そして時の最果てへ・・・

日々の雑感や趣味の歴史についてつらつらと書き並べるブログ

別の生き物なんだ!

2008-06-30 21:22:40 | 雑感
ヒトの遺伝情報を担うのが染色体で、ヒトは23対・46本の染色体を持っています。1本の染色体は、さらに数多くの遺伝子から形成され、遺伝子はさらに数多くの塩基から形成されています。人はおおよそ2万7千個の遺伝子を持ち、それを塩基数にすると、全部でおおよそ33億弱ほどになります。

46本ある染色体のうち、「男」と「女」はそのうちの1本だけ違います。男女で違う染色体が持つ遺伝子の数は78個で、塩基数にすると5100個になります。だから、「男」と「女」の間で違う塩基の割合は、5100個/33億個=1.6%の遺伝子情報の違いがあることになります。

ところで、ヒトとチンパンジーの染色体間で違う「塩基数」はおおよそ5.3%ほどだ、という話があります。ということは、あなたと「(あなたから見た)異性」の間の遺伝情報の違いは1.6%で、あなたと「チンパンジー」の間の遺伝情報の違いは5.3%ほどになる、ということになります。

だから、あなたが「異性」との間で「違い」、「違和感」を感じた時などは、「あなたと異性の違い」は「あなたとチンパンジーの違い」の1/3くらいにも相当するのです。

つまり、目の前にいるのは「人間っぽいチンパンジー」なんです!ワタシが女性を理解できないのはそういう理由なんです!!

・・・え?
「オマエがチンパンジーに近いんだろ?」
ですって?


(1.6%や5.3%という違いは、塩基で数えたものです。違う「遺伝子」の数で計算すると、あなたと異性の違いは0.3%しかなく、あなたとチンパンジーの違いは83.1%にも達します。あんまり真に受けないでください)

山崎決戦

2008-06-29 23:54:17 | 歴史
六月十三日、円明寺川を渡河しようとした摂津衆に対する明智軍の猛射によって山崎の戦は幕を開けました。

摂津衆や四国遠征軍が過半を成す羽柴軍は、どうしても寄せ集めですから秀吉の采配が届かず、平押しに押し出したのが仇になりました。なまじ人数が多かった池田隊は隘路の出口にて進退窮まり、小部隊指揮官として名を馳せた池田恒興の叱咤も空しく撃退されてしまいました。ヘタレてます。


光秀はこの機に反撃に転じます。右翼はなだらかな北麓から天王山へ向かって進軍、左翼は天王山と円明寺川に挟まれた狭隘な平坦地に羽柴勢を囲い込みます。一方の羽柴勢は、険阻な天王山南麓の地形に阻まれて軍勢を展開できずにいました。

戦況はまさに光秀の狙いどうりに進みました。明智軍右翼が羽柴軍左翼の中川隊を圧迫し、間隙を生じさせた瞬間に予備兵力の旗本精鋭部隊を投入してこの戦いで完勝する!

しかし、光秀はその好機を活かす事ができませんでした。明智軍左翼が円明寺川沿いに羽柴軍右翼を押しつぶした結果、羽柴軍右翼が川手からすり抜けて明智軍左翼の後方に回りこんだ形になってしまったのです。

この穴を塞ぐ為に光秀は予備兵力を投入しようとしましたが、ここで予備を使い果たしてしまっては、天王山での決定的な勝利を得ることが不可能になります。この局地戦で勝利を収めたとしても、羽柴勢を壊滅させられなければ、光秀は遠からず負けてしまう。

そしてこの躊躇の間に、事態は急速に悪化してしまいました。側背を衝かれた明智軍左翼が壊走し、その衝撃が全体に波及した明智軍は予備兵を投入する間もなく総崩れになってしまいました。

光秀は逃亡中に近郷の一揆に討ち取られます。こうして光秀の「三日天下」はその幕を閉じたのです。

宝塚記念

2008-06-29 22:24:36 | 雑感
宝塚記念とりました。



やっぱりGⅠを4勝してるメイショウサムソンの軸は外せませんでした。

で、対抗馬は馬場が重いということで先行馬をチョイス。

・・・なんで馬単にしなかったかといいますと、「ジョッキーが武豊」だったからです。

どうも武は後ろからの競馬をしたがるクセがあります。菊花賞をダンスインザダークで差しきってからですかね?ディープインパクトと同じ乗り方をして届かず2着や3着に甘んじるイメージがワタシには強かったんですよ。ディープと同じ乗り方したらだめですって!

