外務大臣を務める麻生太郎氏は、変わった人物です。たとえば、愛読書に「ゴルゴ13」を挙げる時点で、「こいつは違う(笑)」と思われることでしょう。
しかし、麻生氏の売りはそればかりではありません。麻生氏のすごさは、物事に対する卓越した洞察力と、借り物でなく自分の頭で消化した考えを述べる点です。麻生氏のホームページから、彼らしい鋭いものの見方をしている記事を見つけました。是非みなさんもご覧になってください。
月刊 嘉麻の里2006年3月号より
http://www.aso-taro.jp/kamanosato/index.html
(以下引用)
Not in Employment, Education or Training の頭文字を繋ぎ合わせてNEET。昔風の科白を日本語で言えば、「スネかじり」といったところでしょう。
このニートと呼ばれる若者が、このところよく問題視されています。少子化傾向の昨今、若い労働力が何も働かないでフラフラして過ごしているのは、人物経済上もったいない‥と考えるのは、大人側の論理としては正論だろうと存じます。
しかし此所は「正論」ではなく「異論」を述べる稿なので、私なりに別の角度からの異論を書いてみようと存じます。
日本は天然資源にも恵まれず、古来よりつつましく互いに助け合って生きて来る以外、生き残る方法は有りませんでした。しかし封建時代から明治の時代に入ると、工業化社会という、これまでとは全く異なった概念が新しく日本に入って来ました。以来、近代工業化社会の過渡期を経て、1970年代後半から80年代にかけて、工業化社会の成熟期に入っていったんです。
つまりモノの豊かさの達成が喜びで有り幸せだった時代が終わり、何が幸せなのかは、人それぞれに成ったんだと思います。モノの豊かさが達成された頃から、「総中流意識」という言葉に、日本は覆われたんです。
ところが時代は更に動いて工業化社会の成熟期が終わって、情報化社会とかIT社会と言われる局面に世の中が動きます。価値観も経験という値打ちも急激に大きく変化ました。
つまり、「良い学校に入って、良い会社に行って、良い人生‥」といった人生の目標通りに歩いてきた大人達は、ITだ、ICだ、ネットだ、チャットだ‥という情報社会の用語にすら対応できず、会社に於いては、窓際かリストラされていった世相を見ていた若者はどういう心理状態におかれたか‥という点に目を向けなけりゃ、ニート問題の本質が判らないんじゃないでしょうか。
最近よく聞かれる「参加させよう」とか「動機づけの手当」などは、ニート解消の為の標語だったり、手段だったりしています。 しかし参加支援と言いますが、「どんな社会」への参加を支援しようとしているのか、「どんな社会」になるのかが、ニート側には見えていない以上、効果があまり上がらないんじゃないでしょうか。ニートの他にフリーターという種もよく聞かされます。何処が異なるのか、その定義は私もよくは判りません。
また色々の統計を見ても、ニートの急増を示す根拠はハッキリしません。そしてフリーターもニートも、追い込まれて成らざるを得ない者と、あえて定職を持たないと選択した者とがあるように思います。
よく見てみたら、一人っ子で、そこそこの家庭に育ったニートの共通点は、大体中学校か、高校の時代に、成績不振、イジメ、教師との相性等で、学校生活に溶け込めなくなる。それで将来の進むコースはレギュラーというか通常のサラリーマン向きコースから除れ(原文ママ)、音楽のバンドや、インターネットを仲間と始めてニート人生が始まっているように思います。「何時の日かプロに‥」なんて夢は語るんですが、暫くすると実現できない現実を知り、気がつけばもうサラリーマン向きのコースにゃ今更戻れなくなっている。
長々と書きましたが、時代が急激に変化していった時には、何時の場合にも社会の中での身の置き場に迷う人が多く出たんじゃ有りませんか?
