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障害者を殺せという神のお告げがあった?

2016年07月27日 19時21分38秒 | 平和の日記

植松聖(さとし)容疑者が、障害者施設「やまゆり園」で、重度の障害者19人を刺し殺した戦後最悪の事件についてですけど、障害者を大量殺人する事について、植松聖さんは・・・

「神のお告げがあった」

みたいな事を言ってたらしいね。
そして、事件の直後に、ツイッターで「世界が平和になりますように。」とか、つぶやいていたんだとか・・・

「平和」って何だろう?
「100点満点の本物の平和」って何ですか?

僕には良く分からないけど、みんな「平和」って何なのか、分かってるのかな?
なんか、そこら辺の事を、ちゃんと考えないまま、ひたすら「平和になればいい!」という事ばかりを、先走って主張してる人たちが、世界中に沢山いるような気がするんだけど、今回の事件を起こした植松聖さんも、そんな人間の1人だったのかな?
そんな主張をしてしまう人間たちが量産されてしまうのは、一体どこに問題があるんだろうね?

・・・で、犯人(植松聖さん)の父親は「教師」だったとかいう話で、なんか似たような事件が、以前にもあったような気がするなぁ(過去の記事)↓

森田都史くんを殺した中村桜洲の親は大学教授と民生委員
http://blog.goo.ne.jp/rollingstar648000/e/f025efdd4fc2552ab1dc7cbed99cbb9c

ところで、植松聖さんは「教師」を目指していたらしいけど、それって本当に「自分の心からの希望」だったのかな?
親が「教師」だったから、親からの期待もあったりして、色んなプレッシャーもあったりして、本当は教師になんか、なりたくなくて別にやりたい事があったけど、しつけが厳しすぎて、親から全く認めてもらえず、ひたすら自分の本音を殺し続けるしかなかった。
だから、必死に努力して、表面的には、礼儀正しくて、いつも明るくて、ニコニコして挨拶が出来る、今時では珍しいくらいの好青年だという印象を、多くの人たちに与える事が出来るような、ある意味「立派な人間」に成長する事ができた。
でも、心の裏側というか奥底には、不満ばかり溜まっていて、誰からも「自分の本音」を認めてもらえないという劣等感や絶望感に支配されていた。
なのに、表面的には、いつも明るくて、ニコニコしている・・・だって、それを親から「良い事」だと教えられたから。
けなげに、親からの教えを守り続けているから、どれだけ心に闇を抱えて苦しんでいたとしても、なかなか誰も気づいてくれない。
自分が苦しんでいる事に気づいて欲しくて、入れ墨を入れてみたり、変なクスリに手を出してみたりしても、お前はアホかと、悪者扱いされるばかり・・・
この世の人間どもは、みんな敵ばかりだ!
何も分かっていない奴らに、オレ様の本当の素晴らしさを証明してやる!!
おりゃーー!!!


・・・まあ、上記の文章は、僕が勝手に想像しただけの事なんですけど、なんか、こういうのに近いような心理状態が、今回の事件の背景にはあったんじゃないのかな?
犯人の年齢を考えてみても、26歳って言ったらね・・・うん、そうだよ、アレだよ(謎)
そんな事を、下記の絵本たちを読みながら、考えたりしてました↓

平和の絵本「一緒に行くよ」
http://www.j15.org/LifeDeath/Picturebook-Together/index.html

平和の絵本「子供を犯罪者に育てる方法」
http://www.j15.org/Picturebook-JuvenileCrime/index.html

平和の絵本「平和主義?」
http://www.j15.org/Picturebook-Pacifism/index.html


それにしても、名前が「」(さとし)って、なんかの信仰が入ってる気がするなぁ(汗)
ところでキリスト教の「書」には、障害者について、どんな事が書いてあるのかな?
テキトーにネット検索して、見つけたページなんだけど↓
http://www.bbbible.com/bbb/bbble212.html..htm

