草莽崛起 ーPRIDE OF JAPANというブログがあります。地方議員の有志の方が編集されているようです。そこに、素晴らしい記事が載っていたので、是非とも取り上げさせて頂きます。
「佐世保市小六同級生殺害事件に思う 」
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-date-20050627.html
(当該文章は、少し下がったところです)
全文抜粋すると、かえって敬遠されてしまいそうなので、私の方でなるほど、と思った記述を取り上げてみたいと思います。
>共同体破壊思想と戦後教育の目標とは結びつくはずがないと誰しも
>思われるであろう。しかし、共同体意識なき民主主義、つまり
>国家意識なき民主主義は、自己中心主義しか生まないのである。
>むしろ、彼女は、戦後教育の最優秀児童なのである。
この下りは、私が「これのどこが軍国主義なの?」という記事で述べたことと、言葉こそ違いますが同じ趣旨のものだと思われます。
民主主義というのは、卑近な言い方をしてしまえば「俺にもよこせ」という発想が根底にあります。だから、「みんなのために何かをしよう」という気持ち(上の文章だと「共同体意識」)が欠けてしまうと、ブレーキのない欲望という名の列車(すいません、元ネタが古いです)になって、しまいには「脱線」してしまうのでしょう。
佐世保の事件は、「自分の邪魔になるものは殺してしまえばいい」という、究極に利己的な発想から出ているような気がしてなりません。
>感性とは他と共鳴する力である。その大本は、母親と子どもの
>深い絆から育まれる。深い愛情の下で育てられた子どもは、
>母親を慕い、自分の子どもを愛情深く育む。感性は、他からの愛情を
>受け入れ、他に愛情を施す力といえる。
これも的を射た発言ですね。父親には、権威になることは出来ても、母性的な愛情というものはどうしても出せません。だからこそ、自分にないものを持っている女性というものを尊敬できるのだと、最近は思うようになりました。
しかし、日教組やこういう「女性」団体の手に掛かると、上のようなごく当たり前の発言も「女のシャドーワークを押しつける差別発言だ!」とか、「子育てを母親に押しつける男性優位の偏見が生み出した妄言だ!」などという罵詈雑言の対象になってしまうのでしょう。
馬鹿というのは、どんなときも同じ物差しで測ることしかできない人間のことを言うのでしょうね。
>三十数年前のゲバルト学生による革命運動を思い起こすと
>よく理解できる。彼らは自由・平等・平和を叫びながら、仲間を
>粛清していったのである。そこには、共同体意識がなかった。
>仲間意識と言ってもよい。同じ仲間であるとの意識がなく
>個人の尊厳を守れば、自由も平等も平和も自己中心主義に陥る。
この下りを理解するには、連合赤軍あさま山荘事件(詳しい情報は●こちら)というものを思い浮かべれば十分でしょう。
社会から切り離された「本当の自由」というのは存在しないのです。だからこそ、職場で、クラスで、地域社会で、もっと大きいレベルで言えば日本という国で、我々は仲間というものを持ち、そのつながりによって自分が何者かを確認しながら生きているのです。
そういうものを「本音の付き合いじゃない」「汚い」「こんなのは俺じゃない」などと言って捨てようという傾向があります。歌の歌詞などには、そういった歌詞が氾濫しています。そういう一種の純潔主義が高じて、「ひきこもり」や「ニート」というものが生まれたわけです。
戦後教育の洗礼を受けてしまった日本人が学ばなくてはならないのは、他者の存在を抜きにした「自己実現」というのは存在しないという、ごく当たり前の事実を、子どもにきちんと教えることなのではないでしょうか。
そのために、一番簡単なのは、
日教組がやっているような戦前の日本を
否定するような教育をやめること
です。
日本が進出した地域の抵抗運動ばかりデカデカと取り上げ、歴代の
政治権力が全て人民を弾圧したかのような印象を与える歴史教科書。
(この話題と言えば、やはり●このサイト。日教組の「検閲」についての
記事は必見)
学習指導要領を無視し、「平和教育」「反戦教育」と称する日本の悪口
ばかりの左翼思想を子どもに刷り込む(日教組・全教の)偏向授業。
(例えば、●こういう阿呆教員の授業)
まともな内容を掲げる教科書の採択を妨害しようとする、
偏執狂的で悪質な妨害運動。
(詳しくは●こちらのブログの9月2日の記事をご覧ください)
子どもの教育と全く関連が無く、誰のためにやっているのか
首を傾げたくなるような反日本的国際交流。
(たとえば、●こういうイベント。主催者をご覧あれ)
こういった(日教組の)馬鹿な行動を、直ちに是正すべきです。自分の国を嫌いな人間が、その国の将来についてきちんと考えるわけがないのはもちろんのこと、死ぬまで逃れられない「日本人である」という事実を否定し、自己嫌悪に陥ることがあまりにも多いからです。
かくいう私も、ごく最近やっと「日本に生まれてきてよかった」と思うようになり、急に精神的に安定した経験があります。
日本が好きだからこそ、建設的な批判ができるのです。私も決して天の邪鬼や悪のりで日教組を叩いているのではなく、子供のためなどと吹聴して嘘ばかり付いている偽善者の集まりが許せないからです。ですから、
