LOVE AND GLORY

-サイキックの眼-

情念と言葉

2015-06-13 06:29:30 | サイキックの眼

     
      
情念と言葉
      
      
感情、情緒、情念。
      
普段わたしたちは、これらをカタチにし、表現することは殆ど無い。
しかし、それは建前であって、いつも心の奥底に押し閉めています。
これが日常あたりまえの事であり・・・
「それって、そんなモンでしょう?」
という具合な感じが、当然になっている。
    
怒ったらアカン、みんな仲良く。
自分にも触れられたくないから、相手にも触れない。
それが常識。
    
ハイ終わり!
これで今日も一日、有意義な生活が営めまして御座いましてソウロウ。
今日も言いたいことは我慢して、溜め込んで溜め込んで、パンパンになって満腹?になりました。
メデタシ・メデタシ
    
ハッキリ言って、ワケが解らなくなります。
解らなくなってくるのです。
長い人生の毎日の中で、何が?溜まっているのか?解らないのです。
     
その日の出来事
その日の気持ち
その日々の感情
それらが「情念」で・・・
    
※ 「情念」とは、調べてみるとこのように書かれている。
深く心に刻みこまれ,理性では抑えることのできない
悲・喜・愛・憎・欲などの強い感情。
  (大辞林 第三版)

僕は、様々・・多くの方々のカウンセリングのご依頼を申し受けます。
何か?に悩んでいて、それが解らない。
しんどくて苦しい、どうして良いのか解らない。
何か?原因があるのか?
と言う思いで、ご依頼下さいます。
悩み、問題の原因は、《サイキックの眼》と題していますように、初見でつきとめることを行います。
しかし、それを聴いて知って戴いても、依頼者ご本人にはスグに理解出来ないことがしばしば起るのです。

何故?
「悩みの原因が解っても、理解が出来ない」
と言うような事が起こるのか?
それは
『感情』で理解したくない
『感情』を知りたくない
悩んでいた出来事の原因を『感情』で思い出したくないからなのです。

悩んでいたことが解らず、それがなんらかの過去のトラウマなのであって、それが思い出せず、思い出したくない、だから解らなくなり。
それが、何れは・・情緒不安定・・となって、体力・精神力の消耗が著しくなり、原因不明のストレスとなっていく。
付け加えて大事なコトとして、大人がこうなら、一緒にいる子供も情緒不安定となるでしょう。

さて
僕は《サイキックの眼》と題しましたカウンセリングを行う上で、大事に取り組んでいるコトがあります。
それは、「的確な言葉を用いる」 です。

● 悩みや不安が解らない
● その不安となる気持ちもうまく表現できない
● 不安原因を受け止められないので…それを無意識に遠ざける

この時点で、まだ一度も「言葉」には表現出来ていないのです。
情緒不安定のままです。
脳も、体も、精神も、分散してバラバラの状態なのです。

つまり

〔 悩み原因+(感情+身体+脳+神経)=自己理解成長 〕

これをヒトツに纏める作業がカナメで、悩み解明となるのです。
なのですが、この方程式の中で〔+プラス〕・・・
つまり原因と出来事と本人とをヒトツに合わせていく大事なモノとして
「的確な言葉」が不可欠なのです。
的確な言葉が〔+プラス作用〕を即し、ヒトツに纏めるのです。

~例えば~
子供の頃に親に叱られた
叱られるようなことでは無かった…と思う…たぶん
そのまま、そのことは解らないまま時間が過ぎて
大人になってからも、なんとなく恐さがあり
なにか解らず・・なにか?を遠ざけて
不安だけが付きまとう。
誰しもみんな、なんとなく?あると思います。
例えばですが
これは何もかも曖昧な思い出で
叱られたのも曖昧だったかも知れません。
だけど…なんとなく辛かったのも事実だった
それが大人になってからも解らないモノで
その曖昧な恐怖心からイライラし・・
やがて自分も親になって、
我が子に対し、なんとなく叱ってしまうようになってしまった。
子供も自分に似て、すぐにキレるようになってしまった。
その原因が解らず悩んでいる。