幕藩体制を破壊するのに大いに貢献した官軍側の下級藩士は、近代明治国家の創造には居場所を失い、無気力になっていたろうと想像します。
しかし当時は貧しく、生きていくのが大変な時代でしたから「武士の商法」とからかわれ乍らも、皆、懸命に生きて行こうと努力したんだと思います。しかし今は豊かです。働く意欲が無いのは中流でなく、下流だなんて書いて煽っても余り意味がないように思います。
全ての人が「仕事での自己実現を‥」なんて煽られりゃ、世の中は失意と落胆に満ち溢れる結果しか生みませんよ。
私は、豊かな時代には、「自己実現」をやりたくて頑張る奴は、思う存分やれば良い。しかし全ての人に創意工夫を求めて、「自己実現」を要求するのは間違っているのではないかと思います。
今の時代は餓死する程の貧しさが存在する訳じゃ有りません。ニートはニートで彼らのペースで、スローライフをゆっくりと生きて行く事を世の中が認めても良いんじゃ有りませんか。六本木ヒルズに住むのが幸せの証じゃないのはホリエモンの話に限りません。
負け組という名も気に入りませんが、80年の人生を終わる時に、「幸せな生き方だった‥」と感じられる人生は金銭だけじゃ買えないんじゃないかと思いつつニートの雑感とさせて頂きます。
(引用以上)
いろいろ突っ込む性質の文章ではないと思いますので、あえて私の感想を述べておきます。
まず、彼なりの視点で、現代が明治維新の頃とどう違うかという分析がきちんと出来ています。その核になっているのは「現代は以前と比べて豊かな時代である」という認識です。
また、ニートになりやすいタイプの若者の家庭状況など、不完全な面もありますが、自分なりに情報を得て、咀嚼していることが窺えます。
麻生氏はものすごい名家の出身です。しかも、皇族の方とも縁戚関係があります。顔はいかにも筑豊の荒くれ者(笑)系のこわもてですが、上流階級であると考えて間違いないでしょう。
それにも関わらず、これほどの認識を持ち、それを堂々と他人に対して発信できるのです。自分に対する自信もあるでしょうし、我々の知らないところで一般人とも交流があるのかもしれません。
また、現状に対する意見表明も、普通の政治家ではないということを窺わせます。
>「どんな社会」への参加を支援しようとしているのか、
>「どんな社会」になるのかが、ニート側には見えて
>いない以上、効果があまり上がらない
全くその通りでしょう。何しろ、仕事を必死にやるということと、自分の生き死との関連が薄くなってしまっているからです。大人の側としては「親が死んだらどうする」「税収が減ってしまう」などという理屈が立つのでしょうが、それはニートからしてみたらどうでもいいことなのです。
結局、大人の側も、ニートの側も、「自分のために働く」という考え方、つまり自己実現至上主義から抜け出せていないのです。大人は自分のために働けと言う。しかし、ニートの側は「俺はこれでいいんだ」と反論する。これでは、社会との接点は永遠に見いだせません。
>全ての人が「仕事での自己実現を‥」なんて
>煽られりゃ、世の中は失意と落胆に満ち溢れる
>結果しか生みませんよ。
すごいですね。政治家という職業にいる人が、ここまで透徹した認識を持っているとは驚きです。
私は、このブログで「夢を叶えるために頑張ろう」「努力すれば必ずいいことがある」的な、利己主義的自己実現の文脈を徹底的に批判してきました(もしくは、そのつもり)。それは、我欲の充足としての自己実現を達成できる人間は、世の中のほんの一握りの人間に過ぎず、それはほとんどの場合努力ではどうにもならないものであるからです。
麻生氏は、「きちんとした仕事をしてこそ立派な社会人だ」という考え方を批判しているように思えます。
「きちんとした仕事を・・・」という論理は、一見正論のように見えます。しかし、この論理が破綻するのは、「きちんとした」が何をもってそういえるのか、判断基準が全く曖昧なことです。
それが結局ニートの大量生産や、高年齢フリーターの増殖につながっているのは、彼らを育ててきた大人の側が、偏った「理想の仕事像」を無意識に伝えてきたからなのではないかと思っています。
一つの証左として、下の「参考」に取り上げた『団塊世代を総括する』という本に出ている、子どもに付いて欲しい職業に関する調査(196ページ以降)があります。
