日々是勉強

教育、国際関係、我々の社会生活・・・少し上から眺めてみよう。

【人材派遣会社まで】外国人労働者は本当に必要か?②【出来てたなんて!】

2006年08月20日 22時05分11秒 | 社会と教育
  ●前回は、「外国人労働者の導入は、社会的コストの激増を招くので、危険極まりない 」という話もしました。
  では、我々はどのようにして外国人労働者と向き合っていけばいいのでしょうか。その前に、この問題についての「基本原則」を確認しておきましょう。

  さて、最近必要に迫られて高校化学の本を読んでいるのですが、その中に面白い概念の説明がありました。「熱力学の第2法則」がそれです。
  この法則は別名「エントロピー増大の法則」とも言います。ごくごく簡単に説明すると、「物質のあり方は整頓された状態から、より乱雑な状態に変化していき、それは再びもとに戻ることは外部的なエネルギーを加えない限りあり得ない」というものです。たとえば、鉄をほったらかしておくと錆びます(酸化鉄という、原子が混ざった物質になる)が、そのままにしておいても酸素と鉄に分かれることはありません(乱雑な状態が続く)。これも、エントロピー増大の法則によるものです。

   このエントロピー増大の法則は、人口の移動にも見事にあてはまるのです。
  
   まるで水が高いところから低いところへ移動していくように、人も貧しい国から豊かな国へと移動していきます。良い例が日韓併合後や朝鮮戦争期の朝鮮人「移民」です。未だに「強制連行」で日本に来たなどと言っている人がいますが、完全な嘘です(●こちらを参照。また、●朝日新聞も「大半は自由意思で」と書いている。)。また、最近ではフランスにおけるアフリカからの移民を考えるといいでしょう。なんと、カトリックの国だったフランスの人口は、今や6%がイスラム教徒なのです(一応●こちらを参照)。
  そして、どちらの例も、合邦や植民地支配の結果、エントロピー増大が起こりました。様々な文化が乱雑に混じり合い、摩擦を起こす状態が出来たということです。在日朝鮮人の問題もそうですし、昨年のフランス大暴動もそうです。違う文化の人間同士がやっていくのは困難なことであり、「共生」への努力は必ずと言っていいほど不毛な結果だけを残します。(たとえば、●このような「優遇措置」
  そして、これをもとの状態に戻すことが極めて困難ということも忘れてはなりません。一旦国民としての権利、または同等の優遇措置を与えてしまうと、それが「人権」や「平等」や「共生」の名の下に既得権益化するからです。日本における「在日朝鮮人」の問題も、フランスの移民問題も、結局は履かせた下駄を脱がせられないところに帰着します。

  以上の話をまとめると、「先進国が外国人労働者を導入すれば、必然的に文化的に乱雑な状態が生じる。そしてそれを整然とした状態に戻すことは困難である」ということになります。

  こうした観点から、外国人労働者の扱いについて検討します。

  まず、「分野を限って限定的に開放する」というオプションですが、これは絶対にダメです。
  なぜなら、結局エントロピーの増大を公に認めてしまっているからです。経済界は「フィリピンから、日本の介護資格のある人間を入れるくらいなら」と高をくくっている(あるいは、本音を隠している)のでしょうが、そうなれば思うようにコスト削減が進まないに決まっています。●こちらの文書(注:PDFをHTML化したグーグルのキャッシュです)にあるように、フィリピンでの日本語学習者数はたったの1万1000人です。この中に、あえて介護職を選ぶような、日本で国家資格を取れるような語学能力の持ち主がどれほどいるでしょう。そうなると、「じゃあ、日本語が出来る中国人でもいいだろう」という風に、なし崩しになる(というか、意図的に「する」)のは目に見えています。
  これらの「限定開放」を政権公約として掲げている政党や政治家がいる、もしくは審議会の議題となった場合には要注意です。

  いっそのこと「全面的に認めてしまえばいい」という人もいそうです。しかし、その方には日本人を名乗る資格はありません。所得水準が日本の40分の1しかない、人口(公称)13億人の国がすぐ近くにあるという現実をきちんと見つめるか、さもなければ今すぐ日本から出ていってください。

  そうだとすれば、我々が取る道はひとつしかありません。それは、「外国人労働者は認めない」ことです。

  まず、入国管理は今以上に厳しくし、基本的に不法就労が多い国の国民は入れないことです。
  そういう観点からすれば、政府が今年3月から韓国人に対してビザ免除の恒久化を決定した(●こちらの記事を参照)のは愚の骨頂です。観光ビザが不法就労・外国人犯罪の温床になる危険が高いからです(たとえば、●こういう犯罪このような国へのビザの免除は早急に廃止すべきです。
  そうした上で、指紋押捺や、●「虹彩認証」のような、人物特定性に優れた入管理制度を導入すべきです。
  もっとも、虹彩認証も、レーザー照射によって虹彩を変化させることができたり、カラーコンタクトを使って騙すことができるので、絶対ではありません。そこは、入国時のコンタクトレンズ禁止などを義務づけ、人による検査と並行して利用すべきです。この認証方法を全国で導入して、犯罪者のピストン運動を封じる意思表示となるでしょう。

  なお、このような主張をすると、「人権侵害だ」「共生社会を実現しろ」などという人がいますが、一切気にする必要はありません。外国人の入国と認めるか認めないか、どのような条件を付けるかは、基本的にその国の自由というのが国際慣習法上の確立した原則です。最高裁判所も、外国人には入国の自由はないと明言しています(昭和32年6月19日大法廷判決)。だいいち、そんなに人権侵害されるのが嫌なら、共生社会の実現などほど遠い日本という国に来ないように強く勧めればいいんじゃないですかねぇ?(笑)
  それにも関わらず、入国管理の強化を非難するのは、二通りしかいません。すなわち、①ただの馬鹿か、②日本の社会を破壊しようと企む勢力です。ちなみに、日教組は、日本社会を破壊しようとしている上に馬鹿という救いようのない人々です。(馬鹿である証拠は●これ。いい加減直せばいいのに・・・)

  しかし、これで不法就労が防げるほど、事態は簡単ではありません。つい最近も、こんな事件がありました。

  http://www.sankei.co.jp/news/060818/sha076.htm 

(以下引用)

18日午後5時55分ごろ、千葉県木更津市矢那の養豚場で、中国人の男が男性2人と女性1人を持っていたナイフ(刃渡り約10センチ)で次々と刺した。男性1人が死亡、残りの2人も重傷を負った。(中略)
 調べでは、男は今年春に来日。同県成田市の外国人の就労を斡旋(あっせん)している人材派遣会社から現場となった養豚場に農業研修に来ていた。働きが悪い上、トラブルも相次いだことから、派遣会社の男女3人が帰国するよう17日から説得していたという。

(引用以上)

  そこまで逆ギレするとは、よほど母国に戻りたくないようですね。同時に、外国人労働力を送り込むシステムが出来上がりつつあるという実態も垣間見えます。
  なにしろ、世間で騒がれないうちに●こんな法律までできているのです。どうしてマスコミは、こういう実態をきちんと伝えないのでしょうか?総理大臣が神社に参拝するよりはるかに重大な問題だと思うのですが・・・。

  中国人が特に厄介なのは、「人口が多い」ことや、「朝鮮ほど管理強化の大義名分を立てにくい」こともありますが、最も厄介なのは、「日本に来る方が圧倒的に割がいい」ということです。
  中国人が日本に来たがる最大の理由は、「本国には自由がない」上に「食っていけない」ことです。したがって、これが根本的に解決しない限り、密航という形で中国人が日本に渡ってくるのは避けられません。「鎖国」には限界があるというわけです。
  
  そこで、入国の厳格化のみならず、エントロピーの増大を防ぐ「防波堤」を作る必要が出てきます。

  簡単に言ってしまえば、日本よりもアクセスしやすく、中国より相当程度賃金や人権が保障されている場所があれば、中国人はそっちへ行くわけです。

  え?そんな場所はない?

  そんなことはありません。なければ、作ってしまえばいいのです。

  ・・・と、含みを持たせておいて、次回で完結します。(笑)

【なし崩しは】外国人労働者は本当に必要なのか?①【絶対許すな】

2006年08月17日 00時58分41秒 | 社会と教育
  どうも最近日本経済におかしな流れが生じ始めています。以下のニュースをご覧ください。

  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060731-00000017-san-pol

(以下引用)

  政府の規制改革・民間開放推進会議(議長、宮内義彦オリックス会長)は31日、社会福祉士と介護福祉士の分野で外国人労働者の受け入れを検討することなどを求めた中間答申を発表した。中間答申は年末にまとめる最終答申に先立って放送・通信、教育、保育、外国人受け入れなど重点6分野に絞って具体策を提言しており、近く小泉純一郎首相に答申する。
 高齢者や障害者の相談業務などを行う社会福祉士と、高齢者の入浴介助などを行う介護福祉士で外国人労働者の受け入れを提言したのは、高齢化社会の進展に伴って「介護分野の労働力需要が高まると予想される」ため。日本での国家資格取得を前提とした受け入れで、平成18年度中に結論を出すよう求めた。

(引用以上)

  これは7月末のことですが、それ以前にはこういう出来事もありました。

http://www.uh2-hasegawa.jp/uh2-kangoshi.kaigoshi.html

(以下引用)

 2004年春より継続討議されてきた日本とフィリピンの自由貿易協定(FTA)交渉の結果、日本政府はフィリピン人看護師、介護士の受け入れを基本的に合意し、来年度より両国間で受け入れにかかわる制度的枠組み作りに着手することを決定しました。
 
(引用以上)

  看護士や介護士というのは、かなり過酷な業務です。
  看護士の場合、夜勤が多く勤務が不規則になりがちという面があります。また、勤続が長くても、それほど昇級はありません。激務の割に報われない、ということもあり、新卒看護士の離職率も9%前後と、結構高くなっています。
  介護士の場合は、もっと悲惨です。●こちらを見ていただくとわかると思います。
  多くの介護職(ホームヘルパーなど)は、非正社員です。当然、給料も時給制になっています。ヘルパーの仕事は、複数の被介護者を巡回することがほとんどですが、その際の移動時間はこの時給には入っていないのが普通です。時給も常勤の平均が1000円強と、お金の面もそれほど魅力がある仕事とは言えません。
  しかも、非常勤になると、社会保険に加入させないケースが非常に目立っています。
  回収率が半分を切っている公的機関の調査ですらこれです。実際は、もっとひどいことになっているでしょう。
  そういう業種ですから、初めのうちは、物珍しさに引かれて参加する人が増えるでしょうが、実態が知れ渡るにつれて、敬遠されるようになっていくのは目に見えています。

  それならば、待遇をよくすればいいのではないか?と思うかも知れませんが、それは出来ない相談なのです。
  なぜなら、そうすれば介護職を派遣している企業が「儲からなくなる」からです。例えば、●こちらの企業を見てもらうと分かりますが、かなりの経常利益が出ています。そんな所に来て、「移動時間を時給に入れろ」「交通費を全額出せ」「社会保険の加入を義務づけろ」と言うことになると、たちまち利益が出なくなるというわけです。
  だから、日本人がやりたがらないなら、外国から呼べばいいという発想になるわけです。

  では、何か問題はないのでしょうか?

  日本は建前上「就労ビザ」を認めていません。しかし、外国人労働者は年々増えています。その入り口は「日系人」と「不法就労」です。
  「日系人」は、最近増えています。1990年に入国管理法が改正されて、日系人の就労条件が緩くなったからです。その結果、●こういう町まで出来てきています。そういえば、●こういう事件もありましたね。
  「不法就労」については、一応●こういうデータがあります。結構な数です。こういう人々が、都心の飲食店や、地方の工事現場で働いていたりするのです。
  こういうかたちでの外国人労働者が増えているのは、きつい仕事に就きたがらない日本人が増えている中、労働力を確保するためだとよく言われます。そして、今後少子化が進む中、日本の産業が国際競争力を維持するためには、移民を受け容れたり、外国人の労働者を様々な分野で増加させることが必要だとも言われます。

  しかし、このような考え方は実に危険です。

  なぜなら、外国人労働者が増加すれば、経済界は人件費を削減できても、社会全体のコストが激増するからです。
  その最たるものが「治安」です。●外国人犯罪の件数は、決して少ないものではありません。それに、身内意識が強い外国人の場合、コミュニティーに逃げ込まれてしまえば検挙も困難になります。また、外国人犯罪者は検挙すればいいというわけでもなく、裁判手続における言葉の違いや、刑務所における待遇の面からも、かなり扱いが面倒なのです。
  また、「教育」についても同様です。外国人労働者に子どもがいた場合、日本の学校でどのように教育を受けさせるのか、ということです。数が増えてくれば、日本の教育課程に属さない学校も出来てくるに違いありません。げんに、日本では、大学受験資格を巡って、外国人が作った学校と行政との間に紛争が起こっています。(たとえば●こちらを参照)
  その他にも「医療」「文化摩擦」といった問題もあります。不法就労者の医療については、●こちらにあるように、訴訟沙汰が多数起こっています。また、冒頭に取り上げた介護福祉士の場合、日本人のおじいさん・おばあさんの世話を、文化的背景が大きく異なる上に、言語理解が十分でないフィリピン人に任せてトラブルが起こらないのでしょうか?ただでさえ耳が不自由で、入れ歯の人が多いというのに・・・。
  このように、問題が増えることはあっても減ることがないのが外国人労働者の導入なのです。

  さらに、忘れてはならないのは、日本には「外国人問題が外圧に利用されてしまう」という特殊な事情があることです。
  最もわかりやすい例が朝鮮総連という在日朝鮮人組織です。北朝鮮政府による日本人拉致に関わった可能性が高く、ミサイル開発・核開発に血道を上げる母国に多額の外貨を送り込んでいる(●こちらなどを参照)組織です。
  リンク先にもありますが、この組織は送金の問題がマスコミで取り上げられそうになると、当該マスコミに露骨に圧力をかけています。それだけ、日本からの送金がキムジョンイル王朝の維持に役立っているということでしょう。
  当たり前ですが、朝鮮総連は構成員からの献金(パチンコ産業や外食産業など、在日朝鮮人には富裕層が多い)で成り立っている団体です。そうだとすれば、日本で働く朝鮮人が多ければ多いほど、日本を狙うミサイルの精度が上がったり、核戦争が起こりやすくなったりするわけです。
  そして、こうした動きを指弾しようとすると、彼らはすぐに「人権侵害」「民族差別」というレベルに論点をずらして反撃してきます。そして、残念ながら、そのような動きに同調する反日的日本人が多数いるというのも事実です。その典型が、このブログでもたびたび取り上げられている日教組というわけです。(証拠は●こちらのリンク)。
  重要なのは、このような問題が起こるのは、北朝鮮が反日国家だからというだけではなく、日本で働いている朝鮮人の数が多く、発言権が強いからだということです。中国人やフィリピン人、日系ブラジル人がこうならないという保証はどこにもありません。なにしろ、在日朝鮮人の「努力」のおかげで、日本人は外国人に甘いということが証明されてしまったわけですから・・・。

  外国人労働者の話というのは、「リサイクル」の話と非常によく似ているように思えます。
  今でこそ、「容器包装リサイクル法」(詳しくは●こちら)の制定で、事業者にもある程度の責任が課されるようになってきましたが、ペットボトルやプラスチックトレーの回収は、ほとんど全て自治体が行っています。悪い見方をすれば、自分たちは作るだけ作っておいて、回収コストは自治体に転嫁しているということです。当然、その費用は税金という形で市民に回ってくるわけです。
  外国人労働者を導入しても、人件費が安くなって得をするのは企業です。犯罪や福祉といったコストは、自治体やその構成員である住民が負担しなくてはならないのです。もちろん、それはペットボトルなどとは比べものにならないほど深刻なものです。

  次回は、この問題について、取るべき方策などを検討したいと思います。

【国家の舵輪は】戦前の過ちを繰り返すな~官僚政治の処方箋【政治家の手に】

2006年07月29日 00時25分23秒 | 社会と教育
  さて、もう一度復習です。

  官僚政治の弊害は、①勝手に仕事を作って自己増殖する(●前々回の記事を参照)ことと、②国家政策で致命的な過ちを犯しても責任を取らないこと(●前回の記事参照)です。

  しつこいようですが、大切なので繰り返します。我々が絶対に防がなくてはならないのは②です。なぜなら、①は完全に阻止しようと思うと膨大なコストが生じる上、財政という重石があれば多少なりとも抑制が働くので、致命傷にならないからです。
  ところが、②はどうでしょう。
  官僚というのは、道具に過ぎません。やりたい放題暴れたあげく、国家が外敵に破れ、征服されれば、結局素知らぬ顔で新しい支配者にひざまづくような真似を平気でします。中国の科挙官僚がそうでしたし、前回触れた、我が国の戦時中の「革新官僚」もそうでした。
  これほど良い反省材料があるにも関わらず、戦後の日本人は東条英機や帝国軍人を事後裁判的に断罪し、はては昭和天皇の責任まで追及しようとしました(●こちらのリンクは必見。昭和天皇は中国戦線拡大や英米との開戦には反対していた)。もしかしたら、革新官僚が自らの罪を隠すために、GHQの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(略称WGIP。詳しくは●こちらのブログを参照)に進んで参加したのかもしれません。そして、そのWGIPのディスインフォメーション(攪乱情報)こそが、日教組教育や反日政党・市民団体の思想的な源だったわけです。
  そうだとすると、GHQの尻馬に乗った革新官僚の生き残りこそ、現代日本をおかしくした戦犯なのではないでしょうか。
  もっとも、済んだことにこだわっていては前に進めません。未だに国内の「親日派」を糾弾する法律など作っているどこかの国と同じ事になってしまいます。それよりも、今後二度と革新官僚のような癌細胞が出てこないように、日本の体質を改めなくてはいけません。
  そこで、以下のような提案をしておこうと思います。

