○ 戻れない道のかなたに一本の白樺の木と風の棲む家 (福島市) 美原凍子
本作の作者・美原凍子さんの元の居住地は北海道夕張市である。
したがって、作中の「戻れない道」とは、あの財政破綻の街・夕張市に通じる「道」でありましょう。
作者は、その「道のかなた」に在る「一本の白樺の木」と「風の棲む家」とに懐かしさを感じつつも、今となっては其処には永遠に「戻れない」との万感の思いを込めて、この一首を成したものでありましょう。
ところで、選者の高野公彦氏は、この一首を評して、「かつて住んでいた夕張の家を思う。空家を『風の棲む家』と言ったのが詩的で哀しみが漂う」と述べて居られる。
高野公彦氏の評言には私も全く同感ではある。
しかし、私は短歌以前に現代詩に携わり、若気の至りとは言え、四季派などの抒情詩の類を、乱暴にも切り裂き破り捨てて来た者である。
そんな私が、現代詩と短歌との違いがあるとは言え、同じ芸術ジャンルに属する文芸作品としての短歌を、「詩的で哀しみが漂う」などといった言葉で以って評さなければならないのは、いささかならず面映い心持ちがしてならないのである。
私にとって短歌とは「戻れない道」、いや、「踏み入ってはならない道」だったのも知れない。
因みに、本作の作者・美原凍子さんの夕張市在住時の歌を転載してみよう。
これら二首は、いずれもかつての朝日歌壇の入選作である。
花ひらき花ちり川はせんせんとさつきみなづきふみづきはづき
逝くものを逝かしめ月はゆるゆると山より出でて山に沈みぬ
こうしてみると、今となっては永遠に「戻れない道のかなた」に在る夕張という街も、雪月花という情趣に恵まれ、「川はせんせん」として流れ、「さつき」「みなづき」「ふみづき」「はづき」と歳月が美しく移り行く街であったようだ。
その美しい街が、醜い政治屋どもの利権争いの餌食となった挙句、財政破綻に陥ってしまい、歌人・美原凍子さんの帰郷を永遠に拒む街と成り果ててしまったのである。
〔返〕 踏み入るな戻って来るなと責め立てる白樺の木と風の棲む家 鳥羽省三
春は花 夏せんせんと川流れ 秋は月照り 冬は粉雪 々
○ 栄転の送別会と歓迎会幾春経ても拍手する側 (和泉市) 長尾幹也
前掲作品の作者・美原凍子さんと共に、本作の作者・長尾幹也さんも又、朝日歌壇の常連中の常連である。
毎年の年度始めに行う、栄転者の為の「送別会」や「歓迎会」の場に於いての、「幾春経ても拍手する側」の人間としての長尾幹也さんの両掌が発する「拍手」の音は、格別に大きくて手馴れたものでありましょう。
しかし、それもさることながら、「栄転の送別会と歓迎会幾春経ても拍手する側」という、この一首もまた、実に手際よく、格別に手馴れた作品である。
そのあまりの手際の良さに痴れてしまい、評者としての私は、ただ見惚れているだけであり、拍手する術すら忘れてしまうのである。
〔返〕 送るため迎えるためと理由変え昨日に続く今日の祝宴 鳥羽省三
○ 祖母山の源流ちかき沢水に若葉もえたつクレソンを摘む (大分市) 岩永知子
「祖母山」と「源流」、「源流」と「沢水」、「沢水」と「クレソン」、「クレソン」と「若葉」、「若葉」と「摘む」とは、それぞれ縁語関係にあると思われる。
また、「祖母山」の「祖母」と「若葉」の「若」とは、反意語的な関係にあるとも言えましょう。
本作は、そうした縁語や反意語的な言葉を連ねての技巧的な作品ではあるが、一首の趣きはむしろ淡白であり、類想歌を指摘することも容易い作品である。
