つれづれ日記

心と目の記録

第二次世界大戦がはじまって

2008-11-18 11:31:11 | Weblog

昭和16年、6年生の夏休みの楽しい絵巻を描いた数か月後、12月8日に大東亜戦争が勃発、(後に世界大戦と呼ばれる)日本は世界一強い国だと洗脳されて育った私たちの生活は一変しました。
翌年に米軍機が来襲し、昭和18年に、戦局が苛烈になると女学生にも学徒動員令が下り、19年の8月に私達3年生は昭和飛行機工場に動員されました。
会社ではダグラス輸送機を作り従業員が15000人の大工場です。
私の職場は倉庫で、鉄材や鋼管などを注文書をみて寸法を合わせ、旋盤で切る作業でした。一番太い物で直径80センチもありましたが、普通は鉄や鋼管で5センチ以内の棒で、倉庫に収められた棒を梯子に登って引き出し担いで降りて旋盤で切ったのです。真冬でも部屋には火の気は全くなしです。
私は19年の暮に疎開したので分かりませんが、19年になるとみんな寮に入れられて、工場ではヒロポンを飲まされて徹夜作業をしたと聞きました。
28年後に当時の青梅寮で再会した時に集めた文集が纏められ、1975年に出版されました。(写真の本)
私たちは毎日家を出る時から、日の丸を中心に「神風」と書いた鉢巻をし、配給されたスフの男用のカーキー色の職工服を着て、腕に「学徒隊」の腕章をつけていました。
空襲警報が出ると作業をやめて防空壕に入ります。
いつ死ぬかも知れないし、帰る家が焼かれているかも知れないのに皆冷静に生きているのですから肝が据わっていたのではなく、人間は状況に麻痺していたのかもしれません。
毎日、会社の試験飛行士が落ちて死んだとか、会社の2000トンプレスに挟まって工員さんが死んだとか聞いても平気だったのですから。
十数校の中学生女学生総数2700人以上が動員され働いていたのです。
飛行機の部品を作る板金工の仕事をしていたクラスメートが、ジュラルミンを切断するときに指を切り落としてしまいました。西高の生徒は手首から切り落としたとかの話のほう衝撃でした。
2004年の同期会で、60年ぶりに昭島市の昭和飛行機工場を訪問し、まだ残されている広い建物などを見て一同何とも言えない胸の痛い感動に駆られました。
14、15歳の子共達が飛行機を作っていた日本・・・・