徒然なるままに~のんびり、ゆったり、こまやかに

猪突猛進型の60代。そして卵巣がんですっ転んで8年。目指すはのんびり、ゆったり、細やかな生活!無理かなー(#^.^#)

父のことーケアハウス見学記ー

2016-03-09 12:30:07 | 父とのこと
前回のブログでも書いたように、
父は今の療養病棟ありの病院から4月末くらいには
転院せざるを得なくなった。

11月に今の病院に転院した時には考えられないことだ。
その時は、医者にはすぐにも死んでしまいそうに言わた。
積極的な治療は父を苦しめるだけだとも。

父は胃瘻をしての入院だった。
ゆっくり胃瘻をしていると、
その管を引っ張ったりしてしまうので、
注射器のようなシリンダで注入し、
その時間は1分くらい。
早すぎるのでびっくりだが、
今のところ父はそれで大丈夫なのだ。

入院後100日以上が経過し、
医者の説明によれば、
この間に保険点数の換算方が変わったということで、
これ以上父を入院させていると、
病院に対する私たちの支払いは変わらないが、
病院に支払われる対価がぐっと少なくなるということだった。
つまり父の入院期間が長くなればなるほど
病院の赤字がかさみ、それで病院がつぶれたら、
医療も何もできなくなるという、単刀直入な説明だった。

私たちは、やっとここで父は最後まで過ごせると安心していた。
でも、ある意味、車いすにも座れるようになった父は
この病院には居られないのだ。

院内のソーシャルワーカーに相談して、
早速次の住処を探すことになった。

その日、妹はその町の特養を2か所訪れ、話を聞いた。
しかし、胃瘻やたんの吸引等の医療行為が必要な場合は
なかなか難しいということも分かった。

特養に入ってから胃瘻になったり、
たんの吸引が必要になった人には対応するが、
初めからそういう場合は難しいということだった。
夜間に看護師がいるか、
胃瘻とたんの吸引をできる介護士がいなければ難しい。
それに御多聞に漏れず、何か月も待たなくてはならない。

そのあと、今度はケアハウスを見学した。
この町にもケアハウスはいくつかあるが、
夜間常駐の看護師のいるところはここしかなかった。
敷地内にクリニックや地域の在宅介護ステーションも置いている。
ケアハウスとは基本的にはケア付きアパート。
アパートを借りた住人が必要に応じて在宅介護を受けられるという仕組みだ。
そこが、特養や介護つき有料老人ホームと違うところと言えようか。

私たちが見学したケアハウスは、
見た目は介護付き有料老人ホームと変わらないと思った。
姑が入っていた施設を小規模にした感じだった。

以前父の入っていた老健よりは小規模だからだろうか、
施設、施設した感じがなかった。

では、施設、施設した感じとは何か・・・・。
それは、ある時間みんな車いすで、デイルームに連れてこられて
置きっぱなしといったような、
或は、トイレの前に車いすが数珠つなぎっと言った感じのことだ。
歩行器で歩くことはできても、あるいは手をつなげば歩ける人も、
一様に車いすという、一律性と言おうか・・・。

集団生活だから仕方がないと言えばそうなのだが、
なんだかね・・・、とずっと思っていた。

このケアハウスはそんな感じがしなかったので、
ほぼここに決定することにした。

今までの病院と違って、部屋を借りるのだから、
自分の持ち物を持ち込めることができる、
というか、持ち込まなくてはならない。

父の家の父の部屋に置きっぱなしになっている、
父の身の回りの物あれこれ・・・、
「ねえねえ、お父さんが好きだったカレンダーの切り抜きの美人画、
それに、雑誌『プレイボーイ』のグラビア、今でもわかるかしらねえ??」

病院よりは父の部屋らしくなるのかななんて思いながら、
ケアハウスをあとにして、父の入院先の病院に向かった。

この日、父のベッドのそばで、
「お父さん、R子よ、R子」(私)
「T子よ、T子。わかる?」(妹)
「おお、R子か、T子か」(父)と言ってパッと顔が明るくなった。

「じゃあな、メダンでモニャモニャ・・」(父)と手を出し私たちと握手。
父は母が亡くなってからこの10年余り、
帰るときは必ず私たちと握手していたのだ。
私たちはあっという間の面会を終わった。
メダンとは父が戦前住んでいた
インドネシア、スマトラ島の町の名だ。
どういう関係があるのかはわからなかったが、
嬉しそうな顔を見て、私たちはホッと肩をなでおろした。

「今日はいい日だったわねえ。明るい気持ちで帰れるね」と妹。
本当にいろんな日があるけれど、そしてまた父の住処は移るけれど、
何とかやっていかれそうと思った今日なのでした。