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善悪中毒について無知な人は、このブログを読むと99%の確率で心の健康を害します。まず下記リンク先サイトを一読して下さい↓

川崎3人転落死で元職員に死刑判決

2018年03月22日 17時31分47秒 | 善悪中毒(最初に読んで)
犯人は死刑にすればいいの?
それって、犯人がした事と同じ事をしてるだけじゃないの?
なんで「人を殺す」という方法でしか物事を解決できない人のマネをする必要があるの?

この問題は「人を殺す」という方法でしか解決できないんだ!

そんな風に思ってるんだよね?
あなたたちが、そんな手本を見せるんだったら、世の中から「人を殺す」という方法でしか物事を解決できない人たちを減らす事なんて出来るわけないじゃん?

平和の絵本「罰は、さらなる犠牲者を生む」
http://www.j15.org/Punishment/Victim/index.html

セックスって何ですか?

2017年08月16日 19時19分39秒 | 善悪中毒(最初に読んで)
学生さんたちは、今は夏休みを満喫しているのかな?
それとも、ヒマすぎて死ぬほど苦しい!っていう人もいるのかな?(笑)
 
そういえば、僕が中学1年の時の話なんだけど、夏休みに入る前に、担任の先生が夏休みの過ごし方や注意事項についての話をしている途中で「夏休みは友達の家に遊びに行ったりする事が多くなるだろうけど、お前たちは、まだ中学生だから、セックスだけは絶対にしたらいかんぞ!」とか真剣な顔で言ってたんですよね。
でも、当時の僕は「セックス」という言葉を聞いたことが無かったので、何も分からないまま「セックスって何ですか?」という質問をしてしまいました^^;
そしたら、クラス全体から、クスクスうすら笑いのような声が聞こえ出したりして、担任の先生も、さっきまで真剣な顔だったのに、急に、ニヤけたような顔に急変して「えっと、それはだな~、う~ん、知らないなら知らないでもいいんだが・・・どうしても知りたければ、あとで職員室まで聞きに来い!笑」みたいに、何かごまかされた感じだったし、クラスメイトからも「お前セックス知らんのか!笑」とか、バカにされるような事ばかり言われるし(汗)
担任の先生が、真剣な顔をして「まだ中学生だから絶対にしてはいけない!」とまで言っている事なのに、それは何なのか?と聞けば「知らないなら知らなくてもいい」って、一体どういう事?という疑問は残ったものの、結局、職員室には行かなかったので何も分からないまま・・・
そして、セックスとは何か?という事が理解できたのは、ちょうど20歳の頃に、インターネットを使い出すようになってからでしたね(汗)
やっぱり、色々と変な事を調べたくなっちゃうんだろうね^^;
とはいえ、いまだに僕は実際の経験が無いので、本当の意味では理解していない、いわゆる「童貞」というやつになるのかな?(汗)
もう、いい加減、風俗でも何でもいいから1回だけ経験してみたいな~とか考えてしまったりもするけど、それ以前に、今は体力がなさすぎて、まだ、その段階でもないというか(汗)
それにしても、僕が中学1年の頃なんて、まだインターネットとか普及してなかった時代なのに、なんで「セックスとは何か?」という事を、中学1年なら誰でも知ってて当然みたいな状況になってたんだろう?(汗)
それこそ、最大の疑問なんだけど・・・
 
ところで「月曜日の朝、スカートを切られた」という曲が収録されている、先日発売された欅坂46のアルバム「真っ白なものは汚したくなる」について、痴漢などの犯罪を助長する表現だ!という声があるみたいですね(汗)
最近、Amazonでコメントを書いたりしてたんですけど↓
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3FNVWQG79ZYLY/ref=cm_cr_arp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B072KRPMTB
 
ここに、かなり善悪中毒レベルが高そうな、だいぶ変わった人がいたので、色々とコメントをやり取りしてみたんですけど、何を言っても、まったく理解を示してくれる気配なんて無いですね(今さっき、また見てみたら、相手のコメント、すべて削除されてるし、汗)
とにかく、ややこしい人だったんですけど、そういう人を相手にながら色々と考えを巡らせていたら、7月22日にアルバムを買った時点では気づいてなかった事にも、たくさん気づくことが出来て、結局、自分自身の中で、かなりの収穫があったように思います(笑)
まあ、今回の議論のレベルは、以前「宗教アレルギー」の記事で、かっさんと議論を繰り返した時に比べたら、屁のツッパリでもなかった感じでしたけどね^^;
かっさんとの議論で、鍛えられていたお陰かも知れません(笑)
 
・・・というワケで、ちょうどいい機会なので、僕が「障害年金2級」に合格した時に提出した文章の最初らへんの部分を、下記にコピペしておきたいと思います(謎)
この文章、けっこう個人情報が混じってるのが気になってしまったので、あれこれ修正する事も考えたんですけど、もう、かなり古い情報なので、どーでもいいのかな?(汗)
まあ、ほんの少しだけ「●●」という黒丸の文字で修正してみたけど(おい)
内容としては、下品な話や、怖い話などが混じっていて、多くの人がドン引きしそうな内容なので、そういうのが苦手な方は、無理して読まないで下さい^^;
それから、正しい事や真実が書かれているとは限らないので「物事を、すぐに鵜呑みにしてしまう傾向が強い人」も、読まない事を勧めておきます。
あくまでも参考程度にして下さい。

●●●●● コピペ開始 ●●●●●
ケーキ屋に勤務していた男性と 同じ職場で働いていた女性との間に 長男として生まれ 身体的な障害のようなものは無かった。そして どちらかと言えば笑う事が多く 泣く事が少ない あまり手の掛からない子供だったと 母親からは聞いている。人見知りも ほとんど無いと言って良いくらいだったそうだが 活発というほどでもなく 母親が言うには「ごく普通の子供」だったらしい。それで 歩き始めたのも1才1ヶ月くらいの時期だった。その頃の子供の頃の写真を見ていると ほとんどが真顔で写っていて 笑顔やピースサインなどのポーズを取って写っている写真は数少なかった。その数少ない笑顔の写真の場合は あまりにもワザとらしい 円満すぎる笑みを作っているように見える写真ばかりで 「自然な笑み」と思えるような写真が見当たらなかったような気がする。またピースサイン姿の写真には 指2本(人差し指と中指)のサインだけでなく 指1本(人差し指)だけを上げたり 指4本(親指以外)を上げたりしている写真もあった。2~3歳の頃には 子供用のおもちゃの乗り物(車の形をしたもの)に興味を示したのか その車の形をした乗り物は 足でこいで進ませるようになっていたらしいが 親や親戚も驚くほどの「スピード狂」で ものすごい速さで乗り回していたらしい。曲がり角も その速さの勢いのまま曲がったりしていたが 止まる時は急ブレーキをかけていたらしい。この様子を見て 親は一瞬「この子は将来 F1レーサーにでもなるんじゃないか?」などと思ったらしい。また 同じくらいの時期に キリスト教会にも頻繁に連れて行かれていて 誰から習ったか知らないが 親が知らない間に ピアノが少し弾けるようになっていたらしい。使っていたのは おそらく右手だけだったようだが「イエスさまがいちばん」という 教会の曲ばかりを弾いていたそうだ。同じ頃だったらしいが 自分の体の大きさよりも大きいような テニスのラケットを持って 大人であれば手で持つ部分を 腰と肘あたりで挟んだりして持っていて その体勢でラケットを振り回して テニスボールの打つ練習などもしていた(だいたいラケットにボールは当たっていた)らしい。
 
