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宗教アレルギー

2017年04月30日 19時28分33秒 | 善悪中毒(最初に読んで)
聖書やキリスト教に関する本などを読むと「神様が一番正しい(最も善の存在)」とか「神様にさからうのは罪だ(悪い事だ)」などと書いてあるが、そんな話を聞いて納得する事ができたり、はっきりと理解できる能力がある人というのは、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べて中毒症状を起こしてしまっている、罪のある人間(罪人)だけではないだろうか?
「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前の、罪がない人間=「アダムとエバ(イブ)」には、善悪の知識はなかったのだから、当然ながらアダムとエバは「神様が一番正しい」とか「神様にさからうのは罪だ」などという話を聞いたところで、何が善で、何が悪なのか?などという善悪の判断など出来るはずがない。
つまり、「神=善」「神にさからう事=悪」という知識さえ持っていないという事だ。
そんなアダムとエバは、神様の話だけを忠実に守らず、ヘビの言う事を聞いてしまって「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べたのかも知れないが、そこに「悪意」などというものはあったのだろうか?
「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事がなく、罪がない人間というのは、ある意味「赤ちゃん」のような全く汚れのない人間という事になるかも知れないが、そんな善悪の判断など出来るはずのない人間が、どうやって「神様の話だけを忠実に守る事こそが善だ」とか「ヘビの言う事を聞くのは悪だ」などという事を理解できるのだろうか?
そんな善悪の判断をしようと思っても、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前の段階では、不可能ではないだろうか?
 
アダムとエバの物語では、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた後、エバは「ヘビに騙された」と言い訳をしただの、アダムは「女に騙された」と言い訳をしただのと語られているが、そのような言い訳をして自分を正当化しようとする知識そのものが「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事によって得られた知識であって、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前のアダムとエバは、そのような言い逃れをするような、ずる賢い人間ではなかったのではないだろうか?
つまり、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事がなかったから、何も分からないまま「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べてしまったのであって、その後、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事によって現れた「言い逃れ」や「ずる賢くなる」といった症状が、あたかもアダムとエバの本来の性質であるかのように語られているのは、どう考えてもおかしな事ではないだろうか?
 
そして、もはや「神様を信じる事は善である」とか「神様を信じない事は悪である」などと言い続けるほうが、いつまでも「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた中毒症状から抜け出す事ができずに、罪を持ち続ける事になってしまうのではないだろうか?
このような事に、ほとんどのクリスチャンたちは全く気付いておらず、ただひたすら盲目的に「神様だけを信じます!私は罪人です!どうかお許しください!」などと言い続けているように見えるのは僕だけだろうか?
そうやって、神を信じる事によって、自分の罪を許してもらおうとしているのだろうが、そのような行動には大前提として必ず「神=善」「自分=悪」という意識が働いており、その時点で、すでに「神」と「自分」という2つの存在を、善悪で裁いてしまっている。
キリスト教には「裁いてはいけない」という重要な教えがあるはずなのに、なぜ「神」と「自分」という存在を善悪で裁くのだろうか?
これでは「神様だけを信じます!私は罪人です!どうかお許しください!」などと言い続ける限り、「神=善」「自分=悪」という裁きを行い続ける事になり、キリスト教の「裁いてはいけない」という大切な教えに逆らい続ける事になってしまうので、どうやっても罪から逃れる事ができず、許しも救いも受けられないにもかかわらず、死ぬまで神様を信じ続けなければならないというマインドコントロールから抜け出せなくなってしまうのではないだろうか?
逆に言えば、「神=善」「自分=悪」という善悪の違いさえも理解できない、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前の罪がない人間=「アダムとエバ(イブ)」の状態に戻るほうが、本当の意味での許しや救いを受けることが出来るのではないだろうか?
 
他にも、キリスト教には「敵を愛せ」という重要な教えがあるのに、なぜアダムとエバの物語では、ヘビの話を受け入れた事が罪だという事になっているのだろうか?
「ヘビの話なんか聞くもんか!」という傲慢な態度では「敵を愛せ」という大切な教えに逆らう事になってしまい、それこそ罪になってしまうのではないだろうか?
敵であるヘビの話であろうと、素直に受け入れてあげたほうが「敵を愛せ」という教えを忠実に実践する事になるので、むしろ神様は喜ぶのではないだろうか?
そんな疑問も生まれてくるのだが、どういうわけか世間では、アダムとエバの物語では、ヘビの話を受け入れた事が「神様を裏切る行為でしかなく悪い事だったとしか言いようがない」という風に解釈されてしまっているようだ。
だが、そのような解釈に縛られてしまう事そのものが「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事による中毒症状であり、「神=善」「ヘビ=悪」という裁きを行い続けている、罪のある人間(罪人)の思考パターンなのではないだろうか?
 
