越谷フェンダーブログ

地球環境の為に車部品のリサイクルについて考えます。車の話や会社の裏話を公開します。

故 稲垣 安二 氏 

2010年11月29日 09時51分21秒 | Weblog
旧国産ボデーの稲垣安二氏(63才)が亡くなった。5年にも長きにわたる闘病生活であった・・。 

故稲垣氏 故早川氏(越谷フェンダーの先代社長)そして種沢氏(現(株)クラウン社長)の三者が手がけた外装部品の再生販売事業・・スタートから45年以上の歳月を経た現在・・アフターマーケット市場において欠かせないパーツとして大きな市場を席巻している

国産ボデーの創業当時は葛飾区奥戸にあったが、現在は社名を国際オートパーツに改名して千葉佐倉で稲垣氏の息子さんが立派に後を継いでいる

故稲垣氏と越谷フェンダーにはこんなエピソードがある・・・
28年前・・当社の先代社長 早川道雄の突然の死(交通事故で亡くなった)で会社は存続の危機にあった。社員の動揺は大きく再建の目途が立たない中での葬儀となった。 

意気消沈したままで葬儀を終えた社員の姿を見るに絶えず・・当時37才の稲垣氏が越谷フェンダーの社員(当時16名)を集め、『明日から仕事を再開しろ!』『越谷フェンダーの再建は君たちがやらないで誰がやる!』『お得意様には、社長が決まり次第後日ご挨拶にお伺いいたしますから・・と言っておけ!・・』30分近く社員を叱咤激励してくれた・・。

当時の社員は稲垣氏のこの言葉に奮い立ち・・再建の道を歩み始めた。・・数ヶ月 実弟の私が越谷フェンダーを継ぐことになった。

稲垣氏と私は、生まれが浅草で樋口一葉 記念館の近くにある竜泉中学の先輩・後輩で同じ水泳部し所属していた事もあり、兄の仕事仲間以前の知り合いであった。
・・中学時代 墨田公園内にあった市営プールで、20M以上のトップステージから高飛びをする稲垣氏の名前を知らない人はいなかった・・。
・・稲垣氏の実家は『お酉り様』が開かれる神社のすぐそばにあったので、実家の前を兄と通るたびに早川!!と呼び止められて『八頭』を買わされた覚えがある
・・ギャンブル好きでフィリッピンのカジノで一世風靡した時代もあった(商才がありすぎて、若くして大金を掴んでしまったと思う・・)

稲垣氏の葬儀は家族葬の形でとり行われたので、お孫さんがたくさん集まった近親者だけの出席となったが・・稲垣氏の波瀾万丈の人生を知っている仕事仲間には・・少し淋しいお別れのようにおもえた・・ 合掌 。

       裏をみせ 表をみせて 散る紅葉    良寛



( 写真右から3番目が稲垣氏 ロスにて)

秋の終わり・・

2010年11月22日 17時58分13秒 | Weblog
紅葉の時期が過ぎたので・・山も静かさを取り戻しているだろう・・と奥日光の高山(1667M)に登った・・。

AM7:30竜頭の滝上の駐車場に到着 駐車状況から狙い通り一番乗りの登山となった・・登山道は一面に覆われた落ち葉で歩くたびにガサガサと音をたてる。ちょっと道を外れると土の中にある霜柱がザックザックと音を立てる・・中禅寺湖の水面を渡る風は耳をちぎるとるような寒さを感じさせたが、10分も歩くとからだが暖たまりほどよい寒さになった・・。

・・冬場の山歩きは『大汗をかかないようにゆっくりと歩き続ける』のが鉄則らしい・・が、山頂に着いたときは、いつものように背中の下着は汗ばんでいた。・・冬は『ヒートテック下着』を着込んでいるので20分程度の休憩中にひんやりした冷たさは消えていた・・いつもながらその効果にニンマリする・・。