このページの後半あたりの「レビ記 21:16-24」っていう所を、ちょっとコピペしてみます↓


新共同訳1987
21:16 主はモーセに仰せになった。
21:17 アロンに告げなさい。あなたの子孫のうちで、障害のある者は、代々にわたって、神に食物をささげる務めをしてはならない。
21:18 だれでも、障害のある者、すなわち、目や足の不自由な者、鼻に欠陥のある者、手足の不釣り合いの者、
21:19 手足の折れた者、
21:20 背中にこぶのある者、目が弱く欠陥のある者、できものや疥癬のある者、睾丸のつぶれた者など、
21:21 祭司アロンの子孫のうちで、以上の障害のある者はだれでも、主に燃やしてささげる献げ物の務めをしてはならない。彼には障害があるから、神に食物をささげる務めをしてはならない。
21:22 しかし、神の食物としてささげられたものは、神聖なる物も聖なる献げ物も食べることができる。
21:23 ただし、彼には障害があるから、垂れ幕の前に進み出たり、祭壇に近づいたりして、わたしの聖所を汚してはならない。わたしが、それらを聖別した主だからである。
21:24 モーセは以上のことをアロン、その子らおよびイスラエルのすべての人々に告げた。

 
僕の勝手な解釈だけど、要するに障害者は「神を汚す存在」っていう事になるのかな?

「障害者は死んでくれたほうがいい」
「障害者を安楽死できるようにすべきだ」

上記の聖書の記述が関係しているのか?関係してないのか?という事については、僕には何も分からないけど、植松聖さんは、こんな主張をしてますね。
今回の事件のようなやり方は決して許される事ではないと思うけど、でも「どんな場合であろうと安楽死はダメだ!」と言い切ってしまうのは、どうなんだろう?
理想を言えば「安楽死なんてしなくてもいい社会を実現させればいい!」って事になると思うけど、なかなか時代がついてこないし、多くの人たちにとっては「自分には関係ない事」だったりするからね。
そう、こういう問題は、多くの人たちが「自分には関係ない事」として真剣に考えようとせず、マトモに取り合おうとしないから、障害者を抱える家族の人たちや、介護に関わる人たちが、どんどん社会から疎外されてしまって苦しみ続ける事になる。
そういう意味では、今回のような事件が起こる根本的な原因は、多くの国民たちが「自分には関係ない事」だと思って無関心でいる事にあるのかも知れないね。
そんな事を、下記の絵本を読みながら考えてました↓

平和の絵本「犯罪を減らさない方法」
http://www.j15.org/failure/Picturebook-Crime/index.html


テロ事件が世界中で繰り返される根本原因

2016年07月06日 17時59分10秒 | 善悪中毒(最初に読んで)

バングラデシュ(ダッカ)のイスラム過激派によるテロ事件で、日本人7人が犠牲になりましたが・・・
最近、世界中でテロ事件が起こったというニュースが頻繁に流れてますけど、なんで、こんな事件が繰り返されてしまうのか?
いきなり結論から言えば、世の中の多くの人々に「テロを起こした犯人たちの気持ちや動機を理解する」という視点が、すっぽり抜け落ちてしまっているから(あえて断言します)
犯人たちを「許せない!」と憎んで処罰するだけなら、誰にでも出来る。
でも、犯人たちの気持ちや動機を理解して、その理解を次の事件の予防に役立てることで、根本原因から解決しようと努力する人は、なかなかいない・・・
まあ、犯人たちを処罰するだけでも「一時的な抑止力」として少しは役に立つ面があるのかも知れませんが、それだけでは不十分で、やっぱり処罰しても処罰しても処罰しても・・・同じような事件は繰り返されるばかり。
いつまでたっても根本的に解決できないどころか、特に最近は、こんな感じの事件が世界中で蔓延化していて、どんどんエスカレートしてしまっているようにも感じる。
すでに、いつ日本でテロ事件が起こったとしても、まったく不思議ではない状況になっているのかも知れない。