〔返〕 翁ぐさ口あかく咲く安曇野を爺ケ岳へと憧れて行く 鳥羽省三
○ 月さして波打際となる窓辺かひがらのやうにねむりゐる母 (東京都) 岩崎佑太
「月さして波打際となる窓辺」という上の句は隠喩であり、「かひがらのやうにねむりゐる母」という下の句は直喩である。
隠喩と直喩とから一首が構成されている作品はそれほど珍しくは無いが、本作の場合は、上の句の隠喩の適切さもさることながら、下の句の直喩が特に適切かつ新鮮であり、そこに作者の歌才の素晴らしさが窺われる。
〔返〕 身を透かしさくら貝のごと眠りたる母のかんばせ月に照り映ゆ 鳥羽省三
○ 腹掻いて猫は欠伸す見直しにぎくぎくゆれる郵便局前 (鳥取県) 中村麗子
新聞歌壇への投稿作などを記したハガキを投函直前になってから見直ししているといった光景は、ごく普通に見受けられる光景である。
本作の面白さは、「郵便局前」で全身を「ぎくぎく」揺らしながら、一所懸命になってハガキの見直しをしている話者の傍らに、「腹掻いて」「欠伸」をしている「猫」を配した点である。
話者がハガキの「見直し」に夢中になっていればいるほど、いつものように「腹掻いて」「欠伸」をしている「猫」の姿は皮肉であり、話者からすれば、人間たる自分の一所懸命なる行為が、畜生たる「猫」に小馬鹿にされ、笑われているようにも感じられるのであろう。
「ぎくぎく」という擬態語の使用が、適切な表現として、読者に受け入れられるかどうかが問題である?
〔返〕 簡易局の扉ぎくぎく揺らしつつ締め切り間際のハガキ見直す 鳥羽省三
○ 音もなく島の椿のくずれ落つ戦艦陸奥の眠る瀬戸内 (神戸市) 内藤三男
「戦艦陸奥」は、1943年の6月8日、原因不明の爆発事故を起こして、瀬戸内海の柱島沖で沈没した。
本作は、その「戦艦陸奥」の爆沈の有様を、「音もなく島の椿のくずれ落つ」という、客観的かつ象徴的な措辞で以って想像させているのである。
優れた歌人は、その一部始終を見ていたような嘘を、象徴という手法で以って吐くものである。
〔返〕 柱島の赤い椿も語らざる戦艦陸奥の爆沈の謎 鳥羽省三
○ 響き来るトランペットの下手もよし園にれんぎょう、ぼけ、こぶし咲く (東京都) 狩集祥子
「れんぎょう」は黄色く、「ぼけ」は赤く、「こぶし」は乳白色に、「園に」咲いている。
その静けさと美しさを破るようにして、今しも金管色の音もけたたましく、「トランペットの下手」な音が、話者の耳に「響き来る」のである。
しかし、本作の作者は、その「トランペットの下手」な音を、けたたましいとも喧しいとも言ってはいない。
猫ならずとも眠気さすような、美しく静かな春の午後には、「響き来るトランペットの」音は「下手もよし」なのである。
〔返〕 昼寝から覚めたら庭でお茶します<MADAME SHINCO>のカフェのつもりで 鳥羽省三
○ バイバイを繰り返す子ら別れさえ楽しめる日が我にも在りき (郡山市) 畠山理恵子
「バイバイを繰り返す子ら」を見て、「別れさえ楽しめる日が我にも在りき」と言える作者の畠山理恵子さんは、私には、極めて幸せな人生を歩んでいる女性と思われる。
たとえそれが、遠い過去の出来事であったとしても。
〔返〕 サヨナラサンカクまた来て刺客豆腐の角に当たって死ねよ 鳥羽省三
○ 快晴の火曜も雨の祝日も靴屋は靴の匂いしており (名古屋市) 杉 大輔
