・の負のスパイラルに陥ってブログどころではなくなってました。
ィャマッタク(´⊿`)ゞ

ようやく仕事が一段落して布団でのびのびのび~~~~ってやって幸せを噛み締めちょる26歳です。
(´ι _` )

復帰一発目はどこぞで見かけて木になってしょうがなくなった洗脳ソング


日立の樹

さてと、もう一回思考の森に出掛けてきますか。

アダマガイダイ

2008-01-19 21:07:48 | 雑感
風邪の状態がひどいっす。

頭痛い、目がシパシパする。

朝起きたとき、マクラカバーに乾いた鼻水がこびりついていたのを見て
「死んだほうがマシか?」
と考えてしまいました。

ハードが熱暴走してて、ソフトが正常に動作しません。哲学してる場合じゃない。ビールを飲む気にすらならない。

外に出る気力するらありませんでしたので、なぜかアマゾンで5冊本を買ってしまいました。

心と言葉 その5:心は無限である

2008-01-19 20:58:52 | 雑感
心と言葉を考えるシリーズ。今回いよいよ心を考えます。

「心」って、無限だと思うんですよ。

何を言ってるかと言いますと、ワレワレがその気になれば宇宙を創造することもできますし、大好きな人と一つになることもできる。恐いモンなし。心は自由であることを「無限である」と表現したのです。

では実無限か、可能無限か?ワタシは可能無限だと思うんですよ。
(↑この一言のためにワタシは四の五の書いてきたわけですか・・・)

もちろん無限と心は違うものですので、この二つの考え方以外に心のとらえ方は存在します。推論の筋道がいきなり飛んでしまっています。それでもワタシは可能無限に非常によく似ている、と思っているわけです。

可能無限によく似ているというからには、
・「心」は実在しない
・「心」は無限に分割して解説することは可能
を説明しなければなりません。

以上2点を次回から説明していきます。今現在、ワタシは風邪ひいてズビズバな状態なので、哲学的思考に耐えられそうもありません。ですので今回はこれで。

ついでなので「無限」のお話

2008-01-17 22:41:20 | 雑感
一向に「心と言葉」に触れていない心と言葉シリーズですが、ここまできたら思い切り数学側に寄り道してみましょう。

まず無限級数のお話。ゼノンのパラドックスで出てきた数列の級数は
S = 1/2 + 1/4 + 1/8 + ・・・
 = ∑(n=1から∞まで)2^-n
 = 1
でした。

一方、高校などで0.9999・・・ = 1というものもあります。これも級数で書き表すと、「10進数」という数の表し方を思い出して、
S = 9/10 + 9/100 + 9/1000 + ・・・
 = 9*∑(n=1から∞まで)10^-n
 = 1

よく似ていますね。というのも、S = 1/2 + 1/4 + 1/8 + ・・・だって「2進数」で書き表せば
S = 0.1111・・・
ですから。

参考:Wikipedia「0.999...」


続いてε-δ論法のお話。

(どうでもいい話ですが、大学時代に誰かが「ε-δ論法は難しすぎて憎しみすら感じる」と言ってた気がします。誰だったかなぁ。)
(´_ゝ`)

ニュートンやライプニッツが編み出した微積分学ですが、高校数学で習う
f'(x) = lim(Δx→0) [{f(x+Δx) - f(x)} / Δx]
なんて数式、厳密に「無限」を考えた人からすれば、
「Δxが無限に0に近いって何だ?都合のいいところでは『Δx = 0』と考えちゃうくせに、Δxで割り算するときは『Δx ≠ 0』と平気な顔して言うつもりか!?」
というふうにたいへん怪しい話。「どんな数よりも(絶対値が)小さな数」とか「どんな数よりも(絶対値が)大きな数」というものを、四則演算できる実数のシステムに入れてしまうことが不自然に思えることをゼノンのパラドックスで見てきました。この「実無限」の考え方はウヤムヤなまま19世紀を迎えます。

この問題を解決したのがカール=ワイエルシュトラス。解決策はその名も「ε-δ論法」。

lim(x→a) f(x) = b
これを日本語に翻訳しますと
「xが無限にaに近付くとき、関数f(x)はbに収束する」
で、さらに意訳すれば
「xがaに無限に近付く」→「|x - a|がキチンと選んだ数δよりも小さい」
「関数f(x)はbに収束する」→「|f(x) - b|がテキトゥに選んだ、0より大きい数εよりも小さい」
で、二つあわせて
「|x - a|がキチンと選んだ数δよりも小さいならば、|f(x) - b|がテキトゥに選んだ、0より大きい数εよりも小さい」
εはテキトゥに選べるので、考えられうる限り(0より大きく)小さな数を選んでやりましょう。それでもキチンとδを設定してやれば|f(x) - b|< εになるんです。

ほらね、「無限」という言葉がなくても極限の存在を示せるのです。・・・その代わりに出てきたのが「考えうる限り」という言葉。ここが「実無限」と「可能無限」の違いになるわけです。limは実無限的な極限、ε-δ論法は可能無限的な極限と言えるでしょう。

こうして直観的なライプニッツ流の極限はε-δ論法に駆逐されました。・・・しかし現代数学では「Non-standard analysis(超準解析)」という考え方により再び厳密に定式化されています。その「超準解析」とは、「今の数学のルールそのものを変えちゃって『無限』も数になっちゃうような新しい数学の世界を作っちゃいましょう!」というもの。

ない物は創ればいい!