ならば、テロ事件を起こした犯人たちの気持ちや動機を理解するためには、どうすればいいのか?
下記に、今回の事件に関係があるかも知れない「聖書」の言葉を並べてみます。
なんで「コーラン」じゃなくて「聖書」の言葉なの?と思うかも知れませんが、イスラム教では「聖書」も重要な書物であると認められているので、当然ながら「聖書」の事も知っておく必要があるからです。
それから、本来のイスラム教は「他の宗教にも寛容である」という事らしいので、それを考えれば、キリスト教の教えにも寛容である、という事になるのかも知れません。


↓↓↓ 今回の事件に関係があるかも知れない聖書の言葉 ↓↓↓

●人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。(創世記8:21)
●むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。(箴言13:24)
●なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。(ヘブライ12:6 )
●わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。(ヨハネの黙示録3:19 )
●わたしが命じたことをすべて、あなたたちは守らねばならない。他の神々の名を唱えてはならない。それを口にしてはならない。(出エジプト記 / 23章 13節)
●同じ母の子である兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友に、「あなたも先祖も知らなかった他の神神に従い、これに仕えようではないか」とひそかに誘われても、その神々が近隣諸国の民の神々であっても、地の果てから果てに至る遠い国々の神々であっても、誘惑する者に同調して耳を貸したり、憐れみの目を注いで同情したり、かばったりしてはならない。このような者は必ず殺さねばならない。(申命13:7-10)
●もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける。(申命記 / 11章 28節)
●それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。(マタイ25:41 )
●こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。(マタイ25:46 )
●主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。(テサロニケ手紙二 1:8-9)
●神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。(ペトロの手紙二: 2: 4 )
●だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。(ルカ12:5)
●信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。(マルコによる福音書 /16章 16節 )
●それゆえ、自分にして欲しいと思うことはみな、同じように人にもしなければなりません。(マタイ 7:12)
●異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。(テモテへの手紙一 / 6章 3,4)

↑↑↑ 今回の事件に関係があるかも知れない聖書の言葉 ↑↑↑


上記の聖書の言葉をまとめると・・・
すべての人間は罪人であって、幼いときから悪いことばかり考えているのだから、キリスト教を信じない者は誰でも、鞭打ちにして(暴力を使って)相手をコントロールしてでも、キリスト教徒(クリスチャン)にしてあげる事が「愛」なのである。
「そんなのは無茶苦茶だ!ヒドイじゃないか!なにが愛の宗教だ!」などと注意する人間がいたとしても、その者は高慢で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっているだけなのだ。
そのような高慢で何も分かっていない人間は、それが家族の者であったとしても、同調して耳を貸したり、かばったりしてはならない。
このような者は必ず殺さねばならない。
もし、この神の戒めに聞き従わないのであれば、呪いを受け、地獄に投げ込まれ、永遠に火で焼かれる罰を受け、滅びの宣告を受ける。
だが、キリスト教を信じて洗礼を受ける者は救われ、永遠の命にあずかるのだ。
あなたは、地獄で焼かれて滅びたいのか?
それとも、キリスト教を信じて永遠の命を手に入れたいのか?
あなたが永遠の命を手に入れたいのであれば、他の人にも同じようにしなければなりません。
つまり、キリスト教を信じない者たちを、鞭打ちにして(暴力を使って)相手をコントロールしてでも、キリスト教徒(クリスチャン)にしてあげる事が「愛」だというのは、こういう事なのである。
暴力を使ったとしても、それだけで相手の命まで無くなることはないが、キリスト教を信じなければ、地獄で焼かれて滅びることになり、永遠の命まで失ってしまう事を考えれば、どちらがマシなのかは明らかだろう。
つまり、暴力で相手をコントロールする事は「愛」や「正義」になりえるのであり、むしろ暴力を控えるほうが「愛」や「正義」から遠ざかる事になりかねないのだ。
このような神の健全な教えに従わず、異なる教えを説く者がいれば、その者は高慢で何もわからず、議論や口論に病みつきになっているだけなのだ。
そのような者は、それが家族の者であったとしても必ず殺さねばならない。