3歳9ヶ月くらいの頃から大川中央保育園に通うようになると 通園用のカバンに非常にこだわりを示したようだった。保育園に通園し始めて数日間で「もう保育園には行きたくない!」と泣き叫んでいたらしいが 母親が「保育園に行かないなら このカバンも捨てるよ?!」と言ったら「カバンは捨てたらダメ!」と言って必死に抵抗し カバンを捨てられたくないが為に イヤイヤながらも保育園に通い続けていて どうにか通園にも慣れていったらしい。保育園では 例えば 先生がみんなに話をしている時には 他のみんなはジッと動かずに座って話を聞いているのに 僕だけはカバンを肩にかける為のベルトの部分に かじり付いている場面が多く 先生の話を聞いているのかどうか良く分からない感じだったらしい。そして このカバンのベルトの部分に かじり付く行動に歯止めが利かず ベルトが ちぎれてしまって 肩にかける事が出来なくなり 母親が縫い直していたらしい。そのように縫い直しても また同じようにベルトを噛みちぎる行動を繰り返し続け その度に何度も何度も母親が縫い直す事を繰り返していたが 卒園する頃には ベルトの長さが短くなりすぎてしまって 肩にかけられないくらいの長さになってしまっていたらしい。この噛みちぎる行動が原因なのか分からないが 生まれた時は 歯の噛み合わせは正常だったらしいが いつからか不正咬合になってしまっていたようだ。そんな感じだったが 仲の良い友達の数は それなりに数人はいたようで 友達の家に遊びに行ったり 友達の誕生日パーティーなどにも参加したような記憶もあり 保育園内で 特に仲間外れにされるほどの存在ではなかったようだ。保育園の先生から まず褒められた事は 入園した当初から すでに時計の「時」だけが読めていたという事で 例えば 時計の針が11時を差したら「11時!」と言ったり 12時になったら「12時! いいとも!」などと言っていたらしい。どうやら他の子供たちは この年齢では まだ時計の「時」さえも読めない子が多いらしい。逆に 保育園の先生から怒られた事で 一番印象に残っているのは 先生が「トイレに行きなさい!」と言ったので トイレに行って ちょうど小便がしたかったので用を足したが その後ずっと そのトイレに立ち尽くしていたら 先生がトイレまで探しに来て「どうして戻って来ないの?!」と怒られた事だった。意味が分からなかった。先生は「トイレに行きなさい!」と言っただけで「戻ってきなさい」とまでは言わなかったからだ。ちなみに 保育園のおやつで「ドーナツ」は 油くさくて食べるのが苦痛だった記憶がある。また 保育園の近くは わりとオートバイが通る事が多くて オートバイが「ブーン!ブッブーン!ブッブーン!ブッブーン!・・・」などと通り過ぎて行く度に 保育園の部屋の窓から そのオートバイを見ながら 同じように「ブーン!ブッブーン!ブッブーン!ブッブーン!・・・」というように いつもマネして口ずさんでいた記憶もある。年長さん(「うめぐみ」だったと思う。その前が「ばらぐみ」「さくらぐみ」だったかな?)になると 絵を描くような事も教えられていたが 「母親の絵を描く」という課題で 自分の母親の顔が思い浮ばず 他人が描いた母親の絵をマネして描いた(カンニングになるのか?)記憶がある。また うめぐみ(年長)の全員(約30人くらい?)での 楽器演奏の練習があった時は 僕はトライアングルを叩いていたが トライアングルを叩くタイミングが全く分からなかったので テキトーに叩いていたら 先生からキツイ口調で怒られて 集団の中で僕だけが 特別に個別指導のような練習をさせられた記憶もある。だが 逆に 卒園旅行?のようなもので バスに乗って「イモほり」の体験学習?に行った時に バスの中でNHKの「みんなのうた」で流れていた「ありがとう さようなら」を歌ったら(歌詞を覚えていた訳ではなく 父親が 事前に歌詞のメモを書いてくれた気がする)その「ありがとう さようなら」という歌が 卒園式で歌う歌に採用される事になり それまでの卒園式では別の歌が歌われていたらしいが 大川中央保育園の歴史を 塗り変える事をしてしまったようだった。最後に 保育園の卒業記念の作文のようなものに「将来の夢」のようなものがあったが それには「ぼくはおおきくなったら くつやさんになりたいです どうしてかというと くつをつくったことがないから」と書いてあった。少し笑えた。理由が理由になっていないような気がするというか・・・まあ 子供は正直だし 大真面目に書いたんだろうから そんな事を書くくらいが ちょうど良いんじゃないかと思う。その保育園の頃 自宅では何をしていたか良く思い出せないが テニスボールを打つ遊びは 結構 長く続けていた記憶がある。その為か 近所のおじちゃんからは「将来はテニスの選手になるとか?」などと聞かれたりもした記憶があるが 別にそんなつもりは無く ただ単にボールを打つのが面白いので打っていただけだと思う。また 昆虫のセミを捕まえたり セミが抜け殻から出る前の状態を家に持って帰って来て 自宅の暗い部屋のカーテンに付けたりして 羽化する所を観察したりもしていた(この方法は 父親から教えてもらった)他の昆虫や生物にも 色々と興味があったようで 昆虫図鑑や生物図鑑など4冊くらい持っていたが そのうちの2冊は なぜか全く同じ図鑑だったので(予備用?)実質的には3種類の図鑑を持っていた。また 僕には弟が1人いるが その弟が 回転中の扇風機に触ろうとすると 僕は「危ない!危ない!」と泣き叫びながら 弟が扇風機に触れるのを食い止めようとするような 優しさを感じられる面もあったらしい。また 小児科の病院などで 他の子供が泣いていたりすると それにつられて泣いてしまう(泣き出す前は 必死に涙をこらえようとする表情を見せたりする)ような感情的な面も割とあったらしい。そして 小学校入学の直前に 春休み?の時期だったか 水泳教室の体験入学のようなものがあって タダで1週間だけ水泳教室に通うことが出来るという事で通ってみた。だが 通い始めて3日くらい?で 水泳教室に行くのを嫌がるようになった。母親も その理由が最初は良く分からなかったらしいが 良く聞いてみると 泳ぐのが嫌なのではなく 水着に着替えたりするのが上手く出来なかったりして 何か嫌な事があったらしく(自分でも何となく記憶があるが とにかく着替えるのが極端に遅くて 他人はさっさと着替えてプールに行ってしまうのに 自分1人だけ いつも取り残されるような感じになっていたような気がする。着替え方を教えるような先生も いなかったような気がする。)それで行きたくないと言い出すようになったようだ。その事で かなり泣きわめいていた記憶があるが 母親が「最後まで続けたら 何か良い事があるかも知れないでしょ?」というような説得を何回もしていたら やっと応じたようで その後も 嫌々ながら 何とか1週間 通い続けて 泳ぐ事自体は苦手ではなかったようで 9級(初級?)から1つ上がって 8級の賞状がもらえたので それで笑顔で喜んでいたらしい。だが 母親が その後も水泳に通い続けるかどうかと聞いたら やっぱり嫌だと言って その後 水泳教室に通う事はなかった。
 