ここまでくると天才

2008-06-28 23:27:12 | 雑感
宿泊先から更新。

のび太名言集:アルファルファモザイク

>1037 あ :2008年06月25日 17:30
もう川に身投げしようとまで思ったんだけど、泳げないの思いだしたからやめた。

↑これが一番w


のび太のセリフに妙な説得力を感じてしまうワタシは廃人?・・・いや、きっと天才の仲間入りをしたんだ!
( ´゜д゜)ノシ(´゜д゜`)ヾ(゜д゜`)

アリストテレスとフレーゲ

2008-06-28 12:44:45 | 雑感
ようやく仕事に一段落付きましたよ!
゜+。:.゜ヽ(*´∀`)ノ゜.:。+゜

というわけで、先週にやると宣言してから放置していた論理学シリーズ。最初は命題論理と述語論理について。

・・・と言っても、ゼロから説明できるほどワタシが理解しているわけではありませんし、それほど暇でもありませんから、歴史的背景を軽く触れる程度に。
(ノ゜∀゜)ノ ┫:。・:*:・゜'★,。・

論理学を最初に体系付けたのはアリストテレスです。紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の家庭教師だった人ですね。

アリストテレスは記述文から
1.文の基本形は「主語 + 述語」である
2.文は肯定と否定という二つの質を持つ
3.文は「すべて」と「ある」という二つの量を持つ
という三つの本質を抽出し研究を重ねました。

その結果アリストテレスは、18世紀の哲学者にして人間知性の歴史に不朽の足跡を遺したイマヌエル=カントにこう言わしめるほどの業績を遺します。

「論理学がもっとも初期の時代からこの確実な道を歩んできたことは、アリストテレス以来論理学が一歩たりとも後戻りする必要がなかったことから明らかである。(中略)さらに、この論理学が今日まで一歩たりとも前進できずに来ており、それゆえ、どの点をとっても完結し完成されたものとなっているように思えることも、注目すべき事実である」
(純粋理性批判、1787)

つまりアリストテレス以来2000年間、あんまり論理学は進歩を見なかった学問だったんですよ。

しかし、アリストテレスの築いた「伝統的論理学」にはいくつも問題がありました。
1.文単位で形成される「命題論理」と、単語単位で形成される「名辞論理」が統一されていなかった
2.極度に一般化されていたため、「太郎は花子が好きだ」のような固有名とその関係を自然に扱えなかった
3.「すべて」と「ある」で表される「量」が複数含まれる「多重量化文」が扱えなかった

こうした限界を乗り越え、ほぼ独力で新たな論理学の地平を開いたのが、ゴッドロープ=フレーゲでした。彼の処女作「概念記法」(1879)により、これら伝統的論理学の問題点を克服する「命題関数」というアイデアが提起されるに至ります。

命題関数の考え方を簡単な例で示しておきますと、
「xは食器である」
という命題関数のxに、
箸、スプーン、お皿、コーヒーカップなどを代入 → 真
ペン、シマウマ、偶数、「食器」という単語などを代入 → 偽
(「食器」という単語でご飯は食べられませんね)

集合論風に書きますと
食器の集合 = {x|xは食器である}
箸、スプーン、お皿、コーヒーカップ ∈ 食器
ペン、シマウマ、偶数、「食器」という単語 |∈ 食器
(「元として含まない」ことを表す記号が入力できませんでしたので、「|∈」でかんべんしてください ヽ(;´Д`)ノ)

わりとシンプルな考え方ですが、命題関数を複雑に組み合わせることで、アリストテレス以来残されていた課題がすべて解決されます。

この体系が「述語論理」と呼ばれ、論理学の世界に革命を起こすこととなりました。アリストテレスの業績を2000年後にフレゲーが定式化させた。こうしてフレーゲは「アリストテレス以来の最大の論理学者」という称号を与えらました。