1.「国策は政治家に」を確立

  理由は簡単です。政治家は、国家や国民に対して責任を負っているからです。そのために選挙があり、内閣不信任や解散総選挙が憲法に規定されているのです。
  ところが、官僚が失敗を犯しても、誰が責任を取ったのか全くわかりません。耐震偽装の問題で、姉葉だとか小嶋だとかいう連中は、国会でつるし上げを食らったり、一級建築士資格を奪われたりしたのに、所轄官庁である国土交通省の役人がクビになったという話は全く聞きません。一事が万事、こんな感じです。
  そういう人々に、倫理に訴えて不正を防ぐようなやり方は全く意味がありません。たとえるなら、何回万引きしても、警官が交番で説教しておしまいになるのと同じです。
  だからこそ、政策決定は全て、それが無理なら国家の重要な施策(外交・軍事・教育・移民問題など)については、政治家が全て判断し、その判断について責任を負うべきです。官僚は、それを言われたとおりに処理すればいいというだけです。  
  これを実現するには、国家行政組織法の第1条に、「国家の基本方針の画定並びに実質的な政治判断は、内閣総理大臣並びに国務大臣が行うものとし、行政組織の各構成員はこれに忠実に従わなければならない」という第2項を追加するのです。憲法には、「全体の奉仕者」(15条2項)という曖昧な文言しかないからです。

2.「首相公選制」を導入する

  この制度を導入するのは、内閣がコロコロ変わることによって、政治家側の継続性が無くなることを防ぐためです。満州事変から敗戦までの15年で、16もの内閣が成立したというのは、どう考えても異常です。これでは、官僚に主導権を握られるに決まっています。我が国も、中曽根内閣や佐藤内閣、さらには小泉内閣のような一部の例外を除いて、ほとんどが短命内閣です。これを防ぐには、今の統治システムを修正するしかありません。
  問題は、いわゆる「ねじれ現象」(首相の所属会派と議会の多数派とが異なること)が起こる点です。それを防ぐには、首相公選だけでなく、「内閣不信任」について定めた69条も合わせて改正するしかありません。具体的には、①信任・不信任決議は就任後2年以内はできないものとし、②国会の解職発議の後、国民投票で過半数を獲得する必要があると定める、といった方法が考えられます。
  人気投票に堕するのでは・・・などという憲法学者もいますが、「じゃあ公選大統領制の国の大統領はみんな馬鹿揃いなんですね?」と反論すればいいだけの話です。

3.政策立案は首相官邸で

  これについては、橋本政権のころの行革法案で結構前進しています。(●こちらのリンクを参照)今の国家予算は、財務省原案でも内閣の方針に従わなくてはいけませんし、基本方針も「骨太の方針」といった形で、(内容の当否は別として)打ち出しています。小泉首相が活躍できるフォーマットは、10年ほど前に既に出来ていたのです。
  これを今後はさらに押し進めていくことが必要です。出来るなら、年功序列になっている高級官僚の人事を、完全に内閣総理大臣のものにすることです。そうすれば、●こういう売国奴のような官僚を簡単に排除できます。何度も言いますが、官僚は「道具」なのです。持ち主の寝首を掻くような真似をする「道具」など、さっさと捨てられるようにすべきです。

4.民間のシンクタンクをたくさん作らせる

  これが今回の目玉です。
  狙いは、民間にも、官僚や政府の外郭団体に対抗できるほどの専門知識のある人間をストックしておくことにあります。
  シンクタンクではデータの分析や政策に関するレポートを作ったりしていますが、こういう機関が増えることによって、専門知識を利用できる政治家が増えることになります。地方議会議員や、財力のない自治体には有益な話でしょう。多数の秘書を抱えなくても、政策立案や意識調査、データ分析を外注できるからです。
  今の政治の現場では、政治家が官僚を押さえ込みたくても、実際の資料や専門知識は官僚に分けてもらっているのが現状なのです。よく勉強している●こちらのような議員さんもいらっしゃいますが、個人の努力では限界があるのもまた事実です。その時に、手足となって仕事をしてくれる組織があれば、議員の方は「司令塔」として、もっと幅のある仕事をこなすことができます。
  また、民間シンクタンクが多数できれば、行き場の無くなっている高学歴の無職者(社会科学系のオーバードクターや、司法試験の受験回数を使い果たした法科大学院卒業生など)に、やりがいのある仕事を与えることができるというメリットもあります。福祉だけのシンクタンク、教育だけのシンクタンク、財務や税制だけのシンクタンク、総合的なシンクタンク・・・いろいろな形態があっていいでしょう。重要なのは、公務員になるための試験があまり得意ではないけれど、政治の現場でやりがいのある仕事をしたいという人材を拾うことです。
  そういう場所で実務経験を積むことで、政治家になるための準備を積むこともできますし、昵懇になっている政治家とともに成長しステージを上げていくこともできます。そういうシンクタンクが切磋琢磨していく中で、明日から副大臣になってもいいような人材が育っていくことも期待できます。
  では、どうやってシンクタンクを増やすですが、法律を作って「政策法人」という全く新しい法人組織を認めるというのはどうでしょうか?その際は、税制の優遇や、設立の簡易化といった特典を付けるのです。
  政策法人の利点は、以下の通りです。

  ①NPO(非営利法人)と違い、企画立案・
   データ分析などで営利活動をしてよい
  ②政治家の講演会と違い、契約に基づいて
   政治家をサポートできる
  ③官僚とのコネが無い「未経験者」でも、
   政治の世界に参入できる
  
  ①については、単純に失業対策です。雑誌の特集記事などを請け負ったりしてもいいですし、書籍を販売してもいいでしょう。もっとも、政治言論と関係ない業務は禁止すべきです(特に、脱税に使われないよう、土地や有価証券、高額の耐久消費財は取得したら届出を義務づける)。
  ②については、使えなければ切るという関係でいられるので、「縁故」ではなく「内容」で勝負できる利点があります。既存の後援会組織を利用したい政治家は、そうすればいいだけです。ただし、腐れ縁にならないよう、契約したら政治家側に届け出る義務を負わせるようにするべきです。
  総会屋や右翼団体が暗躍するんじゃないか?という人もいるかもしれませんが、そういう業者と契約しなければいいだけの話です。それに、株式会社だって実態がある会社の方が少ないのです。多少ゴミは混ざっても、役に立てばいいのです。
  法人の活動ですが、別に土・日だけとか休日だけとかでも構わないでしょう。今はインターネットを初めとして情報化が進んでいるのですから、後援会の事務所みたいなハコを持つ必然性もありません。「商談」はホテルのロビーや喫茶店でやればいいのです。一応登録制にすべきですが、その狙いも、政治家になろうとする人間がシンクタンクに簡単にアクセスできるようにすることにあります。
  この制度の一番の利点は③です。私が思い描いているのは、「熱意や人格は立派だし人生経験もあるが、細かい知識はいまいち」な政治家志望の人間と、「表舞台に立つのは苦手だが、知識は抜群」という人間がコンビを組むことで、官僚に対抗できるステートマンが生まれることです。今までは、政治家個人の努力する範囲が広すぎたのですが、政策法人が沢山出来れば、それをうまく活用するという選択肢ができます。
  もちろん、政治家と官僚が対等もしくは政治家優位で付き合うには、官僚だけが国家情報にアクセスできるという現状を変える必要があります。具体的には情報公開法を改正して、①原則情報は開示(ネガティブリスト方式)②非開示事由は公務員側に立証責任を課す③一定期間返答しない場合は、裁判所が開示命令を発する義務を負う④外郭団体にも対象を拡大する、などの条項を盛り込むべきです。
  民主党や共産党も、こういう法案を提出してアピールすれば、少しは普通の国民の支持を得られるはずです。それなのに、そういう具体案を出さないのは、結局自分たちが1970年代の自民党が作ったフォーマットをそのまま利用するつもりだからでしょう。

  こう見てみると、官僚政治で一番恩恵を受けていたのは、「権力や金は欲しいけど、仕事はしたくない(というか、ろくに仕事ができない)」というタイプの政治家(例えば、●この人?なのだということがよく分かります。官僚政治の淘汰には、やる気のある政治家が不可欠です。
  
5.国民が政治家を信じる

  批判をするななどと言いません。むしろ、すぐ上のリンクのような馬鹿(笑)はどんどん非難すべきです。しかし、●こちらの記事でも取り上げましたが、今の日本は国に対して責任を負う立場の人々を軽蔑しすぎです。これは、マスメディアに学生運動の世代が入り込んだ時期があり(要するに「団塊世代」)、そういう連中がメディアの上層部にいるからに他なりません。
  一番良い例が、●こちらの、全く建設的な提案をしない紙屑です。毎日毎日見出しで現政権を誹謗しているくせに、肝心なところはいつも「~という識者の声」「~という国民の声が多数」で逃げています。こんなのを読んでいたら、自分まで無責任な人間になりそうで恐ろしいですね。知らず知らずのうちに日刊ゲ○ダイの見出しや週刊○代の中吊り広告で洗脳されている人は、戦前の翼賛報道で熱狂していた人たちと大差はない、というかもっとヤバイと思うのは私だけでしょうか?

  言ってみれば、国民の間に見られる「丸投げ」体質が、官僚の専横を許す一番の根源になっているのです。政治家は腐っても「国民の代表」(憲法43条)です。それを否定することは、我々自身の否定にもつながるということは、いつでも肝に銘じるべきです。

  さて、硬い話題が続いたので、次回辺り少し肩の力を抜いた記事を上げたいと思います。お楽しみに。

【革新官僚は】なぜ官僚は「無責任」なのか【全員無罪?】

2006年07月14日 03時20分38秒 | 社会と教育
  私が思うに、官僚主義国家の重大な欠点は、「国家に対して役人自身が責任を取らない」という点にあります。

  最初に断っておきますが、私は官僚が「無能」などと言うつもりはありません。有名大学を出て、難関である国家公務員試験に受かった人々が、事務処理能力や記憶力、理解力という点で、そうでない人たちより上だと言うことは間違いありません。
  しかし、忘れてはならないことがあります。官僚はどんなに優秀でも、国家の中では「道具」にすぎないということです。 

  たとえば、中国の王朝と「科挙」(6世紀末から行われている役人登用試験)で選ばれた官僚の関係を考えると分かりやすいです。国家は皇帝とその一族のものです。そして、科挙官僚は、その道具でしかありません。科挙に合格した人間が皇帝になった例はありません。
  しかし、これはそれほど悪いことではないのです。なぜなら、反乱が起こって国家が転覆されても、科挙官僚は処刑されることがほとんどなく、新しい支配者の道具となって働くことができるからです。
  南宋の丞相であった文天祥(詳しくは●こちら)は、侵略者である元と徹底的に戦いましたが、捕まったあと、敵であるフビライ=ハンから出仕するよう要請されています。文天祥は20歳で科挙に合格した天才ですから例外だとしても、きっと同様のフビライの呼びかけ(脅迫?)に応じて、新王朝の政務に携わった官僚もたくさんいたことでしょう。新しい支配者にとって、いかに科挙官僚が貴重な「道具」だったかを示す格好の例です。
  これとは逆に、旧王朝の皇帝やその一族は悲惨です。必ず皆殺しにされ、宮殿は焼かれ、墓まで暴かれてしまいます。それどころか、隋の煬帝のように、生前の本人を辱めるような諡号(しごう)まで付けられてしまうこともありました。(煬帝の「煬」は「あぶる」とか「 あぶって乾かす」という意味があり、人民を火であぶるように搾り取ったことを示している)
  つまり、国家の持ち主である皇帝一家は、どこかで必ずババを引く運命にあるわけですが、科挙官僚は新支配者の顔色さえ窺っておけば、基本的に詰め腹を切らされることはないということです。

  建国以来「天皇家」という王朝は一度も交替したことがない日本ですが、実はこういう科挙官僚のような生き方をした人々がいました。それが「革新官僚」です。

  革新官僚というのは、戦時中にいわゆる総動員体制を作り上げる時重要な役割をした人々を言います(詳しくは●こちら)しかし、ここでは少し意味を広げて、企画院やそれに類する機関で働いていた若手・中堅の官僚という風に考えてみましょう。その多くは、満州国の建国に携わっており、当地での経済統制が成功したため相当自身の手腕に自信を持っていました。
  ちょうど日本が大戦への道を突き進む時代の政治には、一つの特徴があります。それは、総理大臣の在職期間(つまり、内閣の存続期間)が非常に短いということです。満州事変から敗戦までの15年で、実に16もの内閣が成立しています。
  もちろん、当時の内閣は閣内不一致があると解散に追い込まれるという仕組みになっており、軍人が内閣に参加するようになってその傾向が強まったという事情はあります。しかし、それはあくまで二次的な要因でしょう。そもそも、こんなに頻繁に内閣が交替しても、国として機能しているということは、内閣(政治家)以外の連中が国家を運営していたということです。
  つまり、戦争の時代とは、政治家が無力化し、官僚(軍人も広い意味では官僚に当たる)が国家を牛耳った時代でもあったのです。

  重要なのは、こういった人々の思想的バックボーンです。
  ●こちらのサイトに興味深い記述があります。

(以下引用)

  転向した知識人,あるいは幅広い意味での左翼思想の影響を受けた知識人の果たした役割は決定的に大きかったと思う。彼らの一部は企画院などの国家官僚になったものもいる。また,昭和研究会で近衛内閣のブレーンとなったものもいる。満鉄調査部にはプロレタリア文化運動の経験者が多い。これは,最近よく論じられる戦前・戦後の継続の問題にもつながる。ある旧制高校では「マルクス派」の方が多数派だった時期がある。その彼らが戦時から戦後にかけて国家官僚として「統制経済」──戦後改革─―高度経済成長政策をリードしたのである。これは,体制再統合に成功した疑似革命ないし「受動的革命」過程といえるかもしれない。その意味で,戦前に社会科学の洗礼を受けた旧制高校―帝大卒の国家官僚の果たした役割は決定的である。

(引用以上)

  「企画院」というのは、簡単に言えば総動員体制を中心になって作った機関、つまり革新官僚の牙城です。「プロレタリア」と付いていれば、社会主義の活動であることは間違いありません。

  なんと、戦中や戦後間もなく官僚になった人々は、マルクス主義のシンパが多かったというのです。マルクス主義というのは、言うまでもなく社会主義、共産主義の思想です。
  皇国の国体護持・・・などと言い、治安維持法で社会主義者を取り締まっていた時代にですよ。国家を実質取り仕切っていた連中が社会主義者だったというのです。これにはちゃんとした理由があります。

  まず、革新官僚が、純粋培養された「エリート」だったことです。社会主義というのは「完全無欠の机上の空論」です。つまり、マルクスの本の中だけなら、初めから終わりまで何の矛盾もなく世界の仕組みを説明できるということです。革新官僚の多くは旧制中学、いわゆるナンバースクール出身ですから、勉強ばっかりしていて、世間のどろどろした部分のことは全然わかりません。だから、そういう無菌室のような「机上の空論」には弱いのです。(今でも、共産党の「大卒」党員は、東大上がりが多い)
  彼らの性質は、政治家と言うより学者に近いものがあるといってもいいでしょう。だから、完璧で、淀みも歪みもない理想の世界が実現できると信じてしまうわけです。
  もちろん、執務中に「インターナショナル」を歌う馬鹿(笑)はいなかったでしょうが、人為的に理想国家を作り出せるという発想は、革新官僚たちにかなりの影響を与えていたはずです。

  また、軍国主義を標榜する陸軍と利害が一致していたという点も見逃せません。
  陸軍は日露戦争後も一貫して膨張し続けており(パーキンソンの法則を思い出すと良い)、中国やソ連を敵国とした「仕事」を作る必要がありました。かといって大陸で戦線を拡大すれば、当然ながら続々と死者が出ます。それに対する批判を封じ込めるには、全体主義で行くしかないのです。ちょうど、今の北朝鮮や中国、ロシアがそうであるように。
  この全体主義というのは、革新官僚が大好きなマルクス主義=社会主義とも共通する点です。だから、陸軍と革新官僚は、仲良しだったということです。表の主役は軍人さん(陸軍)、裏の主役はお役人(革新官僚)とでもいったところでしょうか。

  しかし、ここで疑問が浮かびます。なぜ日本を一時的に支配した「連合国軍総司令部」(GHQ)は、国家を実質的に運営していた社会主義者の革新官僚を真っ先に始末しなかったのでしょう?
  ここで、一番先に挙げた「道具としての官僚」を思いだしてください。官僚は、新しい支配者に黙って仕えていれば、詰め腹を切らされることはないという特質がありました。
  確かに、革新官僚でも、閣僚経験者やそれに準じる人間(たとえば、戦後首相になった岸信介など)は戦犯ということで公職追放になったりしました。しかし、革新官僚だった人物で、処刑台の露と消えた人物は一人もいないのです。
  もちろん、憎き鬼畜米英に対してテロを起こす革新官僚も、天皇陛下の為に割腹自殺をする革新官僚もいませんでした。それどころか、戦犯となって公職追放になった者以外のほとんどが、戦後も省庁の中でのうのうと生きながらえたのです。
  それも当然でしょう。なにしろ、彼らは、自分の仕事さえ出来れば、主人は誰だろうと構わないのです。