そして 大川小学校に上がると いきなり知らない人だらけになってしまい 友達はなかなか出来ず 自分から話しかけて友達を作ったという記憶がないように思う。そんな様子でも 誰かが話し掛けてきたりして いくらか話が合いそうな友達は何人かいたようだった。だが そんな中には 僕の事をいじめの対象としてくる悪質な友達もいた。小学1年の頃だったと思うが その悪質な友達に ずっと付きまとわれてしまい 殴られたり蹴られたり 様々な暴力を受けていたような記憶がある。そして その悪質な友達の言う事に だんだん逆らう事が出来なくなり 何でも言う事を聞くようになった。どこか知らない家の窓に「石を投げろ!」と言われて 仕方なく石を投げていたら その家の人が出てきて 悪質な友達から「石を投げたのはコイツです!」などとチクられて たしかに石を投げたのは僕なのだから それで怒られるしかないのだろう などと思っていた記憶もある。僕は何も悪気はなく ただ命令に従っただけだったので なぜ そこまで自分が怒られないといけないのか 良く分かってなかったと思うが・・・。そんな事が続いていたが その悪質な友達は 小学2年生に上がる前に いつの間にかいなくなっていた。おそらく転校か何かしたのかも知れない。運が良かったというべきだろう。この小学1~2年の頃だったと思うが 学校では守るべき決まり事が色々あるが 例えば「忘れ物をしない」などのルールを どれだけ守る事が出来るか? というようなランキングがあっていて 教室の後ろに クラス全員の名前と守るべきルールの一覧表が書かれた 大きな紙が張り出されていて それらのルールを守れば 自分の名前の横に 赤いシールを どんどん貼ってもらえるようになっていた。なので 守るべきルールは色々あったようだったが 「忘れ物をしない」という項目だけは 1回も忘れ物をした事が無く完璧だったため 毎日シールが貼ってもらえるので 「忘れ物をしない」の項目だけが クラスでダントツの1位だった。最終的には 一覧表の紙の 僕のためのスペースだけに シールが貼り切れないくらいの 膨大な数になっていた。その「忘れ物をしない」の印象だけが強く残っているので 他に どんな守るべきルールの項目があったのか ほとんど覚えていない。おそらく「授業で発表をする」とか「給食を残さず食べる」とかが あったんじゃないか?という気がするが ぶっちゃけ自分が得意ではない項目は どうでも良かったという気がする。というか 当時の僕には 他の人たちが なぜ忘れ物をするのかが分からなかった。毎日 学校の帰りの会の時に 先生が「明日 持ってくるもの」を 黒板に全部 書き出していたので それを持ってこない人たちがいるという事自体が不思議だった。そして その守るべき決まりの一覧表に もし「給食を残さず食べる」という項目があったとしたら(たぶん あったと思うがハッキリ覚えてない) かなりのレベルの低さだったのではないかという気がする。学校給食は「肉」が苦手だったので かなり辛い事が多かった。学校給食には肉が含まれている場合が非常に多く しかも全部 食べてしまわないと 昼休みも返上して 給食を食べ続けなければならないというルールだった。その為 昼休みが丸ごと潰れてしまう日というのも非常に多く こんな無理強いは今考えれば「虐待」としか思えない。時には 肉を引き出しの中に入れたり ズボンのポケットの中に入れて 食べ終えたかのように ごまかしたりもしたが 引き出しの中や ズボンのポケットの中は 油でびちょびちょになった。今ちょっと思い出したが やはり「給食を残さず食べる」というルール項目もあった気がする。だが これについては クラスでも かなり低いレベルだったというか 極端にシールの数が少なかったというイメージが 何となく蘇ってきた。だが 学校給食の牛乳のフタを集めるのは好きだった。というか もともとはメンコの遊びをするのが目的だった気がするが いつの間にか メンコをするだけではなく 牛乳のフタを集める事自体が趣味になってしまったようで 数百枚の牛乳のフタを集めてしまった。また 似たような趣味で 1円玉の昭和64年を集めようとして 少ないお小遣いをスーパーなどで1円玉に両替してもらう事を 頻繁に行っていた。一度は 5円玉2枚をレジに持っていて「1円玉に両替して下さい。」と言うと 「10円玉じゃないの?」とか聞き返された事もあったが 1円玉10枚だと言い張って無事に両替ができた後 「あの店員さんは なんで10円玉ってカンチガイをしたんだろう?」などと不思議に思っていた。そんな感じで 最終的には昭和64年など関係なしに 1円玉を集めまくって 1000枚以上を集めるような状況になっていた。また 同じくらいの時期だと思うが これくらいの年齢の時は 親と会話をする時は 自分の事を自分の名前で「●●●くん」と呼んでいた(学校の先生や友達と話す時は すでに「僕」とか「俺」が使えていたが。)だが いつからか自分の事を「●●●くん」と言い表すのは 親の前であっても恥ずかしい表現だと気付いてしまったようで 「●●●くん」が使えなくなった。この時点で 通常ならば「僕」とか「俺」などという言葉に切り替えるのかも知れないが 僕は どうしたら良いのかが分からなかった。そして それを今現在も引きずってしまっていて 未だに親の前で「僕」とか「俺」などの言葉を使えない状態が続いている。自分でも どうしたら これを改善出来るのかが分からない。このような「呼び方」に対する悩みは 家族間だけではなく 学校での友人関係の中にもあって 元々 他人の事を「名前」で呼ぶのが苦手だった部分があって 他人に話しかける時は だいたい「ねぇ~」「あのさ~」とか言って話しかける事が多かった。その為か たまに勇気を出して「●●くん」とか呼んでみたら 相手からは「お!名前で呼ばれた!」などと驚かれたりもした。他にも たとえば クラスメイトの中で「あだ名」で呼ばれている人がいたので 僕も その「あだ名」で同じように呼んでみたりした事もあったが 「オマエから そういう呼ばれ方をされる筋合いはない!」などと言われたりして 「なんで僕だけ あだ名で呼んだらダメなの?」という感じだった。そんな感じの事が良くあったりして ますます 他人の事を「名前」や「あだ名」で呼ぶ事が 苦手になっていった感じがする。それに 名前を一字一句でも呼び間違えただけで 怒り出すような人も多いので ぶっちゃけ「名前」なんか無くなれば良いのに・・・などと思って 「わたし」と「あなた」の2種類だけで呼び合うようにすれば もっと簡単に呼び合えるのになぁ・・・などと思ったりもしていた。だいたい 日本語は 自分の事を現す言葉が 「わたし」「わたくし」「ぼく」「おれ」「わし」「われ」「せっしゃ」などなど多すぎて 相手の事を現す言葉も 「あなた」「きみ」「おまえ」「きさま」などなど 他にも色々ありそうだが なんで こんなに沢山の言葉を作って 呼び合うのを複雑にする必要があったのだろうか?その答えは 未だにナゾのままだ。そんな感じでも 仲の良い友達は 数人はいたような気がするが イジメてくる友達からは とにかくイジメられていたような気がする。上履きや 靴などを どこかに隠されたり 上履きや靴の中に ガビョウを入れられたりもしたようだった。小学何年の時だったか覚えてはいないが 女子4~5人組のグループから 僕がいつも座っている机を 絵の具でびちょびちょの状態にされ 机が使用不可能の状態になってしまった事もあった。また ドッジボールなどをしていても 他のみんなは普通にボールをぶつけ合っているのに 僕がボールを投げて 相手にぶつけた時だけ いきなりボールをぶつけた相手が泣き出して みんなから「謝れ!」「謝れ!」と責められたりもした。教室の後ろ側に 生徒全員が描いた似顔絵が飾ってあり その中に一つだけ「ちぎり絵」で描かれている作品があったが 折り紙をちぎった時の白い部分が その似顔絵の作品中にうじゃうじゃしているように見えたので その白い部分を見て「この絵は気持ち悪いね」と発言したのに その作品を描いた本人が なぜか泣き出してしまい そういう時も みんなから「謝れ!」「謝れ!」と責められたりもした。良く遊んでいた仲の良い友達と 遊ぶ約束をした時も 友達から「先にオレの家に行って待ってて!」と言われたので その友達の家に上がり込んで待っていたら その友達の母親に見つかってしまい 怒鳴るように怒られてしまった。どうやら「家の中」ではなく 「家の前」で待ってて欲しい という意味だったらしい。そして その友達から後で聞いた話だが その親から「あの子(僕の事)は2度と連れて来るな!」という風に言われていたようで どうやら問題児扱いされてしまったらしい。何か僕は悪い事をしたのだろうか?という感じで なんで こんなに意味の分からない出来事ばかり起こるのか疑問だらけだった。そんな感じでも 勉強の成績に関しては上位のほうだったようで 小学4年か5年生くらいの頃だったか 一度 学級委員に選ばれた事があった。学級委員になると 放課後に それぞれのクラスの学級委員同士が会議室のような場所に集まって 学校の行事の事について会議をするような機会があるようになった。その会議では 誰もが何かを一度は発言しなければならないというルールになっていて 何かを発言しない限り その場から帰らせてもらえなかった。だが 僕はその会議について 何を発言すれば良いのか分からず ずっと黙り続けていた。みんなは次から次に何かを発言して帰って行くが 僕は最後の最後まで取り残された。そして その会議の担当の先生からは「キミは学級委員を変わってもらったほうが良いよ」と言われてしまった。正直「オマエのような何も発言できないヤツは引っ込んでろ!」とでも言われたような気分だった。この言葉は 今でも かなり心の傷として残っている。小学4年生くらいの頃からは それまで「縄跳び」の二重跳びさえ出来なかったのが やっと二重跳びが出来るようになり それがキッカケで「縄跳び」に熱中するようになった。そして 小学4年生の間に 「中休み」も「昼休み」も練習を重ねて 自宅に帰ってからも練習していたりしたので 三重跳びが3回連続で跳べるくらいにまで 一気にレベルアップして 小学4年生で 他に三重跳びが出来る人がいなかったので いきなり学年でトップになった。それで調子に乗り始めたのか 小学5年生では三重跳びが21回連続までレベルアップして 小学6年生では三重跳びが43回連続だけでなく 四重跳びも1回できるようになり 「縄跳び」に関しては 校内ではダントツの1位だった。
 
