
画像の男性の方は山口良治さんという方です。名前は知らなくても、少し説明すれば、「ああ、『スクール・ウォーズ』の人ね」という反応が返ってくるひとです。
「スクール・ウォーズ」(くわしくはこちらのサイトをご覧ください)というドラマは、ある高校ラグビー部が、荒廃の中から立ち上がり、やがて全国制覇を成し遂げるようになったという、実話に基づく学園ものドラマです。私は小学生の時、このドラマを土曜の9時に見るのが本当に楽しみでした。ラグビーも面白いのですが、先生と生徒の人間模様が(オーバーですが)とても心を打つのです。大人になって、DVDで見ても感激します。
そのモデルになった元伏見工業高校のラグビー部監督にして、元ラグビー全日本代表の名フランカーが、山口先生なのです。
山口先生の話は、それこそ本も沢山出ているので、それをご覧になるといいと思います。私は、教育者としての山口先生について、印象に残ったエピソードをいくつか取り上げてみたいと思います。
まずは、伏見工業に赴任した年度に行った校門での服装検査があります。
山口先生は赴任してしばらく、思うようにラグビーを教えることもできず悶々としていたことがありました。しかし、「教師として全力を尽くそう」と思い立ち、次の朝から校門での服装検査を始めたのです。
思いついたらすぐやるというのは、素晴らしいことです。そして、通りかかる生徒の服装を注意するという簡単にやれそうなことを始めるというのも、さすがという感じがします。
校内改革うんぬん、といって会議を開いてああでもないこうでもない、というのもいいのですが、そういう話し合いをすると必ず理由を付けて「できない」と言い出すバカが出てくるものです。そして、そのバカを説得するために、せっかく出てきた案がどんどん修正されてしまう。これでは、何のために会議をやっているのかわかりません。
思い立ったら、自分の出来そうなことを、すぐにやる。そして、小さい成功を収める。それが、大きな物事につながる自信になるのです。
校門での服装検査を始めて3週間ほどで、校則違反の服装は激減したそうです。山口先生が教師として活動していくとき、この体験は大きな自信になったでしょうね。
そして、もうひとつ素晴らしいのは、校門に立って声をかけることで、生徒の存在を認めてやったことです。
いじめられるとき、一番辛いのはなんでしょう。悪口を言われたり、蹴られたりするのもいやですが、一番きついのは絶対に「無視」です。なにしろ、自分の存在を認めてもらえないわけですから、それが続けば自殺してしまうのもわからなくはありません。
服装に文句を付けるというのは、不良の生徒からすれば「いちゃもん」には違いなのですが、それでも何もしないで素通りするよりは、絶対に気分がいいはずです。声をかけてもらえなかれば、自分から因縁をつけるしかないのですから・・・。
これに似たことで、私が極めて重要だと考えているのは「あいさつ」です。
最近の子供はあいさつもしないし、何かあっても「すいません」と言わないのでけしからん、という人がいます。その通りだと思います。
しかし、よく考えてみてください。子供が日常生活で大人から「おはよう」とか「こんにちは」と声をかけられる経験に乏しかったとしたら、そもそもあいさつなどする気になるのでしょうか。あいさつをしない原因は、周囲の大人があいさつをしていないことである可能性が高いです。だいいち、「近頃の子供は」などと言っている人は、自分から声をかけているのでしょうか?(私は、必ず自分から生徒に「こんにちわ」と言います)
あいさつは、大人からしなければダメなのです。声をかけてもらって、存在を認められた経験が多ければ、子供は自然にあいさつをするようになります。それでもあいさつしてこないなら、「おまえも、あいさつぐらいしろ」と言ってやればいいのです。それも立派な社会教育です。
そもそも、大人の側があいさつなんて馬鹿馬鹿しいと思っているから子供もやらなくなるのです。そういう大人が多すぎるのです。金にならなければ、目に見えた効果が出なければ・・・さびしいことですね。
先の話で服装の違反が激減したのは、山口先生が一人一人に声をかけたということと無縁ではないはずですし、先生が本気で服装を改めさせようと思っていたからこそ、その思いが通じたのではないでしょうか。何事も、真剣にやらなければ相手に通じないのです。
