母が亡くなって、今年で13年になる。
あの夏の日から、そんな時間が経っているなんて
やっぱり今でもなんだか信じられない。
ブログでは「父のこと」を書き続けてきた。
丁度ブログを書き始めた頃、
父は実家でヘルパーさん助けられながら
一人暮らしを続けていた。
父が一人暮らしを始めたのは
母が亡くなってからだ。
それから倒れて入院するまでの11年近く、
この一人暮らしを続けたことになる。
「奥さんを亡くした男は、
たいてい1年半くらいで逝っちゃうらしいな」
というのは母が亡くなってすぐの
父の口癖だった。
ところが、その希望?に反して??
父はその後12年の命を与えられた。
父の一人暮らしの時間は、
遅まきながらではあったが、
妹と私という二人の娘が、
父という人間を直に理解していく
貴重な時間となった。
母が亡くなるまで、
父との直の関係がなかったわけではないが、
(そしてその多くが「だめだ」と
言われることに終始してはいたが)
その関係は、考えてみるとそのほとんどが、
間に母を介してのことだった。
この11年がなかったら私たち姉妹は、
父のことの多くを知らないでしまったかもしれない。
いえ、かもしれないではなく、
知らないままだったに違いないのである。
もちろん、子どもという立場上、
親のことでは知り得ないことの方が
多いのかもしれない。
そして、それは父のことだけではなく、
母のことも、これまた悲しいかな、
知らないことだらけだったことに気づいた。
あんなにいっぱいおしゃべりしていたのに・・である。
今、実家の片付けが進んでる。
と言っても、その片づけは
妹夫婦におんぶというのが実情。
妹たちが頑張ってくれたおかげで、
荷物だらけだった実家が、
私たちが幼かった日のように、
「もの」の少ない「広い」と感じることのできる
実家に戻りつつある。
大正末期に建てられた日本家屋。
当時には珍しい二階建てで、
二階には富士山がすっぽり入る丸窓と、
違い棚や床の間、欄間がほどこされ、
続きになった6畳間と8畳間では
祖父や父の結婚式が挙げられたこともある。
もちろん、それから100年近くの月日が流れ、
手入れがよくなかった実家は、
外の羽目板は剥がれ、といったように
朽ち始めているのである。
それでも、「ああ、わたしたちのおうち!」と
思わず言ってしまいそうになるほど、
元の姿を表わしてきている。
妹から、残りの荷物の行先も決まったし、
私が持っていかなくてはならないものも
まとめておいたからと連絡が入った。
そこでこの連休中に実家に行くことに。
車が一番空いていそうな日を選んで出かけた。
その日、実家の二階に上がった。
まあ、びっくり!!
母が生前描いた絵が、まるで個展のように並んでいた!
8畳には母がスケッチブックに描いた水彩画の数々が。
後で聞いたら、義弟が、母のスケッチブックから
選んで並べてくれたものという。
描いた数の10分の1位ということ。
それでも、母の絵は8畳を埋め尽くしていた。
決してプロの絵のようではないけれど、
その丁寧さや色遣いに母を感じることができる。
義弟はこの中の縦に一列、
母の自画像を並べてくれていた。
私はびっくりした。
えっ、これが母が描いた母なの?
絵の中の母の洋服は私たちにも見慣れたもの。
普段着だ。
そこに並んでいる5枚すべてが違う母だ。
唯一共通しているのは、「笑っていない」ということ。
一体は母、どんな思いでこの自画像に向かったのだろう。
私の中の母とはおよそ違った母もそこにはいた。
ああ、母とこの絵を観ながらおしゃべりしたい!
強烈にそう思った。
家に戻ってから妹と電話をしたとき、
妹もまた、母が生きているときに一緒に観たかったねと。
これらの絵は、父が生きている間は
ずーーーっと、スケッチブックの中にしまわれていた。
母は夜の早い父が寝静まってから
絵筆をとっていた。
母が自分に戻ることのできる時間。
絵のことや自分のことだけを考える時間を
母はこうして確保していたのかもしれない。
父と母が居間にしていた部屋には、
母が描いた折々の絵は飾られていたけれど、
こうして母が洋裁や編み物、絵の道具などを
置いた母の部屋に置かれた絵は、
母が生きている間、そして父が生きている間は
ついぞ日の目をみなかったのである。
この、私にとっては強烈な母の自画像と
出会ったことをきっかけに
今まで、あえて書かなかった、
いえ、書けなかった母のことについて
少しずつ書いていきたいと思う。
それにしても母は今頃何をしているのかなあ・・、
カロウトの中で父とは並んでいるけれど、
果たして一緒にいるのかな?なんて思う
この頃なのでした。
あの夏の日から、そんな時間が経っているなんて
やっぱり今でもなんだか信じられない。
ブログでは「父のこと」を書き続けてきた。
丁度ブログを書き始めた頃、
父は実家でヘルパーさん助けられながら
一人暮らしを続けていた。
父が一人暮らしを始めたのは
母が亡くなってからだ。
それから倒れて入院するまでの11年近く、
この一人暮らしを続けたことになる。
「奥さんを亡くした男は、
たいてい1年半くらいで逝っちゃうらしいな」
というのは母が亡くなってすぐの
父の口癖だった。
ところが、その希望?に反して??