  そういう革新官僚たちが、戦後の日本で、自分たちが夢にまで見た統制された理想国家を作ろうとします。すなわち、戦前に導入された統制経済的システムをそのまま維持・強化していったのです。
  例えば、「地方交付税を通じた所得の再分配」(=地方財政の自主性剥奪)や、「直接金融から間接金融への移行」「直接税中心の税制」といった制度は、現在に至るまで我が国の政治の在り方を根本的に決定しています。そういう仕組みは何も戦後に出来上がったものではなく、戦前にすでに作られていたというから驚きです。また、最近は少しは改善されたものの、業界に対する行政指導は、今でも隠然と影響力を保っています。もちろん、この行政指導に法律上の根拠はありません。役人の独り言と同じであり、本来は聞かなくてもよいはずなのですが・・・。
  極論すれば、戦後日本の仕組みは、戦時経済だったということになります。
  しかし、国民を戦争に巻き込んでおいて、自分たちは理想国家の追求などといい気なものです。陸軍があれだけ満州にこだわったのも、革新官僚が作り上げた「理想郷」だったからこそでしょう。その権益維持のために、一体どれだけの血が流されたか・・・。
  それもこれも、革新官僚やそのエージェントである陸軍軍人に対して、政治の丸投げを許してしまったことが原因なのです。

  革新官僚の戦中戦後を見ていくと、以下のようなことがわかってきます。

 ①革新官僚は、自分の理想とする全体主義国家
  樹立のために、いたずらに戦争を拡大する
  方向を取った

 ②それにもかかわらず、彼らのほとんどは
  戦後も責任を取らず、官僚であり続けた

  ここから出てくる結論は、一つしかありません。それは、「官僚に国家の基本政策を委せてしまうと、結局だれも失敗した責任を取らないという事態が生じる」ということです。

  政治家は誤った国策を採れば選挙で落とされます。そうでなくても、議員辞職など詰め腹を切らされる場面はたくさんあります。最悪の場合、征服した敵国に処刑されます。(正当性はともかく)東京裁判もそうでした。私がキムジョンイルやコキントウだったら、日本を征服した暁には、小泉首相と安倍官房長官あたりは真っ先に銃殺刑です(もちろん、これは誉め言葉)。そういう意味で、政治家は責任を負わざるを得ない立場にあるわけです。
  しかし、官僚はそんなことをしません。いつも舞台裏にいて、政治家を隠れ蓑に、自分たちの(決して減ることのない!)仕事を黙々とこなしていたのです。そして、あまつさえ、鬼畜と称した相手の片棒を担ぐ真似をし、失敗の責任は全部「旧日本軍」と「天皇主権の憲法」に押しつけてしまったというわけです。邪推ですが、戦後のいわゆる「自虐教育」というのも、革新官僚が真の「戦犯」だったという事実を覆い隠すために行われていたのではないかとさえ思えます。  

  そして、重要なのは、これは官僚個人の問題ではないということです。官僚に国策の決定を任せれば、絶対にこうなる運命なのです。彼らは、責任を取る立場にいない以上、リアリズムをもって国民や外敵に向かい合うという行動を取れないからです。

  戦前の日本の暴走を、皇室制度のせいだとか、日本人の集団主義が悪いとか言っている連中が、いかに底の浅い馬鹿か、これでよくお分かりでしょう。

  こういうことを言うと、「お前の言う革新官僚とやらのおかげで、日本経済が復興できたんじゃないか!」という反論が必ずあることでしょう。
  もちろん、そういう「側面もあった」ことは私も否定しません。たとえば、通産省がなければ重化学のコンビナート建設などできなかったでしょうし、そのための資金は大蔵省の命令融資がなければ調達できなかったでしょう。
  しかし、それはあくまで「効率化」段階の話です。もともと日本人が持っている技術の高さや勤勉さがメイド・イン・ジャパンを支えていたのであって、革新官僚の作った制度のおかげでウォークマンや二股ソケットが生まれたわけではありません。
  それに、日本が統制経済的手法で作った工業製品を、誰が買ってくれたのでしょうか?「冷戦」ということで無条件で味方をしてくれていた、アメリカを初めとする西側諸国だったのではありませんか?

  ところが、冷戦が終わった途端、アメリカは「金融を自由化しろ」だの「ビジネスをグローバルスタンダードに合わせろ」だの、無茶苦茶な要求を次々にしてきました。それに対して、革新官僚が作り上げたシステムは、一体どれほど対抗できたというのでしょうか。
  現代の革新官僚たちは、ボーダーレス化した時代に全く太刀打ちできていません。たとえば、1990年3月の大蔵省通達、いわゆる●「総量規制」を初めとする、一連の「バブル退治」のための金融政策によって引き起こされたのは、すさまじい資産デフレでした。法律の解釈のような「机上の空論」が大好きな官僚が前例のないことに挑戦すると、ろくなことにならないという証拠です。(もしかしたら、そういう官僚の性質を知っているどこかの国が、日本企業の株や、日本の土地を買い叩くために入れ知恵をしたのかも知れない
  そして、この資産デフレを招いた大蔵省銀行局の人間が、誰かクビになったという話を私は知りません。官僚は、いつの時代でも責任を負わないのです。


  では、どうすれば戦前のような「やばい」事態を招かずに済むのでしょうか?
  まず思いつくのが、「官僚の倫理観に訴える」ことですが、そんなことをいくらやっても無駄です。官僚が悪人だから、無責任になるのではありません。官僚は道具であって、責任を取る立場にはいないからおかしなことをしてしまうです。

  結論は、次回に譲ることにいたします。

【役人の】「官僚国家」日本ってホント?【天国?】

2006年07月10日 02時32分36秒 | 社会と教育
  よく、テレビや新聞で、(自称)識者が「官僚政治が全ての癌だ」とか「行政の肥大化は日本を滅ぼす」などと言っています。
  それを聞くと、私のような一般人は、公務員が待遇その他恵まれている点に思い至り、「役人を減らせ!」などと、頭が沸騰してしまうものです。しかし、官僚というのは必要だから存在しているはずであって、本当に無駄や癌のかたまりなのでしょうか?
  そこで、今回からシリーズで、我が国の官僚政治について考えてみたいと思います。

  よく言われる官僚政治の弊害は、「役人は要らない仕事まで勝手に作ってしまう」というものです。

 ●パーキンソンの法則という有名な理論があります。イギリスの政治学者パーキンソンによると、官僚制の下では、役目が終わったから仕事がなくなるということはあまりないそうです。それどころか、勝手に仕事を作って組織がどんどん肥大化する傾向にあるということです。

  深刻な具体例(笑)を挙げると、本題に入る前に息が詰まってしまうかもしれません。そこで、まずは●こちらのブログをご覧になってください。
  ・・・本当にいろんな資格があるもんですねぇ。あまりファッションセンスのない私ですが、「ファッション販売能力検定 2級」が気になったのでちょっと調べてみました。
  この資格は、●日本ファッション教育振興会という財団法人が運営しています。どうやら、ショップ販売スタッフの能力を客観的に測定するのが目的なようです。
  その役員の顔ぶれを見てみますと、なるほど・・・と思うことがありました。
  例えば、ある理事は、ファッション教育振興会の前に、財団法人「日本人事行政研究所」の理事を務めています。こちらは、公務員の給料などについての本を出版している財団のようです。
  さらに芋蔓式に●役員人事を開示したPDFを見てみると、この理事さんは元「行政管理事務次官」という経歴だと判明しました。総務省の中で、行政機関の人事に関する仕事をしていたようです。

  しかし、公務員の給与計算とかしていた人が、ファッションの販売のことなんてわかるんでしょうかねぇ?私も営業みたいな真似は仕事の一環でしますが、明日から「洋服の青山」や「タカキュー」に勤めろと言われたら困りますよ。
  そうだとすると、日本ファッション教育振興会の理事職は、ファッション業界のことなど知らなくても務まる仕事だということになるんでしょう。

  もうお分かりですね、上に挙げた理事さんは、要するに「天下り」なのです。

  不況になると資格に人が集まる、ということはよく言われます。私の受けていた司法試験も、バブル崩壊後受験者数がうなぎ登りになりました(注:筆者がバブル崩壊前から受け続けていたわけではない)。
  ファッション販売能力検定はどうかと思って調べてみると、この検定が出来たのは平成8年です。ちょうど、平成不況とか言われていた頃です。

  そして、この検定の「受験者数」がすごいことになっています。

  ●日本ファッション教育振興会のホームページを見てみると、一番下にちぃーさく書いてありますが、平成17年までの10年間で、「延べ166名」がこの検定を受検しているのです。この中でも、「延べ」が要注意です。合格率は意外と低い(初歩の3級で66%。つまり、3人のうち1人は落ちている)ので、再受験者も含めてこの人数ということになります。
  もちろん、日本ファッション教育振興会は他にもいくつか検定をやっていますから、純粋にこの試験だけで「食っている」団体ではないでしょう。しかし、1年当たり20人弱の受験者(しかも再受験までカウント)では、認知度も多寡が知れているはずです。
  そうだとすると、関係のありそうな場所(例えば、ファッションの専門学校)などに「営業」をして、火のないところに煙を立てているとしか考えられません。
  それどころか、財団の理事の中に専門学校の役員らしき肩書の人間がいるところから見ると、完全に専門学校と「グル」になっているとすら思えます。だからこそ、「販売」なのに経済産業省ではなく、文部科学省所轄の財団法人が検定を運営しているのでしょう。
  もともと、日本ファッション教育振興会は、1969年に「日本洋裁技術検定協会」として設立されたものでした。しかし、それが1991年になって寄付行為(民法上の法人が定めなくてはいけない団体運営のルール)を変更して、現在の団体になっています。
  団体から言わせれば、「時代のニーズに合わせて・・・」というところなのでしょうが、ファッション業界の振興など、公務員や財団法人があれこれ仕掛けを打ってやるようなものなのでしょうか?ファッションも販売も、役人の仕事(法律の運用)とはかけ離れているような気がするのですが・・・。
  当たり前ですが、この財団法人は営利事業をやっているわけではありません。運営には文部科学省からの補助金も付いているはずです。財団の理事というのは、給料もそれなりにもらえて、退職金もつきます。それは、多くは税金で賄われているということです。

  こうやって見てくると、有象無象の資格こそ、まさに「パーキンソンの法則」を地で行っているように思えてきます。
  
  しかし、こういう事態が生じるのは、ある程度仕方がないことだと言えます。

  なぜなら、財団法人を使った天下りを監視しようにも、対象となる団体等があまりにも多いからです。冒頭のブログに上がっていただけの膨大な数の資格について、マスコミも、国民も、いちいちフォローしていられないというのが実情でしょう。
  もちろん、同じことは政治家についても言えます。国会議員にしても、天下りはいいことだと思っているわけではないでしょう。しかし、党での会合、委員会、本会議、有権者の陳情など、仕事は本当に膨大です。そこに来て、天下りの状況を日々チェックするなど、事実上不可能です。せいぜい、所轄官庁の役人(将来その財団法人に天下る可能性が非常に高い人間!)を呼んで、存在意義(もちろん、ないとは言わない)を聞くのが精一杯でしょう。
  それに対して、役人の方は、自分の部署の仕事だけやっているわけです。許認可や行政指導を通じて、財団法人側と昵懇(じっこん)になるのも簡単です。どう考えても、天下り先を作る人間の方が有利です。
  このように、現代の国家では、役人が「無駄」「不正」と思われる行為をしていても、チェックすることが構造上困難になっています。いわゆる「行政の肥大化」というやつです。
  小泉首相もいろいろ頑張ったのでしょうが、完全に民営化できたのは「石油公団」くらいです。しかも、その石油公団ですら、廃止するのに●こちらのコラムにあるような苦労があったのです。
  そして、このような苦労は、別に政権与党が変わったからと言って、ゼロになったり軽減されたりするわけではありません。民主党を初めとした野党も、公益法人を整理して税金の無駄を減らすなど、安易に口にすべきではありません。例えば、天下りを禁止する法律を作っても、民間企業をクッションにした場合どうやって追跡調査するのかという問題があります。
  出来ることといえば、せいぜい新たな認可や寄付行為の変更を、大臣(政治家)が止めることくらいです。出来上がってしまった後は、大臣も処理する案件が膨大なので、実態を精査して廃止するのは事実上困難です。
  そのためには、大臣の手足になる副大臣の数をもっと増やすべきでしょう。そういうことからすれば、「若手議員の箔付け」という程度で副大臣の人事をするのは言語道断です。もっとも、これとて星の数ほどある財団法人の実態全てをフォローするのは不可能でしょう。だから、せめて入り口だけでも何とかしてもらいたいものです。
  
  変な言い方ですが、「行政の肥大化」のデメリットは、税金の無駄という面に限られているので、ある意味我慢できなくはありません。税収が増えれば、相対的に無駄の度合いが薄まるからです。また、税金のパイが小さければ、無駄金を配る余裕もなくなります。だから、日本ファッション教育振興会があと10個くらい出来ても(笑)、国家が存立しなくなるということはありません
  ところが、これが、国家の命運を決するような重要な事項の判断となると、話が変わってきます。極端に言えば、「役人に国の舵取りを任せると、国が滅ぶ」のです。
  次回は、官僚主義国家の二つ目の欠点である、「国家に対して役人自身が責任を取らない」という点について詳しく述べたいと思います。

【確かに】公教育はフリーター差別を推進します!?【ユニーク】

2006年07月06日 02時50分29秒 | 社会と教育
  
  みなさんは、学校で教壇に立つ人が、「世の中は全てカネだ。バイトで暮らしている人間はダメな奴だ」と発言したら、どう思いますか?
  どうやら、川崎市はそれと似たようなことをやっているようです。

(以下引用)

 http://www.tokyo-np.co.jp/00/kur/20060702/ftu_____kur_____000.shtml
  
「一生アルバイトをした人と正社員と、給料の差はどれくらいになるか?二百万、二千万、二億。一つ選んで」。答えは平均で約二億円と告げられると「えーっ、そんなに!?」。子どもたちから驚きの声が上がった。

川崎市立小倉小学校の六年生の教室。先月中旬、ビジネス専門学校講師の鳥居徹也さん(40)が、総合学習の時間に講義した。内容は「フリーター・ニートになる前に受けたい授業」。クイズ形式で積極的な発言を促し、テンポの良い語りで子どもらを引き込んでいく。

文部科学省の委託事業として、鳥居さんは昨夏から全国八十以上の中学校と高校を回った。「小学生でも理解できる」と助言され、今年から小学高学年に枠を広げた。「フリーターにはボーナスがない」「退職金がない」。鳥居さんは次々と“損”な例を示した。

ニートについても「親の甘やかし」や「失敗や挫折」などの背景を挙げ、自立に向けた精神的な支えの大切さや、失敗を恐れず努力することの意義を訴えた。


(引用以上)

  教育関係者が、これをよかれと思ってやっていることに、私は怒りを通り越して寒気すら覚えました。少し注釈をつけます。

> 「一生アルバイトをした人と正社員と、
>給料の差はどれくらいになるか?
>二百万、二千万、二億。一つ選んで」。
>答えは平均で約二億円と告げられると
>「えーっ、そんなに!?」。
>子どもたちから驚きの声が上がった。

  鳥居さん、子どもだからと言って嘘を教えてはいけませんよ。(笑)

  企業間の賃金格差や、中途採用があった場合のことを全く考慮に入れていないことを考えてみれば、この主張に穴があるのはすぐにわかります。どうせ子どもだから、裏を取ることもなく信用するだろうと思っていたら大間違いです。
  子どもをなめているという点では、従軍慰安婦が子宮を摘出されるほど酷使されたとか、日本にいる在日朝鮮人は全て強制連行されたとか、嘘ばかり言っている日教組や全教の教員と同じですね。
  
>「フリーターにはボーナスがない」
>「退職金がない」。
>鳥居さんは次々とアルバイトが
>“損”な例を示した。

  お金のことばかりですねぇ。職業の要素は他にもたくさんあるわけですから、いくら何でも単純化しすぎじゃないでしょうか。子どもを話に引き込もうという「工夫」がそれでは、あまりにも情けないというものです。話し手も、それを認める学校側も、ホリエモンと同レベルですね。
  それに、こういう話をする事自体が、「フリーターはダメな人間」という烙印を押す結果になるということを、本人も気づいていないようです。こういう時こそ、日教組の先生方は、あふれる人権感覚を発揮して、「職業に貴賤はない!!」などとこの講師を叱ってほしいものですが。(笑)
  
>ところが、授業後のアンケートで
>「フリーターになってもいいと思った」と
>答えた子がいて、驚いたという。
>鳥居さんが
>「ハンバーガーが百円で食べられるのは、
>安いお金で長時間働いてくれる
>フリーターのおかげ。すべて正社員なら、
>五百円になっちゃうかも」と
>話したのに対して、
>「ハンバーガーが高くなるのは嫌」
>と受け止めたのだ。