・・奥日光の登山道で熊の出没情報がたくさん寄せられているので・・同行の寿子さんは神経質に鈴をならしていたので・・『もうこの辺では熊が出ないよ!』・・鈴をリックにしまうと、辺りに静寂がもどった。静けさの中、小鳥の声がかすかに耳に入った・・目を移すと・・すぐそばの立木に日本で一番小さい『キクイタダキ』が夢中で木の実をくちばんでいた・・。

広大な山裾が色づく紅葉見物も良いが・・自分の足で感じる小さな秋の終わり・・ガサガサ・ザクザクもなんとも趣がある・・。

男体山・太郎山の中心に映った 『小田代ヶ原の貴婦人』(中央の白樺の木) が一段と美人に見えた・・。 

貧者の兵器とロボット兵器

2010年11月17日 18時25分49秒 | Weblog
自動車解体業者の広報誌: 日本ELVリサイクル機構のニュースレターに興味深い投稿が仲間からありましたのでご紹介します・・


~読者投稿~
先日、「貧者の兵器とロボット兵器」という大変興味深いTV番組を観た。アフガニスタンにおける米軍とアルカイダの戦闘の話であったが、私が興味をもったのは、 アルカイダと思われる若い兵士が、手製の爆弾を積んだ自動車やトラックで、標的の米軍施設や車両に突っ込んでいく自爆テロの場面であった。

厳しい戦闘訓練を受けた若者たちが、太平洋戦争末期の旧日本軍を手本としたような壮絶な戦いに臨む場面は、人類にとって平和を目指すことの難しさをひしひしと感じさせるものであった。

仕事柄、特に興味を引いたのは、この自爆テロで使われる乗用車やトラックが、全部日本車だったということである。三菱・パジェロ、マツダ・タイタン、トヨタ・カローラワゴン等々。笑うに笑えないのは、トラックボディに大きく書かれた「マツダオートリース」の日本文字。イラク戦争当時の英国BBCニュースが映し出されたが、英軍に突っ込む自爆テロ に使われた車も中古のトヨタ・クラウンであった。

どういうことかと言うと、日本の中古車は以前よりイラク戦争、アフガニスタン戦争の兵器として利用されていたということで、戦車や装甲車等の戦闘車輌が接近してくれば誰でも注意するが、一般車輌に爆弾を積み込んだ自爆テロ車の場合、相手方兵士達には分からない、だからアルカイダは「貧者の兵器」と陰口をたたかれようが丈夫で信頼性の高い中古日本車を大いに利用しているわけらしい。

それら車両が如何なる経路で、どういう事情からテロ組織の手に入るのか分からないが、日本国内のオークション等から輸出業者の手に渡り、回り回って、それら戦闘地域に流れていくことは容易に想像できる。

勿論、それら車の元の持ち主はそんなことになっているとは知る由もない。 同じ車ながら国内で適正に解体され、リサイクルされて役目を終える車もあれば、遥か彼方の地で壮絶な最期を迎える車もあるのだとの思いにふけりつつ、秋の長夜を過ごした次第です。■ (匿名希望)


卒業から45年・・

2010年11月15日 20時13分20秒 | Weblog

高校を卒業して45年・・4年毎に開催される同期会が今年から2年に一度になって初めて秋の開催となった・・40名が銀座に集まった

50代は4年毎 60代は2年に一度 70代は毎年 80代は毎月・・今後の同期会の開催予定である・・最後は何人が集まれるか?

普段は60名近い出席者になるが、今回は・・孫の世話や行事で欠席といった返事が目立った。一方では『親の介護のため・・』『第二の職場が土・日が休めない勤務体制の為・・』といった欠席理由も多く、出席者全体でも・・まだまだ悠々自適の老後とはいかず・・忙しい日々を送っている人の方が多い・・。

・・にぎやかな笑談の中・・今日が誕生日のI君とHさんをケーキと歌で祝福・・脳出血から壮絶なリハビリを経て健康を取り戻したO君の話・・『熟年離婚相談』でひっぱり出された弁護士のM君・・石邑先生に教わったフォークダンスを踊り・・高校三年生を全員で合唱・・。