大川中学校に入学すると「部活」があるようになったが 僕はしばらく 何の部活に入ろうか迷っていた。一旦 テニス部に入ってみたが 夜の何時までだったか忘れたが とにかく練習時間が長すぎて 1日でやめてしまった。その後 しばらくしてから 卓球部に入部したが その動機は 卓球部に入部していた友達から「卓球部なら卓球以外にも自分のしたい事が出来て 縄跳びも出来るだろうから 卓球部に入ったら?」などと誘われた事だった。それで実際に 部活を始める前に 30分~1時間くらい 毎日 縄跳びの練習をしている感じで 卓球部の練習には 途中から参加するような感じが常だった。だが その卓球部の中でも 僕の卓球をする時の構えが気に入らないとか サーブの打ち方が気に入らないとかいう 訳の分からない理由で 硬い靴を履いた足で 大蹴りを食らわせてくる先輩がいた。何度 あの大蹴りを食らった事だろうか。その同じ先輩から 更に どうやったのかは知らないが 僕の自転車のカギが勝手に開けられていて 勝手に乗り回されて どこか部分的に自転車を破壊された記憶もある。そんな時に 卓球部の部長が心配してくれたのか「蹴られているのと 自転車が壊されたのは どっちが辛い?」というような質問をされたような気もするが 「どっちも辛いです」のように答えたら 「一つずつ解決していくしかないよ。」とか言われたが その時の僕には とにかく あの悪質な先輩の存在を消すのが一番手っ取り早いような気がしていた。正直 殺意を抱いていたという事だが 100%の確率で即死させる方法が分からなかったので 実行に移せなかった。攻撃を相手に回避されてしまったり 間違って半殺しにでもしてしまったら その後 復活されてしまって 将来的に逆襲を食らい こっちの命が狙われると思ったからだった。中学生なりに良く考えていたと思う。その後 その悪質な先輩は 卓球部の顧問の先生から除外宣告を受けたようで 一時的に平和になったような気がしたが 今度は同級生からも なぜか鉄パイプのようなもので いきなり殴られる事が良くあった。そして それに対して怒り狂って反撃しようとすると みんなから力づくでケンカを止められていたが その途中でも相手は「怒った!怒った!(笑)」という言葉を更に投げ付けてきて 全く反省している様子がなかった。正直 そいつも 殺してやっても良かったのではないかと思うが やっぱり100%の確率で即死させる方法が分からないので実行に移せなかった。そんな感じで 卓球部としての練習をするのは好きではなく 卓球の対戦の実力も 部員の中で 下から2番目くらいだった。だが 卓球のボールの「壁打ち」が何回連続で出来るか?という くだらない競争も はやっていたりして その「壁打ち」に関しては それまでは部長が300回連続を達成していたのが部員の最高記録だったが その記録を 僕が1200回という圧倒的な回数で あっさりと塗り替えてしまった。また もともとの卓球部に入部した動機である「縄跳び」のほうも 最終的には 二重跳び344回 三重跳び71回 四重跳び12回 五重跳び1回という記録まで達成した。そして その縄跳びの事を 作文の授業か何かで書いてみたら その内容が担任の先生や 校長先生から評価されたのか知らないが 「弁論大会」という 全校生徒の前で作文を読む行事の代表の1人に選ばれたりした(代表になれるのは5人くらい?だったと思う)部活以外では クラスの中でも 例えば僕がドラゴンボール(アニメ)の真似をして「オレはスーパーサイヤ人だ!」などと言っていただけで いきなり顔面を思い切り殴られて倒れたりもした。かなりダメージが強かったようで 顔が少し腫れ上がっていたようで 保健室で氷で顔を冷やしてもらい その日は そのまま帰宅する事になった。他にも 何か激しくイジメられたりして 泣き崩れて 教室の机に うずくまっていて 家庭科の授業?だったか 教室外で受ける授業を 1時間まるまる すっ飛ばしたりする事もあった。そんな感じだったが その時期には いわゆる「初恋」もしていたようだった。違うクラスの女の子だったが 明るい感じの子で なぜか僕が縄跳びをしているのを褒めてくれたり 「三重跳びをやって!」などと しょっちゅう頼んで来たりする女の子で 他にそういう女の子は あまりいなかったせいか どうも縄跳びの事を気に止めてくれた事がキッカケで 好きになってしまった気がする。そして その女の子の事が どうしても気になりすぎるようになってしまい 放課後などに その女の子の教室に侵入して その子が常用している教科書をあさったりしていた。たしか「髪型は以前のほうが かわいかったよ」などという事を 机の上だったか 教科書の中だったか 書き込んだりもした記憶がある。今になって考えてみれば ストーカー行為に近いと思うが その当時は そんなに悪気は感じていなかったというか とにかく「その子の事が知りたい!」「何かを伝えたい!」という思いだけだったような気がする。だが 結局は 中学を卒業するまで この片思いは告白など出来ずに 何も出来ないまま終わってしまった。
 