・・・こんな宗教、信じたいですか?(汗)
ちなみに、上記の文章は、僕がテキトーに解釈して書いただけなので、これが「本物のキリスト教の教えだ!」という意味ではありません。
ただ、イスラム教の人たちの中には、キリスト教の「聖書」を、パラパラと少し読んでみて、これが「本物のキリスト教の教えだ!」と誤解する人たちもいるかも知れません。
そして、そんな誤解をした人たちの中に、子供のころ親から虐待されたり、ずっと無視されたり、学校でも酷いイジメにあったりして、死ぬほど苦しんだ経験のある人がいたとしたら?
そして、大人になってから、世の中が見えてくると、同じように、虐待問題や、イジメ問題に苦しんでいる人たちが、世界中に数え切れないほどいる・・・
こんな地獄のような世の中になってしまっている原因は何なのか?
もしかしたら、聖書の教えが根本原因ではないのか?
そして、このまま、キリスト教が世界中に広まってしまったら、われわれイスラム教徒の命が危ない!
本来のイスラム教は「他の宗教にも寛容である」なんて、のんきな事を言ってるヤツらは、何も分かっていない大バカ者だ!
イスラム教だけに忠実な、オレたち「イスラム原理主義者」こそが、本当の正義なんだ!
だから「コーラン」が読めない人間や、キリスト教に寛容な態度を示す国の人間たちは、殺さなければならない!
さもなければ、われわれイスラム教徒のほうが皆殺しにされ、世界はキリスト教に征服されてしまうんだぞ!
なんで、お前らには、こんな恐ろしく重要な事が分からないんだ!!

・・・上記は、僕がテキトーに想像しただけの事なので、これが「テロを起こした犯人たちの気持ちや動機である」という証拠にはなりません。
でも、まったく関連性がないと言える証拠もないので、上記の聖書の言葉(これも僕が聖書の中から、テキトーに抜き出しただけです)や、上記の僕の解釈や想像などが、どの程度、今回の事件に関係しているのか?関係していないのか?
そこは、人それぞれ賛否両論があっていいと思います。
というより、むしろ多くの人たちで議論して頂けたら、ありがたいです。

このような話題に関心のある人や、最近テロ事件ばかりで、うんざりだ!と感じている人がいるなら、下記リンク先の「善悪中毒3部作」を読んでいただけたら嬉しいです。
http://www.j15.org/GoodEvil/index.html

・・・なんだ、結局は、人の不幸を利用しながら、本の宣伝をしているのか?
そう思われてしまうかも知れませんが、もちろん本の宣伝です。
でも、商売目的ではありません。(商売をするのが悪だという意味ではありません)
今回のテロ事件の犠牲になった、ご遺族の方や、その関係者の方々にとっても、上記の「善悪中毒3部作」を読んで頂く事は、今後の人生を、どう生きればいいのか?という事を考える際に、大きな助けになってくれるものと思います。
逆に言えば、それだけ内容が深い本なので、読みこなすのが大変だという面もあるのですが・・・
もっと多くの人たちが、この記事で書いたようなことを本気で考えてくれたら、今回のようなテロ事件を世界から無くしていく事が出来るのではないだろうか?
そんな願いがあるので、どうか、ご協力をお願いします。

平和の絵本「愛する人が殺されたら」
http://www.j15.org/Picturebook-Revenge/index.html

YUI「Green a.live」の歌詞情報
http://www.uta-net.com/song/118320/

・・・なんか泣けてきた(涙)

 