なぜ、こんな話をするかと言えば、過去の僕自身が「聖書の誤学習の危険性」というものが存在する事を知らないまま、単純に「神様が一番正しい!」(神=善)とか「キリスト教を信じるのは絶対に良い事だ!」(キリスト教=善)などと思い込んでいて、それ以外の考え方がある事さえ知らなかった時期が、最も精神的にメチャクチャだったからだ。
もう7~10年前の頃だが、その頃の僕の頭の中は、世界中で大問題になっている「イスラム過激派」と同じような状況だった。
周りを見れば神様の教えを守っていない悪人だらけにしか見えず、この世は地獄だとしか思えなかったし、神様の教えを守りきれない自分の事も悪人なのだと思い込み、ならばイエス・キリストのように自ら死を選べば神様のようになれて、この世の全ての悪人たちを天国に連れて行けるのだと思い込み、自殺まがいな行為をした事も2回あった(詳細を知りたい人は「アスペルガー自閉症」カテゴリーの過去の記事を参照して下さい)
 
「良い事」や「正しい事」を求めれば求めるほど、良い人間になれて世の中も平和になるのだと思い込んでいたが、実際には「良い事」というのは「自分にとって都合の良い事」であって、「正しい事」というのは「自分にとって正しい事」でしかなく、それは「他人にとって都合の悪い事」とか「他人にとって間違っている事」になってしまっている場合も多いのだが、そんな事には全く気づかず「自分にとって都合の良い事」「自分にとって正しい事」を単純に「良い事」「正しい事」だと思い込んでいたので「良い事」や「正しい事」を求めれば求めるほど他人の気持ちや考え方が分からなくなり、周りは「面倒くさい人」「ふざけている人」「間違っている人」「何も分かっていない人」だらけにしか見えなくなっていた。
そんな状態では常に他人を避けまくるしかなく、または「何も分かっていない間違った人たち」に自分の正しさを証明しようと意地を張って死に物狂いで努力してみたり、他人を避けている事を悟られないように「人それぞれ」などという便利な言葉を使って良い人間のふりをするばかりで、本音で話し合える仲間はいなかった。
 
「人それぞれ」という言葉も、他人を理解するためではなく「だから自分は、このままでいいんだ」と利己的な目的で使っていたので、色々と面倒な事を言ってくる人がいれば「なんでオマエの言う事を聞かなきゃいけないんだ!人それぞれなんだから自分が何をしようと自由だろ!」といった感じで他人を拒絶し、結局は「人それぞれ」だと言いながら、自分にとって都合の悪い人の事は理解しようとせず、自分の心を閉ざしてしまっている事にさえ気づいていなかった。
そうやって相手を責める事によって、相手のほうが自己中心的な人間なのだと勝手に判断し、自分は自己中心的ではないという事にしようと必死になっているので、常に心に余裕がなく、ちょっとした事で誰かと争いが始まるばかりで、望んでいる事と実際に起こる事は矛盾だらけだった。
そして、こんな風に自分の人生がメチャクチャになってしまったのは、キリスト教のせいだと思ったので、キリスト教はカルト教団だと思い込んでいた時期もあって、その頃は、キリスト教会に行く事さえ恐怖に感じたりしていた。
 
そんな時「聖書の誤学習の危険性」や「物事を善悪で区別する事の危険性」などについて書いてある「平和の絵本」をインターネットで見つけた。
「平和の絵本」に書いてある内容は、当時の僕にとっては衝撃的で「神様やキリスト教を信じなくてもいい」という選択肢を示してくれているようで、一気に心が楽になって救われた気分になり、やっと自分が探し求めていたものに巡り合えた気がした。
まさに「クリスチャンになれば人生が変わる」の真逆のパターンだった。
とは言っても「平和の絵本」に書いてある内容を、ある程度ちゃんと理解できるまでには、何年かかったか分からない。
ここ1~2年くらいで、やっと少しずつ落ち着いた生活が出来るようになってきたように思う。
このような経験をしてきたので「神様やキリスト教を信じなくてもいい」という選択肢もある事を教えるほうが「救われる」という人もいるのだろうと個人的には思っている。
だが同時に「救われる」とか「天国に行ける」などという事は本当に良い事なのか?という疑問もある。
もしも「救われる」という事が起こってしまったら、それ以上、求めるものが何もなくなってしまう。
そしたら、その先の人生は、何を目的にして生きてゆくというのだろうか?
すでに「天国行き」まで決まってしまい、自分が望みさえすれば今すぐ天国に行く事も出来るというのに、まだこんな地獄を生き続けてみたいと思ってしまうのは、なぜだろうか?
そんな風に考えると、むしろ人間は救われていないからこそ「救われたい」という気持ちが生まれ、それがやる気を起こす原動力となり、常に何らかの目的を持って絶望する事なく生きてゆけるのではないだろうか?
このように考えてみると「人間は救われていないから救われている」という矛盾したような理屈も成り立つような気がする。
この事は、キリスト教の「すべての人間は罪人だ。なぜならアダムとエバが神様を裏切って、善悪の知識の実を食べたからだ。だが、イエス・キリストが全ての人間の罪を背負って死んで下さったから、人間の罪は許された。」という意味不明な話と同じようなものだろうか?
そんな話を今まで色んな人たちから何十回も聞かされたが、今でも心の奥底には「キリスト教に洗脳されて死ぬ所だった」という根深い恨みがあるし、実際にキリスト教が正しいのか間違っているのかという結論は、とりあえず横に置いておいて、とにかく「キリスト教は正しくない」という事にしなければ生きてこられなかった事情があるので、キリスト教を正しいものとして受け入れる事ができず、無理やり信じようとしてもアレルギー反応のように拒絶してしまう自分がいる。
「宗教アレルギー」とでも呼ぶべき症状だろうか?