著者によると、団塊の世代や、その周辺の世代は、自分が就きたかった「格好いい仕事」に子どもを就かせたがっている傾向があったというのです。たとえば、学者や芸術家、医者、教員、はては「自由業」まであります。
親がこれで、学校では社会経験の希薄な教師が「頑張れば夢は叶う!」「自分のやりたいことをやるのが正しい」「個性を生かせる仕事を探そう」などと吹聴(これも国旗・国歌否定同様、「偏った思想」には違いない)すれば、子どもが地味な労働を主とする職業を嫌うのは間違いありません。
もう終わったことなので、過去を断罪することはしません。しかし、これからの時代は、「選んだ仕事を好きになろう」「仕事でもそれ以外でもいい、社会の役に立ったり、人を喜ばせる生き方をしよう」「地域や職場で人とつながりを持とう」というような価値観が優勢にならなくてはなりません。そうでなければ、国が滅びます。
麻生氏が、「どんな社会」かはっきりさせるべきというのも、そういう価値観をみんなで共有しようという趣旨なのではないかと思います。
>ニートはニートで彼らのペースで、スローライフを
>ゆっくりと生きて行く事を世の中が認めても良い
この下りを見るにつけ、麻生氏には、人間的な優しさが備わっているのではないかという気がします。敢えて言うなら、麻生氏の言葉は「いろいろな材料を煮込んで出来た、複雑な味わいのするダシ」の味がするのです。
日教組や全教が言っている、憲法の理念やら●灰谷健次郎的な理想論から演繹した「個性が大事だ」「子どもと大人は対等だ」的発言が鼻につくのは、そこにその発言者の生きてきた人生というものが全く感じられないからです。代わりに、人間よりも、人権や理念が大切という傲慢な考えがありありと現れています。こういう連中は、「石油化学で合成した化学調味料」とでも言うべきでしょう。味が単調なだけでなく、取りすぎると精神に障害を来す恐れがあります。(笑)
もしかすると、麻生氏自身、政治家になるまでに、いろいろな回り道をしてきたのではないかという気がします。そうでなければ、このような深みのある記事を書くことはできないでしょう。
麻生氏というと、中国韓国びいきのマスコミに、紛争の火種を作り出す人物というレッテルを貼られていますが、それは一面的な見方でしかありません。
こういう人が閣僚に入ることが出来る時代になった、というだけでも、私は今の世の中に救いを感じます。
私は、首相としては、誤解されにくく志も高い安倍晋三官房長官がいいと思っていますが、麻生氏には外務大臣という最も重要な閣僚を、できれば5年10年と言った長い期間務めて、日本のもうひとつの顔になってほしいと願っています。
できるなら、この人と一緒に飲みに行きたいです。(笑)
★参考★
しかし、麻生氏の売りはそればかりではありません。麻生氏のすごさは、物事に対する卓越した洞察力と、借り物でなく自分の頭で消化した考えを述べる点です。麻生氏のホームページから、彼らしい鋭いものの見方をしている記事を見つけました。是非みなさんもご覧になってください。
月刊 嘉麻の里2006年3月号より
http://www.aso-taro.jp/kamanosato/index.html
(以下引用)
Not in Employment, Education or Training の頭文字を繋ぎ合わせてNEET。昔風の科白を日本語で言えば、「スネかじり」といったところでしょう。
このニートと呼ばれる若者が、このところよく問題視されています。少子化傾向の昨今、若い労働力が何も働かないでフラフラして過ごしているのは、人物経済上もったいない‥と考えるのは、大人側の論理としては正論だろうと存じます。
しかし此所は「正論」ではなく「異論」を述べる稿なので、私なりに別の角度からの異論を書いてみようと存じます。
日本は天然資源にも恵まれず、古来よりつつましく互いに助け合って生きて来る以外、生き残る方法は有りませんでした。しかし封建時代から明治の時代に入ると、工業化社会という、これまでとは全く異なった概念が新しく日本に入って来ました。以来、近代工業化社会の過渡期を経て、1970年代後半から80年代にかけて、工業化社会の成熟期に入っていったんです。
つまりモノの豊かさの達成が喜びで有り幸せだった時代が終わり、何が幸せなのかは、人それぞれに成ったんだと思います。モノの豊かさが達成された頃から、「総中流意識」という言葉に、日本は覆われたんです。