挨拶が遅れましたけど・・・お久しぶりです。
半年ぶりくらいに記事を書きますが、ここ半年くらい「次は何の記事をブログに書いてやろうか?」という事を考えるのを、いっさい断ち切って生活していたら、また今まで見えてなかったものが見えてきたり、気づいてなかった事に気づくことも、増えてきたような気がします。
上記で紹介した「善悪中毒3部作」を、最近また読み返してたんですけど、何年か前に初めて読んだときは「半分も理解できない感じだけど、なんかスゲェ!」という印象でしかなかったのが、最近では「かなり深い内容だけど、8割くらいは理解できるようになったかな?」という感じに変わって、少しは成長しているのかも知れません。
まあ、焦って成長しようと思っても成長できないというか、むしろ、焦って成長しようとするから、いつまでも成長できないという、悪循環にハマっていた部分もあったのかな?(汗)
最近は、だいぶ頭の中で考えている事が、まとまりやすくなってきたような気がします。
そして今「ブログで書くこと」が、いきなり天から降ってきた?ので、記事を書くことにしました。

今回、また「善悪中毒3部作」を読み返してみた感想としては・・・

「二千年の幻想」(聖書論、歴史編)
これは、キリスト教の「裁いてはいけない」という教えについて、どのように考えればいいのか?
という事を、「これでもか!」というほど、深く突っ込んで考える内容だと思いました。
今まで自分が「善」または「悪」だと思っていたものが、本を読み進める中で覆され、それもまた覆され、さらに覆され・・・
今まで自分は、なーんにも知らなかったんだな・・・という事に気づかされて、最終的には、何かが「善」だの「悪」だのと、簡単には語れなくなってしまいます(汗)
クリスチャンの人が読んだ場合でも「自分の信仰は、かなり未熟だった」と気づかされてしまい、読む人によっては、かなりショックを受けるような内容になっているかも知れません。
というのも、アメリカが日本に原爆を打ち込んだ事さえも、聖書の教えが関連している可能性を、完全に否定しきれないのでは?という疑問が出てきたりするからです。
もっと言えば「神」という存在そのものが、実は、残虐な悪の存在だったのではないか?という疑問まで出てくるかも知れないので、信仰レベルが中途半端なクリスチャンの人たちが読めば、もしかしたら、かなり混乱するかも知れません。
逆に言えば、キリスト教が嫌いな人が、この本を読めば、クリスチャンに対して、イジワルな質問をぶつけまくって困らせることさえ出来るようになるかも知れません(クリスチャンを、いじめてもいいという意味ではありません)

「隣人を愛せず」(聖書論、心理編)
これは、キリスト教の「愛さなければいけない」という教えについて、どのように考えればいいのか?
という事を、「これでもか!」というほど、深く突っ込んで考える内容だと思いました。
今まで自分が「愛」だと思っていたものが、実は「愛」ではなかったと気づかされて、ショックを受けてしまう人もいるかも知れません。
でも、そこに気づかない限り、「愛」ではないものを「愛」だと勘違いしたまま、グルグルと地獄をさまよい続ける人生から抜け出すことは出来ない。
自分はキリスト教を信じて、クリスチャンになったつもりなのに、なんだか上手くいってる実感がない・・・
そんな人は、「愛」ではないものを「愛」だと勘違いしてしまっているから、苦しいのかも知れません。
なぜ、そんな事が起こるのかと言えば、聖書に「愛さなければならない」と書いてある部分は、たくさんあるのですが、「どうすれば愛する事が出来るのか?」という方法論や思考例については、ほとんど何も書いてないのだそうです。
つまり、クリスチャンの人に対して「愛される側の相手の気持ちを、どのように考えればいいのか?という悩みについて、聖書では、どのページに、どんな教えが書かれているのですか?」という質問をすると、クリスチャンの人たちは回答できずに困ってしまうかも知れないという事です。
キリスト教は「愛の宗教」って言われたりするのに、なんで「愛される側(相手)の気持ちを考える」という重要なテーマが抜けてしまってるんだろうね?(汗)
でも、あえて言えば「自分がして欲しいと思うことを、相手にもしなさい。」というのが、聖書が教えている唯一の方法(これを「方法」と呼んでいいのか疑問ですけど)かも知れない、みたいな事も書いてありました。
でも、それだけだと、自分の好き嫌いと、相手の好き嫌いが、たまたま一致していた場合はいいけど、一致してなかった場合は、どうなるんだろう?(怖い)
「自分が好きなものは、相手も好きに決まっている!」と思い込んで、相手にとって嫌いなものを「受け取れ!受け取れ!」と、ストーカーみたいに、しつこく言い続けて相手を困らせながら、「自分は聖書の愛の教えを実践しているのだ!」と思い込んでしまう人間になりかねないのでは?
まあ、実際、そんな感じの人って、世の中にゴロゴロいますけど、そういった勘違い野郎どもを、少しでも減らしていきたい!という願いを込めて書かれた本だと感じました。