とはいえ、もちろん世の中には、キリスト教を信じる事によって、人生が変わったという人も数多くいるだろうし、何が何でもキリスト教は正しいという事にしなければ生きていけない事情を抱えている人もいるだろうとは思う。
でも同時に、何が何でもキリスト教は間違っているという事にしなければ生きていけない事情を抱えている人もいるという事を理解して頂きたい。
「なぜ相手は、自分の考え方とは違う意見を必死に守り抜こうとしているのか?」という事情を真剣に考えようとせず、それぞれが「キリスト教は正しい!」「キリスト教は間違っている!」という具合に「自分にとって都合の良い事」「自分にとって正しい事」ばかりを主張し合って、決して自分の考え方は譲ろうとせず、相手のほうが自分勝手で傲慢だとか、心を閉ざしているとか、何か勘違いしているとか、全体が見えていないなどと脅しあっては、お互いが相手の考え方のおかしな部分をどこまでも探し出し、永遠に反論しあって、終わりのない議論を繰り返す・・・
そのような「王様病」の状態のままでは、両者が自分の考え方を譲らなくて当然ではないだろうか?
「自分にとって都合の良い事」「自分にとって正しい事」だけしか注目しないから、相手の事情を考える事が出来なくなり、「ゆずり愛の心」が育たなくなってしまって人間関係が崩壊してしまうのではないだろうか?
そして、イエス・キリストは「キリスト教を信じる事だけが絶対に正しい」という事にしてしまうと、上記のように、人間たちが自分の信仰だけしか認めようとしない差別主義者になってしまう危険性があるという事を、すでに分かっていたからこそ「敵を愛せ」という教えを広めたのではないだろうか?
 
また、新約聖書の「マタイの福音書10章34節」には、以下のようなイエス・キリストの言葉もある。
 
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。」
「わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」
 
あなたは、このイエス・キリストの言葉の意味を、どのように解釈するだろうか?
この文章を一読しただけでは、どう考えても、イエス・キリストは戦争の神様(悪魔)であるかのような気がしてしまって、仕方がないのではないだろうか?
でも僕は、上記のイエス・キリストの言葉は、そのままストレートに受け入れるべきではないかと思っている。
つまり、イエス・キリスト自身が「キリスト教だけを100%正しいと思ってはならない」という警告をしているという事だ。
キリスト教だけを正しいと思い込んでしまうと、どうしても異教徒の人々との対立を避ける事ができなくなり、愚かな争いが増える事になるという戒めについて、警告しているのではないだろうか?
 
それから、キリスト教だけで全てが解決できると思ってしまうと「愛する事」も「許しあう事」も「感謝する事」も、「神様の言うとおり」という命令に従っているだけになってしまい、本来の心で愛しあったり許しあったり感謝しあえるように、知恵を絞る事をしなくなって、すぐに何でも神様や信仰の力にばかり頼ろうとする事がパターン化されてしまい、本来の人類が持っている心が眠ったままになってしまう。
そのような宗教依存のような状況に陥ってしまえば、「本物の愛」も「本物の許し」も「本物の感謝」も存在しなくなってしまうどころか、「偽物の愛」「偽物の許し」「偽物の感謝」ばかりが、どこまでも増幅してしまい、世界に平和をもたらすどころか、混乱だらけの世の中になってしまう事が分かっているからこそ、それを心配したイエス・キリストは、人類を宗教依存の状態に陥らせたくないという優しさゆえに、あえて敬虔な信者を傷つけるような、どう考えても、自分の事を悪魔だと思われてしまいかねない発言をしたのではないだろうか?
 
平和の絵本「罰とイジメと自殺のロンド」
 
YUI「Kiss me」


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21 コメント

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活動日誌の返信 (かっさん)
2017-05-20 18:23:28
ユインシュタインさん、こんにちは。^^

ユインさんのおっしゃる「このルールに~!いや、こっちの方が~!!」とかいう様なのが、今あるような状態に人類をひきとめておく力になってるのは間違いないでしょうね。

戦争反対!戦争をとめる為!とか言いながら、考えの違う人たちに戦争を仕掛けていく、なんていうのは冷静に考えればギャグなんですが、人間は冷静さを欠くと、いとも簡単にそんな風になってしまうんですよね。

ただ例えば東郷さんの言ってた「殺されて死んだ(争いの)痕跡がない」縄文時代や古代社会の一部にもルールや秩序は当然あった(殺すなかれ、盗むなかれ等)と思います。

つまりルールとかが問題というより、それが展開する土台の社会の問題(プラス人間の先天的遺伝と後天的刷り込みによる補強によってそのような社会を強化しそのシステムを自己永続させるしくみ)で、罰もそうですけど、そういったのはみんな現行社会システムから必然的に出てくる、逆に言うとそうなるように意図して作られたシステムだからなんですね。

それでそのシステムが人間の欲求や行動にどんな風に作用、展開するかというと、例えば誰かが好きなこと(世界一周とか)をしたいと思うと、その好きなことを考えるのではなく、お金のことを考えて行動(お金稼ぎ)するとかいった、順番でいうと何時の間に逆になってしまうというのが典型例としてありますね。

