越谷フェンダーブログ

地球環境の為に車部品のリサイクルについて考えます。車の話や会社の裏話を公開します。

尾張屋 小川又市商店 その一

2013年01月17日 18時02分05秒 | Weblog
1月2日の新年会でお母さんから原稿を頂きました。
85歳になる寿子さんのお母さんフデさんの娘時代のお話です。


尾張屋 小川又市商店
                            小川 フデ

昭和の初め、千代田区神田が神田区豊島町と言っていた頃のお話です。

神田川に沿っての柳原通りは、昭和通りをこえて柳森神社の方まで、大小の古着屋が並んでおりました。 柳原通りから靖国通りにぬける通りに“小川又市商店”がありました。 三間間口の店で、当時としては大きい店でした。

 靖国通りに面して尾張屋本店の山川商店がありました。山川商店は通りに面してはあまり大きくないのですが、奥行きが深く、この辺りの古着問屋のいちばん古いお店です。小川商店と同じく近所に七、八件、山川商店に丁稚奉公をした人たちの店がありました。

 小川又市氏は、たいへん優秀な番頭さんであったそうで、山川商店の一人娘の婿にぜひと望まれましたが、郷里には昔からのいいなづけがいましたので、おことわりをし、新潟からその“おつたさん”を連れてきて、四畳半の間借り生活から始めたのでした。 大正七、八年の頃と思われます。

 かわいい子供に恵まれ、大好きになってしまった酒、タバコもきっぱり止めての精進でした。 しかし、関東大震災、子供が疫病で亡くなるなど、不幸、災難が重なりました。でも捨身になっての仕事への精進は実を結び、小川又市商店の看板をあげることが出来ました。

 昭和五、六年ごろ、縁あって,かぞえ年 四歳のになる女の子が養女になりました。長じて又市氏の甥が婿養子として入り、店を継いでゆきます。

 一人娘として、蝶よ花よと育てられた娘が女学校へ入ってまもなくの頃であったと思います。学校は九段の方にありましたので、市電での通学でしたが、かえり道、ずっと二人の男子学生に後をつけられました。ドキドキしてうちに飛び込んだ時、うしろに聞こえました。
『なんだ、古着屋の娘か・・』この言葉は娘の心にやきついてしまいました。

母のようなオカミサンになんて絶対ならないから! 父母は店の番頭さん達の中でいちばん有能な番頭さんを婿殿にしたかったのですが、そうは問屋がおろしませんでした。 でも紆余曲折経て、若おかみになってしまいました。運命を感じます。


さて、わが古着問屋の商いをごらんにいれましょう。 子供心にしっかりと覚えているのです。

『細君いるか!』とお客様。東北の方で、とんび、時には角そでを着用しておられます。目のするどいつるつる頭の大事なお得意様。おかみさん! 高忠さんがいらしゃいましたよ! と店の人の声で、母が早速お出迎え。『いらしぃませ どうぞ どうぞ』母が大のお気に入りなのです。店に上がったお客様は、まず火鉢のそばで、母がお出しするお茶を一服。 父と話してから、席を変えていよいよ仕事にかかります。

 古着の衣類は仕入れたばかりの品に、すぐ値札をつけて仕分けせずに、和服も洋服も大人の肩の高さほどに積まれています。 お客様によって、こしかけを利用する方もいますが、たいていはお座ぶとんにちゃんとすわってごらんになります。 高忠さんのようなお方には、一点一点、店員が値段を申し上げてひろげてお見せします。お買い上げ品は、そばにいる番頭さんがどんどん帳面につけ、はねられた品は、次のお客様にお見せするため別室に運ばれます。それぞれ“むき”がちがいますので面白いのです。

 高忠さんが店に着くころ、きまったように学生帽に学生とんびを着た息子さんがあらわれます。『おやじ、いますか!』 そう、お小遣いを頂きにくるのです。高下駄をカランカランならして! 後の高橋圭三アナウンサーでした!!