高校には 柳川高校の普通科(偏差値45くらい?)に進学した。特進科(偏差値55くらい?)も受験したが 不合格だったので普通科になった。だが その普通科では 成績は学年全体でトップレベルになってしまい 総合成績で1位を取った事もあるが そんな自分に少し矛盾を感じていた気もする。得意科目と苦手科目の差が大きかったというのも 理由の一つかも知れない。ある定期テストでは 化学で96点(クラスで1位)と国語で24点(赤点)を同時に取ってしまい 国語の先生から呼び出されて「お前は何をやっているんだ!」のような事を言われて ゲンコツを食らったりもした。そもそも 国語の先生は あまり好きではなかった。例えば 国語では 文章問題に回答する時には「作者が思っている事は何か?」などという質問をされたりするが その答えは「9割の人が思う事が正解になる」と教えられた。だが その「9割の人が思う事」という模範解答を読んでみても 僕には 何か違うような気がする事が多かった。なので そんな事は気にせず テストの時でも 自分の意見を貫き通して書いていたつもりなのだが 先生はそれを「間違い」と判断するようで 自分の意見を しょっちゅう否定されているような感じがしていた。だが「漢字検定2級」を取得したのは高校2年生の時で 普通科の生徒の中では 一番早く合格したらしい。また「歴史」も大の苦手だったので 歴史の授業の時に 先生から質問をされる事があったが ほとんど分からなかったので 先生から「オマエは中学で歴史は習ったか?」などと言われて クラス中で笑い者にされた事もあった。だが 学校内の英単語検定のようなものでは 特進科も含めて 学校創立以来の初の快挙となるレベルにまで到達してしまったりした。こんな感じだったためか 進学についての三者面談で 担任と母親と僕との3人で話をしていた時には 担任からは「総合成績が ある程度 上位にくる生徒で これほど得意科目と不得意科目の差が大きい生徒は 初めて受け持ちました」という風に言われた。高校2年生の時には 修学旅行でイギリスとフランスに行った記憶があるが 何をしに行ったのか ほとんど分からない感じだった。料理も どれもマズすぎるというか もともと「肉」が大嫌いなのだが あちらの国では肉料理が多い感じ?なので 食べる事自体が困難なモノばかりだった。そして 最終的には 外国まで修学旅行に行ったのに お土産も何も買って来なかったので 母親からは呆れられたが 父親からは 意味が分からないモノを買ってきたりして お金をムダ遣いしなくて済んだから良かった などと褒められた。部活は「ワープロ部」に入部し ワープロ全国大会で賞をもらったり 他にも「普通科の生徒」でありながら 商業科の生徒しか受験しないような「珠算」「電卓」「ワープロ」「英文ワープロ」の4つの検定試験で1級を取得してしまって かなり優等生扱いをされるようになり 当時は調子に乗って浮かれている感じだったと思うが 今になって考えてみると そのような状態をキープしなければならない!というプレッシャーも かなり重く のしかかっていた気もする。そして卒業式の時には「特別功労賞」などという賞までもらって 記念品として 一生 着る事がなさそうな 学校のロゴ入りのブレザーを頂いたりもした。こんな感じで たしかに当時の僕は「表の顔」は「優等生」に見えたのだろうとは思うが 「裏の顔」のほうは 半分くらいは腐ってしまっていて 血迷ってしまったのか この高校3年の頃は 学校の放課後のように誰もいない時間帯の時に 頻繁に女子トイレに侵入しては 自慰行為を行うなどという愚かな行為を行っていた。見つかったら問題行動になりそうだと分かってはいたつもりだったが あまりにも快感すぎて なかなか止められなかった。そして何度も 女子トイレでの自慰行為を繰り返していたが 結局は 誰にも見つからなかったので 騒ぎになる事などなかったが もし誰かに見つかっていたりしたら やはり問題になって騒ぎになっていたのだろうか?そして更に 同じくらいの時期に 大川図書館の駐輪場の所で おそらく中学生くらいの女の子がいて その女の子の胸を強制的に触ろうとしたが 抵抗されて逃げられてしまった という事が1度ある。それだけで済んで 通報はされなかったようだが 通報されていたら逮捕されていたのかも知れない。そして 高校を卒業して 今度は麻生情報ビジネス専門学校に進学する事になったが その通学中の電車の中でも 満員に近い混雑している時などには いろんな女性の胸に ひじを故意に当てたりして その胸の感触を味わうなどして快感を得ていた。一度は 女子高生のお尻に 自分の勃起した性器を押し付けるという 卑劣な行為にまで至った事もある。お互いに服を着たままの状態なので 直接 肌が触れ合っていた訳ではないが おそらく これでも痴漢行為に該当するのではないかと思っている。本当に あの頃の僕は あまりにも心が腐りすぎて 愚かすぎる人間になってしまっていた。こんな愚かな事を 一体 誰から教えられてしまったのだろうか?そして それをなぜ マネしてみようと思ったのだろうか?痴漢行為だと分かっていながら なぜ実行してしまったのだろうか?自分の性器を切断してしまいたいくらい愚かすぎる。結局 誰からも罪に問われた事はなかったが きっと神様は見ていたハズだろう。あの過去を消してしまいたいと いくら願っても もう取り返しはつかない。このままでは地獄に落ちるので これからの人生は とにかく善行に努めるように努力するしかないと考えている。だが 一度知ってしまった快感は どんなに忘れようと思っても 今でも忘れられない。また 同じような痴漢行為が出来て 罪に問われないのであれば たとえ相手が嫌がったとしても 強制的な性的行為を やってしまいたいという気持ちは 正直に言えばある。ただ実行に移すのを我慢しているだけ。偽善者を演じているだけ。犯罪者になりたくないと思っているだけ。地獄に落ちたくないので 善行を貫こうと必死になっているだけ・・・そんな気がする。なんで僕は こんなに愚かな人間なのだろうか・・・悲しすぎる。そんな風に思っていても それでも時々 どうしても性欲というものは脳内に溢れ出して来て 性欲に脳を支配されてしまう場合がある。その 脳から溢れて処理できなくなってしまった性欲を 脳から放出するために 今でも時々 アダルトビデオなどを利用して 出来る限り他人に迷惑をかけない方法で 性欲を処理するように努めている。なんて僕は こんなに心が弱い人間なのだろうか・・・悔しすぎる。「理性」では そんな事をするべきじゃないと分かっていても やはり「本能」の部分は 子孫を残すための性欲というものを 完全に捨て切れないでいるようだ。これは もはや自分が人間である以上は 仕方がない事なのかも知れない。いろいろな女性に対しても すぐに性的興奮の感情が生まれてくるし 完全に浮気性だ。それどころか 大人の女性だけではなく 小学校高学年程度の少女に対しても 性欲の感情を抱いてしまう場合も多い。僕は悪質なロリコンでもあるのだろうか?またいつか あの頃の自分のように 変態悪魔人間に変貌してしまって 痴漢行為を再現してしまうのではないだろうか?という不安も常にある。「性欲」なんて無くなれば良いのに・・・・・という風に いくら思っていても やはり理想と現実のギャップは大きい気がする。今の この「善行を貫いて生きていきたい!」という気持ちを変えたくない!他の何者にも変えさせられたくない!そんな風に必死になっているが その意志を死ぬまで貫き通せるのだろうか?・・・もう少し良く考えてみたが やはり人間も動物である以上は「本能」があるので 繁殖行動の欲求(性欲)を 完全に捨て去る事は不可能なのだろう。小学校高学年程度の少女に対してまで性欲を抱いてしまうのも ちょうど僕も その頃から「性」というものには目覚めてしまっていたので その頃の記憶が 今でも忘れられないでいるような気がする。こういうのは悪質なロリコンなのだろうか?ただ単に「性欲を抱いてしまう」という心の衝動自体は 「本能」からの欲求だとすれば 仕方がない事なので 罪に問うべきではないような気もする。もし それを罪とするならば 小学生が性に目覚める事までを 罪と考えるのと同じ事ではないだろうか?そして 少しインターネットで調べてみたが どうやら小学校高学年程度の時期には 既に性に目覚めている人のほうが多いらしい。そう考えると 一般的には「ロリコン」という言葉は「悪」のイメージが強いが 小学生の頃は みんなロリコンだったという事になるので それを「悪」と考える事は 逆におかしな事ではないだろうか?大人の男性で「自分はロリコンではない!」と主張している人が多いようだが それは 常識的な大人でありたいと願う「理性」からの欲求。言ってしまえば ただの「キレイ事」に過ぎないのではないか?という気がしてならない。それとも 本当に少年の頃の「本能」の記憶を 思い出せないでいるのか 完全に忘れ去ってしまったかの どちらかという事なのだろうか?・・・いろいろ考えたが 結局は 僕の結論上は 自分が初めて「性」に目覚めた年齢(小学校高学年)くらいの異性に対してならば 性的な感情を抱いてしまう部分については 本能的には ごく自然な事なのではないか?という気もする。そもそも「性」に目覚めた段階で 生物学的に言えば すでに繁殖行動の準備が出来ている段階と言えるだろうし その段階で 身体的には「大人」とか「成人」という事ではないのだろうか?そう考えれば 人間の場合は 小学校高学年くらい(11~12歳くらい)の段階で すでに性に目覚めている人が多いらしいので その時点からを「大人」とか「成人」という風に考える事が出来るのではないのか?つまり 僕のような身体年齢26歳の男性が 身体年齢11~12歳くらいの女性を「異性」として意識してしまったとしても 生物学的には相手も「大人」とか「成人」である可能性が高いので 別に おかしな事ではなく ごく自然な事ではないだろうか?そう考えると 逆に 今の常識にある「ロリコン」を否定するような概念のほうが 不自然な概念のような気がする。ただ 何でもかんでも「本能」のままに行動してしまうと その性欲感情によって 誰かを傷つけたり 迷惑行為につながる可能性が高いので そうやって次第に「ロリコン」を否定するような概念が 常識の中に生まれてきたという事ではないだろうか?つまり そのような本能的な性的欲求があるとしても 愚かな使い方をしなければ良いという事ではないだろうか?まあ 正直 こんな風に割り切って?考えないと この先の人生が 非常に苦しいものになりそうな気がするので これからは そのような信念を貫いて生きていきたいと思う。本当に「理性」と「本能」という2種類の脳がある 人間という動物は ややこしすぎる。
●●●●● コピペ終了 ●●●●●
 
・・・この頃の僕は、ずいぶん、頭の中が、ややこしくなってるねぇ(汗)
人間という動物が、ややこしすぎるというよりは、キミの考えている事が、ややこしすぎるだけじゃないの?とか、突っ込んであげたくなったりするけど^^;
 
それから、ここまで読んで下さった方には、下記の絵本もオススメしておきます↓
 
平和の絵本「罰は再犯を生む」
http://www.j15.org/Punishment/Repeat/index.html
 
平和の絵本「罰は闇を生む」
http://www.j15.org/Punishment/Dark/index.html

妻の由紀子さんを殺した警察官(中田充さん)を擁護しちゃダメなの?