解りやすいトラウマの例です。
なんとなく・・・
曖昧で?
自分が悪かったのかも知れなかった
だけど、否定されたのは間違いない?ような気が。

気持ちも重くスッキリしないまま・・のような気が
頭痛も治らずドンヨリする
体温調節もままならず
なんとなく不安がのしかかり
イライラしっぱなし。

このバラバラ感
これを解消するのですが
ここに無いモノがあるんです
それは 『的確な言葉』 です。

◆ なんとなく叱られた

◇ ワケも解らず辛かった

◎ その気持ちは当時は曖昧だったので
  現在その感情を言葉にしたらどうか?

◇ 無性に腹が立つ!

◎ どのように腹が立つ?

◇ どうして私だけ叱られなきゃダメなんだ!

◎ その感情を言葉にしたらどうなる?

◇ 『 理不尽 !』
  そう、いつも理不尽な家庭環境だった!
なにもかも理不尽だった
  だから大人になって、誰かに理不尽なコトをされるのが嫌で。
・・だけど、自分もまた理不尽な事を他人に押し付けていました。


これは僕が即興で(笑)こさえた一例です。
(注※あくまでも簡単な例です)

出来事、感情、身体、脳、神経。
これらを明確にした上で⇒更に『的確な言葉』で⇒ヒトツに繋げ表現する。
人間って、質問されると答えられるモノなのです。
このようにすることで、なんとなく曖昧な感覚は拭えていき、自分がどのような考えで感情を抱くかが良く解り、自身(自己)を持てるようになります。

とは言え・・・そんなに簡単なモンダイばかりではありません。
カンタンなら警察は要りません。
カンタンなら「おまえのかぁ~ちゃんデベソ!」で済みます。
感情も身体も、脳も神経も、奥が深いのです。
そこに日々の出来事が刻み込まれていくのです。
深いから、大変なのです。
深いから、苦しい。

その『情念』は計り知れない。
計り知れないから、なかなか良く理解出来ない。
理解し続けていく時間、乗り越えなければならないハードル。
命がいくつあっても足りないし、精神のもちようがない。
だからまた曖昧になり、なんとなく・・の日々に戻る。
だがしかし、やはり魂と心の持つ中に在るのが『情念』です。

※再記載
「情念」とは深く心に刻みこまれ,理性では抑えることのできない
悲・喜・愛・憎・欲などの強い感情。
(大辞林 第三版)

これをどのように表現出来るのか?です。
歌や詩、舞台や芸術も『情念』をカタチにしたもの。
それはあくまでも作品の中でのコトが多く、あらゆる芸術家はそれを作品にします。
しかし僕は、やはり日常生活の中ででも、『情念』と『言葉』でもって、「表現」をする必要があると思う。
あくまで、作品や活動などではなく、一個人のレベルで。

それには、自分の『情念』と『言葉』に責任が生じます。
カンタンなコトではありません。
辛く苦しいことの連続です。
ですが、その途方もないスケールの『情念』のヒトツヒトツを乗り越えるならば、そのヒトツヒトツは、自分の引き出しにストック出来るようになるのです。
経験です。
そしてまた、その辛く苦しかった経験を言葉にも出来るようになるのです。
『情念』は、辛く苦しく、言葉に出来ますが。
『曖昧』は、なんとなく、言葉には出来ません。

『曖昧』は楽です、何も煩(わずら)いません。
そのかわり、イライラの連続となるでしょう。
『情念』は苦しい、耐えがたい。
だけど、乗り越える未来が存在します。

辛く苦しいことは忘れない
だが曖昧にした方が生きやすい?
それが積もりに積もっていくと、なんのこっちゃわからへん人生になっていく。
それをまた、ヒトツヒトツ拾い上げて、多くを並べて。
二度と見たくなかったそのモノの全体を再認識し、
そこから溢れる感情を『情念』を、ヒトコトで『言葉』に表現するなら・・・?

と、いうお話しでした。
 


サイキックの眼  ヤマモト・コージ