わかりやすく言うと、好きなように生きる為には、好きなように生きづらい世の中の方を先ず変えたい、とかいった風になってしまうというような展開です。

このことは、誰もが熟考するに値する問題だと思いますね。
返信する
強者と弱者とルールと命令と罰 (ユインシュタイン)
2017-05-21 16:33:50
かっさん、こんにちは。
平和の絵本の活動日誌のサイト(下記リンク先のページ)から来られたんですね、ありがとうございます^-^
http://peaceactivity.blog50.fc2.com/blog-entry-1752.html#comment

僕も「ルール」=「悪」=「消滅すべきもの」とまでは考えていません^^;
ただ「ルール」というものには、色々と危険な部分があるなぁと前々から思っている所があって、その事を多くの人たちに、もっと深く考えて欲しい!という思いが強く出すぎて?(汗)
あのコメントは、かっさん宛てという形をとっていますが、実際には、多くの人たちに訴えかけるような書き方になってる気がします^^;

ところで「ルール」と「命令」って、たぶん同じものじゃないのかな?と思っているのですが、どうなんですかね?
よく考えてみれば、どちらも「誰かが誰かを強制的に服従させるためのもの」であって「違反したら罰(攻撃)を与えるもの」ですし・・・
それなのに、どんなカラクリがあるのか、とにかく「ルール」と言えば聞こえが良くて、「命令」と言えば聞こえが悪い^^;

そして、あのコメントで最も指摘したかったのは、ほぼ世界中の人々の心の中に「世界中みんなが仲良くしなければならない!」という命令(ルール)が、無意識のうちに存在してしまっているという事なんです。
それが原因で、様々な副作用が発生していて、世界中の多くの人々が苦しむ事になっているのではないかと・・・
そして、テロの問題も、北朝鮮の問題も、そして今回おっしゃっていた「ジョージアガイドストーン」の問題も、根っこの部分は同じ原因が関係しているのではないか?という可能性についてです。

「世界中みんなが仲良くしなければならない!」という命令(ルール)

この命令(ルール)に、世界中のすべての人々を、強制的に服従させるためには、一体どんなルール(命令)を作り出せばいいのか?

こんな無理難題としか言いようがない事ばかりを考え続けてしまっているから、いつまでも人類は世界に平和をもたらす事が出来なくなっているどころか、「人それぞれ」を認める事が出来なくなり、差別が生まれてしまい、差別的な考え方が憎しみや恐怖の連鎖を生み出し、愛情や思いやりなどの心の成長が阻害され、「人間不信」の状態から抜け出せなくなってしまっているのではないか?という事について、改めて冷静に考える必要があるのではないかと思っています。

あのコメントの中では「この世界は、どうやっても世界中の人々が同じ考え方にならない仕組みになっている。」という事について、赤道に住んでいる人と、北極や南極に住んでいる人とでは、何を「当たり前」だと考えるのかが、まったく真逆になってしまうという、1つの例を挙げてみました(この話は、イスラム教の人で「天国に行けば、いくらでも冷たい水を浴びる事ができる。」などと考えている人がいるらしい、という事からヒントを得ました。北極や南極に住んでいる人たちに「天国に行けば、いくらでも冷たい水を浴びる事ができる。」などという説明をした所で、何の説得力もないだろう・・・みたいな、苦笑)
他にも例を挙げれば、同じカレーを食べて「辛い」という人もいれば「甘い」という人もいるし、同じ温度の風呂に入って「あつい」という人もいれば「ぬるい」という人もいる。
アイスクリームで言えば「ハーゲンダッツ」が一番おいしいと感じる人もいれば「牧場しぼり」が一番おいしいと感じる人もいる(笑)
頭がいい人もいれば、そうでない人もいて、同じ国語の授業を受けているのに、国語のテストをすれば、100点の人もいれば、80点の人もいれば、50点の人もいれば、20点の人もいれば、0点の人もいる。
そして、100点の人が最も優秀かと思えば、100点の人は、どうすれば0点しか取れないという状況が生まれてしまうのか?という事については、0点しか取れない人よりも、まったくの無知だったりする。

人間の考えって、住んでいる地域や環境によって大きく左右されてしまうのは、ごく自然な事ですけど、それ以前に、遺伝子レベルの時点で、考え方が完全に同じにはならない仕組みになっているのではないかなと思っています。
それなのに、何らかのルール(命令)を作って、それに世界中のすべての人々を完全完璧に服従させる事など可能なのか?
そんな事をしようとしても、必ず違反者(服従できない人)が発生してしまうのは、どうやっても避けられない事実ではないのか?
違反者(服従できない人)が必然的に発生するという事を分かっていながら、違反者(服従できない人)には「罰」という名の不当な攻撃を与え、最悪の場合は、そいつを消滅させる(死刑)しかない、という事になっているのが、今の社会のシステムなのだと思いますが、出来る事なら、そんな事をしなくてもいい社会に変わって欲しいという願いは、理屈うんぬんという以前に、多くの人々が持っている願いではないでしょうか?
少なくとも僕は、今の社会のシステムに、あまり興味が持てません。


>そういったのはみんな現行社会システムから必然的に出てくる、逆に言うとそうなるように意図して作られたシステムだからなんですね。

「ルール」「命令」「罰」
こういったものが無ければ成立しない社会のシステムを、誰かが意図的に作ってきたという事ですよね?
だとすれば、こんな社会のシステムを、いったい誰が、どんな理由・目的によって作ってきたのか?
なぜ「ルール」「命令」「罰」などを作る必要があったのか?
その理由・目的は何なのか?