2017年06月10日 17時10分39秒 | 善悪中毒(最初に読んで)
小郡市で、現役の福岡県警の警察官が、妻子3人を殺害したという事件のニュースが、世間を騒がせているようですが・・・
周囲の人たちの評価としては、一見、この家族は「理想の家庭」と言われるくらいの印象だったらしいし、容疑者(犯人?)の中田充さんについても、普段から変な言動があったわけじゃなく、職場でも警察官としての仕事をマジメにやっている「いい人」という印象だったらしいね。
 
「なんで、あんなに良い人が、こんな事件を起こしたの?」
「なんで、あんな立派な家庭に、こんな悲劇が起こるの?」
 
こんな風に思っている世間の人々が、沢山いるらしいけど、この事件の裏側に、一体どんな背景があったのか?という事が、あれこれ追加で報道されてるみたいですね。
 
実は、すでに数年前から夫婦仲が上手く行ってなくて、離婚したほうがいいのだろうか?といった悩みを、充さんは知人に語っていた?
でも、家庭内では、充さんは無口なほうで、あまり文句を言ったりしない人だった?
逆に、妻の由紀子さんのほうは、教育熱心な感じの人で、それゆえに、あれこれ悩みを抱え込んでしまって、色々と文句ばかりを言っていた?
子供は2人とも発達障害だった?(生まれつき周囲と接するのが苦手な面がある子供だったとニュースで言ってる)
 
まあ、どこまでが本当の情報なのかは分からないので、推測でしか語れないんだけど、色んな苦労話があったのだろう、という事は間違いないだろうねぇ・・・
何も無かったのに、いきなり、こんな事件が起こるハズがないし・・・
もし、家族を殺しても罰せられるような法律が存在しなかったとして、「家族が気に入らないんだったら、殺してしまってもいいんだよ!」なんて事を、どこかの偉い人が言ったりしたからといって、実際に殺してしまおうとする人なんて、ほとんど存在しないだろうし・・・
ましてや、中田充さんは「警察官」であって「正義の味方」なんだから「人殺しは悪だ!」くらいの信念を持っていたとしても不思議ではないだろうし・・・
 
じゃあ、なんで中田充さんは、こんな事件を起こしてしまったの?
という事について、ヒントになりそうな絵本があったので、紹介してみます↓
 
平和の絵本「子供を愛しなさい!」
http://www.j15.org/MustLove/Picturebook-ChildAbuse/index.html
 
平和の絵本「平和主義?」
http://www.j15.org/Picturebook-Pacifism/index.html
 
妻の由紀子さんは、もしかしたら「子供を愛することは善」「子供を愛せないことは悪」という善悪中毒になってたのかも知れないね。
だから、一生懸命、子供を愛せる母親になろうと努力していたけれど、それが出来ない・・・
でも、子供を愛せないままでは母親として失格なので、熱心に子供を教育する事で、子供たちを、なんとか「良い子」に変える事によって、愛そうと努力した・・・
「しつけ」「教育」などという便利な言葉を使いながら、来る日も来る日も、自分の価値観を子供に押しつけ続けた(もちろん善意)
その結果、子供たちは恐怖に怯えるようになって、ますます何も出来ない、ますます母親の言う事を聞かない子供へと育ち、「発達障害」の状態に該当する子供たちを作り上げる事ができた。
だが、このような状況を、夫の充さんは、何年も前から心苦しく思っていて、子供たちが、かわいそうだと思っていた。
でも、ちょっとした事で怒鳴ってしまうようでは「警察官」としては、カッコ悪いので、不満はあったが、妻の由紀子さんに対して強く言うことが出来なかった。
でも、心の中では「この、バカ女は、いつまで、こんな事を続けるつもりなんだ?」という思いが積りに積もっていて、ある日、ついに限界を超えてしまった。
「ぶっ殺してやる!」
 
・・・まあ、上記は、僕の勝手な想像でしかないのですが、こんな感じの心理状態でもあったんじゃないかな?なんて思ってしまいました。
こんな事になるなら、その前に、さっさと離婚でもしておけば良かったのに・・・
という風に、他人の視点から見れば、そう考えてしまいたくなる部分もありますけど、そういう面についても、異常なほど世間体を気にする心のクセのある人や、必要以上に美化された教育を受けて大人になってしまった人だったら、「離婚」=「悪」という善悪中毒から抜け出せない状態になっている可能性もありそうだね。
そうだとしたら、「離婚」という言葉を聞いた瞬間、耳をふさいでしまって、マトモに話し合いさえ出来ないような状態だったのかなぁ・・・
まあ、上記のような状態が、今回の事件の家族に該当するという証拠はありませんけど、「警察官」という立派な職業を目指す人だったり、「警察官」という立派な肩書きのある人との結婚を望む人だったり、そんな感じの人って、そういう傾向があるんじゃないかなぁ?
たまたま好きな仕事が「警察官」だったとか、たまたま好きな人が「警察官」という肩書きを持ってる人だったとか、そういう理由で結婚した夫婦だったら、こんな事件に発展してしまう事は、あんまり無さそうな気がするんだけど、実際には、その逆のパターンの人のほうが圧倒的に多いだろうから・・・
とにかく「立派であることは善」「立派でないことは悪」みたいな善悪中毒に陥ってしまっている人って、下手にかかわってしまうと、色々と厄介な事になりそうだね(汗)
そして、そういう人にとっては、自分の子供が障害児だったりすると、余計に落胆してしまうのかも知れないねぇ・・・
だから「立派であることは善」「立派でないことは悪」みたいな善悪中毒に陥ってしまっている人には「発達障害は治らない」という説は受け入れられないので、「発達障害は治ります!」みたいな説が必要になってくる・・・
って、今まで、このブログで何回か書いてきたような事を、また書いてるけど(汗)
まあ、何だかんだ、ごちゃごちゃ書いてしまったけど、上記は全部、僕の勝手な想像ですので、変な事を言ってやがるなーと思う方がいましたら、コメントで指摘して下さってもいいし、スルーして頂いても構いません(汗)
 
それにしても、こんな感じの事件が起こるたびに、ネット上では「犯人の家庭には色々な事情(背景)があったという事は理解できるが、だからと言って犯人を擁護するつもりは一切ない!情状酌量の余地も全くない!厳しく罰せられて当然!」みたいな書き方をする人達がいるんだよね(汗)
あのぉ・・・犯人を擁護するつもりが一切ないんだったら、犯人の家庭の事情なんて何も考えずに、ただ単に犯人の批判だけしてればいいんじゃないの?
何が目的で、犯人の家庭の事情について考察してるんだろう?
「自分は、これだけの知識や理解力があるんだぞ!」っていう自慢がしたいのかな?
そして「犯人を擁護するつもりは一切ない!」っていう、この決まり文句は、結局は「自分を守るため」に書いてるんだろうね。
だって、悪人の味方をしてしまったら、自分も悪人だと判断されてしまう!っていう善悪中毒に陥ってしまってるんでしょ?
 
僕は、この犯人を「悪人」だなんて思わないよ。
でも「善人」だとも思わないけどね・・・
ただ、大変な事件が起こってしまったな~
いったい何が原因だったんだろう?
どうすれば、こんな事件が起こらずに済んだのだろう?
どうすれば、この犯人の心の闇を解放して、もとの生活に戻せるんだろう?
 
僕が考えている事は、それくらいの事でしかないんだけど、これだと犯人を擁護してるって事になるのかな?
まあ、そんな風に思われたとしても別に構わないけどね。
犯人は死刑になるのか?無期懲役になるのか?それとも無罪?なんて事を、ずっと考え続けるよりは、未来の事件の予防に結びつく事を考えているっていう自負があるから・・・
 
平和の絵本「犯罪を減らさない方法」
http://www.j15.org/failure/Picturebook-Crime/index.html

「にんげんごみばこ」という絵本の感想

2017年05月21日 17時31分07秒 | 善悪中毒(最初に読んで)
昨日、テレビで「世界一受けたい授業」を見てたら、次回の予告で・・・

「いらないひとは、ごみばこに、すてちゃおう」

などと書いてあるような、一瞬、ドキッとするような、子供向けの絵本「にんげんごみばこ」が流行している?とか言ってたので、ネット検索してみました。
 
YouTubeに、この絵本の読み聞かせの動画がアップされているみたいですね↓
https://www.youtube.com/watch?v=AaGAPEDtAVk
 
ゆっくり音読しても、3分あれば読める内容のようですね。
 
あらすじとしては・・・
どんなに自分に優しくしてくれた人であっても、本当は一緒に遊びたいと思っている人であっても、嫌な部分が見えてしまったり、自分の思い通りに動いてくれない時があったりすると、色んな事を忘れてしまって・・・
 
「もう、あんなひとは、いらない。」
 
なんていう、ひどい事を考えてしまう場合がある(汗)
そんな風に考えてしまうのは、いい事じゃないかも知れない。
でも、そういう事って、みんな誰にでも、良くある事なんだよ・・・
みたいな事を、最初に説明して、まずは読み手の「罪悪感」を和らげている感じかな?
 
いきなり最初から・・・
 
「もう、あんなひとは、いらない。」なんて言ったらダメでしょ!
「いらないひとは、ごみばこに、すてちゃおう」なんて言うのは、とっても悪い事なのよ!
 