さらにフレーゲは数学を論理学の言語で記述しようと試みます。数学から論理の部分を抽象化し、数学を寸分の疑義も発生しない厳密な体系へと昇華させようとしたのです。

フレーゲは1903年に出版した「算術の基本法則」によって、「数学を論理学に基礎付ける」という仕事を完遂した・・・ハズでした。

しかし本の印刷が終わろうとしていたその時、バートランド=ラッセルから一通の致命的な手紙が舞い込むこととなります。

緊要地放棄戦術

2008-06-22 22:35:07 | 歴史
長々と背景を説明してきましたが、いよいよ山崎での決戦の時が近付いてまいりましたよ。
+   +
  ∧_∧  +
 (0゜・∀・)   ワクワクテカテカ
 (0゜∪ ∪ +        
 と__)__) +


山崎は南を淀川で遮られ、北には天王山の山すそが張り出し、狭隘な地形を縫うように街道が走っています。しかも対岸には男山が北に向かって張り出し、淀川の屈曲部を形成しています。ここを東に抜ければ街道が分岐し、川も淀川から木津、宇治、桂に分離します。典型的な隘路で、京都の南西の天然の関門。山崎は陸路・水路ともに分岐点を控えた戦略・戦術上の要です。

もっとも、投射兵器の射程が短い当時では、天王山の東麓(円明寺川方面)への影響は微々たるものでしょうが、南麓の山崎方面へは桂川に向かって宝寺付近で大きく湾曲する西国街道を側撃することが可能であり、天王山占拠の戦術的な効果は、南麓に前哨線を設置することによって摂津側に発揮されるものでありました。

だもんですから、山崎で西から攻め寄せる軍勢を迎え撃つのは、京都防衛のセオリーとして確立されていました。山崎の拠点で敵を足止めし、丹波や河内方面から迂回させた別働隊に後方を撹乱させる。戦力が同等以上であれば、まさに必勝パターンと呼べるものです。
(足利尊氏戦で、防衛線を山崎に設置すべしとの楠正成の言を聞き入れなかった後醍醐天皇は、敗れるべくして敗れたんですね・・・。)

しかしそれは同等以上の兵力を有するという前提のもの。想定していた以上に劣勢に追い込まれた明智光秀にとっては、敵の後方を撹乱できないまま持久戦となることは、決して上策とは呼べないものでした。「中国大返し」によって時間的余裕を奪われ、柴田勝家や徳川家康の動きにも警戒しなければならない光秀としては、なんとしても秀吉のほうから攻めかかるように仕向ける必要に迫られたのです。

前回述べましたとおり、山崎や岩清水八幡の兵を撤退させていますが、これこそが秀吉を釣り出すための方策でした。隘路での直接防御を放棄することで、秀吉を誘い出そうとしたのです。

一般に
「これで光秀の戦術的優位は失われた」
と評価されていますが、緊要地放棄戦術は決して後ろ向きなものではありません。放棄した天王山は羽柴勢の迅速な展開を妨害し、足並みを乱します。天王山への羽柴勢の展開が遅れれば、その出鼻を挫いて一挙に山頂を奪還し、そこから攻め下って羽柴勢を前後に分断することだって可能です。

先述の通り、天王山は南麓に対してせり出した地形であり、比較的なだらかな北側から奪還するのは容易でした。光秀が決定的勝利を得るための唯一の、そして最も確実な方策は、この後手からの包囲殲滅戦だったと言っても過言ではありません。

かくして羽柴方の摂津衆が天王山山頂を制圧しました。これが後世に「天王山争奪戦」と脚色されて大袈裟に喧伝されたものです。

山頂を制圧した中川清秀隊や山麓を迂回した高山重友隊は、さらに進んで勝龍寺城南方を焼き払った後、天王山周辺へ兵を引いています。池田恒興隊もこの段階までに川手の出撃位置につき、この狭い回廊の出口には、摂津衆だけで既にいっぱいになっていました。

この状況で明智勢が逆襲に転じていれば、おそらく摂津衆は大敗を喫し総崩れとなっていたはずですが、光秀は自重してより大きな機会を待ち続けます。小さな勝利の積み重ねで羽柴勢の動揺を誘うという方策もありましたが、このとき光秀はたとえ戦術的な冒険であったとしても、羽柴勢全体の息の根を止められる決定的チャンスに固執しました。仮に摂津衆を撃破したとしても、無傷の羽柴勢に持久戦へ持ち込まれては、時間を奪われた光秀に最終的な勝ち目はなかったのです。

光秀は唯一の、そして最大限の勝利を手にする機会にすべてを賭け、ひたすら待ち続けました。

一撃必殺。それだけが光秀の生き残る道だったのです。

人間知性の限界?