こういう事を考えていく必要があると思うのですが、僕が思うところでは、東郷さんが良く言っている「強者が弱者を攻撃して強制的に服従させるため」という事になるんじゃないかと思っています。
つまり、強者が「弱者を奴隷として扱いたい」もっと言えば「大量の働きアリを獲得したい」という理由・目的によって、「ルール」「命令」「罰」などが作られ、今の社会のシステムが作り上げられてきたのだろうなと思っています。
そして「ルール」「命令」「罰」が無くなってしまえば、強者は弱者を奴隷として扱う事が出来なくなり、大量の働きアリを失ってしまう事になる。
だからこそ、「ルール」「命令」「罰」は、何が何でも絶対に必要だ!と言って決して譲らず、「地球のため」「自然のため」「平和のため」などなど、色んな美しい?口実を使って、人々を無理やり納得させようとしているのだろうと思います。
犯罪者を罰しなくても、様々な教育などによって心の成長を促して、更生させればいいじゃないか!という話が、いつまでたっても進まない原因の1つに、上記のような背景があるのではないか?という気がしてなりません。


>好きなように生きる為には、好きなように生きづらい世の中の方を先ず変えたい、とかいった風になってしまう

上記で書いてきましたが、強者からの一方的な「ルール」「命令」「罰」の押し付けというのは、弱者にとっては迷惑で邪魔なものでしかないんですよね。
だから、弱者が好きなように生きる為には、まずは強者からの一方的な「ルール」「命令」「罰」の押し付けに歯止めをかけない事には、何も始まらないという事になるのだろうと思います。
とはいえ、「ルール」「命令」「罰」などがあるとしても、それらを「一方的な押し付け」と受け止めるのではなく、すべてを心から受け入れる事が出来るのであれば、そういう人は特に不満などを持つ事もなく、好きなように生きる事が出来ているという事になるのかも知れません。
でも、今の世の中では、誰か(強者)が意図的に作った「ルール」「命令」「罰」などを、すべて心から受け入れる事が出来ている人(弱者)というのは、あまり多くないのではないか?という気がします。
なぜ、多くの人(弱者)たちは、誰か(強者)が意図的に作った「ルール」「命令」「罰」などを、すべて心から受け入れる事が出来ないのか?
「ルール」「命令」「罰」などを受け入れる事を、「ごく自然なこと」であり「何の苦痛も感じない」あるいは「喜び」にさえ感じる・・・
そんな状況が、不自然な形ではなく、ごく自然な形で生まれるのであれば、それこそ成熟した社会という事になるのかも知れません。
そんな成熟した社会になっているのであれば、僕も「ルール」「命令」「罰」などの在り方について、あれこれ異論を唱える事はありません。
しかし、今の世の中では、それが出来ていない、あるいは、ものすごく不自然な形で、無理やり成熟した社会であるかのように見せかけようとする事に必死になっているからこそ、色んな副作用(反動)が生まれてしまい、その結果として「弱者から強者への復讐」という形で、テロ事件などの様々な問題が頻発しているのではないかと思っています。
このような今の世の中の状況で、「ルール」「命令」「罰」は絶対に必要だ!などと訴え続けてしまうのは、いかがなものなのか?(今すぐに無くせ!と訴えるのも、また違うのかも知れませんが・・・)
そんな事よりも先に、何かやっておかなきゃいけない事が、たくさんあるのではないだろうか?という疑問を、もっと多くの人たちに感じて欲しい(その中から驚くべきアイデアが生み出されるかも知れない)と思っているので、あれこれ異論を唱えているわけです。

そして、このまま社会のシステムを変える事が出来ないというのでは、いつまでたっても同じ事の繰り返しになってしまうので、今の社会システムの仕組みを根本から変えて行こう!というのが、東郷さんがやってる平和の絵本の運動なのかなと思っています。
返信する
Unknown (かっさん)
2017-05-22 09:05:16
自然発生的に出てくる共同体規約みたいなのと、人工的に支配、コントロールを目的に作られた脅迫命令ツールは別物ですね。

ただシステムの製作サイドは人類の中では超少数派なので強弱で言うと弱になるかと。

数では圧倒的に弱である少数で、強であるその他大多数を自分の都合の良い様にする為には、このやり方しかないのです。

でもこれに興味持たないと東郷さん流に言えば予防不可にもなるし、第一もったいないですぞ。

これらを理解することは自分の心を直視して理解するのと同義なので、世の中のことも色々とわかってきます。

このシステムのキモは善悪、強弱、優劣、上下左右なんでも良いんですが基準を設けて分断し、その他大勢にはお互いにイガミ合って貰って(つまり善悪中毒)世の中に対して恨みや不満を持たせ(そういう人は一段とコントロールし易い)見当違いな改善に勤しんでいてもらうことで問題の核心、非難の矛先が自分たちに向かないようにしてることです。