このおおらかで拘りの無い一首に接して、私は、現代の日本社会の明るさと平和とをつくづくと感じた。
「鳩山不況だ」「デフレだ」「国家財政破綻の危機だ」などと言われながらも、今の日本社会は、ひと時代前の日本よりも、他の国々よりも、ずっとずっといい社会なのである。
この一首の存在は、そのことの意味を如実に示しているのである。
〔返〕 魚屋に魚の匂ひ鍛冶屋には火の匂ひするとて卑しめき 鳥羽省三
○ 訪ねたる寺の親しも飼猫の出で入る障子のひと目を貼らず (久慈市) 三船武子
訪ねて行った「寺」の「障子のひと目」が、「飼猫の出で入る」ために貼られていないことを目にしたことは、歌人としての作者にとっては、たいへん僥倖かつ貴重な発見であつたに違いない。
しかし、その類い希な発見を、「訪ねたる寺の親しも」という歌い出しの一首にしか仕立て得なかったことは、極めて悔やまれることである。
何故なら、「~~の~~親しも」、「~~の吾に親しも」という、気楽なパターンの類想歌は、今や巷に掃いて捨てるほど堆積しているからである。
せっかくの好材料を活かし切れなかった作者の努力の足りなさと、それを知りつつも、イマイチのこの作品を入選歌とした選者の怠慢とが惜しまれる。
〔返〕 方丈の障子の隅のひと桝は猫のためとか紙を貼らざる 鳥羽省三
○ 卒業の列を見送りつつ立てば背に黙深き職員室あり (相模原市) 岩元秀人
同じ作者の、過去の朝日歌壇の入選作・七首を列挙してみよう。
① 雨の日の窓近く立ち教師という監視カメラの眼球暗し
② 風邪のわれ気づかう母のそばにいて電話に出ない父というもの
③ ガラス器にはげしく水を吸いながら沈黙深くヒヤシンスあり
④ 切られゆく百歳の樹は喘ぎつつああ幾度もさよならを言う
⑤ この星の六十億のほとんどに知られず六十億は生きゆく
⑥ 窓窓が窓語でひそひそする夜の会話をこわさぬように秋来る
⑦ 地上には合わなくなりて消え去りし種のあるというその種愛しき
本作と旧作①を参照するに、作者・岩元秀人さんの職業が教員であることが判る。
また、旧作七首及び本作を参照すると、岩元秀人さんのご性格が、繊細で感受性に富み、極めて傷付き易いものであることが覗われる。
岩元秀人さんと同じように、評者もまた神奈川県内の教壇に立っていた者の一人であるから、この作品の詳細については、これ以上のことは申し上げないが、この繊細で傷付き易いご性格の岩元秀人さんの、教師としての日常が、如何に耐え難いものであったかは、何人たりとも、想像するに難くないものでありましょう。
「黙深き職員室」を「黙深き職員室」としか言えないところに、短歌という文学の限界を感じる。
〔返〕 赤ままの歌を歌うな黙深き職員室のドアを蹴飛ばせ 鳥羽省三
○ 春日浴び重なりている泥亀に守られる秩序整然たりき (横浜市) 竹中庸之助
つい二週間前ほどに、私は自宅の近所の古刹の池で、この一首に詠まれているものと瓜二つの光景を目にしたばかりである。
本作の作者は、この一首に詠まれている光景を過去の出来事として回想して詠んでいるのでは無く、嘱目の光景として詠んでいるのでありましょう。
だとすれば、五句目の「整然たりき」の「き」は余分であろう。
〔返〕 親亀の横で小亀が甲羅干しその横で孫亀が甲羅干し 鳥羽省三
○ わが小店揺るがすほどに湯気立てて泣くみどり児よ春は来にけり (周南市) 小池世子
作者の小池世子さんは、どんなご商売を営んでいるのでありましょうか?