2008-06-20 21:39:06 | 雑感
論理学を勉強していると必ず行き着く「不完全性定理」というものがあります。

これ、
「人間知性の限界を示した」
なんて評されることもあるんですが、なんかワタシは違う気がします。

個人的な考えをまとめるためにも、これから不完全性定理について考えようかと。

でもそうなると、歴史と論理学の2本立てという、モノスゴク敷居の高い、誰も読まない文字の羅列がディスプレイに氾濫することになりそうですね。

みなさん、さようなら
(。・ω・)ノ゛

誰が上手いこと言えと

2008-06-20 00:06:10 | 雑感
昨日(6/18)に八王子まで出張行ってきましたが、電車の旅のせいで沈静しかけてた風邪が再度悪化しました。

咳が止まらない、頭が痛い、顎の関節が痛い!?

顎関節が痛い、なんていう症状は初めて。だからと言って会社休めないほど忙しい。どうなっちゃうんだろうか・・・


そんなわけで一発ネタ。

食パンマンの顔は何枚切りなんですか? -Yahoo!知恵袋

ベストアンサーに選ばれた人のセンスを、ワタシは全力で尊敬したいと思います。

筒井順慶の豹変

2008-06-16 19:19:10 | 歴史
本能寺の変後、明智光秀はしばらく安土城にて近江衆の再編や近江防衛のネットワーク形成に時間を使います。

後世の歴史家はこれを「時間の空費」と評価する向きが多いんですけど、柳ヶ瀬、海津、水口、不破関を支配し、柴田勝家の南下や、日野城で抵抗する蒲生賢秀・賦秀(後の氏郷)親子、伊勢の織田信雄などを最小限の兵力で封じ込むために必要不可欠です。「動きが遅い」というのは単なる結果論に過ぎません。

さて、六月八日、光秀は河内の四国遠征軍を葬るべく、長浜に入れた斉藤利三を呼び戻すとともに、大和の筒井順慶がよこした国人衆を河内へ先発させます。自身は居城の近江坂本城へ一旦帰った後、九日には入京しています。

とここで、光秀にとって思いがけない方向へ事態は推移します。細川藤孝と筒井順慶の離反。

細川藤孝は、光秀が足利義昭に使えていた頃からの僚友であり、信長に仕えてからは最有力の与力であり、娘の玉子(後の細川ガラシャ)を藤孝の息子・忠興に嫁がせた縁戚でもありました。そのため光秀は細川親子の参陣に異常なまでに固執し、細川親子への再考を促す書状は、さめやらぬ衝撃と悲痛なまでの執着が滲み出た、余りにも情けない内容になってます。
(´・ω・`)

とは言うものの、若狭にいる細川親子の離反はそこまで重要なことではなく、河内侵攻の先駆けとして計画に組み込まれていた筒井順慶の豹変ほうが、戦略的にはよほど致命的でした。京から河内へ進軍する際、大和から側面を衝かれてしまっては話になりません。

明けて十日、光秀は洞ヶ峠(今の枚方市のあたり)へ陣を進めましたが、順慶は応じようとしません。光秀にすれば、河内侵攻を順慶封じ込めの包囲作戦に修正するかどうかの分水嶺にあり、いやでも慎重にならざるを得ませんでした。翌十一日まで順慶を待つとともに、順慶の北上に備えて南山城の諸城を強化させています。

しかし順慶の動きを封じた上で河内に進軍するだけの時間は、既に光秀には残されていませんでした。

羽柴秀吉の尼崎入城!