ところが時代は更に動いて工業化社会の成熟期が終わって、情報化社会とかIT社会と言われる局面に世の中が動きます。価値観も経験という値打ちも急激に大きく変化ました。
つまり、「良い学校に入って、良い会社に行って、良い人生‥」といった人生の目標通りに歩いてきた大人達は、ITだ、ICだ、ネットだ、チャットだ‥という情報社会の用語にすら対応できず、会社に於いては、窓際かリストラされていった世相を見ていた若者はどういう心理状態におかれたか‥という点に目を向けなけりゃ、ニート問題の本質が判らないんじゃないでしょうか。
最近よく聞かれる「参加させよう」とか「動機づけの手当」などは、ニート解消の為の標語だったり、手段だったりしています。 しかし参加支援と言いますが、「どんな社会」への参加を支援しようとしているのか、「どんな社会」になるのかが、ニート側には見えていない以上、効果があまり上がらないんじゃないでしょうか。ニートの他にフリーターという種もよく聞かされます。何処が異なるのか、その定義は私もよくは判りません。
また色々の統計を見ても、ニートの急増を示す根拠はハッキリしません。そしてフリーターもニートも、追い込まれて成らざるを得ない者と、あえて定職を持たないと選択した者とがあるように思います。
よく見てみたら、一人っ子で、そこそこの家庭に育ったニートの共通点は、大体中学校か、高校の時代に、成績不振、イジメ、教師との相性等で、学校生活に溶け込めなくなる。それで将来の進むコースはレギュラーというか通常のサラリーマン向きコースから除れ(原文ママ)、音楽のバンドや、インターネットを仲間と始めてニート人生が始まっているように思います。「何時の日かプロに‥」なんて夢は語るんですが、暫くすると実現できない現実を知り、気がつけばもうサラリーマン向きのコースにゃ今更戻れなくなっている。
長々と書きましたが、時代が急激に変化していった時には、何時の場合にも社会の中での身の置き場に迷う人が多く出たんじゃ有りませんか?
幕藩体制を破壊するのに大いに貢献した官軍側の下級藩士は、近代明治国家の創造には居場所を失い、無気力になっていたろうと想像します。
しかし当時は貧しく、生きていくのが大変な時代でしたから「武士の商法」とからかわれ乍らも、皆、懸命に生きて行こうと努力したんだと思います。しかし今は豊かです。働く意欲が無いのは中流でなく、下流だなんて書いて煽っても余り意味がないように思います。
全ての人が「仕事での自己実現を‥」なんて煽られりゃ、世の中は失意と落胆に満ち溢れる結果しか生みませんよ。
私は、豊かな時代には、「自己実現」をやりたくて頑張る奴は、思う存分やれば良い。しかし全ての人に創意工夫を求めて、「自己実現」を要求するのは間違っているのではないかと思います。
今の時代は餓死する程の貧しさが存在する訳じゃ有りません。ニートはニートで彼らのペースで、スローライフをゆっくりと生きて行く事を世の中が認めても良いんじゃ有りませんか。六本木ヒルズに住むのが幸せの証じゃないのはホリエモンの話に限りません。
負け組という名も気に入りませんが、80年の人生を終わる時に、「幸せな生き方だった‥」と感じられる人生は金銭だけじゃ買えないんじゃないかと思いつつニートの雑感とさせて頂きます。
(引用以上)
いろいろ突っ込む性質の文章ではないと思いますので、あえて私の感想を述べておきます。
まず、彼なりの視点で、現代が明治維新の頃とどう違うかという分析がきちんと出来ています。その核になっているのは「現代は以前と比べて豊かな時代である」という認識です。
また、ニートになりやすいタイプの若者の家庭状況など、不完全な面もありますが、自分なりに情報を得て、咀嚼していることが窺えます。
麻生氏はものすごい名家の出身です。しかも、皇族の方とも縁戚関係があります。顔はいかにも筑豊の荒くれ者(笑)系のこわもてですが、上流階級であると考えて間違いないでしょう。
それにも関わらず、これほどの認識を持ち、それを堂々と他人に対して発信できるのです。自分に対する自信もあるでしょうし、我々の知らないところで一般人とも交流があるのかもしれません。
また、現状に対する意見表明も、普通の政治家ではないということを窺わせます。
>「どんな社会」への参加を支援しようとしているのか、