作中には、「わが小店」とあるばかりで、その実態を知る手掛かりとて無いが、察するに、店番かたがたみどり児のご養育も可能なようなご商売、例えば、煙草販売店とか、小規模な惣菜店とかのような気がする。
その「わが小店」を「揺るがすほどに湯気立てて泣くみどり児よ」とあるが、どんなささやかな店構えであったとしても、「みどり児」が「湯気立てて泣く」声で以って、店を「揺るがす」ことは不可能でありましょう。
したがってこれは、店番の最中に「みどり児」に泣き喚かれた時の、母親としての驚きの気持ちと、みどり児の元気さとを強調しての表現でありましょう。
三句目から五句目に渡る「湯気立てて泣くみどり児よ春は来にけり」という措辞が抜群に優れている。
そう、春はすぐそこまで、「わが小店」の軒下まで訪れているのである。
〔返〕 抱きたるみどり児にまで靴履かせ春の野に出で若菜摘みせむ 鳥羽省三
○ 座る位置で心の距離がわかっちゃう心理学など取るんじゃなかった (東京都) 上田結香
今年、大学生になったばかりの本作の作者は、それほどの興味を感じないまま、卒業に必要な単位合わせの一つとして、一般教養科目の「心理学」を履修することにしてしまったのである。
講義自体は思っていたよりも難しくはなかったが、この科目を履修したお蔭で、最近彼女は、かなりややこしい事態に陥ってしまって、困惑しているのである。
彼女と一緒に「心理学」を履修している学生の中に、彼女のタイプの男性がいて、彼は彼女のことを爪の垢ほども意識していないのであるが、彼女は彼にすっかり熱を上げてしまったのである。
そこで彼女は、彼への接近策の一つとして、心理学教室での座席を彼の最寄りの席にすることにしてしまった。
と言っても、それなりの家庭教育を受け、教室でのマナーらしきものを心得ていると思っている彼女のことであるから、いくら一目惚れをしたからと言っても、彼の隣りの席を占領して、上の空の状態で講義を受けるようなことはしたくなかった。
そうは言っても、彼女とて世間並みの若い女性であるから、同じ教室に好きで好きで堪らない男性が居るのに、わざわざ彼から離れた座席で身に入らない講義を受けるほどに遠慮深くも無かったのである。
心理学教室の座席配置は、五人掛けの長机セットが横に三列、その三列がそれぞれ十二組ずつ並んでいる。
そこで彼女は、出来得るならば彼の隣りにぴったりとくっ付いて講義を受けたいという本音を隠し、彼が座る席の後ろの席に座り、それもばっちり真後ろの席というわけでは無く、彼の席の斜め後ろかその隣り辺りに座ることに決めてしまったのである。
最初のうちはその作戦も上手く行っていた。
何故なら、学期初めの頃は、受講生たちも小まめに講義に出席していたから、真面目タイプの学生と見受けられ、いつも教室の中央・最前列の席に座る彼が着席するのに合わせて、その斜め後ろに当たる席に座れば、講義の始まる頃には、彼の席の隣りにも、彼女の席の隣りにも、いつの間にか二人ないし三人の学生が座ることになり、彼を意識している彼女の存在がそれほど目立たなかったからである。
ところが、五月の大型連休明けの頃になると、教室に現れる学生が急激に少なくなり、気が付いてみると、教室の中央列の座席には、最前列の真ん中に彼が一人、その斜め後ろの席に彼女が一人だけといった事態になってしまい、彼と彼女以外の学生の座席は、教室の左右列の机、それも三列目から後ろの方に決まってしまい、彼と彼女は、彼と彼女以外の学生たちから監視されるようにして受講しなければならなくなってしまったのである。
そうなれば、心理学の講義の内容にも在る、「座る位置で心の距離がわかっちゃう」というような羽目にもなってしまい、彼と彼女以外の受講生たちの間に、彼女が彼のストーカー紛いの行動をしているという噂が広まってしまったのである。
「座る位置で心の距離がわかっちゃう心理学など取るんじゃなかった」と言っても、後の祭りである。
この恋の結末は一体どうなることやら。
〔返〕 斜めからあなたを見てるの好きだからこの席わたしの指定席なの 鳥羽省三
○ 人と人交わすがごとく手をあげる和尚は犬にごくさりげなく (飯田市) 草田礼子
いる。いる。
そんな気さくな和尚さんは、私が八年間住んでいた北東北の田舎街にも二人ほど居たし、日本全国、至る所の町や村にも、必ず一人や二人は居るような気がする。
〔返〕 住職は犬猫にまで挙手をしてワンともニャンとも答礼されず 鳥羽省三
本作の作者・美原凍子さんの元の居住地は北海道夕張市である。
したがって、作中の「戻れない道」とは、あの財政破綻の街・夕張市に通じる「道」でありましょう。