こんな風に、叱りつけてしまったら、ほとんどの子供は恐怖心で委縮してしまって、それ以上の事を、まじめに考える事なんて出来なくなってしまうだろうね。
 
だから、子供が「もう、あんなひとは、いらない。」とか「いらないひとは、ごみばこに、すてちゃおう」などと言っていたとしても、まずは叱らない。
その代わり、色んな問いかけをして、一生懸命、考えさせてみる・・・
 
「でも、ほんとうに、すててもいいの?」
「もう、いっしょう、あえないよ?」
「いらないひとは、いるのかな?」
「ほんとうに、ぜんぶが、やなのかな?」
 
そして、この絵本のストーリーとしては、最終的には・・・
 
「みんな みんな いらないひと もってかえっていった」
 
という話の展開になってますね^^
みんな・・・
 
「いらないひとは、ごみばこに、すてちゃおう」
「もう、あんなひとは、いらない。」
 
なんていう、ひどい事を一度は考えてしまったけど、みんな、みんな、ちゃんと考え直して、いい子になりました!みたいな話になってるのかな?^^;
まあ・・・基本的には、ある程度、家族関係が成立していて、一度は、親や先生などから、ちゃんと愛された記憶のある子供向けの絵本という感じかな?
 
親から常に虐待を受けている子供とか、保育園や幼稚園などでイジメ続けられている子供とかが、「いらないひとは、ごみばこに、すてちゃおう」「もう、あんなひとは、いらない。」などと言っているからといって、この絵本を読み聞かせたとしても、何も効果はないだろうね。
それどころか、「みんな、ちゃんと考え直してるのに、なんで自分だけは考え直す事が出来ないんだろう?」とか思ったりして、ますます劣等感を募らせてしまったり、自己嫌悪に陥らせてしまうリスクもあるんじゃないかな?(汗)
そういった部分で、賛否両論があるかも知れません^^;
 
それから、大人が読んで役に立つか?と言えば、ちょっとは役に立つとは思いますけど、大人の世界の人間関係って、親や先生とかだけじゃないし、色々と複雑だからねぇ^^;
やっぱり、大人の場合は「人を動かす」くらいの事は理解しておく必要があるのかな?という気がしますけど、「人を動かす」って読みこなすのが大変だし、人によっては消化不良を起こすだろうし(僕が、そうだったし、汗)
 
ちょっと話が飛んだけど、まあ、注意すべき点を押さえておけば、たぶん、この絵本は、いい絵本だと思います^-^
 
こういう絵本に興味のある方は、下記の絵本も、オススメしておきます^-^
 
平和の絵本「子供を犯罪者に育てる方法」
http://www.j15.org/Picturebook-JuvenileCrime/index.html

宗教アレルギー

2017年04月30日 19時28分33秒 | 善悪中毒(最初に読んで)
聖書やキリスト教に関する本などを読むと「神様が一番正しい(最も善の存在)」とか「神様にさからうのは罪だ(悪い事だ)」などと書いてあるが、そんな話を聞いて納得する事ができたり、はっきりと理解できる能力がある人というのは、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べて中毒症状を起こしてしまっている、罪のある人間(罪人)だけではないだろうか?
「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前の、罪がない人間=「アダムとエバ(イブ)」には、善悪の知識はなかったのだから、当然ながらアダムとエバは「神様が一番正しい」とか「神様にさからうのは罪だ」などという話を聞いたところで、何が善で、何が悪なのか?などという善悪の判断など出来るはずがない。
つまり、「神=善」「神にさからう事=悪」という知識さえ持っていないという事だ。
そんなアダムとエバは、神様の話だけを忠実に守らず、ヘビの言う事を聞いてしまって「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べたのかも知れないが、そこに「悪意」などというものはあったのだろうか?
「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事がなく、罪がない人間というのは、ある意味「赤ちゃん」のような全く汚れのない人間という事になるかも知れないが、そんな善悪の判断など出来るはずのない人間が、どうやって「神様の話だけを忠実に守る事こそが善だ」とか「ヘビの言う事を聞くのは悪だ」などという事を理解できるのだろうか?
そんな善悪の判断をしようと思っても、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前の段階では、不可能ではないだろうか?
 
アダムとエバの物語では、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた後、エバは「ヘビに騙された」と言い訳をしただの、アダムは「女に騙された」と言い訳をしただのと語られているが、そのような言い訳をして自分を正当化しようとする知識そのものが「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事によって得られた知識であって、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前のアダムとエバは、そのような言い逃れをするような、ずる賢い人間ではなかったのではないだろうか?
つまり、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事がなかったから、何も分からないまま「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べてしまったのであって、その後、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事によって現れた「言い逃れ」や「ずる賢くなる」といった症状が、あたかもアダムとエバの本来の性質であるかのように語られているのは、どう考えてもおかしな事ではないだろうか?
 
そして、もはや「神様を信じる事は善である」とか「神様を信じない事は悪である」などと言い続けるほうが、いつまでも「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた中毒症状から抜け出す事ができずに、罪を持ち続ける事になってしまうのではないだろうか?
このような事に、ほとんどのクリスチャンたちは全く気付いておらず、ただひたすら盲目的に「神様だけを信じます!私は罪人です!どうかお許しください!」などと言い続けているように見えるのは僕だけだろうか?
そうやって、神を信じる事によって、自分の罪を許してもらおうとしているのだろうが、そのような行動には大前提として必ず「神=善」「自分=悪」という意識が働いており、その時点で、すでに「神」と「自分」という2つの存在を、善悪で裁いてしまっている。
キリスト教には「裁いてはいけない」という重要な教えがあるはずなのに、なぜ「神」と「自分」という存在を善悪で裁くのだろうか?
これでは「神様だけを信じます!私は罪人です!どうかお許しください!」などと言い続ける限り、「神=善」「自分=悪」という裁きを行い続ける事になり、キリスト教の「裁いてはいけない」という大切な教えに逆らい続ける事になってしまうので、どうやっても罪から逃れる事ができず、許しも救いも受けられないにもかかわらず、死ぬまで神様を信じ続けなければならないというマインドコントロールから抜け出せなくなってしまうのではないだろうか?
逆に言えば、「神=善」「自分=悪」という善悪の違いさえも理解できない、「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べる前の罪がない人間=「アダムとエバ(イブ)」の状態に戻るほうが、本当の意味での許しや救いを受けることが出来るのではないだろうか?
 
他にも、キリスト教には「敵を愛せ」という重要な教えがあるのに、なぜアダムとエバの物語では、ヘビの話を受け入れた事が罪だという事になっているのだろうか?
「ヘビの話なんか聞くもんか!」という傲慢な態度では「敵を愛せ」という大切な教えに逆らう事になってしまい、それこそ罪になってしまうのではないだろうか?
敵であるヘビの話であろうと、素直に受け入れてあげたほうが「敵を愛せ」という教えを忠実に実践する事になるので、むしろ神様は喜ぶのではないだろうか?
そんな疑問も生まれてくるのだが、どういうわけか世間では、アダムとエバの物語では、ヘビの話を受け入れた事が「神様を裏切る行為でしかなく悪い事だったとしか言いようがない」という風に解釈されてしまっているようだ。
だが、そのような解釈に縛られてしまう事そのものが「善悪の知識の実」(知恵の実)を食べた事による中毒症状であり、「神=善」「ヘビ=悪」という裁きを行い続けている、罪のある人間(罪人)の思考パターンなのではないだろうか?
 