  残念ですが、具体例が適当ではありませんね。マクドナルドがハンバーガーを百円で売れているのは、アルバイトが会社の中心だからではありません。マクドナルドは、日本に上陸した1970年代からアルバイトが中心です。ハンバーガーが安くなったのは、デフレなので仕方なくコストを切りつめた結果です。ビジネスの専門学校で教えている割には、物事の分析に全く「ビジネス」感覚がありませんね。
  それに、ファーストフードの会社が、全て正社員にする必然性など全くありません。そんなことをしたら売れなくなってしまうからです。ここにも、このビジネス学校講師の「子どもだからテキトーなことを言っておけばいい」という感覚が窺えます。
  また、子どもが、ハンバーガーが高くなるのは嫌というのを、まるで程度の低い解答とでも言いたげに書いていますが、「灯台もと暗し」もいいところでしょう。講師自身が金銭感覚に訴えてフリーターのデメリットばかり口にしている時点で、この子どもと同レベルだということに気づいていないようです。

>ニートについても「親の甘やかし」や
>「失敗や挫折」などの背景を挙げ、
>自立に向けた精神的な支えの大切さや、
>失敗を恐れず努力することの意義を訴えた。

  一番問題が多いのは、この部分ですね。何がいけないのかというと、ニートが生じる理由に「親の甘やかし」とか「失敗や挫折」を挙げていることです。
  この講師はもとより、彼を招聘した学校側は、子どもの性質について重大な点を見逃しています。それは、子どもは、大人が理屈をこねると、必ずそれをエクスキューズにして、自分の行動を正当化する傾向があるという点です。
  仮に、私がこの授業を聞いた子どもだったら、「自分がニートになったら親が悪いんだ」と思うでしょうし、「失敗や挫折」をしたくないから、何もしないでおこう」と思うでしょうね。子どもというのは、その程度なのです。教えている側は、本音で話しているつもりなのかもしれませんが、子どもを性善説で見ても、いいことは何もありません(「子どもを信じる」ということとは、全く別)。
  少し話はそれますが、マスコミや自称知識人は、自分の話のネタにしたいがために、子どもの行動様式に何でもかんでも意味づけする悪い癖があります。
どうも、そういう連中は、子どもに向かって「自分は理解ある大人だ」ということをアピールしたがっているような気がします。このビジネス講師もそういう類の人間なのかもしれません。
  人の思想信条は自由ですが、少なくとも、実際に子どもと向き合って汗水垂らしている人間がやりにくくなるような俗説を流さないでほしいものです。

  それよりも、もっと頭に来るのが、努力すれば何とかなるという考えがこの講師の言葉からにじみ出てくることです。

  私が一番卑怯だと思う行為は、教育の場にいる人間が、自分の教えていることが無意味なことだと思われないが為に「努力すれば必ず道が開ける」「努力すれば誰でも夢が叶う」と、子どもを洗脳することです。
  私がいつも繰り返し(子どもに対しても)言っていることですが、努力して夢を叶えられる人間は5%もいないのです。●麻生外務大臣も言っていますが、それが「努力しなければいけない」というアジテーションの結末だとしたら、この世の中には絶望しかないということになるでしょう。この講師が自分は成功者だと思っているのか、いまだに努力すれば自己実現できると勘違いしているのか定かではありませんが、「勝ち組」の論理を他人に、あまつさえ子どもに押しつけるのはやめてもらいたいです。

  上のような「努力至上主義」の教育は、高度成長期だから初めて成り立った話です。ボーダーレス化している現代では、一昔前まで簡単に出来た「結婚」や「育児」や「ローンで家を買う」といったことは、なんとなく暮らしていてはまず実現できません。「最近の子どもは夢がない」などと言う馬鹿な大人がいますが、子どもはもしかしたらそういう世の中の困難さを肌で感じ取っているのかもしれません。そうでなくても、一昔前の「ふつうの生活」でなくても、今は何とか(それこそ、フリーターをしてでも)生活していけることは、感じ取っているのではないでしょうか。
  そういう世の中だからこそ、「誰にでもできる努力」に、子どもの目を向け変えるべきです。欲望の充足を通した自己実現を煽れば、ほとんどの人の生きる人生には価値がないことになってしまうからです。
  例えば、犯罪はやらない、親孝行する、できる範囲で人助けをする、やれることはいくらだってあります。収入は少ないけれど、やりがいはあるという仕事をやることもそうでしょう。例えば、葬儀屋さんやゴミ清掃員の人たちがいなかったらどうなるかと考えてみればそういうことはすぐに分かります(葬儀屋さんは結構収入がいいという話は聞きますが・・・)。
  まあ、この方法に唯一弱点があるとすれば、「女にもてない職業は嫌だ」と言われた場合でしょう。こればかりは、女性の方の審美眼に期待するほかありません。(笑)
  それはともかく、本当の職業教育、さらには、人間教育というのは、そういう日の当たらないところを評価することなのではないでしょうか。すぐに子どもたちに伝わらなくても、大人になれば「そうか、あのとき言っていたのはこういうことか。俺の仕事も誰の役に立っているんだろうな」と、思う大人になれるかもしれません(全員がそうであるべきとは言っていないことに注意)。この世の中にある職業は、みんな大なり小なり意味があるからです。

  それを、子どもに受けたいが為に、収入の多寡だけに話を単純化し、最後は言うに事欠いて「努力しろ」。

  ふざけるのもいい加減にしろ!!と言いたくなります。

  穿った見方ですが、学校の教職員(労働組合員)は、こういう話で増えつつあるフリーターの「惨状」を訴え、共産主義革命の準備(笑)をしているのかもしれません。世の中が悪い、格差が悪い、などと言われたら、政府や自民党に対して反感を持たない方がおかしいからです。
  日教組や全教の組合員が、スターや億万長者になれなかった自分を恨む代わりに世の中を恨むことにするのは勝手ですが、子どもまで巻き込むな、と言いたいです。

  最後に、この授業は悪名高き「総合学習」の時間に行われたようです。公立学校ができる「特色がある教育」などこの程度なのだと、義務教育国庫負担金削減に反対したり、教員人事権の市区町村への移譲に賛成している人々は認識しておく必要があるでしょう。
  もし教員人事権を与えられた自治体が●こういう自治体だったらど、いったいどんな「特色ある教育」をするだろうか・・・私だったら、子どもが小学校に上がる前に引っ越します。まあ、その前に子どもを作る方が先ですが。(笑)

【公教育なのに】教員人事権移譲問題について【ユニークさは必要?】

2006年07月03日 00時50分35秒 | 社会と教育
  近頃教育業界で話題になっていることに、「教員人事権の移譲」があります。

  先日も、●こんなニュースが出たばかりです。

(以下引用)

教員人事権は市町村に 都教委が見解まとめる

 東京都教育委員会は22日、都道府県と政令指定都市だけが持つ公立小中学校教職員の人事権をすべての市区町村に移すべきだとの見解をまとめた。文部科学省が教職員人事権を中核市へ移譲するかどうかについて意見照会していたのに対するもので、近く同省に回答する。(以下略)


(引用以上)

  簡単に言えば、東京都は「公立学校の職員の配置は、市区町村が決めるべきだ」と考えているということです。

  近頃、地方自治の分野では、地方分権という言葉がナントカの一つ覚えのように繰り返されています。教員人事権の問題も、当然その文脈で議論されていると考えて良いでしょう。
  要するに、今までは何でもかんでも中央政府が国にとって都合のいいように決めてきたが、それは現代社会の実情に合わなくなっている。そこで、権限を地方に移し、実情にあった政治ができるようにすべきではないか、というものです。
  教員の人事権についても、話の方向性は全く同じです。たとえば、●こちらの記事にもこんなくだりがあります。

>「英語などで特色ある施策を打ち出しても、
>教員の配置が伴わなければ効果がない」
>「政令指定都市並みに人事権も得て責任ある教育を実現したい」
>など中核市を中心に(県教委が人事権を握る半面、
>市教委が教員の服務監督権を持つ二重構造の)見直し論が起きている。

  要するに、「ユニークなことをやろうとしても、その人材がいない。それなら、市区町村が独自に人を取ってもいいという制度にしてくれ」ということです。
  このような動きは、上にあるような中核市(要するに大都市)を中心にすでに「既定路線化」している感すらあります。冒頭の都教委のの答申もそうですし、「構造改革特区」ではすでに400人近くの教員が独自に採用されています。また、●このような取り組みも始まっています。

  では、果たして本当に人事権は市区町村レベルに移譲すべきでしょうか?
  私があれこれ提言をするより、まずは当事者たちが何を言っているのかきちんと分析しておく必要があります。

  まず、反対派にはどういう人たちがいるのかというと、当たり前ですが人事権を持っている道府県の教育行政関係者がいます。金のある自治体とそうでない自治体の間の「人材の適正配分」を盾にしているようです。

  しかし、その主張はあまり信用できません。

  なぜなら、一部の都道府県の教育委員会は、現場レベルでの「サボタージュ」としか思えない動きに対して全く無力だったからです。一番良い例が、広島県の教育委員会でしょう。「日の丸・君が代」に反対する教職員組合に対して、県教育委員会が適切な人事権を発動していれば、●県立世羅高校の校長が自殺することなどなかったはずです。それに、福岡や北海道、沖縄などでは、勤務評定をしないということで道県側と教職員組合が「手打ち」をしていたという実態があります。(詳しくは、●以前の当ブログの記事で)「人材の適正配分」以前に、おまえらの事なかれ主義を直せ!と言ってやりたくなります。

  また、あの日教組も人事権の移譲反対派です。その理由は、●こちらのサイトに出ていますが、言ってることが本当に十年一日です。
  「中核市への給与負担(の移譲)がされるようになれば、当該市と残る県域との間に格差が生じるおそれがある」という主張です。人材の適正配置重視か自治体の自助努力重視かでもめているのに、何を言い出すのかと思えばいきなりカネのことです。本音むき出しで、かえって爽快感すら覚えます。(笑)
  また、「国庫負担制度を口実とした中央集権的教育行政を抜本的に見直し、地方が自主的判断に基づいて行う諸施策について、これを支援する行政への転換を求める」という主張に至っては、人事権の移譲という問題に対する答えになっていません。人の質問の内容すらわかっていないところは、さすが学力崩壊推進派ですね。(証拠は、●この記事ほか多数)。
  どうやら、この団体に建設的な提言を期待する方が間違っているようです。(笑)

  では、推進派である●実践首長会●中央教育審議会の主張は、正当だと言えるでしょうか。

  私が一番引っかかるのは、彼らが実現したいと息巻いている「特色のある教育」という部分です。
  そもそも、公立小・中学校の教育に、「特色」など期待すべきなのでしょうか?
  このブログでも繰り返し書いていますが、公教育の使命は、「社会に出たときに不適合をきたさないための事務処理能力の養成」だと私は考えています。その中身は、「人の話を聞くこと」「我慢すること」「与えられたものを正確にこなすこと」です。それを、多くの分野の基礎となっている9科目の教授を通じて実行するのが、本来の学校の役目です。
  もちろん、人間はロボットではないので、ただ教えれば身に付くというわけではありません。だからこそ、人間が教壇に立って、相手の様子を見ながら教育をしていくわけです。その過程で、教える相手と信頼関係を築いて行かざるをえないということです。
  こういうことを言うと、すぐに「自由な発想」だとか「自主性」とか「創造性」だとか言い出す人間がいます。しかし、そんなものを公教育に期待する方が間違っています。
  公教育は税金の範囲内という制約で、国民として十分社会生活を営めるような人間を育てることが本質なのです。いかに世の中がボーダーレス化しようが、国際化が進もうが、社会の大多数の人間は上に挙げたような能力があれば十分です。「英語教育にもっと力を」などと言う人は、「自分は農家になりたいが、英語は必要か」と質問されたらどう答えるつもりなのでしょう。
  与えられた予算の中で最大限の効果を発揮するには、守備範囲を絞るしかないのです。それなのに、学校というのは知識の伝授以外のいろんなニーズを満たせる素晴らしい場所だという変なイメージがまかり通っています。そのうち、●こういう特色ある学校を作ろうという提言を中教審がし始めそうで怖いです。(笑)
  もうひとつ、私の考えを述べておくとすれば、公教育というのは「子どもが自分では嫌がってやろうとしないことを、なんとか工夫して身につけさせる」というレベルのことだけを守備範囲にすべきです。
  たとえば、九九の計算などは間違いなくそうです。私は七の段や八の段がなかなかできなくて、遅くまで先生に残された記憶があります。他にも、長時間机に座って人の話を聞くこと、先人が残した格調ある日本語を読むこと、都道府県を覚えることなどもそうです。今の学校が、果たしてそういう「本来やるべき事」をきちんと果たせているでしょうか?
  逆に、それ以外の事項、特に、各人の好きだという気持ちが重要な分野は、勉強したい人間が勝手にやればいいのです。それこそが、「規制緩和」であり、「自己責任」です。
  英語を例に取れば、基本的な文法や発音の仕方は知っておけば十分、あとは勝手に各人がやってくださいというだけで十分です。公立学校がやらなくても、大学に入る人は入試というかたちで嫌でも勉強はしなくてはならないわけです。
  そして、そういう受験偏重の現状だからといって、世界経済における日本の地位がどんどん低下しているということもありません。英語が必要だと思った人間が、初等教育で受けた英語力に基づいて「自分で勝手に勉強」して、企業などで活躍しているからです。
  どうも、「特色ある教育を」という話を聞いていると、「下手の横好き」という言葉が頭に浮かんできて仕方がありません。学校の教科書もろくに理解できないのに、派手なデザインの問題集を買いあさったり、宣伝の上手な予備校にカネを出しまくる受験生みたいなものです。そういう受験生は得てしてろくな結果を出せないものです。
  そういう何か新しいことをやれば、首長さんたちには選挙対策や公の場での自慢のネタになるし、ましな人材も確保できます。役人の側も仕事が増えて予算がつくから多いに結構というところなのでしょう。本末転倒もいいところです。

  それでもあえて「特色のある教育」をやりたいのなら、こういう方法もあるという提案をしておきましょう。
  まず、非常勤講師の採用を増やすという方法があります。こうすれば、現行の制度でも特色ある教育は実現可能です。正規の教員でなければダメだ、というのは間違っています。アルバイトを多数採用している民間企業が、特色のあるサービスを提供できないのでしょうか。決してそんなことはないはずです。
  正規の教員を取る場合でも、あくまでその役割は主任的存在に留めるべきです。もちろん、そのためには中途採用が有効な人材確保手段であることは論を待ちません。あるいは、非常勤の「特色ある」教員の中で、優秀な人を昇格させてもいいでしょう。
  人材の育成という点でいえば、民間企業を積極的に使うという手もあります。英会話を教えるなら、今の公立学校の先生たちよりも●こういうところの方が上手なはずです。そういうエッセンスを教えてもらうというのは、公教育にとってもプラスです。
  これに対して、市区町村の論理は、まるで魚の養殖か何かのように、人材育成から人員配置、教育内容の決定や遂行まで、全て自分たち(公務員が)やりますというものです。これこそ「大きな政府」の発想です。郵便局のときによく言われた「民業圧迫」そのものでしょう。
  教育行政に携わる人間は、どうも自分たちは民間企業より高等なことをやっているんだという、妙な自負があるような気がします。それにも関わらず、本当に子どもに必要な基本的能力の育成を怠り、●こういう馬鹿な教員をはびこらせてしまってるのです。「ユニークな教育だって、ちゃんちゃらおかしい」と思うのは私だけでしょうか。
  文部科学省や政府も、人事権を移譲するなら、まず公教育の本分をきちんと達成できているかどうか、評価基準を設けてチェックすべきです。そして、それが守れた自治体だけ人事権を与える方がいいのではないでしょうか。

  どのみち、この分野の「改革」は既定路線になっているようなので、せめて中身が充実してほしいものです。  

【決定版】「刑罰」の存在意義を問う③【決定版】

2006年06月26日 15時38分16秒 | 社会と教育
  前回、「負け組」犯罪者には奉仕労働をさせて揚がった利益を被害者に還元せよということを書きましたが、「奉仕労働には問題点が多い」という指摘を頂きました。(神無月様、rx様より)問題提起した人間としては、見過ごすわけに行かないので、問題点をここで明らかにしておきます。

  まず、第一にコストの問題です。

  受刑者の拘束や監獄職員の配置、さらに施設の維持コストを考えると、採算割れする危険すらあるというわけです。っとも、これについては、私企業が安全管理コストの点から忌避している業種(産廃処理や鉱山労働)であれば、採算性を高めることは可能だと考えます。

  しかし、第二の問題は重要です。

  それは、そもそも「負け組」犯罪者には、対価を得ることができるほどの労働力は期待できないのではないか、ということです。
  確かに、現実社会でそれなりの待遇を受けているなら、自己実現代わりに犯罪、などということは起きるわけがありません。正直、この点は「お手上げ」です。
 
  そこで、「負け組」でも売り物になるものはないか・・・と考えました。

  実は、あるのです。

  その一つは、「医療機関や製薬会社向けの治験」です。これは、rx様より頂きました。私の知り合いが大学時代にアルバイトで、とある薬の「実験台」になったことがありました。もちろん、高額の報酬の代わりに、副作用が出ても製薬会社は責任は免れるという条件付きです。
  あまりにも強力な副作用が出るものについては任意でやる必要がありそうですが、対象としての適格性という点では「負け組」でも全く問題はありません。
  