作者は、その「道のかなた」に在る「一本の白樺の木」と「風の棲む家」とに懐かしさを感じつつも、今となっては其処には永遠に「戻れない」との万感の思いを込めて、この一首を成したものでありましょう。
ところで、選者の高野公彦氏は、この一首を評して、「かつて住んでいた夕張の家を思う。空家を『風の棲む家』と言ったのが詩的で哀しみが漂う」と述べて居られる。
高野公彦氏の評言には私も全く同感ではある。
しかし、私は短歌以前に現代詩に携わり、若気の至りとは言え、四季派などの抒情詩の類を、乱暴にも切り裂き破り捨てて来た者である。
そんな私が、現代詩と短歌との違いがあるとは言え、同じ芸術ジャンルに属する文芸作品としての短歌を、「詩的で哀しみが漂う」などといった言葉で以って評さなければならないのは、いささかならず面映い心持ちがしてならないのである。
私にとって短歌とは「戻れない道」、いや、「踏み入ってはならない道」だったのも知れない。
因みに、本作の作者・美原凍子さんの夕張市在住時の歌を転載してみよう。
これら二首は、いずれもかつての朝日歌壇の入選作である。
花ひらき花ちり川はせんせんとさつきみなづきふみづきはづき
逝くものを逝かしめ月はゆるゆると山より出でて山に沈みぬ
こうしてみると、今となっては永遠に「戻れない道のかなた」に在る夕張という街も、雪月花という情趣に恵まれ、「川はせんせん」として流れ、「さつき」「みなづき」「ふみづき」「はづき」と歳月が美しく移り行く街であったようだ。
その美しい街が、醜い政治屋どもの利権争いの餌食となった挙句、財政破綻に陥ってしまい、歌人・美原凍子さんの帰郷を永遠に拒む街と成り果ててしまったのである。
〔返〕 踏み入るな戻って来るなと責め立てる白樺の木と風の棲む家 鳥羽省三
春は花 夏せんせんと川流れ 秋は月照り 冬は粉雪 々
○ 栄転の送別会と歓迎会幾春経ても拍手する側 (和泉市) 長尾幹也
前掲作品の作者・美原凍子さんと共に、本作の作者・長尾幹也さんも又、朝日歌壇の常連中の常連である。
毎年の年度始めに行う、栄転者の為の「送別会」や「歓迎会」の場に於いての、「幾春経ても拍手する側」の人間としての長尾幹也さんの両掌が発する「拍手」の音は、格別に大きくて手馴れたものでありましょう。
しかし、それもさることながら、「栄転の送別会と歓迎会幾春経ても拍手する側」という、この一首もまた、実に手際よく、格別に手馴れた作品である。
そのあまりの手際の良さに痴れてしまい、評者としての私は、ただ見惚れているだけであり、拍手する術すら忘れてしまうのである。
〔返〕 送るため迎えるためと理由変え昨日に続く今日の祝宴 鳥羽省三
○ 祖母山の源流ちかき沢水に若葉もえたつクレソンを摘む (大分市) 岩永知子
「祖母山」と「源流」、「源流」と「沢水」、「沢水」と「クレソン」、「クレソン」と「若葉」、「若葉」と「摘む」とは、それぞれ縁語関係にあると思われる。
また、「祖母山」の「祖母」と「若葉」の「若」とは、反意語的な関係にあるとも言えましょう。
本作は、そうした縁語や反意語的な言葉を連ねての技巧的な作品ではあるが、一首の趣きはむしろ淡白であり、類想歌を指摘することも容易い作品である。
〔返〕 翁ぐさ口あかく咲く安曇野を爺ケ岳へと憧れて行く 鳥羽省三
○ 月さして波打際となる窓辺かひがらのやうにねむりゐる母 (東京都) 岩崎佑太
「月さして波打際となる窓辺」という上の句は隠喩であり、「かひがらのやうにねむりゐる母」という下の句は直喩である。
隠喩と直喩とから一首が構成されている作品はそれほど珍しくは無いが、本作の場合は、上の句の隠喩の適切さもさることながら、下の句の直喩が特に適切かつ新鮮であり、そこに作者の歌才の素晴らしさが窺われる。
〔返〕 身を透かしさくら貝のごと眠りたる母のかんばせ月に照り映ゆ 鳥羽省三
○ 腹掻いて猫は欠伸す見直しにぎくぎくゆれる郵便局前 (鳥取県) 中村麗子
新聞歌壇への投稿作などを記したハガキを投函直前になってから見直ししているといった光景は、ごく普通に見受けられる光景である。
本作の面白さは、「郵便局前」で全身を「ぎくぎく」揺らしながら、一所懸命になってハガキの見直しをしている話者の傍らに、「腹掻いて」「欠伸」をしている「猫」を配した点である。
話者がハガキの「見直し」に夢中になっていればいるほど、いつものように「腹掻いて」「欠伸」をしている「猫」の姿は皮肉であり、話者からすれば、人間たる自分の一所懸命なる行為が、畜生たる「猫」に小馬鹿にされ、笑われているようにも感じられるのであろう。
「ぎくぎく」という擬態語の使用が、適切な表現として、読者に受け入れられるかどうかが問題である?