なぜ、こんな話をするかと言えば、過去の僕自身が「聖書の誤学習の危険性」というものが存在する事を知らないまま、単純に「神様が一番正しい!」(神=善)とか「キリスト教を信じるのは絶対に良い事だ!」(キリスト教=善)などと思い込んでいて、それ以外の考え方がある事さえ知らなかった時期が、最も精神的にメチャクチャだったからだ。
もう7~10年前の頃だが、その頃の僕の頭の中は、世界中で大問題になっている「イスラム過激派」と同じような状況だった。
周りを見れば神様の教えを守っていない悪人だらけにしか見えず、この世は地獄だとしか思えなかったし、神様の教えを守りきれない自分の事も悪人なのだと思い込み、ならばイエス・キリストのように自ら死を選べば神様のようになれて、この世の全ての悪人たちを天国に連れて行けるのだと思い込み、自殺まがいな行為をした事も2回あった(詳細を知りたい人は「アスペルガー自閉症」カテゴリーの過去の記事を参照して下さい)
 
「良い事」や「正しい事」を求めれば求めるほど、良い人間になれて世の中も平和になるのだと思い込んでいたが、実際には「良い事」というのは「自分にとって都合の良い事」であって、「正しい事」というのは「自分にとって正しい事」でしかなく、それは「他人にとって都合の悪い事」とか「他人にとって間違っている事」になってしまっている場合も多いのだが、そんな事には全く気づかず「自分にとって都合の良い事」「自分にとって正しい事」を単純に「良い事」「正しい事」だと思い込んでいたので「良い事」や「正しい事」を求めれば求めるほど他人の気持ちや考え方が分からなくなり、周りは「面倒くさい人」「ふざけている人」「間違っている人」「何も分かっていない人」だらけにしか見えなくなっていた。
そんな状態では常に他人を避けまくるしかなく、または「何も分かっていない間違った人たち」に自分の正しさを証明しようと意地を張って死に物狂いで努力してみたり、他人を避けている事を悟られないように「人それぞれ」などという便利な言葉を使って良い人間のふりをするばかりで、本音で話し合える仲間はいなかった。
 
「人それぞれ」という言葉も、他人を理解するためではなく「だから自分は、このままでいいんだ」と利己的な目的で使っていたので、色々と面倒な事を言ってくる人がいれば「なんでオマエの言う事を聞かなきゃいけないんだ!人それぞれなんだから自分が何をしようと自由だろ!」といった感じで他人を拒絶し、結局は「人それぞれ」だと言いながら、自分にとって都合の悪い人の事は理解しようとせず、自分の心を閉ざしてしまっている事にさえ気づいていなかった。
そうやって相手を責める事によって、相手のほうが自己中心的な人間なのだと勝手に判断し、自分は自己中心的ではないという事にしようと必死になっているので、常に心に余裕がなく、ちょっとした事で誰かと争いが始まるばかりで、望んでいる事と実際に起こる事は矛盾だらけだった。
そして、こんな風に自分の人生がメチャクチャになってしまったのは、キリスト教のせいだと思ったので、キリスト教はカルト教団だと思い込んでいた時期もあって、その頃は、キリスト教会に行く事さえ恐怖に感じたりしていた。
 
そんな時「聖書の誤学習の危険性」や「物事を善悪で区別する事の危険性」などについて書いてある「平和の絵本」をインターネットで見つけた。
「平和の絵本」に書いてある内容は、当時の僕にとっては衝撃的で「神様やキリスト教を信じなくてもいい」という選択肢を示してくれているようで、一気に心が楽になって救われた気分になり、やっと自分が探し求めていたものに巡り合えた気がした。
まさに「クリスチャンになれば人生が変わる」の真逆のパターンだった。
とは言っても「平和の絵本」に書いてある内容を、ある程度ちゃんと理解できるまでには、何年かかったか分からない。
ここ1~2年くらいで、やっと少しずつ落ち着いた生活が出来るようになってきたように思う。
このような経験をしてきたので「神様やキリスト教を信じなくてもいい」という選択肢もある事を教えるほうが「救われる」という人もいるのだろうと個人的には思っている。
だが同時に「救われる」とか「天国に行ける」などという事は本当に良い事なのか?という疑問もある。
もしも「救われる」という事が起こってしまったら、それ以上、求めるものが何もなくなってしまう。
そしたら、その先の人生は、何を目的にして生きてゆくというのだろうか?
すでに「天国行き」まで決まってしまい、自分が望みさえすれば今すぐ天国に行く事も出来るというのに、まだこんな地獄を生き続けてみたいと思ってしまうのは、なぜだろうか?
そんな風に考えると、むしろ人間は救われていないからこそ「救われたい」という気持ちが生まれ、それがやる気を起こす原動力となり、常に何らかの目的を持って絶望する事なく生きてゆけるのではないだろうか?
このように考えてみると「人間は救われていないから救われている」という矛盾したような理屈も成り立つような気がする。
この事は、キリスト教の「すべての人間は罪人だ。なぜならアダムとエバが神様を裏切って、善悪の知識の実を食べたからだ。だが、イエス・キリストが全ての人間の罪を背負って死んで下さったから、人間の罪は許された。」という意味不明な話と同じようなものだろうか?
そんな話を今まで色んな人たちから何十回も聞かされたが、今でも心の奥底には「キリスト教に洗脳されて死ぬ所だった」という根深い恨みがあるし、実際にキリスト教が正しいのか間違っているのかという結論は、とりあえず横に置いておいて、とにかく「キリスト教は正しくない」という事にしなければ生きてこられなかった事情があるので、キリスト教を正しいものとして受け入れる事ができず、無理やり信じようとしてもアレルギー反応のように拒絶してしまう自分がいる。
「宗教アレルギー」とでも呼ぶべき症状だろうか?

とはいえ、もちろん世の中には、キリスト教を信じる事によって、人生が変わったという人も数多くいるだろうし、何が何でもキリスト教は正しいという事にしなければ生きていけない事情を抱えている人もいるだろうとは思う。
でも同時に、何が何でもキリスト教は間違っているという事にしなければ生きていけない事情を抱えている人もいるという事を理解して頂きたい。
「なぜ相手は、自分の考え方とは違う意見を必死に守り抜こうとしているのか?」という事情を真剣に考えようとせず、それぞれが「キリスト教は正しい!」「キリスト教は間違っている!」という具合に「自分にとって都合の良い事」「自分にとって正しい事」ばかりを主張し合って、決して自分の考え方は譲ろうとせず、相手のほうが自分勝手で傲慢だとか、心を閉ざしているとか、何か勘違いしているとか、全体が見えていないなどと脅しあっては、お互いが相手の考え方のおかしな部分をどこまでも探し出し、永遠に反論しあって、終わりのない議論を繰り返す・・・
そのような「王様病」の状態のままでは、両者が自分の考え方を譲らなくて当然ではないだろうか?
「自分にとって都合の良い事」「自分にとって正しい事」だけしか注目しないから、相手の事情を考える事が出来なくなり、「ゆずり愛の心」が育たなくなってしまって人間関係が崩壊してしまうのではないだろうか?
そして、イエス・キリストは「キリスト教を信じる事だけが絶対に正しい」という事にしてしまうと、上記のように、人間たちが自分の信仰だけしか認めようとしない差別主義者になってしまう危険性があるという事を、すでに分かっていたからこそ「敵を愛せ」という教えを広めたのではないだろうか?
 
また、新約聖書の「マタイの福音書10章34節」には、以下のようなイエス・キリストの言葉もある。
 
「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。」
「わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」
 
あなたは、このイエス・キリストの言葉の意味を、どのように解釈するだろうか?
この文章を一読しただけでは、どう考えても、イエス・キリストは戦争の神様(悪魔)であるかのような気がしてしまって、仕方がないのではないだろうか?
でも僕は、上記のイエス・キリストの言葉は、そのままストレートに受け入れるべきではないかと思っている。
つまり、イエス・キリスト自身が「キリスト教だけを100%正しいと思ってはならない」という警告をしているという事だ。
キリスト教だけを正しいと思い込んでしまうと、どうしても異教徒の人々との対立を避ける事ができなくなり、愚かな争いが増える事になるという戒めについて、警告しているのではないだろうか?
 
それから、キリスト教だけで全てが解決できると思ってしまうと「愛する事」も「許しあう事」も「感謝する事」も、「神様の言うとおり」という命令に従っているだけになってしまい、本来の心で愛しあったり許しあったり感謝しあえるように、知恵を絞る事をしなくなって、すぐに何でも神様や信仰の力にばかり頼ろうとする事がパターン化されてしまい、本来の人類が持っている心が眠ったままになってしまう。
そのような宗教依存のような状況に陥ってしまえば、「本物の愛」も「本物の許し」も「本物の感謝」も存在しなくなってしまうどころか、「偽物の愛」「偽物の許し」「偽物の感謝」ばかりが、どこまでも増幅してしまい、世界に平和をもたらすどころか、混乱だらけの世の中になってしまう事が分かっているからこそ、それを心配したイエス・キリストは、人類を宗教依存の状態に陥らせたくないという優しさゆえに、あえて敬虔な信者を傷つけるような、どう考えても、自分の事を悪魔だと思われてしまいかねない発言をしたのではないだろうか?
 
平和の絵本「罰とイジメと自殺のロンド」
 
YUI「Kiss me」