つまりそれらは自分たち少数派の安心安全の確保、快適に暮らしたいという願いとかなんでしょうけれど、その他大多数の我々はたまったものじゃないので、そんな人達をゴミ箱に捨てたくなる気持ちはわかりますが、まあ連帯責任というか、自分のことは棚に上げがちになるという問題がありますね。
返信する
Unknown (ユインシュタイン)
2017-05-22 22:27:46
かっさん、こんばんは^^
東郷さんのブログ(活動日誌)を、こっそり見ていた時から思っていたのですが、かっさんって、すごく難しい日本語を使いますよね?
それには、何か特別な理由とかあるんでしょうか?^^;

東郷さんのブログだったら、たぶんレベルの高い人たちが読んでいると思うので、こういう書き方でもOKだと思うんですけど、このブログを見てるレベルの人には、何をおっしゃっているのかが、ほとんどピンと来なくて「ポカーン」となってる人が多いんじゃないかという気がするというか・・・
まあ、僕自身が、そうなんですけど、かっさんの文章って、2~3回くらい読み返してみても、なかなか頭に入って来なくて、だんだん眠たくなってくるんですよね(汗)

なので、出来れば、このブログに書く時は「中学校の先生」にでもなったような気持ちで書いてくれると嬉しいなぁ、なんて思ったりするんですけど^^;

話の内容についてのコメントじゃなくて、すみません^^;
明日、また読んでみて、ちゃんと解読できたら、内容について、改めて返事を書きたいと思います。
返信する
Unknown (かっさん)
2017-05-23 00:49:18
こんばんは。^^

ユインシュタインさんに言われて自分の書いたものを読み返したのですが
>縄文時代や古代社会の一部にもルールや秩序は当然あった(殺すなかれ、盗むなかれ等)と思います。

と、ここの所が言いたいことから離れちゃった感じで、正確にはそういった社会では
一どうしたら殺す等の状況にならずにすむか。
二どうすれば盗む等の状況を予防できるか。
とかいった感じだったのではないかと想像します。

ユインさんが好きなアインシュタインも「大切なのは答えではなく、適切な問いで、適切な問いさえ出来れば答えは自動的に出る」とかいってましたけど、同感です。
返信する
Unknown (ユインシュタイン)
2017-05-23 17:24:09
ああ、なるほど、「なんだこれ?」と思わせるやり方だったんですね。
だったら、無理してまで幼稚な書き方しなくてもいいですよ^^;

>自然発生的に出てくる共同体規約みたいなのと、人工的に支配、コントロールを目的に作られた脅迫命令ツールは別物ですね。

僕が主張しているのは、後者ばかりかな?
そして、前者は(殺すなかれ、盗むなかれ等)という事ですかね?
で、これらを、ごちゃまぜにして話をしてしまっては、何が何だか・・・という事なんですね。

僕が今、このブログを書いているのも、昔の自分みたいな人が、ちゃんと前者(殺すなかれ、盗むなかれ等)のルールを守れる人間になって欲しいというのが目的だったりするんですよね。
でも、その為には、まずは「劣等感」や「罪悪感」を、なんとかしない事には始まらない。
だから、ついつい「ルールなんか守らなくていい!」「仲良くする必要はない!」みたいな変な説明をしてしまう(汗)
まるで、野球の長嶋監督みたいになってるかな?^^;

平和の絵本「罰は劣等感etc.を生む」
http://www.j15.org/Punishment/Inferiority/index.html

この絵本の登場人物、まるっきり僕の人生と同じすぎる(汗)
そして・・・

平和の絵本「私は悪い人間です」
http://www.j15.org/Picturebook-Sinner/index.html

こうなっちゃったのかな?(汗)

それから、強者と弱者の話については、かっさんのコメントを読んだ後、また一段と深く考えさせられると同時に、過去の親子ゲンカのことを思い出したりもしましたね^^;
僕の親は、お役所の仕事をしている人たちの事を、完全に「強者」だと思っているのですが、僕としては、世間の人々から沢山のクレームを受けつけたりしないといけないのだから、もしかしたら「弱者」ではないのか?と思った事がありました。
だから、親が、お役所の仕事をしている人に対して、ボロクソに文句を言っている時「お役所の人たちも色々と大変だろうから、弱い立場の人だと思って優しくしてあげたら?」などと説得してみました。
そしたら逆効果というか、火に油を注ぐじゃないですけど・・・

「なんで、あんな良い思いばかりしている奴らの事を思いやってやらんといかんのか!」
「弱い立場は、俺たちのほうに、決まっとるだろーが!!!」
「あいつらのほうが弱い立場だという事を、分かれと命令しているのか?」
「そんな事は俺には分からん!という事を分かってもらわないと困る!!」

まあ、その後も、あれこれ説得しようとしてみましたけど、何を言っても無駄でした(汗)
これと似たようなトラブルが、身内だけでなく、ご近所さんとも起こってしまったりして、もう、何が何だか分からなくなってしまって、毎日毎日、夜も眠れない日々が続いて苦しすぎて、どうしようもなかった時に、本気で神様に助けを求めて、天から降ってきたのが・・・

