敗戦前後の「父の日記」を読む

昭和19年当時の世相、生活状況、父の考え方を読む。

集団疎開

2007-02-14 22:05:27 | 日記 戦中編
昭和十九年七月十七日 晴 明け
 学童の集団疎開に関し国民学校で父兄会があった。九時頃帰宅してから、第八国民学校に行った。十一時頃まで校長の話を聞いて帰った。
 集団疎開と云っても三年生以上六年生未満で、私の家でわ次男と次女のみである。二人が疎開する事によって手足纏がなくなるなら意味もあるが、二人が疎開したとて幼児が三人残る。その守がいないとすれば防空活動をする人が減る事になる。かえって具合が悪いものになるから疎開には入れない事にした。

配給

2007-02-14 21:37:35 | 日記 戦中編
昭和十九年七月十五日 晴 公休
 今日、油の配給があったので精進揚げでもしてやろうと思って尺五菜豆(いんげん豆)を採った。
 午後、弁当箱の配給があるからクジを引いてくれと隣次で云って来た。その後小麦粉六日分(1.8kg)配給であると言う。更に野菜の配給と洵に忙しい事だ。家庭の主婦は一日中斯様な事で過ごしてしまわねばならない。

建物疎開。 南瓜

2007-02-07 21:50:22 | 日記 戦中編
昭和十九年七月十三日 晴 二,三直出勤
 ・・・・・・ 都内を何時、何所を歩いても今驚くのは疎開の建物除去事業である。除去した資材が片付かないので全く乱雑で、実に大がかりなものである。
之が一片付けしたら都内は変貌するであろう。
 お盆である。 トマト、茄子、いんげん、花、等皆自作のものを庭から集めて佛様にあげた。・・・・・
 「何が何でも南瓜を植えよ」 と今春宣伝して、町会から種子まで配った。
其の故で実に到る処南瓜を作っている。昨日目黒の帰途、明治神宮の前通りをバスで通ると街路樹にからませた南瓜が見事に大きな実がみのっている。それに竹や縄で籠のように作って盗難や悪戯を予防している。籠の中に南瓜が入ってるという形である。斯様な防備をせねばならぬという事は日本の恥である。・・・・

シューマイ

2007-02-07 21:02:53 | 日記 戦中編
十二日の続き
 (中略)目黒のT氏の家を出たのは五時半ごろ。空腹で困った。支那そばやが一軒営業している。早速入ってみると、本日はシューマイです と言う。一つ取ってみると皿の上にシューマイが四つ乗っていて、六十銭いただきます、という。
一ヶ十五銭である。以前は五ツで一皿十銭であった。実に高い
食べてみて更に驚いた。 豆腐カラをうどん粉でくるんで蒸したのである。うまくもなければ味もない。全く驚いて批判の言葉がない。

「中央公論」「改造」の廃刊

2007-02-05 12:09:55 | 日記 戦中編
昭和十九年七月十二日 晴 公休
  お盆が来たが何もない。配給の菜豆(インゲン豆)があるので、小麦粉団子でしる粉をしてやろうと思うのだが七月分の砂糖の配給が未だ何時になるか見当がつかない。何もないと言ってもお盆の気持ちだけでも味わいたい。汲み取りもお盆に入ってからでわいやなので今朝起きる(五時)とすぐ汲み取った。
 昨日の新聞に依ると雑誌 「中央公論」と「改造」が自廃したと言う。改造は大正九年頃の発刊であるが中央公論は明治二十年だと言う。そうした古いものまで情報局の注意(?)に依り自発的に廃刊しなければならぬ羽目になると云う処に時世を考えさせられる。

石臼

2007-02-05 11:29:12 | 日記 戦中編
昭和十九年七月九日 晴 一直出勤
 夜、長男に石臼を借りて来させて小麦を挽いた。 やはり道具である。
八時頃から十時すこし前まで二時間で三升程の小麦を粉にした。而も非常によい粉が沢山できた。 小麦を作って石臼を廻して粉を作り食料の補給をすると言う事も
戦時下ならばこそである。こうした事は永久に忘れられないであろう。