  私がオリジナルで考えたのは、「血液の提供」です。
  輸血用血液は、少子化や若者の献血離れにより、大幅に不足しているそうです。(●こちらを参照)
  1960年代前半までは、「売血」という仕組みがありましたが、肝炎などの伝染が懸念されるため、今では無くなっています。だからといって、任意の血液提供に頼るのももはや限界です。それに、献血を得るための待合室や献血車両などのコストもかかっています。みなさんもご存じと思いますが、献血ルームというのは結構な繁華街にあることが普通です。
  そこで、赤血球の回復サイクルを阻害しない程度(あまり抜きすぎると、赤血球不足で血が黄色くなる。実話)に、受刑者に「売血」させるのです。
  それなら、普通に売血を解禁すればいいじゃないか、という意見もありそうですが、それでは意味がありません。血液の取引をいわば刑事司法の「独占産業」とすることで、奉仕労働以上の利益を上げることができるからです。
  あとは、刑務所の入所時に血液検査をすればいいだけです。まさか、刑務所の食事と生活パターンで、感染症にかかるはずがありません。サッカーW杯のために朝まで起きている私の方がよほど危ない。(笑)

  他にも、究極の方法として「臓器の提供」なども考えましたが、一時的にしか利益を生み出すことができません。そうなると、どうやら奉仕労働(これは、技術や体力のある受刑者に限るしかない)に、売血と治験台という方法を組み合わせて、被害者保護の資金を得させるのがベストなのではないかと思います。
  
  しかし、このような方法は、単体では犯罪抑止力を発揮できません。
  
  上記の方法で被害者保護と、犯罪者への苦痛という要請を満たしたら、さらに「初等教育における犯罪教育」を導入すべきです。
  そもそも、犯罪が起こってしまうのは、「やってはいけない」という意識(規範意識という)が内面化されていないからです。
  この内面化というのは、自発的なものを除けば、二つの方法で行う他はありません。それは、「ショック療法」と「すり込み」です。教育現場では、後者を主に行うことになります。

  このブログだけでなく、ネット上のいろんなところで、日教組などの左翼団体がやっている平和・人権教育というものが紹介されています。実は、これも参考になるのです。
  彼らのやり方は、こんな感じです。まず、授業で「日本には戦争責任がある」とか「アジアの人々に謝罪しなくては行けない」とか「韓国や中国はいい人たちばかりだ」ということを、判で型を押したように何度も何度も口にします(もちろん、内容の生むや事実か否かは問題ではない)。
  これに加えて、「日本軍の蛮行」とか「日帝の過酷な植民地支配」を証明するという写真や映像を見せます(捏造や、無関係なものでもオッケー)。
  さらに、授業形式で、自分の伝えようとしていることを生徒に言わせ、あたかも生徒が自分でものごとを考えたような形式で伝達内容を理解させます(要するに、誘導尋問)。もちろん、これも一度では足りません。ここで、反対する意見を採り上げて叩きのめせば、自分の伝えたいことはより良く理解されるはずです。
  そして、自分にとって都合のいいメディアの記事(たとえば●この雑誌)をそれとなく紹介し、自分の主張が多数派であるかのような印象を抱かせます。これは、別に記事の中身でなくてもいいのです。中吊り広告や、見出しの一行メッセージで十分です。とにかく、活字にして権威を持っているような媒体なら何でも良いのです。 

  どうでしょう。こんなの洗脳じゃないか、と思った方もいるでしょう。

  あえて言いますが、教育というのはそんなものなのです。日教組が上のような方法を採っているのは、それが効果的だということを(おそらく、ソ連などの外国勢力や、その影響を受けた社会主義者などの入れ知恵によって)知っているからでしょう。

  一応述べておきますが、教育に関する日教組の行動がおかしい点は二つあります。、

  まず一つは、教育に不適切なほど彼らの思想が偏向しているという点です。
  国旗への敬意や愛国心の涵養という事柄に関しては思想良心の自由を盾にして職務の履行を拒絶する(というか、サボる)くせに、平和だの人権だのアジアとの友好だのといった自分にとって都合のいい事柄は熱心に取り組むのが日教組です。そんなことはないと言っても無駄です。私は小学5、6年生の担任であった日教組の組合員から、「選挙は社会党に入れろ」と何度も宣伝されていました。ネットで少し検索すれば、そんなネタはぞろぞろ出てきます。     
  私も何度も言っていますが、ご自分の思想を臆面もなく語りたいのなら、私塾を開いて(土日だけでもいい)、そこに来た子どもたちにだけにすればいいのです。公教育には「国民教育」という確固たる性質があり、公務員である公立学校教員はそれに奉仕するのが仕事なのです。職務怠慢はやめてほしいものです。
  
  もう一つの彼らのおかしさは、上のような教育が現実の問題を解決する上で何の役にも立っていないという点です。
  平和運動のおかげで、世界のどこかの武力紛争が解決したでしょうか。それどころか、日本人全体が事なかれの発想に陥り、米軍に防衛を丸投げしてしまう原因になっているではありませんか。日本人が「何もしないのが平和」などと言っているからこそ、沖縄の基地が減らないとも言えます。
  また、人権教育が成果を上げているというなら、どうして「いじめ」が起こるのでしょうか。●日教組出身の参議院議員など、「いじめや不登校が起こるのは、情報化や社会の階層化のせいだ」と自身のホームページで言っています。自分たちの「人権は何よりも大切」というメッセージが、何の効果もないことを自分で認めているわけです。
  外国(なぜか朝鮮や中国ばかり)との友好など、●この中学校のように、敵国のプロパガンダに用いられているのが実情です。
  はっきり言ってしまえば、日教組のやっている教育など、社会主義者の親や日本を転覆させたいと思う外国人以外、誰のニーズも満たしていないのです。

  しかし、これが「犯罪教育」なら、事情は変わってきます。

  まず、教科書を用いて、以下のようなメッセージを繰り返し伝えます。
  「犯罪をやると、自由を奪われ、好きなこともできなくなります。そればかりか、一生被害者の方のために、血液を売ったり新薬の実験台になったりして生きて行かなくてはいけません」
  「犯罪を犯すということは、他人に害を与えるということです。そういう人の自由がなくなったり、血を抜き取られ続ける苦痛があるのは当然です」

  これに加えて、刑法や覚せい剤取締法などの話も簡単にするといいでしょう。その方が、興味づけしやすいからです。
  私が、死刑が不要だといったのは、小学生に対して「殺される」「死ぬ」という単語を頻繁に用いるのが適切ではないからです。残酷と言うより、あまりにも現実離れしていてリアリティがないからです。それよりも、一生自由がないとか、血を抜かれ続けるという方が現実味があります。
  さらに、犯罪被害にあった人がどれだけ辛い思いをしているか、映像や写真で訴えます。運転免許の更新時の講習で、危険運転致死傷罪制定の契機となった●こちらの事件がよく紹介されますが、こんな感じで被害者の方の声を拾うのです。ある意味、ショック療法としての側面もある方法です。こういう事柄の方が、ありもしない「強制連行」や、とても日常茶飯事とは言えない「民族差別」などを訴えるよりも、犯罪を犯すことの重さを伝える方がよほど日本の社会にとってプラスになります。
  これらも、授業の中で発問と応答を交えながら効果的に伝達していくのです。
  「ろろ君は、どう?一生プレステもできない、漫画も読めない、好きな仕事も選べないって言われたら・・・?」
  「そんなの嫌です!」

  こんな感じで十分です。
  最後に、メディアにも頑張ってもらって、犯罪被害者の声を伝えるような企画をやってもらうといいでしょう。●人権や平和を大切にするこちらの新聞なら、きっと喜んでやってくださるでしょう(笑)。
  国会も、国の犯罪教育推進義務を定めた「犯罪被害者保護基本法」を制定して、そういう動きを後押しすべきです。法務省も、どうせ仕事がないなら●こんな法案など作らずに、そういう法案を出すべきです。

  正直、規範を内面化するというのは、これくらい手間のかかることなのです。
  しかし、どうも教育する側の人間は、「それくらい当たり前のことだ」と、規範の内面化に対してあまり労力を注いでこなかったのではないかと思います。つまり、今まで共同体的な結びつきの中で、人と人との関わりを通じて何となく分かってきたことだから、敢えて教える必要はないことだと考えていたのではないか、ということです。
  確かに、小さな村社会であれば、子どもが自然に規範を内面化する機会もあるでしょうが、今のように核家族が普通になってしまい、向こう三軒両隣という関係がなくなった社会で、自然と子どもに規範を教え込む機会はどれだけあるというのでしょう。だからこそ、それを社会の大人全体で、とりわけ学校教育でやらなくてはならないのです。
  そんな仕事をなぜ先生が?などという人は、教員失格です。上に書いたような単純なことを、算数や国語のついでに教えられないなら、能力不足も甚だしいです。まさか、本当に子どもは放っておけばそのうちしていいことと悪いことがわかってくるとでも思っているのでしょうか?

  では、以上のような施策が、予算や技術的な問題で無理だというなら、どうすればいいでしょう。

  手段はひとつしかありません。現行法の枠組み、すなわち死刑制度を維持しつつ、犯罪を抑止するような刑事司法の運用をやっていくことです。
  死刑は、確かに「負け組犯罪」に対しては抑止力が低下しているものの、無期懲役よりははるかに優位です。「リンチの禁止」や「危険分子の除去」についてはまだまだ有効であり、しかも無期懲役よりも維持コストがかからずにすむという利点があります。
  もちろん、冤罪の可能性は、絶対にゼロにすることは出来ません。人間が運営する司法制度ですから、どこかで間違いが起こるのは、もう仕方のないことです。
  しかし、誤認の可能性がゼロにならないから、そんな制度はダメだというのもおかしな理屈です。
  死刑廃止論舎の論理の核心は、何よりもまず「冤罪によって命が奪われた場合に取り返しが付かない。それなら死刑にしない方がましだ」というものです。これをさらに引き延ばすと、「冤罪であなたが死刑にされて締まったら嫌でしょう?」ということにもなります。
  重要なのは、この論理には「誰でも冤罪によって処刑される可能性がある」という前提があることです。確かに、冤罪がゼロでない以上、「可能性」は完全否定できません。
  もっとも、以下のような数字を出したら、みなさんはどう思うでしょうか。
  ●犯罪白書によると、平成16年度の第一審における死刑言い渡し件数は14件です。日本の人口が1億2700万人程度なので、毎年みなさんが死刑になる確率(笑)は0.00000011%になります。
  これに対して、平成16年の交通事故死亡者は7358人ですから、毎年交通事故で死ぬ確率は0.000057%です。
  単純に出した数を比較しただけでも、死刑で死ぬ人間は交通事故死亡者の518分の1しかいないのです。しかも、ここに死刑判決が冤罪であるという要素まで入れると、この割合はもっと少なくなるでしょう。

  要するに、「誤判で死刑になりたくないなら死刑をやめろ」という主張は、「交通事故で死ぬ可能性があるから、屋外に外出するのはやめろ」と言っているよりも馬鹿馬鹿しく極端な論理と言うことです。

  おそらく、●この人のような死刑廃止論者は、「国家は国民を恣意的に殺す悪い奴らだ」という前提があるのでしょう。『原発列島』『人権読本』などという本を岩波書店から出していることから、この予測は間違っていません。
   ●この議員のような国会議員は、選挙民に対するアピールなのでしょう。人間の命は大切だ、その命を粗末にする死刑制度に反対している俺は良心的な議員だ、ということをアピールできるというわけです。それよりも、彼の持論である外国人(というより、在日朝鮮・中国人)参政権を撤回した方がよほど「良心的」だと思うのは私だけでしょうか。
  さらに、たちが悪いのは、●この人のように、死刑廃止論を反体制プロパガンダとして展開している人物です。彼が予備校の授業で「小泉首相はヒトラーだ」「南京で骨が出たんだから虐殺はあったんだ」などと発言していたのは、受験生の間では有名な話です(私も、金を払った講義の中で20分以上従軍慰安婦の話を聞かされた経験がある)。

  我々に求められているのは、冤罪で人が死ぬという確率を極限まで小さくすることです。確率をゼロにすることではありません。そして、一旦その努力を果たしたなら、そこから生じる誤差は受け容れなくてはなりません。
  それが嫌だというなら、私が3回に渡って述べてきたように、犯罪を抑止し、しかも被害者のためにもなるような、正義にかなう別の制度を提案すべきです。
  死刑廃止論者は、せっかくルールを定めたのに、その後で「やっぱりそんなの嫌だ」と言っているのと同じなのです。そういう主張を大々的に展開すること自体が、国家の刑事司法制度の権威を失わせ、国民に権力不信を植え付けていることに気づくべきです。だから、光市の母子殺人の犯人のように、無期懲役にうまく逃げることが出来た、成功だ、と手紙で嘯くような馬鹿が出てくるのです。
  そのような誹謗は当てはまらない、というなら、私のように、どうすれば死刑によらずに、たくさんの人間にルールを守らせることができるのか、きちんと代替案を示すべきです。
  たとえば、無期懲役で済ませればいい、というのは間違いです。無期懲役には仮出獄という信じられないほど「犯罪者にやさしい」制度がくっついているからです(詳しくは、●こちら)こんなものがある以上、「無期」懲役に抑止力などほとんどないと言ってもいいです。彼らは、なぜ、真っ先にこれを廃止しろと言わないのでしょうか。平成17年2月4日に愛知県安城市の大型スーパー内で発生した仮出獄中の受刑者による幼児通り魔殺人事件がありましたが、ひとの命は平等であると主張している死刑廃止論者にとっては、この被害者の命などどうでもいいのでしょうか。
  善人面をしたいというなら、ボランティアで老人ホームに行くなり、障害者の方の町中での移動をお手伝いしたり、もっと他にできることがあるでしょう。一般市民の気持ちを逆なでし、凶悪犯人を利するような主張はやめるべきです。

  自由主義社会が崩壊し始めるのは、ルールを破っても損をしないということが明らかになったときだと私は思います。日本は今その曲がり角に来ています。ルールを破った人間に対して冷たい社会を選ぶのか、自分が犯罪を犯しても楽が出来る「やさしい」社会を選ぶのか、今こそ明確にすべきです。

【この制度は】「刑罰」の存在意義を問う②【使えるよ!】

2006年06月23日 07時27分22秒 | 社会と教育
  光市の母子殺人事件ですが、どうやら最高裁がまともな判断を下したようです。

 http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_06062101.htm  

 (以下引用)

山口県光市で1999年に起きた母子殺害事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死などの罪に問われ、1、2審で無期懲役の判決を受けた元会社員(25)(犯行時18歳)に対する上告審判決が20日、最高裁第3小法廷であった。

 浜田邦夫裁判長(省略)は、「計画性のなさや少年だったことを理由に死刑を回避した2審判決の量刑は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する」と述べ、広島高裁判決を破棄し、審理を差し戻した。(以下略)

 (引用以上)

  機会を改めて筆を執りたいと思いますが、最高裁は今までも日本が国家として体をなさなくなりそうな問題に対して、ギリギリのところで社会を安定させる方向の判断をしてきました。今回の原判決破棄・差し戻しという判断も、社会正義という観点からは至極真っ当なものだと思われます。
  もっとも、犯人が死刑になったからと言って、死んだ親子が戻ってくるわけではありません。

  私が日本の刑事司法についていつも感じていることがあります。それは、「どうも想定している犯人像が古いのではないか」というものです。
  私は以前、●「『負け組犯罪』はなぜ起こる?」という記事で、近年メディアを騒がせているような新種の犯罪は、「こうありたい」「こうしたい」という願望と、実際の自己が置かれている状況が著しく乖離している男性、いわゆる「負け組」による犯罪であるという話をしました。今回の元少年も、お世辞にも恵まれた境遇とは言えず、殺害に及んだきっかけは強姦による性欲充足が目的だったので、この定義にあてはまっています。
  このような「負け組犯罪」の一番厄介な点は、彼らの行動が「快楽計算」に基づいていないことです。
  もともとこの「快楽計算」という言葉は、功利主義というイギリスの思想(詳しくは●こちら)の中で用いられるものです。要するに、人間の行動はそれによって得られる快楽が苦痛を上回ったときに行われるということです。
  これを犯罪に当てはめると、「懲役が嫌だから盗みをやらないでおこう」とか、「こいつは邪魔な奴だが、自分が死刑になるよりは生かしておく方がましだ」とかいった風になるのでしょう(宗教的道徳観があったり、極端に高潔な人格の人物はここでは除外して考えてください)。つまり、犯罪をやっても割に合わないからやらないと思わせるために、死刑だとか懲役だとかいう制度があるのです。
  しかし、犯罪に至るような「負け組」は、そういう「快楽計算」をした上で犯行に及んでいるわけではありません。
  そもそも「負け組」犯罪者にとっては、みじめな今の自分のままで生き続けることそのものが苦痛なのです。だから、そこから足したり引いたりという計算をしようという考えがそもそもないのです。
  例えば、悪名高き大阪教育大付属池田小学校の児童殺傷事件の宅間守死刑囚は、法廷で「自分みたいにアホで将来に何の展望もない人間に、家が安定した裕福な子供でもわずか5分、10分で殺される不条理さを世の中に分からせたかった」という発言をしています。複数の児童を殺せばどれだけ損をするか、考えた形跡がまったくありません。こういう人間に、「人を殺すとお前も死ぬぞ!」と威嚇しても、あまり効果がないような気がするのは、私だけでしょうか?
  このような議論は、とみに増え続けている外国人犯罪についても言えます。日本人とは快楽計算の尺度が全く違う連中に、日本と同じ量刑の相場で臨んでも犯行を抑止できません。

  ところで、外国人はさておくとして、「負け組」が一番嫌がることは何でしょう?

