旧国産ボデーの稲垣安二氏(63才)が亡くなった。5年にも長きにわたる闘病生活であった・・。
故稲垣氏 故早川氏(越谷フェンダーの先代社長)そして種沢氏(現(株)クラウン社長)の三者が手がけた外装部品の再生販売事業・・スタートから45年以上の歳月を経た現在・・アフターマーケット市場において欠かせないパーツとして大きな市場を席巻している
国産ボデーの創業当時は葛飾区奥戸にあったが、現在は社名を国際オートパーツに改名して千葉佐倉で稲垣氏の息子さんが立派に後を継いでいる
故稲垣氏と越谷フェンダーにはこんなエピソードがある・・・
28年前・・当社の先代社長 早川道雄の突然の死(交通事故で亡くなった)で会社は存続の危機にあった。社員の動揺は大きく再建の目途が立たない中での葬儀となった。
意気消沈したままで葬儀を終えた社員の姿を見るに絶えず・・当時37才の稲垣氏が越谷フェンダーの社員(当時16名)を集め、『明日から仕事を再開しろ!』『越谷フェンダーの再建は君たちがやらないで誰がやる!』『お得意様には、社長が決まり次第後日ご挨拶にお伺いいたしますから・・と言っておけ!・・』30分近く社員を叱咤激励してくれた・・。
当時の社員は稲垣氏のこの言葉に奮い立ち・・再建の道を歩み始めた。・・数ヶ月 実弟の私が越谷フェンダーを継ぐことになった。
稲垣氏と私は、生まれが浅草で樋口一葉 記念館の近くにある竜泉中学の先輩・後輩で同じ水泳部し所属していた事もあり、兄の仕事仲間以前の知り合いであった。
・・中学時代 墨田公園内にあった市営プールで、20M以上のトップステージから高飛びをする稲垣氏の名前を知らない人はいなかった・・。
・・稲垣氏の実家は『お酉り様』が開かれる神社のすぐそばにあったので、実家の前を兄と通るたびに早川!!と呼び止められて『八頭』を買わされた覚えがある
・・ギャンブル好きでフィリッピンのカジノで一世風靡した時代もあった(商才がありすぎて、若くして大金を掴んでしまったと思う・・)
稲垣氏の葬儀は家族葬の形でとり行われたので、お孫さんがたくさん集まった近親者だけの出席となったが・・稲垣氏の波瀾万丈の人生を知っている仕事仲間には・・少し淋しいお別れのようにおもえた・・ 合掌 。
裏をみせ 表をみせて 散る紅葉 良寛
( 写真右から3番目が稲垣氏 ロスにて)
故稲垣氏 故早川氏(越谷フェンダーの先代社長)そして種沢氏(現(株)クラウン社長)の三者が手がけた外装部品の再生販売事業・・スタートから45年以上の歳月を経た現在・・アフターマーケット市場において欠かせないパーツとして大きな市場を席巻している
国産ボデーの創業当時は葛飾区奥戸にあったが、現在は社名を国際オートパーツに改名して千葉佐倉で稲垣氏の息子さんが立派に後を継いでいる
故稲垣氏と越谷フェンダーにはこんなエピソードがある・・・
28年前・・当社の先代社長 早川道雄の突然の死(交通事故で亡くなった)で会社は存続の危機にあった。社員の動揺は大きく再建の目途が立たない中での葬儀となった。
意気消沈したままで葬儀を終えた社員の姿を見るに絶えず・・当時37才の稲垣氏が越谷フェンダーの社員(当時16名)を集め、『明日から仕事を再開しろ!』『越谷フェンダーの再建は君たちがやらないで誰がやる!』『お得意様には、社長が決まり次第後日ご挨拶にお伺いいたしますから・・と言っておけ!・・』30分近く社員を叱咤激励してくれた・・。
当時の社員は稲垣氏のこの言葉に奮い立ち・・再建の道を歩み始めた。・・数ヶ月 実弟の私が越谷フェンダーを継ぐことになった。
稲垣氏と私は、生まれが浅草で樋口一葉 記念館の近くにある竜泉中学の先輩・後輩で同じ水泳部し所属していた事もあり、兄の仕事仲間以前の知り合いであった。
・・中学時代 墨田公園内にあった市営プールで、20M以上のトップステージから高飛びをする稲垣氏の名前を知らない人はいなかった・・。
・・稲垣氏の実家は『お酉り様』が開かれる神社のすぐそばにあったので、実家の前を兄と通るたびに早川!!と呼び止められて『八頭』を買わされた覚えがある
・・ギャンブル好きでフィリッピンのカジノで一世風靡した時代もあった(商才がありすぎて、若くして大金を掴んでしまったと思う・・)
稲垣氏の葬儀は家族葬の形でとり行われたので、お孫さんがたくさん集まった近親者だけの出席となったが・・稲垣氏の波瀾万丈の人生を知っている仕事仲間には・・少し淋しいお別れのようにおもえた・・ 合掌 。
裏をみせ 表をみせて 散る紅葉 良寛
( 写真右から3番目が稲垣氏 ロスにて)