順慶の離反も秀吉の動きを察知していたからでしょうし、これまで中立を保っていた高槻の高山重友、茨木の中川清秀は秀吉方へ走ります。秀吉が光秀から奪った「時間」はあらゆる局面で光秀を追い詰めることになりました。

この凶報に接した光秀は河内での作戦を放棄し、下鳥羽へ帰陣。さらに山崎や岩清水八幡に配置していた兵まで撤収させ、完全な守勢に移行しました。この状況での積極攻勢は、腹背に敵を受ける極めて危険な事態を招く可能性が高かったからです。

光秀は戦術レベルでも、秀吉と順慶、およびその他の勢力の各個撃破を選択せざるを得ない状況に追い込まれてしまいました。

リアルに「姫様」なわけだが・・・

2008-06-15 23:20:09 | 雑感
ネットで大人気「眞子様萌え」! 宮内庁は困惑気味? ネタりか

>ネット上に“眞子様萌え”が広がっている。

( д) ゜゜

いや、正真正銘の「お姫様」への素朴な憧憬・・・というわけでもなさそうですね・・・。


叱られるの覚悟で書きますけど、もし秋篠(若)宮悠仁親王が夭逝して皇位継承問題が再燃した場合、今上天皇の孫の代として、愛子親王に次ぐ継承順位2位(になる可能性が高い←現在は女性天皇を認めてないので)なんですよ。眞子内親王は。

ワタシの個人的な考えとして、
「万世一系を貫いてきたんだから、男系が途絶えたら潔く皇室を畳んでしまってもいいんじゃない?」
と思ってます。

もちろん、特別な地位を認めることによって、「日本人」という一体感を強めたり、外交の飾り窓となってもらったり、言葉を掛けられた人が勇気付けられたり、とメリットもあるわけですので、積極的に「なくなってしまえ!」と願ってるわけではないですよ。

圧倒的に皇室の継続を望む声が多い現在、もし皇位を継承したときに、本人とは無関係なところで
「サブカルチャーの垢にまみれた」
と評価されちゃったら、わざわざ特別な地位を認めてありがたがる価値がなくなってしまうなぁ、と。

研究室にて

2008-06-15 21:43:59 | 雑感
昨日(6/14)、ワタシの出身研究室に調べ物させていただきに参りました。

たいして面識もないオッサンのために、忙しいところ対応くださってありがとうございます。
m(_ _)m

就職先も決まって前途洋洋な若者達の前で、さびれたオッサンのくたびれた愚痴で耳を汚してしまったのは心苦しい限り。

でもまあ、お話をさせていただいたのは研究室を牽引していくM2の方々でしたが、自分の事だけでなく周りがちゃんと見えているようでしたので。

孫氏曰く
「彼を知りて己を知らば、百戦して殆うからず」

卒業まで意外と日数がないのと、後輩のみなさんのためにも、頑張ってくれい。

同情してどうする・・・

2008-06-14 13:19:40 | 雑感
秋葉原連続殺人事件の犯人に同情する論調をチラホラ見かけます。特に派遣労働者の待遇とからめて論じられる場合に多いですね。

しかしワタシは彼を、「格差社会の被害者」扱いするのは違和感があります。

この事件の原因を公的に「派遣」という労働形態に求め、この事件がキッカケで派遣労働されている方の待遇が改善されるの方向に向いたとすれば、犯人は一種の英雄的存在となっちゃいます。殺人やテロリズムにプラスの影響を付与することは、模倣犯を誘発することになっちゃいます。
「俺が犠牲になって世の中を変えてやる!」
こんなナルシストを増やしちゃダメです。

派遣労働の雇用環境を改善することは必須でしょうが、少なくともこの事件をきっかけにすべきではない。

それに、正社員ならこんな事件起こさなかった、なんて確証がありません。

もし本当に犯人が自分の職場を憎んでいたならば、矛先は工場長やトヨタ本社、派遣元に向かうべきなんですが、それをせず自分のテリトリー(秋葉原)から抜け出すことをしなかったのは、原因が職場ではなく、彼の内面にあったと考えるべき。

25歳で何の努力もせず自分の未来を勝手に悲観した、ってのは外的要因よりむしろ「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」による内的要因でしょうよ。

ニュースが繰り返し流されることにより、彼の境遇や心境に、親近感や同情を持つ方が出てきても不思議ではありません。しかし一番、同情を寄せるべきは、被害者とそのご遺族。ここは忘れてはいけないと思います。

派遣社員の方々に対し、明るい未来を想像できる雇用制度をつくる。それは異論ありませんが、それを今回の事件とくっつけて議論することは「筋違い」だと思いました。