父はその後12年の命を与えられた。
父の一人暮らしの時間は、
遅まきながらではあったが、
妹と私という二人の娘が、
父という人間を直に理解していく
貴重な時間となった。
母が亡くなるまで、
父との直の関係がなかったわけではないが、
(そしてその多くが「だめだ」と
言われることに終始してはいたが)
その関係は、考えてみるとそのほとんどが、
間に母を介してのことだった。
この11年がなかったら私たち姉妹は、
父のことの多くを知らないでしまったかもしれない。
いえ、かもしれないではなく、
知らないままだったに違いないのである。
もちろん、子どもという立場上、
親のことでは知り得ないことの方が
多いのかもしれない。
そして、それは父のことだけではなく、
母のことも、これまた悲しいかな、
知らないことだらけだったことに気づいた。
あんなにいっぱいおしゃべりしていたのに・・である。
今、実家の片付けが進んでる。
と言っても、その片づけは
妹夫婦におんぶというのが実情。
妹たちが頑張ってくれたおかげで、
荷物だらけだった実家が、
私たちが幼かった日のように、
「もの」の少ない「広い」と感じることのできる
実家に戻りつつある。
大正末期に建てられた日本家屋。
当時には珍しい二階建てで、
二階には富士山がすっぽり入る丸窓と、
違い棚や床の間、欄間がほどこされ、
続きになった6畳間と8畳間では
祖父や父の結婚式が挙げられたこともある。
もちろん、それから100年近くの月日が流れ、
手入れがよくなかった実家は、
外の羽目板は剥がれ、といったように
朽ち始めているのである。
それでも、「ああ、わたしたちのおうち!」と
思わず言ってしまいそうになるほど、
元の姿を表わしてきている。
妹から、残りの荷物の行先も決まったし、
私が持っていかなくてはならないものも
まとめておいたからと連絡が入った。
そこでこの連休中に実家に行くことに。
車が一番空いていそうな日を選んで出かけた。
その日、実家の二階に上がった。
まあ、びっくり!!
母が生前描いた絵が、まるで個展のように並んでいた!
8畳には母がスケッチブックに描いた水彩画の数々が。
後で聞いたら、義弟が、母のスケッチブックから
選んで並べてくれたものという。
描いた数の10分の1位ということ。
それでも、母の絵は8畳を埋め尽くしていた。
決してプロの絵のようではないけれど、
その丁寧さや色遣いに母を感じることができる。
義弟はこの中の縦に一列、
母の自画像を並べてくれていた。
私はびっくりした。
えっ、これが母が描いた母なの?
絵の中の母の洋服は私たちにも見慣れたもの。
普段着だ。
そこに並んでいる5枚すべてが違う母だ。
唯一共通しているのは、「笑っていない」ということ。
一体は母、どんな思いでこの自画像に向かったのだろう。
私の中の母とはおよそ違った母もそこにはいた。
ああ、母とこの絵を観ながらおしゃべりしたい!
強烈にそう思った。
家に戻ってから妹と電話をしたとき、
妹もまた、母が生きているときに一緒に観たかったねと。
これらの絵は、父が生きている間は
ずーーーっと、スケッチブックの中にしまわれていた。
母は夜の早い父が寝静まってから
絵筆をとっていた。
母が自分に戻ることのできる時間。
絵のことや自分のことだけを考える時間を
母はこうして確保していたのかもしれない。
父と母が居間にしていた部屋には、
母が描いた折々の絵は飾られていたけれど、
こうして母が洋裁や編み物、絵の道具などを
置いた母の部屋に置かれた絵は、
母が生きている間、そして父が生きている間は
ついぞ日の目をみなかったのである。
この、私にとっては強烈な母の自画像と
出会ったことをきっかけに
今まで、あえて書かなかった、
いえ、書けなかった母のことについて
少しずつ書いていきたいと思う。
それにしても母は今頃何をしているのかなあ・・、
カロウトの中で父とは並んでいるけれど、
果たして一緒にいるのかな?なんて思う
この頃なのでした。