暑い最中、ぼちぼちやってきた断捨離・大掃除。
納戸を開ければ、かつてもらったお皿や、ちょっといいものだからと取っておいた洋服やら、買って一度もかぶっていないオシャレな帽子やら。
考えればもう20年近く、箱に入ったままだったり、納戸のケースに入ったままだったり。
若い時は、「今後のためにとっておこう」と思えたし、
それを今まで置いたままになっていたのですが、
さすがに親を既に送ったこの年になると、
後数十年も生きる訳ではなく、
大事にとっておいたものは、自分にとって大事だと思ったもので、
自分以外には、粗大ゴミにしか思えないものになっている可能性も高い。
今、使うもの。
この1、2年で使うものだけに限って取っておくということで十分なのではと思うようになりました。
それというのも、突然私事ですが、
ごく最近、若い頃とても親しくしていた友人が突然亡くなったのです。
世界の第一線で活躍していた人。
わたしたち友人の間で「誇り」だった人。
これからだったのに。
あまりにも「いのち」というものがはかないものであるということを思い知りました。
「今」を生きなければならない。
「未来」に生きる訳ではない。
強く実感しました。
『ありとキリギリス』に出てくる、キリギリス的その日暮らしの生き方ではなく、
今を生きるために、
持っているものを「今」使う。
使い切る。
それこそが、「キッパリ生きる」ということなのではないか・・・と
友人の死を悼みつつ、
思うわたしでした。


用事で鶴見区に行った時に立ち寄った、石原裕次郎のお墓があることで有名な「総持寺」の廊下。
ピカピカに磨き上げられています。気持ちがす~っとしました。