>「どんな社会」になるのかが、ニート側には見えて
>いない以上、効果があまり上がらない
全くその通りでしょう。何しろ、仕事を必死にやるということと、自分の生き死との関連が薄くなってしまっているからです。大人の側としては「親が死んだらどうする」「税収が減ってしまう」などという理屈が立つのでしょうが、それはニートからしてみたらどうでもいいことなのです。
結局、大人の側も、ニートの側も、「自分のために働く」という考え方、つまり自己実現至上主義から抜け出せていないのです。大人は自分のために働けと言う。しかし、ニートの側は「俺はこれでいいんだ」と反論する。これでは、社会との接点は永遠に見いだせません。
>全ての人が「仕事での自己実現を‥」なんて
>煽られりゃ、世の中は失意と落胆に満ち溢れる
>結果しか生みませんよ。
すごいですね。政治家という職業にいる人が、ここまで透徹した認識を持っているとは驚きです。
私は、このブログで「夢を叶えるために頑張ろう」「努力すれば必ずいいことがある」的な、利己主義的自己実現の文脈を徹底的に批判してきました(もしくは、そのつもり)。それは、我欲の充足としての自己実現を達成できる人間は、世の中のほんの一握りの人間に過ぎず、それはほとんどの場合努力ではどうにもならないものであるからです。
麻生氏は、「きちんとした仕事をしてこそ立派な社会人だ」という考え方を批判しているように思えます。
「きちんとした仕事を・・・」という論理は、一見正論のように見えます。しかし、この論理が破綻するのは、「きちんとした」が何をもってそういえるのか、判断基準が全く曖昧なことです。
それが結局ニートの大量生産や、高年齢フリーターの増殖につながっているのは、彼らを育ててきた大人の側が、偏った「理想の仕事像」を無意識に伝えてきたからなのではないかと思っています。
一つの証左として、下の「参考」に取り上げた『団塊世代を総括する』という本に出ている、子どもに付いて欲しい職業に関する調査(196ページ以降)があります。
著者によると、団塊の世代や、その周辺の世代は、自分が就きたかった「格好いい仕事」に子どもを就かせたがっている傾向があったというのです。たとえば、学者や芸術家、医者、教員、はては「自由業」まであります。
親がこれで、学校では社会経験の希薄な教師が「頑張れば夢は叶う!」「自分のやりたいことをやるのが正しい」「個性を生かせる仕事を探そう」などと吹聴(これも国旗・国歌否定同様、「偏った思想」には違いない)すれば、子どもが地味な労働を主とする職業を嫌うのは間違いありません。
もう終わったことなので、過去を断罪することはしません。しかし、これからの時代は、「選んだ仕事を好きになろう」「仕事でもそれ以外でもいい、社会の役に立ったり、人を喜ばせる生き方をしよう」「地域や職場で人とつながりを持とう」というような価値観が優勢にならなくてはなりません。そうでなければ、国が滅びます。
麻生氏が、「どんな社会」かはっきりさせるべきというのも、そういう価値観をみんなで共有しようという趣旨なのではないかと思います。
>ニートはニートで彼らのペースで、スローライフを
>ゆっくりと生きて行く事を世の中が認めても良い
この下りを見るにつけ、麻生氏には、人間的な優しさが備わっているのではないかという気がします。敢えて言うなら、麻生氏の言葉は「いろいろな材料を煮込んで出来た、複雑な味わいのするダシ」の味がするのです。
日教組や全教が言っている、憲法の理念やら●灰谷健次郎的な理想論から演繹した「個性が大事だ」「子どもと大人は対等だ」的発言が鼻につくのは、そこにその発言者の生きてきた人生というものが全く感じられないからです。代わりに、人間よりも、人権や理念が大切という傲慢な考えがありありと現れています。こういう連中は、「石油化学で合成した化学調味料」とでも言うべきでしょう。味が単調なだけでなく、取りすぎると精神に障害を来す恐れがあります。(笑)
もしかすると、麻生氏自身、政治家になるまでに、いろいろな回り道をしてきたのではないかという気がします。そうでなければ、このような深みのある記事を書くことはできないでしょう。
麻生氏というと、中国韓国びいきのマスコミに、紛争の火種を作り出す人物というレッテルを貼られていますが、それは一面的な見方でしかありません。