王様病トリセツ
http://blog.goo.ne.jp/rollingstar648000/e/20d456bfe7761f4fff85588ceb2a52be

これだったんですよね^^;
この考え方が良いか悪いかという以前に、あの時の僕の精神状態を治すためには、これしかなかった・・・
今でも「王様病トリセツ」の記事は、僕にとっては「神様からのプレゼント」だと思ってます^^;


・・・それにしても、頭の中に雲が掛かってない時は、ちゃんと見えるんですけど、そうじゃない時は、?????だらけになって、ずっと吐き気がおさまらなかったりするんですよね(汗)
自分でも、ある程度、脳みそのパターンは分かってるつもりなんですけど、使い勝手が悪くて、いまだに画期的なコツみたいなのが見つからない^^;
やっぱり、こういうのが発達障害の一次障害なのかなぁ?
200%頑張れば、一次障害が治ったかのように装う事は、ブログ限定では可能かも知れませんけど、最近は、それも、もう疲れてしまったというか・・・

やっぱり、強がって出来るフリをするのも、ほどほどにせんといかんですね^^;
「分からない」「出来ない」「助けて」
これらを、ちゃんと言えるのが、本当の「強者」なのかも知れないですね(笑)
返信する
Unknown (かっさん)
2017-05-23 22:20:22
本当の強者。。。嘘の強者。。。勇気とかのこと?

たぶんユインさんは普通のひとよりはずっとその資質に恵まれてると思うよ。

人と違うことに物怖じしてない感じだし、それは大事に育てていくべき資質だと思いますけど、他にも色々あると思うけど、たぶん自分ではそうは思えないみたいですな。

そうなると違う資質の人も同じ様に大事に出来ないというか許せなくなっちゃう訳なんですね。

気持ちはわかる。まあ自分も似たようなもんだから。^^

東郷さんが言ってるのは、まあそういった正しい=善 間違ってる=悪、みたいにしてしまう性癖によって生じる悲しいサガみたいなのを問題にしてる訳だけど、思うにそもそも誰かを説得できるとか思っている所が不幸の始まりなように思いますけどね。

ユインさんは自分か他人かどっちか間違ってる方が、その間違ってる資質を変えるべきだ~!とか思ってるんでしょうか?

そして「こっちが~いや、こっちの方が~!」とかいって、わかっちゃいるけど止められない?

たぶん人間は外部からの説得やら情報やらなんやらを必要としていない、本来自分でなんとか出来る存在なんだと思う。

その証拠にヘンな人だって、好きなことをして、気持ちよく、面白おかしく快適に生活してる人達は世の中に実際に大勢いるんですよ。

一応質問に答えておくと、本当のことを知るのはかなりキツイことなので、このブログの注意書き同様、私も何か書くときは細心の注意を払って、すでに入ってる人にはピンとくる(それでも説得できるとは思ってないし、せいぜい方向性のキッカケになれば、みたいな)まだ準備が出来ていない人には何だかわからない様にしているので(危ないので)眠くなったのなら大成功かな。

それでもユインシュタインさんが本当に平和を願い、それに向かって努力したい気持ちは本当だと思うので、似たような人間(少し先輩)のアドバイスとしては、先ず自分の中の戦争を終わらせることだと思うよ。

これはわからなくても信用して欲しいんだけど、ユインさんが気持ちよく快適に生活できるようになることが世界平和につながるんですよ実際、マジで。

とはいえ参考書みたいなのは必要かもなので、一応これを紹介しておきます。
https://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/419862268X/ref=sr_1_2_olp?s=books&ie=UTF8&qid=1495545343&sr=1-2
いつのまにプレミア本になってしまってました。。。

あんまり無理しないようにね。^^
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Unknown (ユインシュタイン)
2017-05-24 19:17:15
かっさん、色々と、ありがとうございます^-^
ところで、この記事は、読んだことありますか?

安保法案(戦争法案)の抗議デモに参加して「正義の味方」にでもなったつもり?
http://blog.goo.ne.jp/rollingstar648000/e/7a5e9012e303a5746db42d54ddb2863d

まあ、タイトルは「安保法案」とか書いてますけど、中身は、ぜんぜん、そんな内容じゃないというか、むしろ「安保法案」うんぬんと言って騒いでる世間の人々に、まったく別の視点から、ツッコミを入れてみようか?みたいな勢いで書いた記事なんですけどね^^;

とりあえず、今日のところは、これだけで。
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Unknown (かっさん)
2017-05-24 21:52:39
紹介した本とザ・シークレットはたぶんカラクリというか深いとこでは同じ分野だとは思いますが、ユインさんに向いているのはゼランドさんの赤い本だと思いました。

まあ、あくまで参考、試行錯誤の一環として有用かなと。
とにかくお互いに、人のことより先ず自分のことって感じですかね。
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なんか知らんけど教 (ユインシュタイン)
2017-05-25 12:43:21
今の僕は、ザ・シークレットよりも「なんか知らんけど教」のほうが好きですけどね(笑)
ゼランドさんの赤い本ですが、昨日、2件の本屋さんに行ってみましたが、在庫がないどころか、取り寄せも出来ないと断られてしまいました(汗)

>本当の強者。。。嘘の強者。。。勇気とかのこと?