  そう、既に答えは出ています。「みじめな今の自分のままで生き続けること」でしたね。
  それでも「負け組」が何とか生きていられるのは、たまに「自己実現もどき」のガス抜きができるというわけです。風俗に行ったり、ギャンブルをやったりして、適当に欲求を発散できるわけです。
  もっと有り体にいえば、犯罪すら、惨めな自分が強者になれる自己実現の一方法になるのかもしれません。例えば、●こういう犯罪者は、自分の理想の成人女性相手に性行為ができないから、性犯罪で「異性と望み通りのセックスが出来る自分」を実現するわけです。

  ここに、「負け組」に犯罪をやらせないための重要なポイントがあります。

  快楽計算のできない「負け組」犯罪者が唯一怖れるのは、ただでさえみじめな自分の人生が、それ以上にみじめになることです。
  彼らは、自分に対して大きな不全感を抱えながら、それでもなお手持ちの時間や財産で「自己実現もどき」を得ようとする傾向があります。もし、それすら奪われてしまってもなお、生きて行かなくてはならないとしたらどうでしょう?

  これを実現させるために私が提案したいのは、以下のような制度です。

  仮に、「奉仕労働」などと名付けておきましょう。懲役と違って、奉仕労働では、きちんと企業の仕事を請け負う形にします。やることは、一般の労働者と変わりません。例えば、建設現場で働いたり、流れ作業のパートを受け持ったりします。ただし、寝泊まりは監獄です(犯罪によっては自宅から通う場合もある)。
  期間は、犯罪の性質や重大さに応じて変わりますが、凶悪犯罪や性犯罪の累犯については、無期限です。これは、「罪の重さ」というより、被害者に対して与えた有形無形の損害という点を根拠にしています。
  企業はこれに対して報酬を支払いますが、企業側のニーズも考えて、最低賃金を20%くらい下回ることを許すべきです。こうすれば、企業は安い労働力を調達できるわけです。
  そして、この報酬は、受刑者にはほとんど還元されません。役所側の諸経費を引いた残りを犯罪被害者に対して支給するのです。こうすれば、夫を失った妻の生活資金や、怪我の治療費にもなります。
  知り合いのカウンセラーの方に聞いたのですが、加害者は刑務所の中で無料でカウンセリングやら宗教指導者による教がいを受けられるのに、被害者はほとんど自腹で精神科に通ったり、カウンセリングを受けているそうです。これではあまりにも不公平だ、とその先生は嘆いていました。他者加害をする人間は大抵恵まれない環境にいるでしょうから、民事裁判で損害賠償を取るのも困難です。
  しかし、そういう金銭面の問題も、「奉仕労働」を導入すれば、かなり解決するわけです。被害者も、溜飲が下がるでしょう。「金じゃなくて心だ」などと意味不明なことを言って何もしないよりは、ずっとましだということは確かです。
  そして、犯罪者にとっても、日常生活には自由がほとんどなく、仕事をやってもやってもお金を吸い上げられてしまうわけです。たまにやるガス抜きすら出来なくなるのです。ひどい言い方をすれば、現代版の奴隷です。「負け組」にとっては、これこそが地獄でしょう。

  この制度の優れているところは(←自分で言うな)、冤罪であったとしても取り返しが付くということです。死刑の弱点を完全にカバーできた上で、終身刑という「至れり尽くせり」に伴う国家予算の負担も減らせるのです。死刑廃止の論拠も、この場合には通用しません。

  要は、現行の制度が対象としているような、近代市民社会が出来立ての頃の素朴な犯罪者(貧困から犯罪が生まれるという理解に基づいている)ではない連中に、いかにして恐怖心を植え付けて「快楽計算」をさせるか、ということです。世の中が変わってきて変な連中が出てきたのですから、刑事司法を支える価値観も刷新すべきです。もう矯正教化を第一目標にするような刑事司法など、ほとんど不要なのです。

  この程度のことでも「人権侵害だ」「個人の尊厳を踏みにじるな」などと訳の分からないことをおっしゃる方には、耳寄りな制度があります。それは「保証人制度」です。
  まず、極度に悪質な犯罪を除いては、保証人が奉仕労働に相当する金額を支払えるという規定を設けます。こうすれば、加害者の負担は軽くなります。
  その上で、保証人には犯罪者の身元を引き受けてもらいます。つまり、加害者が再び何かをやったときは、保証人に対してもペナルティを科すわけです。
  犯罪者の人権を考えているという良心的な方々は、是非ここまでやっていただきたいと思います。本当に加害者の人権を守りたいなら、それなりの責任を負担してもらわないと困ります。個人では無理でも、それこそ「市民団体」(笑)でも作ればいいんじゃありませんか?今はNPOとして法人格も取れるわけです。市民道徳やら良心やらの示し方は、裁判所の前で横断幕を持って待っていることだけではないのです。

  今回は、ここで一旦終了します。次回、もうひとつの重要な施策と、新しい制度を構築できない場合の死刑の位置づけについて述べて、このシリーズは終了ということにいたします。(つづく)

【死刑相当?】「刑罰」の存在意義を問う①【ちょっと待って】

2006年06月19日 01時53分16秒 | 社会と教育
  みなさん、人間の社会にとって一番大切なことは何だと思いますか?

  ・・・人権でしょうか?

  ・・・自由でしょうか?

  ・・・それとも、平和でしょうか?

  どれもそれなりに重要だということは間違いありません。しかし、私の考えは違います。

  それは、「ルールを守ること」です。  

  今の日本の社会を見ていて思うことは、このルールというものの取扱が実にぞんざいなものになってしまっているということです。それは、ルールを破った人間に対する処遇によく現れています。

  たとえば、みなさんは次のような記事を見て、どう思われるでしょう。  

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060615-00000198-kyodo-soci  

(以下引用)

【光市・母子惨殺】 「生きたい。悪人で終わりたくない」 "死刑の可能性"出てきた元少年、語る

・山口県光市の母子殺害事件で、殺人罪などに問われ1、2審で無期懲役(求刑死刑)を
 言い渡された男性被告(25)=事件当時(18)=が20日の最高裁判決を前に「罪は重く
 極刑以外ないが、生きたい。悪人のまま終わりたくない」と話していることが15日、関係者の
 話で分かった。被害者の遺族に謝罪の手紙を書き続けているという。
 上告審では2審判決を変更する際に開かれる弁論があり、最高裁は死刑相当と判断する
 可能性もある。弁護側は「ようやく事実と向き合い、反省している」とし(中略)ている。

(引用以上)

  この事件ではすでに確定している事実があるので、それを簡単に紹介します。

  ・突発的に犯行を思いつき、強姦目的で
   女性を殺害
  ・死体を姦淫した後、側にいた赤ん坊を
   床にたたきつけ殺害を図る 
  ・さらに、生きている赤ん坊を絞殺

  弁解の余地も無いようなひどさです。そして、重要なことは、彼がこのようなルール違反をしたことが明白だということです。そこで、この公判は専ら、量刑の面が争われることになりました。

  こういう事件にも、弁護人というのが付きます。その弁護士というのがまた、少々問題のある方でした。
  ●こちらのブログに、簡潔な論評がありますが、弁護人は死刑廃止運動に従事している有名な弁護士でした。そして、上記事件の被告人の死刑を先延ばしにするためとしか思えないタイミングで、法廷を欠席するという「戦術」を取りました。裁判官が交替するのを狙った引き延ばし策だったと言われています。
 ●なぜか妙に好意的な東京新聞の記事によると、どうやらこの人は大学時代に左翼の活動家だったようです。世論という多数派に抵抗するために死刑廃止運動を推進し、難しい弁護も引き受けていたということです。
  これだから人権や平和などと言っているやつは・・・という一言でおしまいにしては、いわゆるただのネット右翼になってしまいます。それどころか、「司法試験に落ちた腹いせではないか?」と邪推されてしまう(笑)のがオチです。
  そこで、以下では死刑制度、ひいては刑罰制度に対する私の意見を述べてみたいと思います。

  そもそも死刑の存在意義は、三つの側面を持っています。

  一つは、「犯罪に対する一般予防」です。
  つまり、一般人に対して、重い罪を犯せば死刑になるぞ、という威嚇を行い、これによって犯罪をやる気を無くさせるわけです。

  二つ目は、「私刑(リンチ)による報復の予防」です。
  ひどいやつを殺してやりたいからといって、普通の人間が復讐することを認めてしまっては、際限のない復讐合戦になってしまいます。それに、一般人が犯人が誰かを間違えるやすいことは否定できません。だから、国が間に入って、復讐を代行してやろうというわけです。
  
  そして、三つ目は、「危険分子の除去」です。
  刑法学者のほとんどはこの側面を論じていないようですが、生命を奪えば、再び犯罪を犯す確率の高い人間を社会から除去できます。矯正の余地がないほどの重症者に対しては、そういうことも許されるのです。
  
  人間の命は同じように重要なのに、国家が勝手に命を奪ってもいいのか、と言いたくなる人は、日本国憲法の第13条の2文目を見てください。

  「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利
   については、公共の福祉に反しない限り、
   立法その他の国政の上で、最大限の尊重を
   必要とする。 」

  これを裏返せば、「公共の福祉に反」するなら、「生命」に対しても「尊重を必要と」しないということになります。死刑は、憲法上ちゃんと根拠があるのです。

  それでも上の弁護士のような、「人権派」と言われる方々は、死刑制度には反対しているようです。反対者には、●最高裁判事も務めた著名な刑法学者や、●郵政民営化に反対したあの国会議員もいるほどです。
  死刑反対派は、危険分子の除去なら、『終身刑』でもいいではないかという主張をよくします。現行の無期懲役のような、仮出獄(これも考えてみればおかしな制度だが)を認めさえなければ、おかしな人間は社会に戻ってこないからです。
  また、もし冤罪だった場合、とりかえしのつかないことになるという主張もよくされます。つまり、無実の人間が間違って死んだ場合、普通の刑罰のように釈放して補償しておしまいというわけにはいかないということです。
 
  第一の理由は、恩赦などによる釈放があることを考えると、論拠としては弱い気がしますが、第二の理由は、かなりいい線を行っています。おそらく、直情的な死刑肯定派は、これを持ち出された瞬間に言葉に詰まってしまうのではないでしょうか。
  
  私の考えをごく簡単に述べさせてもらいます。
  まず、「現行の」死刑制度は、無期懲役制度も含めて廃止すべきだと考えています。
  そして、それが無理だというなら、死刑は絶対に存続させるべきです。

  その理由は、次回詳しく説明いたします。お楽しみに。

「格差社会」など信じるな!!(後編)

2006年05月08日 01時17分20秒 | 社会と教育
 (注)一部記述を追加したところがあります。

  初めに断っておきますが、私は人間社会に「格差」が存在することを否定するつもりは全くありません。しかし、それが小泉政権の「改革」に伴った発生した現象だというのは、100%嘘だと断言できます。
  証拠として●こちらのサイトを挙げておきます。連合という労働組合ですら、貧富の格差を示す「ジニ係数」(0に近ければ近いほど格差がないと言われる)は、「80年代初頭から着実に上昇して」いると評価しているのです。
 しかも、日本のジニ係数は●こちらのPDF資料の70ページにあるように、2005年現在でも0.28足らずなのです。これは、先進国の平均より下であり、カナダやフランス、オーストラリアよりも低い数字です。これを「格差社会だ!」などと言ったら、カナダの人たちに失礼な気がするのは私だけでしょうか。

  そうは言っても、格差が増大していることは事実です。では、この「格差」とやらの原因は何なのでしょう。

  はっきり言えることは、現代がボーダーレス化の時代になったということです。
  ボーダーレス化については、以前●「卒業生に贈った言葉」でも触れましたが、簡単に言えばあらゆるものの垣根がなくなり、以前の常識では図れないところで競争を強いられるようになる、ということです。
  このボーダーレス化は、世界レベルで進んでいる現象です。我が国も、それに否応なしに巻き込まれてしまっているのが現状です。
  具体的に言えば、まず、工業製品の分野で中国と競争しなくてはならなくなったということです。
  簡単に言えば、今まで日本国内の企業が満たしていたあまり技術程度の高くない電化製品や石油化学製品、それに繊維製品といった製造業分野の国内需要に、中国製品が食い込んできたことです。もちろん、中国との貿易自体は、国交回復以降、絹糸や漢方薬などといった分野で活発に行われていました。それが、1990年代以降飛躍的に量が増えたのです。(いまや、日本の最大の輸入相手国はアメリカではなく中国)。
  そうなると、今まで、付加価値の低い製品を作っていた企業は、廃業するか、人件費の安い国に工場を移転せざるをえなくなるわけです。これが日本国内の雇用を減らすことはすぐに想像できます。
  ここで強調したいのは、中国が日本の「非熟練雇用」を代替したということです。
  独自の技術を持っている企業(例えば●こちら。必見です)や、技術者を囲い込んでいる大企業は、中国と戦う次元が違うので、怖がる必要はないのです。むしろ、「なんとなく」利益を上げてきた企業が冷や汗をかくことになったのです。今までは「なんとなく」他と同じことをやっていれば、親会社や得意先が「なんとなく」取引をしれくれた。それなのに、「中国から買うからいいや」と言われて断られる。途方に暮れてしまうのは無理がありません。

  もうひとつの具体例は、金融の世界でアメリカと競争しなくてはならなくなったことです。
  この前戸棚を整理していたら、私が高校3年生の頃(1993年)に書いていた日記が出てきました。ちょっと見てみると、証券会社が特定の顧客に対して損失補填をして問題になったという事件について、なにやら書いてあったのです。外国の投資家が、「日本の市場には透明性がない」とか「アンフェアな取引だ」とか、さんざん批判していたように記憶しています。
  それ以前でも日本の証券会社は損失補填をやってきていたのです。それなのに、なぜあのタイミングで問題視されるようになったのか。
  今ならはっきりと理解できます。なるほど、アメリカの金融界が、日本に宣戦布告してきたんだな、と。
  損失補填の問題化は、これからおまえたちの金融市場に殴り込みを仕掛けるぞ、不公正なルールというおまえたちの弱点を狙ってやるぞ、という、彼らのメッセージだったのではないかと思うのです。
  これは、別に妄想ではありません。アメリカは、すでに80年代の自動車交渉などを、Trade War (貿易戦争)と形容していたのです。向こうはやる気満々なのに、日本は全く気づいていなかったのです。
  そして、その後のクリントン政権は、日本の弱点が旧態依然とした金融業であるという点に攻撃を集中させました。金融ビッグバンによって日本の金融市場をこじ開け、外資企業が侵略し放題にしたのです。上に挙げた「なんとなく」利益を上げてきた企業の最たるものが銀行でした。基軸通貨をバックにして、政府が強力に後押しするアメリカの投資会社や金融グループに、勝てるわけがありません。
  同盟国に対して何てひどいことを・・・と思うかも知れませんが、それが現実です。アメリカも日本というシマになぐり込みをかけなくては生き残れない時代が、ボーダーレス化の時代なのです。だから、アメリカを一方的に断罪するのは間違いです。非難されるべきは無策だった我々(の政府)です。
  このボーダーレス化をもたらした最大の原因は、冷戦が終わったということです。
  冷戦時代というのは、簡単に言えば米ソが世界各国をそれぞれの陣営に囲い込み、軍事力や貿易をエサにして養っていた時代です。この時代の日本の製造業は、はっきり言ってしまえばアメリカと「だけ」競争していればよかったのです。いいものを作れば、とにかくアメリカという「親分」が買ってくれた時代だったのです。
  それが、「ソ連の弱体化」と「アメリカの貿易収支の悪化」(「プラザ合意」に顕著)をきっかけにして崩壊したのです。親分に子分を養う力がなくなったので、家から追い出されたようなものです。
  しかし、我々が1993年頃、アメリカ一家から追い出されて、一人で食って行けと言われていることに気づいていたでしょうか?
  結局、日本はあわてて「リストラ」に励まざるを得なくなったというのが、「失われた10年」とやらの正体だったというわけです。小泉政権がやってきたのも、日本という国のリストラだったという面があります(もちろん、全てではないが)。

  ここで言うリストラというのは、単に首を切ることだけを意味するのではありません(マスコミはやたらとそういう面ばかり吹聴しているが、あれこそ洗脳)。私は、「人間の配置替え」だと思っています。そして、その核心は、「使える人間はとことん使おう」という発想です。
  これは当然、収入にも反映されます。収入だけではなく、(正常な企業なら)上司からの扱いという面でも差が生じるでしょう。「使える」人材に逃げられてしまったら困るからです。
  当然、逆も言えます。代替が効くような仕事しかできない人間は、時給で雇っておけばいいのです。ものを作るなら中国の工場にやらせようか、ということもできます。それによって浮いた利益を、「使える」人間の方に回したり、競争力を高めるために使えばいいのです。
  よく言われる「格差」というのは、こういった「人間の配置換え」から生まれていると私は思います。つまり、使える人間にばかり仕事や金が集まっているのです。
  もちろん、個人レベルで見れば数々の悲哀があったでしょう。しかし、「配置換え」によって日本の企業が力を発揮できるようになったという面も、確かにあるのです。マイナス面ばかりを捉えてはいけません。
  それに、有名な●サイバーエージェントの藤田社長など、働きまくっています。「勝ち組」になるというのは、そういうことなのです。決して努力もせずにうまい汁を吸うことではありません
  
  そういうことを言っても、きっと民主党を支持されている方や、右肩上がりの時代に青春を過ごした「団塊の世代」及びその周辺世代の方々は納得が行かないでしょう。そこで、私が、「格差社会」をなくす方法をいくつか紹介します。

  一番簡単なのは、「中国と断交すること」です。
  上に挙げたように、日本の非熟練労働者は、中国の安い労働力に雇用を奪われているのです。それならば、いっそのこと全く付き合うのをやめてしまうというのはどうでしょうか。  
  もちろん、はっきり断交するなどと言わなくてもいいのです。交流事業をストップしたり、中国に進出している企業に税をかけたり、中国向けのODAや円借款を止めたり、少しずつやっていけばいいのです。

  なに?そんな極端なことを言うな?