上記2つの聖書論についての感想文を書いてみましたけど、本当に色んな事に気づかされるという意味では、とても素晴らしい内容なんですけど、最後まで読んでみても、結局、はっきりとした結論は、何ひとつ書かれていないという終わり方なんですよね(汗)
なんで、はっきりとした結論が書けないのか?という事については、一番最初の「善悪中毒」の本に書いてあった内容から、自分なりに考えた事があるんですけど、とにかく今の世の中では・・・

●善いことをしろ。悪いことをするな。(正しいことをしろ。間違ったことをするな。)
●善を愛せ。悪を憎め。悪を攻撃しろ。悪を滅ぼせ。

この上記2行の「命令形」の文章を「ごく当たり前の常識」として持っている人たちが、あまりにも多すぎる(汗)
そんな状況のまま、「○×は良いことです。」「△■さんは悪人です。」という説明をすると、「ただ説明をしただけ」なのに、上記2行の「命令形」の文章を常識として持っている人たちは、「○×をしなければならない。」「△■さんを攻撃しなければならない。」という『命令をされているのだと受け取ってしまう』という事が起こりがちなんだとか(汗)
そう、「ただ説明しただけ」で「命令」したつもりはないのに、そこに、いつの間にか自動的に「命令」が発生してしまう。
つまり、上記2行の「命令形」の文章が「ごく当たり前の常識」として存在してしまっている世界では、何が良くて、何が悪い、誰が悪人だ、などと、あれこれ説明してしまう事は、いつの間にか多くの人たちに、いろんな「命令」を発してしまっているのと同じ状況になってしまう(汗)
だから、はっきりとした結論が書けないという事なのかな?と思いました。
本を読んだ人たち全員が「これは、ただの説明であって、命令ではない」という受け取り方が出来るのであれば、何が良くて、何が悪いんだ!などと、もっとあれこれ自由に言いたいことが言えるのかも知れないけど、少なくとも今の世の中は、まだ、その状況を解決できていない。
だから、まずは「善悪中毒」への気づきを、世界に発信していく事が大切なのかな?

そして最後に「善悪中毒3部作」を書いた、東郷潤さんの、一番の目的って何だろう?
という事について、僕がテキトーに想像した事を書いておきます。

まあ、「善悪中毒3部作」に限らず、「平和の絵本」にも言える事なんですけど、一見しただけでは、どう考えても、聖書やキリスト教への反発のように見えてしまって、仕方ないんですよね(汗)
たとえば、この絵本とか↓