「自分の弱点を見せる事が出来る強さ」みたいな感じですかね^^;
強がろうとするのは弱虫だけ・・・
だって強い人は強がる必要がないから。
それに「分からない」「出来ない」「助けて」
こんなセリフは、相手の事を信用していないと言えないですよね?
敵(だと思ってる人)に対して「分からない」「出来ない」「助けて」なんて怖くて言えないですよね?
まあ、そんな感じです^-^

>人と違うことに物怖じしてない感じだし、それは大事に育てていくべき資質だと思いますけど、他にも色々あると思うけど、たぶん自分ではそうは思えないみたいですな。
>そうなると違う資質の人も同じ様に大事に出来ないというか許せなくなっちゃう訳なんですね。
>気持ちはわかる。まあ自分も似たようなもんだから。^^

僕も似たような事を色々と考えてきましたが、実際には、すべて100%出来るなんて無理なんですよね(汗)
だから最近では「分かってるけど、それが出来ない自分」さえも許してあげようかなという所に行きついた感じです^^;

>東郷さんが言ってるのは、まあそういった正しい=善 間違ってる=悪、みたいにしてしまう性癖によって生じる悲しいサガみたいなのを問題にしてる訳だけど、思うにそもそも誰かを説得できるとか思っている所が不幸の始まりなように思いますけどね。
>ユインさんは自分か他人かどっちか間違ってる方が、その間違ってる資質を変えるべきだ~!とか思ってるんでしょうか?
>そして「こっちが~いや、こっちの方が~!」とかいって、わかっちゃいるけど止められない?

「王様病トリセツ」より以前の僕は、たぶん、ご指摘のとおりだったんじゃないかなという気がします(汗)
だって東郷さんの最初の本(善悪中毒)の「おわりに」の所に・・・

「人々の心さえ変われば、世界は自然に変わります。逆にいえば、何億人を殺してでも、人々の心が変わらなければ世界は変わりません。」
「親しい人2人に話をすることぐらい、難しくはないでしょう?」
「ご自身で説得することは難しくても、この本を読めと、貸すことはできるはずです。」
「善悪をめぐる錯覚の呪縛から、1つでも多くの心を解き放ってあげてください。」

こんな風に書いてあるじゃないですか!
まあ、東郷さんに洗脳されていたという事になるのかも知れませんね^^;

そう言えば、アインシュタインの言葉で・・・
「何も考えずに権威を敬うことは、真実に対する最大の敵である。」
という言葉がありますね(笑)

だから、どこかのコメントで「全部、言っちゃうね。」などと言いながら、4月1日に「王様病トリセツ」の記事の中で、あえて「善悪中毒や平和の絵本の活動なんてしなくていい!」と言わんばかりの事を書いてみました(東郷さんから、お叱りを受けるかなぁ?なんて思ってしまったのも、その為です^^;)
そして今では、善悪中毒や、平和の絵本の事を考えるのも、やりたい時だけやる、やりたくない時はやらない、という感じですかね^^
そんな風に意識していても、ついつい根詰めすぎてしまったりしますが^^;
これはもはや、時が解決してくれるのを、じっくり待つしかないのかな?
なんて自分でも思ったりしてます(汗)

ところで、かっさんに聞きたいんですけど、善悪、強弱、優劣、上下左右なんでも良いんですけど、こういった「二元論」って、人類に害悪をもたらすものでしかないと考えてますか?
僕の周りには、「二元論」=「悪」みたいな勢いの人が、時々いるのですが・・・
まあ、僕自身も、以前は、そんな風に思っていた時期がありましたけど、今になって考えてみれば「二元論」=「悪」だと考えてしまってる時点で「それ自体が善悪二元論でしょ?」みたいな、ツッコミどころ満載だなぁ・・・なんて思ってしまったり^^;
で、最近は、二元論によって人の心を縛る事も出来れば、二元論によって人の心を解き放つ事も出来るというか、要は、使い方の問題なのかな?なんて思ったりしてます^^

>たぶん人間は外部からの説得やら情報やらなんやらを必要としていない、本来自分でなんとか出来る存在なんだと思う。

この言葉は、僕が他人を説得する事に必死になりすぎて疲れ果ててしまってるのを心配してくれてるんですよね?
だから、それを中止させるために、そして「他人の説得ばかりしてないで、自分の幸せを先に見つけたら?」みたいな意味で、僕の事を(良い意味で)コントロールしようとしてくれてるんですよね?
その気持ちは嬉しいというか、ぶっちゃけ、このブログで僕がやってる事も、似たようなものなんですけどね^^;

でも、かっさんの気持ちを無視して「理屈だけ」で返事をするなら、それには同意できない!と言わざるを得なくなりますね^^;
だって、僕自身が、YUIとかアインシュタインとか、東郷さんとか・・・
他にも挙げればキリがないほど、沢山の人たちからの説得やら情報やらなんやらによって、ここまで来ましたから^^;
それらが無かったら、もうとっくに、どこかで野垂れ死にしてるんじゃないかなぁ?(汗)

YUI「fight」
http://www.uta-net.com/song/133652/
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