すごいな・・・と思った話は、親の前で泣きながら生徒をぶん殴った話です。
親御さんが止めに入ると、山口先生は「話してきくような子だったら、こんなことになるか。あんたは黙ってみていろ」と言い放ったそうです。
その後、その生徒はだんだん真面目になっていったといいます。
もちろん、生徒を殴ってしまうことがいいことであるはずがありません。しかし、それにも関わらず山口先生はやってしまったわけです。なぜ、手が出てしまったのでしょうか。
子供の面倒を見ていると、こいつのこの言動は絶対に許せないと思うことがあるはずです。私だったら、人の話を聞こうとしないことや、理由もないのに他人をバカにすることです。
そういう場面を見ると、このままこの子は悪い方へ落ちていってしまうのではないか、という危機感を感じてしまうのです。そして、それがも、手の着けようもないワルの生徒だったら、殴ってでも止めさせなければならない・・・きっと、山口先生はそう思われたのでしょう。
こういうことを言うと、必ず「体罰はいけない」とか「子供を対等の人格として扱わなくてはいけない」と、言い出す大馬鹿野郎がいます。
そんなことを言ってのうのうとしていられるのは、その子のことはどうでもいいと思っていて、面倒くさいことはしたくないと思っているからです。
自分の愚かな振る舞いに気づいていない子供は、崖から落ちそうになっているのと同じです。そんなとき、いちいちみなさんは119番に電話して「今子供が崖から落ちそうになっています」などと言いますか?なりふり構わず助け出さなくてはいけないと思いませんか?人の話を軽んじる態度や、他人を平気で傷つける行為は、小さいことのように思えますが、それと同じなのです。
山口先生が、こんなことをおっしゃっています。
「子供の立場に立つ」教育とか子育てということが流行のように
いわれる。いったい子供のどの立場に立ってやるのか。その子が20歳、
30歳になったとき、どんな大人になっているか、将来を見通しての
ことであるのか。そうでなかったら、こんな無責任な言い方はない
だろう。
この言葉を聞いて思うのは、全ての元凶は大人自身が今さえよければ、自分さえよければと思っていることに尽きる、ということです。
今子供に嫌われたくないから、叱らないでおこう。今子供の辛そうな顔を見たくないから、部活もやめさせよう。今勉強が出来なくなると自分のせいで落ちたと言われるから、家の手伝いはさせないでおこう・・・こういう配慮は、全て大人が自分のためにやっているだけの、ずるい浅知恵でしかありません。そんな浅知恵を弄したとしても、子供は何の感謝もしないでしょう。それどころか、「大人なんて、ちょろいもんだ」と思いさえします。子供というのは、素直ですがものすごくずるい生き物でもあるわけです。
だいいち、なぜ子供と接するのに、自分が得をしよう、楽をしようなどと思うのでしょうか。それは、戦後の「自由で平等な」教育のせいで、「誰かの役に立つ人間になる」ことや、「社会のために働く」ことが、損なことだと思われるようになってしまったせいです。
山口先生は、こんなことも言っています。
「自分はスポーツで素晴らしい経験をしたから、スポーツ
の素晴らしさを伝えていくという社会的使命を担っている」
自分が素晴らしいと思ったことを、他人、なかんずく、子供に伝えていきたいと思うこと、それが教育というものの原点なのではないか、そう感じさせられます。
私は、社会の授業などをするときに、旅先で撮ってきた写真を見せて、生徒に「ここに書いてある○○というのは、こういうものだ」と伝えることをよくやります。
そんなことをしても、1円も給料は変わりません。それなのに、そうしようと思うのは、ビジュアルだとよく伝わるからというわけではなく、自分が素晴らしいと思ったものを伝えたいという気持ちがあるからです。
そうやって、他人と関わっていく中でしか、本当の自己実現は達成できないと思うのです。
日教組の馬鹿教師が、頼みもしないのに「日本兵にはらわたを引きずり出される中国人女性」の写真(もちろんニセモノ)を子供に見せて喜んでいる話を聞いたことがありますが、そういうのは洗脳というので、一緒にしないように(笑)。
このまま終わるとこのブログの管理人の品性が疑われるので、最後は、先生のこんな言葉で締めくくりたいと思います。