〔返〕 簡易局の扉ぎくぎく揺らしつつ締め切り間際のハガキ見直す 鳥羽省三
○ 音もなく島の椿のくずれ落つ戦艦陸奥の眠る瀬戸内 (神戸市) 内藤三男
「戦艦陸奥」は、1943年の6月8日、原因不明の爆発事故を起こして、瀬戸内海の柱島沖で沈没した。
本作は、その「戦艦陸奥」の爆沈の有様を、「音もなく島の椿のくずれ落つ」という、客観的かつ象徴的な措辞で以って想像させているのである。
優れた歌人は、その一部始終を見ていたような嘘を、象徴という手法で以って吐くものである。
〔返〕 柱島の赤い椿も語らざる戦艦陸奥の爆沈の謎 鳥羽省三
○ 響き来るトランペットの下手もよし園にれんぎょう、ぼけ、こぶし咲く (東京都) 狩集祥子
「れんぎょう」は黄色く、「ぼけ」は赤く、「こぶし」は乳白色に、「園に」咲いている。
その静けさと美しさを破るようにして、今しも金管色の音もけたたましく、「トランペットの下手」な音が、話者の耳に「響き来る」のである。
しかし、本作の作者は、その「トランペットの下手」な音を、けたたましいとも喧しいとも言ってはいない。
猫ならずとも眠気さすような、美しく静かな春の午後には、「響き来るトランペットの」音は「下手もよし」なのである。
〔返〕 昼寝から覚めたら庭でお茶します<MADAME SHINCO>のカフェのつもりで 鳥羽省三
○ バイバイを繰り返す子ら別れさえ楽しめる日が我にも在りき (郡山市) 畠山理恵子
「バイバイを繰り返す子ら」を見て、「別れさえ楽しめる日が我にも在りき」と言える作者の畠山理恵子さんは、私には、極めて幸せな人生を歩んでいる女性と思われる。
たとえそれが、遠い過去の出来事であったとしても。
〔返〕 サヨナラサンカクまた来て刺客豆腐の角に当たって死ねよ 鳥羽省三
○ 快晴の火曜も雨の祝日も靴屋は靴の匂いしており (名古屋市) 杉 大輔
このおおらかで拘りの無い一首に接して、私は、現代の日本社会の明るさと平和とをつくづくと感じた。
「鳩山不況だ」「デフレだ」「国家財政破綻の危機だ」などと言われながらも、今の日本社会は、ひと時代前の日本よりも、他の国々よりも、ずっとずっといい社会なのである。
この一首の存在は、そのことの意味を如実に示しているのである。
〔返〕 魚屋に魚の匂ひ鍛冶屋には火の匂ひするとて卑しめき 鳥羽省三
○ 訪ねたる寺の親しも飼猫の出で入る障子のひと目を貼らず (久慈市) 三船武子
訪ねて行った「寺」の「障子のひと目」が、「飼猫の出で入る」ために貼られていないことを目にしたことは、歌人としての作者にとっては、たいへん僥倖かつ貴重な発見であつたに違いない。
しかし、その類い希な発見を、「訪ねたる寺の親しも」という歌い出しの一首にしか仕立て得なかったことは、極めて悔やまれることである。
何故なら、「~~の~~親しも」、「~~の吾に親しも」という、気楽なパターンの類想歌は、今や巷に掃いて捨てるほど堆積しているからである。
せっかくの好材料を活かし切れなかった作者の努力の足りなさと、それを知りつつも、イマイチのこの作品を入選歌とした選者の怠慢とが惜しまれる。
〔返〕 方丈の障子の隅のひと桝は猫のためとか紙を貼らざる 鳥羽省三
○ 卒業の列を見送りつつ立てば背に黙深き職員室あり (相模原市) 岩元秀人
同じ作者の、過去の朝日歌壇の入選作・七首を列挙してみよう。
① 雨の日の窓近く立ち教師という監視カメラの眼球暗し
② 風邪のわれ気づかう母のそばにいて電話に出ない父というもの
③ ガラス器にはげしく水を吸いながら沈黙深くヒヤシンスあり
④ 切られゆく百歳の樹は喘ぎつつああ幾度もさよならを言う