・・3時間あまりの同期会はあっというまに別れの時間となってしまった。最後に全員で記念写真となったが・・なかなか整列出来ない・・まるで別れるのを惜しんで逃げ回る子供のような光景である

・・最後に・・互いの肩を寄せ合い腕を組んで『今日の日はさようなら』を全員で合唱・・

・・♪♪ いつまでも絶えることなく 友だちでいよう 明日の日を夢見て 希望の道を ♪
     空を飛ぶ鳥のように    自由に生きる  今日の日はさようなら また会う日まで ♪
     信じあうよろこびを    大切にしよう  今日の日はさようなら また会う日まで また会う日まで ♪

・・二年後 再会の思いをのせて・・また元気に会おうね~さようなら~
     



誕生日会の後・・

2010年11月10日 17時38分10秒 | Weblog
63才の誕生日を荻窪駅近くに住む長男の自宅で楽しく過ごした

辺りが暗くなるまで長々とおじゃましてしまったので、別れの挨拶もそこそこに・・バス停に急いだ。そのとき、消防自動車がフルスピードで西荻窪方面に走り去っていった・・『火事かな~』・・。

荻窪駅でバスを降りて改札口に向かう通路は人でごった返していた。『ずいぶんにぎやかだね~』とのんきな事を考えながら進むと・・『西荻窪駅で人身事故が発生の為、中央線は上下線共に不通になっております』とアナウンスが流れていた・・。

『あ~さっきの消防自動車の出動はこの事故の・・地下鉄丸ノ内線で帰ろう~』と発した瞬間・・『あ!・・あの記事の情景が・・』

・・『張りつく薄い寂しさ』・・3月17日の朝日新聞の夕刊『人の価値が下がる時代』と題した一橋大学教授 宮地 尚子(文化精神医学)・・(2010.3.18ブログで紹介 http://blog.goo.ne.jp/renovate/e/7969b98f8c873b394be3e16f00d5f21a)


張りつく薄い寂しさ・・

電車が止まり、人身事故という放送がはいる。

声にならないため息とともに、携帯にメールがうちこまれていく。

今どのあたりか窓の外を見ようとしても、疲れた顔が並んで反射するだけ。

人身事故という放送に驚きと憐れみをしめした時代から、苛立ちに舌打ちする時代へ。

やがてそのことへの良心の呵責も消え、もはや諦めが覆い、車内には薄い寂しさが漂う。

吊り広告に目をやれば、「使える人になれ!」とビジネス社会サバイバル術の文字が躍る。

自分が「使えない人」だとみなされ、万が一 路線に身を投げたとしても、ため息をつかれるだけの存在だということをかみしめる。

・・以下  http://blog.goo.ne.jp/renovate/e/7969b98f8c873b394be3e16f00d5f21a


この詩に・・一瞬 心の中を見透かされたような気がした・・
・・家族と共に楽しいひとときを過ごした直後の事もあって、誕生日の鮮烈な出来事となった・・。

41年間

2010年11月02日 18時02分42秒 | Weblog
10月31日 63才の誕生日を迎えた・・。 

・・建設会社に就職して14年目の36才の春 兄が交通事故で死亡したことで急遽 越谷フェンダーの社長に就任・・それから26年が経過した・・。

当時の会社は・・一日の流した汗の量が売上げ高になる・・ごく単純な営業活動であった。・・次第にアフターマーケットの中古部品市場が大きくなるにつれて、社員も増えてきて組織だった営業戦略や生産システムの改革が必要になった・・。

そん時期に出会ったのが品質マネージメントシステムISO9001の管理手法であった・・部門担当者の休日勉強会から始まって、翌年4月から正式にスタート、その翌年の2002年3月に認証を取得した・・。

現在は・・ISO9001の管理システムが社内に確実に定着してきているので、ここ数年の間に大きな飛躍の年を迎えるのではないか?・・と大きな期待を寄せている・・。


・・社会に出てから41年・・あっという間の時間のように思える・・まさに 光陰矢のごとし である。