「教育って感動だと思います。子供たちのちょっとしたことに
周りの大人が一緒になって喜んであげることが子供たちに感動を
与えるための第一歩です」
「スクール・ウォーズ」(くわしくはこちらのサイトをご覧ください)というドラマは、ある高校ラグビー部が、荒廃の中から立ち上がり、やがて全国制覇を成し遂げるようになったという、実話に基づく学園ものドラマです。私は小学生の時、このドラマを土曜の9時に見るのが本当に楽しみでした。ラグビーも面白いのですが、先生と生徒の人間模様が(オーバーですが)とても心を打つのです。大人になって、DVDで見ても感激します。
そのモデルになった元伏見工業高校のラグビー部監督にして、元ラグビー全日本代表の名フランカーが、山口先生なのです。
山口先生の話は、それこそ本も沢山出ているので、それをご覧になるといいと思います。私は、教育者としての山口先生について、印象に残ったエピソードをいくつか取り上げてみたいと思います。
まずは、伏見工業に赴任した年度に行った校門での服装検査があります。
山口先生は赴任してしばらく、思うようにラグビーを教えることもできず悶々としていたことがありました。しかし、「教師として全力を尽くそう」と思い立ち、次の朝から校門での服装検査を始めたのです。
思いついたらすぐやるというのは、素晴らしいことです。そして、通りかかる生徒の服装を注意するという簡単にやれそうなことを始めるというのも、さすがという感じがします。
校内改革うんぬん、といって会議を開いてああでもないこうでもない、というのもいいのですが、そういう話し合いをすると必ず理由を付けて「できない」と言い出すバカが出てくるものです。そして、そのバカを説得するために、せっかく出てきた案がどんどん修正されてしまう。これでは、何のために会議をやっているのかわかりません。
思い立ったら、自分の出来そうなことを、すぐにやる。そして、小さい成功を収める。それが、大きな物事につながる自信になるのです。
校門での服装検査を始めて3週間ほどで、校則違反の服装は激減したそうです。山口先生が教師として活動していくとき、この体験は大きな自信になったでしょうね。
そして、もうひとつ素晴らしいのは、校門に立って声をかけることで、生徒の存在を認めてやったことです。
いじめられるとき、一番辛いのはなんでしょう。悪口を言われたり、蹴られたりするのもいやですが、一番きついのは絶対に「無視」です。なにしろ、自分の存在を認めてもらえないわけですから、それが続けば自殺してしまうのもわからなくはありません。
服装に文句を付けるというのは、不良の生徒からすれば「いちゃもん」には違いなのですが、それでも何もしないで素通りするよりは、絶対に気分がいいはずです。声をかけてもらえなかれば、自分から因縁をつけるしかないのですから・・・。
これに似たことで、私が極めて重要だと考えているのは「あいさつ」です。
最近の子供はあいさつもしないし、何かあっても「すいません」と言わないのでけしからん、という人がいます。その通りだと思います。
しかし、よく考えてみてください。子供が日常生活で大人から「おはよう」とか「こんにちは」と声をかけられる経験に乏しかったとしたら、そもそもあいさつなどする気になるのでしょうか。あいさつをしない原因は、周囲の大人があいさつをしていないことである可能性が高いです。だいいち、「近頃の子供は」などと言っている人は、自分から声をかけているのでしょうか?(私は、必ず自分から生徒に「こんにちわ」と言います)
あいさつは、大人からしなければダメなのです。声をかけてもらって、存在を認められた経験が多ければ、子供は自然にあいさつをするようになります。それでもあいさつしてこないなら、「おまえも、あいさつぐらいしろ」と言ってやればいいのです。それも立派な社会教育です。
そもそも、大人の側があいさつなんて馬鹿馬鹿しいと思っているから子供もやらなくなるのです。そういう大人が多すぎるのです。金にならなければ、目に見えた効果が出なければ・・・さびしいことですね。
先の話で服装の違反が激減したのは、山口先生が一人一人に声をかけたということと無縁ではないはずですし、先生が本気で服装を改めさせようと思っていたからこそ、その思いが通じたのではないでしょうか。何事も、真剣にやらなければ相手に通じないのです。