  そういう人に言いたいのですが、それならあなたはどうやったら「格差」とやらがなくなると思っているのですか?格差が生じているのは、ボーダーレス化が原因なのです。それなら、「鎖国」をするしかないんじゃありませんか?
  「日中友好が」とおっしゃる方に言いたいのですが、中国の安い労働力を使って安い品物を買うというのは、本来日本が負担する環境破壊や資源調達に対するリスクを、中国に背負わせているということなのです。そこに、何も罪悪感は感じないのですか?
    
  他にも、格差をなくす方法はあります。それは「公共事業を思いっきり増やす」ことです。
  例えば、私は新しい公共事業のアイディアを持っています。詳しく紹介することはできませんが、かいつまんで言えば、建設業者の廃業を促進し、その受け皿として「スギ林などの針葉樹林を広葉樹林に転換する」公共事業を行うと同時に、農業や伝統工芸といった地方でも持続可能な業種の人材育成を行うのです。これなら、林床も豊かになり、陸や海の自然環境が改善させることができます。

  なに?税金の無駄遣いは出来ないって?

  じゃあ、地方にどうやって雇用を生み出すんですか?まさか、地方分権すればいいとか思っているんですか?かたまりのままだと小さなケーキが、切り分けた途端に大きくなるんですか?

  誤解を招くと面倒なのではっきり言っておきますが、私は上の二つの政策は本気で実行すべきだと思っています。しかし、もし私がポスト小泉(笑)だったとして、国会で上の二つの政策を公言したら、きっと国会で野党にけなされ、新聞の社説で叩かれる羽目になるでしょう。「アジアの友好を守れ」だとか「田中角栄型のばらまき政治は時代遅れ」などといった風にです。
  
  野党(特に社民党と共産党)や朝日新聞などのマスコミが言っている「格差社会の是正」などというのはその程度なのです。批判することが目的なのです。無責任も程々にしろ!!という気になります。
  
  わたしはちゃんと責任を持つ人間なので(笑)、最後に、お金もあまりかからず、しかも根本的な「格差社会」対策を紹介しましょう。

  それは、「教育」です。

  私は、能力開発だけの面を言っているのではありません。子どものメンタリティーを、「冷戦型」から「21世紀型」に変えていくだということです。

  「冷戦型」のメンタリティーを一言で表現すれば「努力すれば夢が叶う」ということです。言い換えれば、誰でも我欲の充足という形の自己実現ができるということです。
  冷戦型メンタリティーを支えていたのは、夢がもし叶わなくてもそこそこいい暮らしはできるだろうという楽観と、それを実現していた冷戦期の社会情勢です。日本が閉じていた、ボーダーがはっきりとしていた時代だからよかったのです。夢を本当に実現できる人間がほんの一握りだとしても、失敗を気にせず「夢」や「希望」などと言っていられたのです。日教組が平和だの人権だの気炎を上げて教育指導要領を守らなくても問題にならなかったのは、そういう時代だったからかもしれません。
  ところが、日本がボーダーレス化に巻き込まれて、その基盤が崩れてしまいました。夢ばかり追いかけていても、いつか「普通」の生活を、いつでも、さしたる努力もせずに(←ここが重要!!)実現できるだろうと思っていた若い人たちは、梯子を外されたような状態になってしまったというわけです。昔に戻してくれ、と言っても無駄です。ボーダーレス化は、日本だけがやっていることではないからです。
  そういう状況だから、「格差社会」になってしまうのです。冷戦型のメンタリティーが、21世紀のボーダーレス社会に適応していないだけです。少なくとも、日本には明らかに社会不安を巻き起こすような格差は存在していません。ぜいたくを言っているだけです。

  それなら、いっそのこと考え方を変えてみたらどうでしょうか?

  努力したい人は目一杯努力して、成功でも何でもすればいいのです。ただ、誰もがそういう生き方は出来ないということを、子供の頃からきちんと教えておかけばいいのです。
  そのとき、大きな軸になるのは、「人(社会)と関わること」と「利他精神」です。
  私たちは、中学の公民の授業で、いきなり「権利は大切だ。自由が一番だ」などと習います。これは、不幸なことだと言わざるを得ません。権利や自由というのは、他人の干渉を排除するという側面が必ずあります。権利や自由は、寂しいものなのです。
  それよりも、我々は必ず誰かを必要としていることを、そして、その誰かを助けることがまず第一なのだと教育する方が先です。

  これは、そんなに難しいことではありません。一つ、具体例を挙げましょう。

  よく、各界で成功した人が子どもに向かって講演する機会がありますが、あれを「他人のために一生懸命働いている人物」の話を聞くイベントにすればいいのです。
  消防士や、海上保安官、社会福祉事務所の職員といった職業の人でもいいですし、毎日欠かさず家の前の道路を掃除しているおじいさんでもいいのです。●こういう企業の社長さんを招いてもいいですね。
  大切なのは、そういう人が見えないところで社会を支える生き方に、確かな価値があるのだということを子どもに「植え付ける」ことです。
  そういう教育を受けて育った子どもであれば、多少年収が下がろうが、子どもが塾に行けなかろうが、学歴が低かろうが、司法試験のような難しい資格試験に落ち続けようが(笑)、人生が真っ暗になるようなことはないはずです(嫌なら、努力すればいいだけ)。なぜなら、人の役に立つというのは、誰でもできることだからです。そういう強さこそ「21世紀型」の日本人として必要なものなのです。

  教育基本法の改正が話題になっていますが、どうせなら第1条に「教育の目的は社会の一員であることを自覚し、利他精神を持った人間を育てることにある」とでも書けばいいのです。そういう人間なら、個人主義など吹聴しなくても、社会の中で自分がいるべき場所は見つけられるはずです。
  何よりも、ここを見ていらっしゃる方々一人一人が、「21世紀型」人間になることが重要です。子どもは、その姿を見て育つのですから。

  「格差社会」というのは、冷戦時代の精神構造を捨てきれない我々の「甘え」なのです。なんでも「格差」のせいにするのは、やめにしませんか?

「格差社会」など信じるな!!(前編)

2006年05月04日 08時23分33秒 | 社会と教育
  最近「格差社会」などという言葉が喧伝されています。

  私がブログ更新を停止している間のことですが、伯父の家であるテレビ番組をみる機会がありました。「たけしのTVタックル」(テレビ朝日系)という番組です。
  4月17日放送分のテーマがまさに「格差社会」でした。
 その内容は、●こちらのブログを見ていただくと少し雰囲気が掴めるかも知れません。(ちなみに、公式の番組紹介は●こちら)私が覚えている限りでは、「小泉政権になってから、富める人々とそうでない人の差はどんどん広がっており、いわゆる二極化社会になりつつある」ということでした。
  番組には、就学助成を受けている家庭が全体の4割だという東京都・足立区の母子家庭が出てきていました。お母さんが勉強を教えているシーンなどが流れ、「塾にも通わせられないから学力面は不安です」とおっしゃっている場面がありあました。
  その一方で、都内のデパートでは高級時計などの売り上げが最近になって伸びてきていることが紹介されました。さらに、いわゆる「ヒルズ族」の男性とセレブ(笑)を目指す女性たち(モデルが多い)のお見合いパーティーのような場面が続きます。いかにも成金という雰囲気の男性が「お金のない人も努力すればいいんじゃないですか」という意味のコメントを寄せていたのが印象に残りました。

  もしかしたら、この番組を見て「小泉政権は、自由化の名の下に弱者を切り捨てて、こういう金持ちばかりを優遇しているのだな」と、義憤をたぎらせた方もいらっしゃるかもしれません。

  しかし、ちょっと待ってください。この番組、本当に社会の実情を正確に描写しているんでしょうか?

  私に言わせれば、「TVタックル」の番組構成は相当に偏っています。少なくとも、同番組でコメンテーターだった社会民主党の国会議員が言っているような「格差社会」が現実に存在しているかどうかは相当に怪しいというのが正直な感想です。
  おかしな点はいくつかあります。
  まず、「教育もろくに受けられない子どもがいる」という具体例やデータが、全て一カ所で採取したものだということです。就学助成を受けている子どもが増加しているという統計、それに関する行政側のコメント、そして具体例としての母子家庭、全て足立区のものです。足立区というのは、区税収入の水準が相当低く、都の交付金に頼る割合が高い自治体、要するに「豊かでない」自治体です。(●こちらのブログが参考になります)「TVタックル」の司会者(?)である北野武氏が足立出身だからということで使われたのだと思っていたのですが、実は「格差社会」という言葉を受け手に伝えたい人間にとって、かなり好都合な自治体だったというわけです。
  また、どうして具体例が「母子家庭」なのでしょうか?私も離婚家庭で育った人間ですからあまり家庭のあり方について偉そうなことは言えないのですが、やはり母子家庭というのは絶対数が少ない、すなわち「特殊」な家庭です。なんらかのハンデがあるのは、おそらく江戸時代でも、高度成長期でも同じでしょう。母子家庭の「窮状」を持って、格差が拡大しているというのは根拠不十分だと言えるでしょう。
  私が一番おかしいと思ったのは、そのお母さんが「塾にも行かせられないから学力が不安で」ということを述べていた(=制作側があえてそのコメントを放映した)ことです。
  確かに私の塾でも授業料の滞納が10年前に比べると多くなっているというデータはあります。しかし、塾というのは行かなければ将来が完全に閉ざされてしまう性質のものではないはずです。
  実際塾で教えている人間が言うのは変ですが、私は高校受験も大学受験も塾には行っていません。理由は簡単です。親がそんな金など出せないと言っていたからです。ちなみに、私の父は二部上場企業に務めていて役職も付いていました。だから、「貧しい」家ではありません。それでも、塾に出せる金などない、という方針だったのでしょう。
  しかし、私は大学に行きたかったので、自分で受験勉強の方法などを書いた本を読んだり(全部立ち読み)、問題集を何度もやったり(自分の小遣いやアルバイト代)、学校の授業中内職をしたり(恥ずかしながら先生にチョークを投げられたこともあった)、それなりの努力をしました。名前は言えませんが、難関と言われる大学に現役で合格してもいます。
  だから、塾に行けないから教育の機会が奪われる、という言葉には、賛成しかねるのです。本当に教育を受けたいなら、能力をつけるのは自分の責任で行うべきです。塾に子どもを行かせているのは、親御さんの情愛の現れか、みんなと同じでないと不安という心理ゆえでしょう。
  ところが、どうも最近、「親の所得格差が学力格差につながっている」という主張をする人間が増えてきています。学者やコメンテーターが言うならまだしも、教職員の組合(笑)が声高にそんな主張を唱えているのには情けなくなります(証拠は●こちらのサイト
  どうも、「TVタックル」の制作者(おそらく番組製作会社やテレビ朝日の人間)や、先生方は塾に行くのが当然であるという前提で物事を判断しているようです。どう考えても、「ぜいたく」な発想でしょう。
  さらに、いわゆる「ヒルズ族」のように取り上げられていた男性が、どうもあまり知性の感じられない口調だったのも気になります。わざと反感を買いやすい人間を映像に出して、感情的な反応を誘いたいのかもしれません。そうでなくても、最近はドラえもんだか土左衛門だかいう人物が話題になっていますから・・・。

  上記のような理由から、「TVタックル」が言うような「格差社会」というのは、眉唾物だということができます。明らかに、制作側が何らかの思想を視聴者に喧伝しようとしているプロパガンダの一種です。

  しかし、それにしても最近「格差社会」という言葉がやたらとメディアに出てくるようになったのはなぜでしょう。
  それは簡単です。「格差社会」をネタにして、現政権を攻撃したい勢力がいるからです。  
  その代表格は、なんと言っても社会民主党でしょう。先日のメーデーでも●こんなアピールをしています。「二極化」「人間らしさの回復」「新自由主義」など、格差社会を論ずる連中の大好きなキーワードが目白押しです。また、格差の中でも身分が不安定だと言われる派遣社員の増大という点に焦点を絞り、党首の福嶋氏自ら雑誌に記事を寄稿していたりします(週刊エコノミスト、2005年3月22日号)。
  社会民主党は、言わずと知れた「社会主義」の政党です。同じ社会主義の政党である共産党も、最近は格差社会のPRに熱心です。(●こちらのサイトを参照)どうやら、冷戦終結で大義名分を失っていた社会主義の政党が、ここぞとばかりに弱者救済を訴えているようです。
  そして、最近では朝日新聞とテレビ朝日がこの動きを応援しています。今年の朝日新聞2月10日朝刊で、著名な経済学者2名による格差社会の分析が載せられています(●こちらのブログに抜粋有り)。とはいえ、その二人の専門が「労働経済学」ですから、人選の段階で、「日本にはセーフティネットが足りない」「所得の再分配をしろ」という発言が出てくるのは簡単に予想できます。要するに、学者の名前を借りた宣伝です。
  テレビ朝日でいうと、先ほどの「TVタックル」もそうですが、看板番組である「報道ステーション」のキャスターが、先日「(韓国の)武装スリが日本で増えたのは格差社会のせい」などと発言していました。どうもこのキャスターは何でもかんでも格差社会に結びつけたがる傾向があるのか、このキーワードを番組内で多発しています。
  そして、どうやら万年野党である民主党も、この便利なキャッチフレーズに便乗しようと言う腹のようです。先日の連合系の大会で、党首の小沢一郎氏が「不条理な格差を是正すべき」と発言しています。(●こちらを参照)

  この一連の「格差社会」提唱の流れから見ると、このような結論が容易に想像できます。すなわち、郵政民営化でも、景気回復でも、靖国神社参拝でも、「アジア」外交でも、全く小泉政権に歯の立たない野党や反日メディアが、攻撃手段を変えてきたということです。それゆえ、上に挙げたような「TVタックル」のような、強引な格差社会PR番組が出てきてしまうことになるわけです。
  確かに、わからなくもありません。このまま小泉首相が勇退し、人気のある安倍官房長官が自民党総裁・総理大臣にでもなれば、民主党や朝日新聞が大好きな中国や北朝鮮に対する日本の対決姿勢が強まるのは目に見えているからです。それを止めようと必死なのでしょう。
  小沢氏という人物は、自民党にいる頃は大人の国家とか小さい政府だとか主張していたような気がするのですが、やはり本質は「外国人参政権」(実態は朝鮮・中国人参政権)推進派です。儒教アジアのためになることなら躊躇無く口にできるということでしょう。
  そして、その成果は、先日の千葉7区補欠選挙で一応の結実を見ました。しかし、今後も同じネタが使えるかどうかは微妙です。

  こういうことを書くと、「実社会の格差はないとでも言いたいのか」という声が聞こえてきそうです。それとも、共産党員や民主党サポーターの方は、「おまえは塾に来られるような恵まれた子どもしか知らないくせに!!」とでも私をなじるのでしょうか。
  はっきり申し上げますが、私は、格差というものは絶対に存在すると思っています。しかし、格差を生み出す原因の認識や、対処法についての考えが、社民党・共産党・民主党や「TVタックル」の制作者とは全く異なっていると言わざるを得ません。
  そこで、次回は私の「格差社会」についての考えを述べさせて頂きます。

  ※うまく行けば、5月7日の夜23:30ごろには
   後編をアップできると思います。

麻生太郎が考える「ニート」

2006年03月20日 01時08分34秒 | 社会と教育
  外務大臣を務める麻生太郎氏は、変わった人物です。たとえば、愛読書に「ゴルゴ13」を挙げる時点で、「こいつは違う(笑)」と思われることでしょう。
  しかし、麻生氏の売りはそればかりではありません。麻生氏のすごさは、物事に対する卓越した洞察力と、借り物でなく自分の頭で消化した考えを述べる点です。麻生氏のホームページから、彼らしい鋭いものの見方をしている記事を見つけました。是非みなさんもご覧になってください。

月刊 嘉麻の里2006年3月号より
http://www.aso-taro.jp/kamanosato/index.html

(以下引用)