こういう人が閣僚に入ることが出来る時代になった、というだけでも、私は今の世の中に救いを感じます。
私は、首相としては、誤解されにくく志も高い安倍晋三官房長官がいいと思っていますが、麻生氏には外務大臣という最も重要な閣僚を、できれば5年10年と言った長い期間務めて、日本のもうひとつの顔になってほしいと願っています。
できるなら、この人と一緒に飲みに行きたいです。(笑)
★参考★
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>麻生氏には外務大臣という最も重要な閣僚を、できれば5年10年と言った長い期間務めて
大賛成です。「首相=一番偉い人」という短絡的な決めつけでなく適材適所で役割分担をして欲しい。過去の歴史をみたって、外務大臣が日本の進路を決定づけたこともあるのですから。
>おごった考え方のように思います。
そうなんですね。仕事を通じた自己実現などしなくても、
十分幸福は得られるでしょう。インドやアフリカ諸国の
人々が、全て不幸だとは思えませんよね。
それなのに「彼らは抑圧されている」と決めつけるのは、
偽善でしかありません。
他に目を向ける、他人に関わる中でしか、幸福は得られないのです。
WBCで日本を応援し、買ったときの喜びというのは、
自己実現では説明できません。
そういう喜び・幸福があってもいいのです。
自分で運命を切り開きたい人は、そうすればいい。
しかし、今の社会は、全ての人間にそのような賭博的行動様式を
強いています。
その原因は、商業主義です。
少し努力すれば、何某かの地位や名声が得られると宣伝して
「プチ金持ち」から金をむしりとるわけです。
一番良い例が、資格試験予備校でしょう。
私も、その罠にかかった一人です。(笑)
しかし、やっと最近気づきました。
資格というのは、ただの手段なんです。
それをわからないで、自己実現用アイテムとして一般人を
洗脳している広告というものは、本当に罪深い。
トインビーという歴史学者が
「現代は共産主義との戦いではなく、広告との戦いだ」
みたいなことを言っていましたが、慧眼ですね。
安倍氏は幹事長・内閣官房長官という総理総裁への王道を歩んでいますが経験に於いて麻生氏に一歩譲るところがある。
実は後継総裁として想定されているのは麻生氏なのではないかと考えるこの頃です。
中国韓国の言いなりになって国立無宗教追悼施設を
作ろうとか言ってる「福田康夫」
宏池会とかいう国賊の集まりを母体にしていて
中国で売春婦とおたのしみ中に公安に踏み込まれた
「谷垣禎一」
だんだん面があくどくなってきている上に、
この期に及んでNHKを税金突っ込んで存続を狙う
「竹中平蔵」
この辺は論外でしょう。
東アジア共同体とやらまで一気に進みそうな福田が
もっとも危険なのは、言うまでもありません。
以来、影ながらほぼ毎回読ませていただ
いています。
自分のやりたいことや個性を生かせる仕事
ではなく人のためになることを、という
考えには毎回大変共感しています。
自分も大学4年の時に、自分にどんな仕事が
向いているのか?自分の適性は何か?
などと真剣に考え悩みましたが、
(そのせいでフリーターになりましたが)
軽い気持ちではじめた塾講師という仕事を
つうじ、生徒に感謝されたことから、
「身につけた知識や技術は人のために
使うもの」といった考えになりました。
そう考えてからは特に変に仕事の種類に
こだわらず、進路を考えられるように
なりましたし。
これからもちょくちょくお邪魔させて
いただくので更新がんばってください。
素晴らしい考えです。
それを教える側が信じること、その通りに行動することが
大切です。
私も、もてたいとか、偉くなりたいとか思いながら仕事
していたときは、いつも自分に不満だらけでした。
生徒に手を出してしまう馬鹿教師は、
「我」しかないんでしょうね。
自分が弱者だと言うことを、口には出せないが、よく
わかっているんです。だから、卑小な行為でその場限りの
欲を満たそうとしてしまうわけです。
どうか、またいらっしゃってください。
世間とは遊離した感覚もありますが、世間感覚を身につけようともしておられます。この点も誠実です。
議員も、政治家以前にまず仕事人であってほしいと思います。
もちろん、これは「教師」や「公務員」や「弁護士」にも
当てはまることなのですが・・・。