すごいな・・・と思った話は、親の前で泣きながら生徒をぶん殴った話です。
親御さんが止めに入ると、山口先生は「話してきくような子だったら、こんなことになるか。あんたは黙ってみていろ」と言い放ったそうです。
その後、その生徒はだんだん真面目になっていったといいます。
もちろん、生徒を殴ってしまうことがいいことであるはずがありません。しかし、それにも関わらず山口先生はやってしまったわけです。なぜ、手が出てしまったのでしょうか。
子供の面倒を見ていると、こいつのこの言動は絶対に許せないと思うことがあるはずです。私だったら、人の話を聞こうとしないことや、理由もないのに他人をバカにすることです。
そういう場面を見ると、このままこの子は悪い方へ落ちていってしまうのではないか、という危機感を感じてしまうのです。そして、それがも、手の着けようもないワルの生徒だったら、殴ってでも止めさせなければならない・・・きっと、山口先生はそう思われたのでしょう。
こういうことを言うと、必ず「体罰はいけない」とか「子供を対等の人格として扱わなくてはいけない」と、言い出す大馬鹿野郎がいます。
そんなことを言ってのうのうとしていられるのは、その子のことはどうでもいいと思っていて、面倒くさいことはしたくないと思っているからです。
自分の愚かな振る舞いに気づいていない子供は、崖から落ちそうになっているのと同じです。そんなとき、いちいちみなさんは119番に電話して「今子供が崖から落ちそうになっています」などと言いますか?なりふり構わず助け出さなくてはいけないと思いませんか?人の話を軽んじる態度や、他人を平気で傷つける行為は、小さいことのように思えますが、それと同じなのです。
山口先生が、こんなことをおっしゃっています。
「子供の立場に立つ」教育とか子育てということが流行のように
いわれる。いったい子供のどの立場に立ってやるのか。その子が20歳、
30歳になったとき、どんな大人になっているか、将来を見通しての
ことであるのか。そうでなかったら、こんな無責任な言い方はない
だろう。
この言葉を聞いて思うのは、全ての元凶は大人自身が今さえよければ、自分さえよければと思っていることに尽きる、ということです。
今子供に嫌われたくないから、叱らないでおこう。今子供の辛そうな顔を見たくないから、部活もやめさせよう。今勉強が出来なくなると自分のせいで落ちたと言われるから、家の手伝いはさせないでおこう・・・こういう配慮は、全て大人が自分のためにやっているだけの、ずるい浅知恵でしかありません。そんな浅知恵を弄したとしても、子供は何の感謝もしないでしょう。それどころか、「大人なんて、ちょろいもんだ」と思いさえします。子供というのは、素直ですがものすごくずるい生き物でもあるわけです。
だいいち、なぜ子供と接するのに、自分が得をしよう、楽をしようなどと思うのでしょうか。それは、戦後の「自由で平等な」教育のせいで、「誰かの役に立つ人間になる」ことや、「社会のために働く」ことが、損なことだと思われるようになってしまったせいです。
山口先生は、こんなことも言っています。
「自分はスポーツで素晴らしい経験をしたから、スポーツ
の素晴らしさを伝えていくという社会的使命を担っている」
自分が素晴らしいと思ったことを、他人、なかんずく、子供に伝えていきたいと思うこと、それが教育というものの原点なのではないか、そう感じさせられます。
私は、社会の授業などをするときに、旅先で撮ってきた写真を見せて、生徒に「ここに書いてある○○というのは、こういうものだ」と伝えることをよくやります。
そんなことをしても、1円も給料は変わりません。それなのに、そうしようと思うのは、ビジュアルだとよく伝わるからというわけではなく、自分が素晴らしいと思ったものを伝えたいという気持ちがあるからです。
そうやって、他人と関わっていく中でしか、本当の自己実現は達成できないと思うのです。
日教組の馬鹿教師が、頼みもしないのに「日本兵にはらわたを引きずり出される中国人女性」の写真(もちろんニセモノ)を子供に見せて喜んでいる話を聞いたことがありますが、そういうのは洗脳というので、一緒にしないように(笑)。
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