平和の絵本「宇宙の異教徒」
http://www.j15.org/Discrimination/Picturebook-Pagan/index.html

平和の絵本「私は悪い人間です」
http://www.j15.org/Picturebook-Sinner/index.html

でも、「本物の信仰を持っているクリスチャン」にとって最大の敵は誰なのか?という事を真剣に考えてみると、キリスト教に対して、はっきり反発してくる人たちよりも、むしろ「自分の栄誉のために、信仰心もないのに、形だけクリスチャンを名乗る人たち」のほうが、タチが悪いのではないか?
だって信仰心なんて無くても「私はクリスチャンです。プロテスタントです。」などと言えば、それだけで人からの信頼を得るのは十分であって、わざわざプロテスタントのクリスチャンである証拠を提示する必要もなく、いくらでもクリスチャンを名乗ろうと思えば名乗る事が出来てしまうし・・・
もっと言えば、信仰心なんて無くても、聖書の言葉をうまく利用すれば「お前が死ぬことを神は望んでおられるのだ」などと言って、人殺しをすることさえ出来てしまう(決して殺人を推奨しているわけではありません、汗)
そんな事を繰り返してしまうと、聖書の言葉を悪用することに依存してしまって、病みつきになって抜け出せなくなって・・・
でも、そんな状態にまでなってしまっても「自分は神に選ばれた特別な存在なのだ!」などと思い込んでしまったら、もはや何から手をつければいいのか分からない異常者へと変貌してしまう危険性さえあるのかも知れない(汗)
そんなヤツらが「指導者」にまで登りつめて、変な教えを広めてしまうから、どれが本物のキリスト教で、どれが偽物のキリスト教なのかが、分かりにくくなってしまう。
だから、偽物のキリスト教を見て「本物のキリスト教は、暴力団と同じだ!」などと誤解して反発するような一般の人たちが増えてしまう(暴力団を悪だと言っているのではありません。その件については、このブログの過去の記事、下記リンク先を参照して下さい。)

「言い訳するな!」「口ごたえするな!」「態度が悪い!」などの間違った教育が犯罪者や暴力団を生んでいる
http://blog.goo.ne.jp/rollingstar648000/e/d7dc8d96f991d351bf3fa6c4430553b3

そして、上記のような誤解の積み重ねが、もしかしたら世界中で色んなテロ事件などが起こる原因になってしまっているのかも知れない。
そう考えるなら、本物の信仰を持っていないのに、自分の栄誉のためにクリスチャンを名乗る人間たちを、消滅させる必要がある。
でも、そのために暴力に訴える必要はなく、ただ偽物の信仰に、だまされる人たちを減らすだけでいい。
だまされる人たちがいなくなるという事は、偽物のキリスト教の指導者たちは、誰からも信用されなくなってしまうという事だから。
という事は、一般の人たちの中に、キリスト教に対して、イジワルな質問が出来る人間を増やせば、偽物の信仰でクリスチャンを名乗る人間たちは、勉強不足でマトモに回答することができず、誰からも信用されなくなって、栄誉を手に入れることも出来なくなるので、やがて偽りのクリスチャンたちは、自分がしている事のバカバカしさに気づいて、自然と消滅していく事になる。
そうすれば、最終的には、本物の信仰を持っているクリスチャンだけが生き残ることになって、変な教えを広める人間たちがいなくなれば、正しい教えだけを広める事が出来るようになるし、キリスト教を誤解して反発してくる一般の人たちを無くすことも出来る。
逆に言えば、キリスト教に反発する人間が、世の中にたくさんいるという事は、それだけ本来の信仰とは、かけ離れた変な教えを広めてしまっている連中が、世の中にゴロゴロ存在しているという証拠でもあるのかも知れない。
だから、このままではいけないと思って、あえて、キリスト教にとって都合の悪いように見える内容の本を書いた。
そう考えれば、東郷潤さんは「本物のキリスト教に貢献している」と考えることが出来る。
もっと言えば「本物のキリスト教とは何なのか?」という事さえ、今はまだ分からない人たち(東郷潤さんも、そう言ってるし、僕も同感なんですけど)であろうと、「善悪中毒」への気づきを世界に発信していく事によって、本物のキリスト教への貢献が出来るという事になるのかな?
更に言えば、表面的にはキリスト教に反発している人間のように見えるので、イスラム過激思想の人たちから命を狙われるリスクを減らす事まで出来る?!

まあ、僕の頭の中では、なんとなく考えがまとまって来たような気がするんですけど・・・
でも、これも僕がテキトーに想像しただけの事なので、「これが正しいんだ!」という意味ではありません。
ましてや、「このように考えなければならない。」という「命令」をしている訳でもありません(汗)