  Not in Employment, Education or Training の頭文字を繋ぎ合わせてNEET。昔風の科白を日本語で言えば、「スネかじり」といったところでしょう。  
 このニートと呼ばれる若者が、このところよく問題視されています。少子化傾向の昨今、若い労働力が何も働かないでフラフラして過ごしているのは、人物経済上もったいない‥と考えるのは、大人側の論理としては正論だろうと存じます。
 しかし此所は「正論」ではなく「異論」を述べる稿なので、私なりに別の角度からの異論を書いてみようと存じます。
 日本は天然資源にも恵まれず、古来よりつつましく互いに助け合って生きて来る以外、生き残る方法は有りませんでした。しかし封建時代から明治の時代に入ると、工業化社会という、これまでとは全く異なった概念が新しく日本に入って来ました。以来、近代工業化社会の過渡期を経て、1970年代後半から80年代にかけて、工業化社会の成熟期に入っていったんです。 
  つまりモノの豊かさの達成が喜びで有り幸せだった時代が終わり、何が幸せなのかは、人それぞれに成ったんだと思います。モノの豊かさが達成された頃から、「総中流意識」という言葉に、日本は覆われたんです。 
 ところが時代は更に動いて工業化社会の成熟期が終わって、情報化社会とかIT社会と言われる局面に世の中が動きます。価値観も経験という値打ちも急激に大きく変化ました。
 つまり、「良い学校に入って、良い会社に行って、良い人生‥」といった人生の目標通りに歩いてきた大人達は、ITだ、ICだ、ネットだ、チャットだ‥という情報社会の用語にすら対応できず、会社に於いては、窓際かリストラされていった世相を見ていた若者はどういう心理状態におかれたか‥という点に目を向けなけりゃ、ニート問題の本質が判らないんじゃないでしょうか。
 最近よく聞かれる「参加させよう」とか「動機づけの手当」などは、ニート解消の為の標語だったり、手段だったりしています。 しかし参加支援と言いますが、「どんな社会」への参加を支援しようとしているのか、「どんな社会」になるのかが、ニート側には見えていない以上、効果があまり上がらないんじゃないでしょうか。ニートの他にフリーターという種もよく聞かされます。何処が異なるのか、その定義は私もよくは判りません。
  また色々の統計を見ても、ニートの急増を示す根拠はハッキリしません。そしてフリーターもニートも、追い込まれて成らざるを得ない者と、あえて定職を持たないと選択した者とがあるように思います。
  よく見てみたら、一人っ子で、そこそこの家庭に育ったニートの共通点は、大体中学校か、高校の時代に、成績不振、イジメ、教師との相性等で、学校生活に溶け込めなくなる。それで将来の進むコースはレギュラーというか通常のサラリーマン向きコースから除れ(原文ママ)、音楽のバンドや、インターネットを仲間と始めてニート人生が始まっているように思います。「何時の日かプロに‥」なんて夢は語るんですが、暫くすると実現できない現実を知り、気がつけばもうサラリーマン向きのコースにゃ今更戻れなくなっている。
  長々と書きましたが、時代が急激に変化していった時には、何時の場合にも社会の中での身の置き場に迷う人が多く出たんじゃ有りませんか?
  幕藩体制を破壊するのに大いに貢献した官軍側の下級藩士は、近代明治国家の創造には居場所を失い、無気力になっていたろうと想像します。
  しかし当時は貧しく、生きていくのが大変な時代でしたから「武士の商法」とからかわれ乍らも、皆、懸命に生きて行こうと努力したんだと思います。しかし今は豊かです。働く意欲が無いのは中流でなく、下流だなんて書いて煽っても余り意味がないように思います。
  全ての人が「仕事での自己実現を‥」なんて煽られりゃ、世の中は失意と落胆に満ち溢れる結果しか生みませんよ。
 私は、豊かな時代には、「自己実現」をやりたくて頑張る奴は、思う存分やれば良い。しかし全ての人に創意工夫を求めて、「自己実現」を要求するのは間違っているのではないかと思います。
 今の時代は餓死する程の貧しさが存在する訳じゃ有りません。ニートはニートで彼らのペースで、スローライフをゆっくりと生きて行く事を世の中が認めても良いんじゃ有りませんか。六本木ヒルズに住むのが幸せの証じゃないのはホリエモンの話に限りません。
 負け組という名も気に入りませんが、80年の人生を終わる時に、「幸せな生き方だった‥」と感じられる人生は金銭だけじゃ買えないんじゃないかと思いつつニートの雑感とさせて頂きます。  

(引用以上)

  いろいろ突っ込む性質の文章ではないと思いますので、あえて私の感想を述べておきます。

  まず、彼なりの視点で、現代が明治維新の頃とどう違うかという分析がきちんと出来ています。その核になっているのは「現代は以前と比べて豊かな時代である」という認識です。
  また、ニートになりやすいタイプの若者の家庭状況など、不完全な面もありますが、自分なりに情報を得て、咀嚼していることが窺えます。
  麻生氏はものすごい名家の出身です。しかも、皇族の方とも縁戚関係があります。顔はいかにも筑豊の荒くれ者(笑)系のこわもてですが、上流階級であると考えて間違いないでしょう。
  それにも関わらず、これほどの認識を持ち、それを堂々と他人に対して発信できるのです。自分に対する自信もあるでしょうし、我々の知らないところで一般人とも交流があるのかもしれません。

  また、現状に対する意見表明も、普通の政治家ではないということを窺わせます。

>「どんな社会」への参加を支援しようとしているのか、
>「どんな社会」になるのかが、ニート側には見えて
>いない以上、効果があまり上がらない

  全くその通りでしょう。何しろ、仕事を必死にやるということと、自分の生き死との関連が薄くなってしまっているからです。大人の側としては「親が死んだらどうする」「税収が減ってしまう」などという理屈が立つのでしょうが、それはニートからしてみたらどうでもいいことなのです。
  結局、大人の側も、ニートの側も、「自分のために働く」という考え方、つまり自己実現至上主義から抜け出せていないのです。大人は自分のために働けと言う。しかし、ニートの側は「俺はこれでいいんだ」と反論する。これでは、社会との接点は永遠に見いだせません。

>全ての人が「仕事での自己実現を‥」なんて
>煽られりゃ、世の中は失意と落胆に満ち溢れる
>結果しか生みませんよ。

  すごいですね。政治家という職業にいる人が、ここまで透徹した認識を持っているとは驚きです。
  私は、このブログで「夢を叶えるために頑張ろう」「努力すれば必ずいいことがある」的な、利己主義的自己実現の文脈を徹底的に批判してきました(もしくは、そのつもり)。それは、我欲の充足としての自己実現を達成できる人間は、世の中のほんの一握りの人間に過ぎず、それはほとんどの場合努力ではどうにもならないものであるからです。
  麻生氏は、「きちんとした仕事をしてこそ立派な社会人だ」という考え方を批判しているように思えます。
  「きちんとした仕事を・・・」という論理は、一見正論のように見えます。しかし、この論理が破綻するのは、「きちんとした」が何をもってそういえるのか、判断基準が全く曖昧なことです。
  それが結局ニートの大量生産や、高年齢フリーターの増殖につながっているのは、彼らを育ててきた大人の側が、偏った「理想の仕事像」を無意識に伝えてきたからなのではないかと思っています。
  一つの証左として、下の「参考」に取り上げた『団塊世代を総括する』という本に出ている、子どもに付いて欲しい職業に関する調査(196ページ以降)があります。
  著者によると、団塊の世代や、その周辺の世代は、自分が就きたかった「格好いい仕事」に子どもを就かせたがっている傾向があったというのです。たとえば、学者や芸術家、医者、教員、はては「自由業」まであります。
  親がこれで、学校では社会経験の希薄な教師が「頑張れば夢は叶う!」「自分のやりたいことをやるのが正しい」「個性を生かせる仕事を探そう」などと吹聴(これも国旗・国歌否定同様、「偏った思想」には違いない)すれば、子どもが地味な労働を主とする職業を嫌うのは間違いありません。
  もう終わったことなので、過去を断罪することはしません。しかし、これからの時代は、「選んだ仕事を好きになろう」「仕事でもそれ以外でもいい、社会の役に立ったり、人を喜ばせる生き方をしよう」「地域や職場で人とつながりを持とう」というような価値観が優勢にならなくてはなりません。そうでなければ、国が滅びます。
  麻生氏が、「どんな社会」かはっきりさせるべきというのも、そういう価値観をみんなで共有しようという趣旨なのではないかと思います。

>ニートはニートで彼らのペースで、スローライフを
>ゆっくりと生きて行く事を世の中が認めても良い

  この下りを見るにつけ、麻生氏には、人間的な優しさが備わっているのではないかという気がします。敢えて言うなら、麻生氏の言葉は「いろいろな材料を煮込んで出来た、複雑な味わいのするダシ」の味がするのです。
  日教組や全教が言っている、憲法の理念やら●灰谷健次郎的な理想論から演繹した「個性が大事だ」「子どもと大人は対等だ」的発言が鼻につくのは、そこにその発言者の生きてきた人生というものが全く感じられないからです。代わりに、人間よりも、人権や理念が大切という傲慢な考えがありありと現れています。こういう連中は、「石油化学で合成した化学調味料」とでも言うべきでしょう。味が単調なだけでなく、取りすぎると精神に障害を来す恐れがあります。(笑)
  もしかすると、麻生氏自身、政治家になるまでに、いろいろな回り道をしてきたのではないかという気がします。そうでなければ、このような深みのある記事を書くことはできないでしょう。
  麻生氏というと、中国韓国びいきのマスコミに、紛争の火種を作り出す人物というレッテルを貼られていますが、それは一面的な見方でしかありません。

  こういう人が閣僚に入ることが出来る時代になった、というだけでも、私は今の世の中に救いを感じます。

  私は、首相としては、誤解されにくく志も高い安倍晋三官房長官がいいと思っていますが、麻生氏には外務大臣という最も重要な閣僚を、できれば5年10年と言った長い期間務めて、日本のもうひとつの顔になってほしいと願っています。
  できるなら、この人と一緒に飲みに行きたいです。(笑) 

★参考★

団塊世代を総括する

牧野出版

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【怒】どうして、実名報道しないんだ!?【怒】

2006年02月08日 22時46分39秒 | 社会と教育


  秋篠宮妃殿下紀子さまのご懐妊、
  心からお慶び申し上げます!!


 
  どうも、皇室絡みで嫌な出来事が起こっている最中にこの慶事・・・正直、ここまで来ると、日本には本当に八百万(やおよろず)の神がいるのではないかと思ってしまいます。
  親王(男の子)であれ、内親王(女の子)であれ、まずは無事に出産していただきたいと思います。


  ・・・と、思っていたら、多すぎて新鮮味も欠けてきた「不祥事」のニュースが入ってきました。

(以下引用)

<着替え盗撮>男性教諭認める 愛知県警が捜査
(毎日新聞 - 02月08日 15:13)

 愛知県一宮市内の小学校に勤務する男性教諭(36)が、女子児童らの着替えの様子をビデオカメラで盗撮していたことが8日、分かった。保護者の被害届を受け、同県警一宮署は軽犯罪法違反容疑で捜査を始めた。

 同市教委によると、1月31日午前、同小の体育館で、健康診断の心電図測定のため着替えしていた女子児童が、青い布で覆われ粘着テープで固定されたビデオカメラがあるのを発見した。カメラは撮影中で、児童は担任である男性教諭に伝えたが、上司に報告はなかった。翌日、児童から話を聞いた別の教諭が不審に思って事情を聴いたところ、男性教諭は盗撮を認めたという。カメラは学校の備品で今月3日、学校内のゴミ箱から引きちぎられたテープが見つかった。

 8日会見した馬場康雄同市教育長によると、教諭は2日から自宅謹慎中で、4日に保護者への説明会を開いた。馬場教育長は「教育に携わる者にとって許しがたい行為。監督不行き届きで申し訳ない。子供たちの心のケアと再発防止に努めたい」と謝罪した。【井上章】

(引用以上)

  教師の適格云々について、ここでは多くを述べません。

  それよりも、みなさんももっと違う視点の怒りを持ってみましょう。

  なぜこのような教師(公務員)にあるまじき犯罪をしながら、氏名が公表されないのでしょうか??これが、警察官や自衛官の方であれば、すぐに所属部署に至るまで公開され、あっという間に懲戒免職でしょう。

  これには、いろいろ原因があると思います。一つには、学校という社会の閉鎖性がそれです。校長や教頭が管理不行き届きで処分されるのを怖れて、なるべく「ことを穏便に」済ませようとするわけです。
  しかし、そういうのは、立派な「隠蔽」ではないでしょうか。

  もう一つは、日頃実名報道させろとうるさい大マスコミが、教員の場合全くと言っていいほどしつこく追及しないということです。
  大きなマスコミというのは、どうも世間と感覚がずれているようです。普通、「実名報道」というと、加害者の実名を公表しろ、というのが議論の焦点になるはずです。
  しかし、ジャーナリストを称してテレビに出ている人物たちは、それと全く違う「問題提起」をしてしまっています。●こちらのブログをご覧頂くと、それがよく分かります。

(以下引用)

 田原総一朗氏や鳥越俊太郎氏らテレビキャスターとジャーナリスト21人が8日、犯罪被害者の実名を公表するかどうかを警察の判断に委ねた政府の犯罪被害者等基本計画案の修正を求める緊急提言を発表した。

 提言は、実名か匿名かはメディアが自律的に判断すべきだとした上で「実名発表がなされないと、犯罪の背景や事実確認の検証が困難になり、国民に真実が伝わらない」と訴えている。

(引用以上)

  なんと、彼らは被害者の名前を公表させろ!と警察に要求しているのです。呆れてものも言えません。
  報道による二次被害は、「ロス疑惑事件」や「松本サリン事件」でついぞ有名になったはずです。しかし、そういう自分たちの過失は全く認めず、被害者の身辺を踏み荒らすような真似を「真実」という言葉で美化しようとしているのが、大マスコミとその御用ジャーナリストたちなのです。
  そのくせ、人権擁護法案や、朝鮮総連への陸上自衛隊の防衛機密漏洩といった、国民の自由や安全に関わる出来事をほとんど報道しようとしないのです。何が公器だ!!社会の木鐸だ!!と、怒りすらこみ上げます
  邪推ですが、もともと社会主義にシンパシーを抱いているマスコミ(特に、朝日・毎日)が、同じ社会主義者の日教組や全教に遠慮しているのではないか?・・・とさえ思えます。
  おっと、こんなことを言ってしまうと、人権擁護法案の「特別救済手続」にかけられてしまいますね。大マスコミにとっても、あの法案があった方が都合がいいのかもしれません。

  なにしろ、「犯罪者」の氏名がわからず、それを社会の木鐸を自称するマスコミが追及しないとなれば、自ずと結果は知れているでしょう。
  そう、きっとこの先生、どこかに飛ばされておしまいでしょうね。そして、ほとぼりが冷めたら、また似たようなことをやり出すかもしれません。

  給料や待遇も指弾に値するのかも知れませんが、教員が信用されなくなってきている最大の原因は、民間人から見ればあまりに非常識な人事なのではないでしょうか。
  公務員、特に教員の方には、今一度「全体の奉仕者」(憲法15条2項)であるという自らの役割を自覚してほしいと思います。

子供じみた投書をする馬鹿、それを堂々と選ぶ馬鹿

2005年12月27日 23時27分20秒 | 社会と教育
  ●狂想~電波投稿を食べないというとても面白いサイトがあります。投書を集めたブログなのですが、そこに、暗澹たる気持ちになるような記事がアップされたので、みなさんにも紹介しておきます。

(引用開始)

ブザー押さず遅刻した生徒

主婦 篠田 淳子(愛知県豊田市 49歳)

 その朝、娘はいつものように豊田市駅前から通学の高校生で満員の名鉄バス
に乗りました。

 学校近くの停留所前になっても、誰も停車のブザーを押しませんでした。
 停留所を過ぎそうになって、あわてて押しても間に合わず通過しました。

 やむなく、次の停留所まで行き、かなりの距離をみんなで歩いて戻ったそうです。

 全員遅刻。
 ブザーを押さなかった生徒が悪いのは当然でしょう。

 運転手さんもマイクでそんなことを言ったそうです。
 しかし、その時間帯の乗客は同じ高校へ通う生徒がほとんどです。

 ブザーが押されなくても、生徒が降りることはわかっていたはずです。

 「みなさん、降りなくていいですか」となぜ聞けなかったのでしょうか。
 そうしたら、「ああ、いい運転手さんだった」と思い、さわやかな気分で朝のスタートが切れたことでしょう。

 いい大人に出会えることは、子どもたちにとってとても大事なことではないでしょうか。
 これが高校生でなく、高齢者や体に障害のある人だったりしたら、と思うとゾッとします。

(2005年12月23日 名古屋本社版)


(引用以上)

  ・・・ええ、みなさんよくお分かりですね。この投書が乗ったのはもちろん

    朝 日 新 聞 

  です。

  投書の内容を要約すると、「娘が遅刻したのは、運転手、おまえのせいだ」ということです。身勝手な親、というか、身勝手な大人です。高校生にもなってブザーを押す判断一つ出来ない娘を叱ったのならまだしも、公のメディアに投書までして援護するとは、情けなくて涙が出てきそうです。

  この投稿者の卑怯なのは、自分の娘を「悪く」扱われた不満を、生徒一般にまで広げている点です。こういうのは、左翼や人権団体が常套手段にしている、「一部の例を針小棒大に取り上げて一般化する」典型的な例です。
  しかも、「障害者」ってなんですか?(笑)「狂想」の管理人の方も突っ込んでいましたが、障害者を口にすれば全て正当化されると思っているところがますます気にくわないです。
  きっと、この人自身、「地区出身者」とか「在日コリアン」とか聞くと、無条件に「美化スイッチ」が入ってしまう頭の持ち主なのでしょうね。

>いい大人に出会えることは、子どもたちにとってとても大事

  だったら、まずお前がつまらんことを言う大人になるな!!
  人にはいろいろ道義的な要求をするくせに、自分では全く責任を果たそうとしない。子どもっぽい我を通すことを、「自分らしさ」や「筋を曲げない潔さ」と勘違いしている、「マイノリティ」をご神体のように崇拝してことあるごとに言説に取り込む・・・

  お前、日教組だろ?!

  と思わず問いかけてしまいました。(笑)  

  こんな子供じみたエゴ丸出しの投書を載せる新聞が、「クオリティーペーパー」(たぶん自称)と言われているのですから、笑えますね。どうせ、投書を選んでいる人間も、それにオッケーを出す人間も、みんな投稿者と同レベルの幼稚な人間だらけなのでしょう。

  思わずむかついて記事にしてしまいました。さて、冬期講習があと3日残っているので、そろそろ寝なくては・・・。