この「無限」のフロンティアスピリットをもった数学は、現在「数学基礎論」として発展し、計算機科学などに応用されています。

心と言葉 その4:実無限と可能無限

2008-01-16 21:58:30 | 雑感
心と言葉を考えるシリーズ。今回は「無限」というもののとらえ方について。

前回

1:A君がB君に追いつくことと、自然数を数え終わることは本当に意味的に等しいのか?
2:自然数を数え終わることは本当に不可能なのか?

という考え方の道筋の例を示しました。今回は具体的な解決の方策の例を示します。

まず2の考え方ですが、自然数の遥か彼方に「無限」は確かに存在すると考えます。これまで運動を無限回の足し算に置き換えて議論してきましたが、この考え方では無限回の足し算の遥か彼方に確かに1という数字が存在する、と言い切っちゃうわけです。無限回の足し算は、人間には不可能ですが、「神様」なら可能なんじゃない?と考えるわけです。

この「無限」に対する考え方を「実無限」と呼びます。

当然、説得力を「神様」とやらに求めているあたり、スンナリと受け入れられない気がします。

一方、1の考え方とは、競走をビデオにとってコマ送りしながら「今A君は最初にB君のいた地点に到達して、B君はその間に少し前に進んで、A君が再びB君のいた地点に到達して、やっぱりB君はその間に少し進んでいて、A君は・・・」と無限回の運動の「解説」をすることはできる、というものです。

「無限回の解説?やりたきゃ死ぬまでやってろ!」
(^A^)オー ヨチヨチ ヨカタネー
とA君が捨てゼリフをはいてB君に追いつき、追い越していく、と考えます。ビデオの解説と実際の競走は別物。解説が無限回できることは、A君がB君に追いつけない理由にはならないでしょ?

この「無限」に対する考え方を「可能無限」と呼びます。

一見すると見事な発想の転換で矛盾を切り抜けたようではありますが、この考え方ではいろいろ困ることが出てきてしまいます。例えば円周率・πなどの無理数が数字ではなくなってしまうのです。

どういうことかと言うと、πは「無限小数」であり、3.14・・・と「無限」の小数が続いていきます。実無限の立場なら、「人間は有限桁までしか正確な値を把握しえないけど、神様なら完全に正確な小数の列を知ってるんじゃね?」と言うんですが、可能無限の立場なら「人間の努力によってπの値をどこまででも正確にしていけるけど、それは有限の範囲に収まっちゃうから、本当の円周率とは微妙に違うよね」ということでπをはじめとした無限小数は、実は数ではない、と。

以上紹介した2つの「無限」に関する考え方をまとめますと、

実無限
A君は無限回の作業をやり遂げることでB君に追いついた。つまり小さな運動の無限の積み重ねで追いついた。
数学の言葉で言うと、無限個の点のがまず最初にあり、それを寄せ集めると線になる。
可能無限なんて本当の無限じゃない!

可能無限
A君はB君に追いついた。それに無限回の解説をつけることは可能。もちろん追いついくために解説など必要ない。
数学の言葉で言うと、線がまず最初にあり、それをいくらでも細かく分割できる。
実無限なんてただの妄想に過ぎない!

ニワトリが先か?タマゴが先か?平たく言うとそんな感じでしょうか。

心と言葉 その3:数学と哲学

2008-01-15 23:36:53 | 雑感
心と言葉を考えるシリーズ。今回は数学と哲学の関係性について。少しだけ数学を離れます。

前回

A君がB君に追いつくことと、自然数を数え終わることは意味的に等しい。

自然数を数え終わることは不可能

よってA君はB君に追いつくことは不可能

という三段論法を示しましたが、このお話はどこか間違っています。でないと、B君より速く走っているA君はB君を追い抜けないという、おかしな結論が正しいことを認めなければなりません。

ではどこが間違っているのか?こういう場合、
1:前提が間違っている
2:推論の道筋が間違っている
3:結論が正しい(←たとえ感覚的におかしくても)
と考えます。で、上の三段論法をもう一度眺めてみますと、
1:A君がB君に追いつくことと、自然数を数え終わることは本当に意味的に等しいのか?
2:自然数を数え終わることは本当に不可能なのか?
3:A君はB君に追いつくことは本当に不可能なんじゃね?

実は3だった・・・という立場の人もいますが、ここでは紹介しません。基本的に1か2の立場の人が多い・・・、ということは、この「不思議な話」が考えだされてから2400年ほど経ちますが、実はまだ未解決であるということ、3が少数派だから間違っているわけではないこと、に注意してください。

なんとなく「一意的であるはず」の数学に、複数の立場が存在することの気持ち悪さを感じませんか?数学の中に「解釈」が入り込む余地があり、そのことによって「解答」が揺れてしまっては「受験数学」は成り立ちません。

しかし、元々数学は高度に抽象的であり、「解釈」をめぐって激しく論争が繰り広げられてきた学問分野です。今では当たり前に使われている「複素数」という概念ですら、その「生理的な嫌悪感」を完全にぬぐい去られたのは19世紀に入ってから、という(今となっては)信じがたい事実があります(だから「複素数平面」の別名に、19世紀の数学者・ガウスの名をとった「ガウス平面」という呼び名がついてるわけです)。

数学と哲学がしばしば一体となるのは、抽象的な概念を、徹底的に厳密な議論を武器に論じる学問、という部分が共通しているからでしょうね。

さて、今回は「上記三段論法のどこに間違いがあるのか?」という問題提起だけで終わります。ですので、お時間のある方は少しだけ考えてみてください。