これからも遠慮なく日教組を叩きまくります。
それでは、本日はこの辺で。
「佐世保市小六同級生殺害事件に思う 」
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-date-20050627.html
(当該文章は、少し下がったところです)
全文抜粋すると、かえって敬遠されてしまいそうなので、私の方でなるほど、と思った記述を取り上げてみたいと思います。
>共同体破壊思想と戦後教育の目標とは結びつくはずがないと誰しも
>思われるであろう。しかし、共同体意識なき民主主義、つまり
>国家意識なき民主主義は、自己中心主義しか生まないのである。
>むしろ、彼女は、戦後教育の最優秀児童なのである。
この下りは、私が「これのどこが軍国主義なの?」という記事で述べたことと、言葉こそ違いますが同じ趣旨のものだと思われます。
民主主義というのは、卑近な言い方をしてしまえば「俺にもよこせ」という発想が根底にあります。だから、「みんなのために何かをしよう」という気持ち(上の文章だと「共同体意識」)が欠けてしまうと、ブレーキのない欲望という名の列車(すいません、元ネタが古いです)になって、しまいには「脱線」してしまうのでしょう。
佐世保の事件は、「自分の邪魔になるものは殺してしまえばいい」という、究極に利己的な発想から出ているような気がしてなりません。
>感性とは他と共鳴する力である。その大本は、母親と子どもの
>深い絆から育まれる。深い愛情の下で育てられた子どもは、
>母親を慕い、自分の子どもを愛情深く育む。感性は、他からの愛情を
>受け入れ、他に愛情を施す力といえる。
これも的を射た発言ですね。父親には、権威になることは出来ても、母性的な愛情というものはどうしても出せません。だからこそ、自分にないものを持っている女性というものを尊敬できるのだと、最近は思うようになりました。
しかし、日教組やこういう「女性」団体の手に掛かると、上のようなごく当たり前の発言も「女のシャドーワークを押しつける差別発言だ!」とか、「子育てを母親に押しつける男性優位の偏見が生み出した妄言だ!」などという罵詈雑言の対象になってしまうのでしょう。
馬鹿というのは、どんなときも同じ物差しで測ることしかできない人間のことを言うのでしょうね。
>三十数年前のゲバルト学生による革命運動を思い起こすと
>よく理解できる。彼らは自由・平等・平和を叫びながら、仲間を
>粛清していったのである。そこには、共同体意識がなかった。
>仲間意識と言ってもよい。同じ仲間であるとの意識がなく
>個人の尊厳を守れば、自由も平等も平和も自己中心主義に陥る。
この下りを理解するには、連合赤軍あさま山荘事件(詳しい情報は●こちら)というものを思い浮かべれば十分でしょう。
社会から切り離された「本当の自由」というのは存在しないのです。だからこそ、職場で、クラスで、地域社会で、もっと大きいレベルで言えば日本という国で、我々は仲間というものを持ち、そのつながりによって自分が何者かを確認しながら生きているのです。
そういうものを「本音の付き合いじゃない」「汚い」「こんなのは俺じゃない」などと言って捨てようという傾向があります。歌の歌詞などには、そういった歌詞が氾濫しています。そういう一種の純潔主義が高じて、「ひきこもり」や「ニート」というものが生まれたわけです。
戦後教育の洗礼を受けてしまった日本人が学ばなくてはならないのは、他者の存在を抜きにした「自己実現」というのは存在しないという、ごく当たり前の事実を、子どもにきちんと教えることなのではないでしょうか。
そのために、一番簡単なのは、
日教組がやっているような戦前の日本を
否定するような教育をやめること
です。
日本が進出した地域の抵抗運動ばかりデカデカと取り上げ、歴代の
政治権力が全て人民を弾圧したかのような印象を与える歴史教科書。
(この話題と言えば、やはり●このサイト。日教組の「検閲」についての
記事は必見)
学習指導要領を無視し、「平和教育」「反戦教育」と称する日本の悪口
ばかりの左翼思想を子どもに刷り込む(日教組・全教の)偏向授業。
(例えば、●こういう阿呆教員の授業)
まともな内容を掲げる教科書の採択を妨害しようとする、
偏執狂的で悪質な妨害運動。
(詳しくは●こちらのブログの9月2日の記事をご覧ください)
子どもの教育と全く関連が無く、誰のためにやっているのか
首を傾げたくなるような反日本的国際交流。
(たとえば、●こういうイベント。主催者をご覧あれ)
こういった(日教組の)馬鹿な行動を、直ちに是正すべきです。自分の国を嫌いな人間が、その国の将来についてきちんと考えるわけがないのはもちろんのこと、死ぬまで逃れられない「日本人である」という事実を否定し、自己嫌悪に陥ることがあまりにも多いからです。
かくいう私も、ごく最近やっと「日本に生まれてきてよかった」と思うようになり、急に精神的に安定した経験があります。
日本が好きだからこそ、建設的な批判ができるのです。私も決して天の邪鬼や悪のりで日教組を叩いているのではなく、子供のためなどと吹聴して嘘ばかり付いている偽善者の集まりが許せないからです。ですから、
これからも遠慮なく日教組を叩きまくります。
それでは、本日はこの辺で。