⑤ この星の六十億のほとんどに知られず六十億は生きゆく
⑥ 窓窓が窓語でひそひそする夜の会話をこわさぬように秋来る
⑦ 地上には合わなくなりて消え去りし種のあるというその種愛しき
本作と旧作①を参照するに、作者・岩元秀人さんの職業が教員であることが判る。
また、旧作七首及び本作を参照すると、岩元秀人さんのご性格が、繊細で感受性に富み、極めて傷付き易いものであることが覗われる。
岩元秀人さんと同じように、評者もまた神奈川県内の教壇に立っていた者の一人であるから、この作品の詳細については、これ以上のことは申し上げないが、この繊細で傷付き易いご性格の岩元秀人さんの、教師としての日常が、如何に耐え難いものであったかは、何人たりとも、想像するに難くないものでありましょう。
「黙深き職員室」を「黙深き職員室」としか言えないところに、短歌という文学の限界を感じる。
〔返〕 赤ままの歌を歌うな黙深き職員室のドアを蹴飛ばせ 鳥羽省三
○ 春日浴び重なりている泥亀に守られる秩序整然たりき (横浜市) 竹中庸之助
つい二週間前ほどに、私は自宅の近所の古刹の池で、この一首に詠まれているものと瓜二つの光景を目にしたばかりである。
本作の作者は、この一首に詠まれている光景を過去の出来事として回想して詠んでいるのでは無く、嘱目の光景として詠んでいるのでありましょう。
だとすれば、五句目の「整然たりき」の「き」は余分であろう。
〔返〕 親亀の横で小亀が甲羅干しその横で孫亀が甲羅干し 鳥羽省三
○ わが小店揺るがすほどに湯気立てて泣くみどり児よ春は来にけり (周南市) 小池世子
作者の小池世子さんは、どんなご商売を営んでいるのでありましょうか?
作中には、「わが小店」とあるばかりで、その実態を知る手掛かりとて無いが、察するに、店番かたがたみどり児のご養育も可能なようなご商売、例えば、煙草販売店とか、小規模な惣菜店とかのような気がする。
その「わが小店」を「揺るがすほどに湯気立てて泣くみどり児よ」とあるが、どんなささやかな店構えであったとしても、「みどり児」が「湯気立てて泣く」声で以って、店を「揺るがす」ことは不可能でありましょう。
したがってこれは、店番の最中に「みどり児」に泣き喚かれた時の、母親としての驚きの気持ちと、みどり児の元気さとを強調しての表現でありましょう。
三句目から五句目に渡る「湯気立てて泣くみどり児よ春は来にけり」という措辞が抜群に優れている。
そう、春はすぐそこまで、「わが小店」の軒下まで訪れているのである。
〔返〕 抱きたるみどり児にまで靴履かせ春の野に出で若菜摘みせむ 鳥羽省三
○ 座る位置で心の距離がわかっちゃう心理学など取るんじゃなかった (東京都) 上田結香
今年、大学生になったばかりの本作の作者は、それほどの興味を感じないまま、卒業に必要な単位合わせの一つとして、一般教養科目の「心理学」を履修することにしてしまったのである。
講義自体は思っていたよりも難しくはなかったが、この科目を履修したお蔭で、最近彼女は、かなりややこしい事態に陥ってしまって、困惑しているのである。
彼女と一緒に「心理学」を履修している学生の中に、彼女のタイプの男性がいて、彼は彼女のことを爪の垢ほども意識していないのであるが、彼女は彼にすっかり熱を上げてしまったのである。
そこで彼女は、彼への接近策の一つとして、心理学教室での座席を彼の最寄りの席にすることにしてしまった。
と言っても、それなりの家庭教育を受け、教室でのマナーらしきものを心得ていると思っている彼女のことであるから、いくら一目惚れをしたからと言っても、彼の隣りの席を占領して、上の空の状態で講義を受けるようなことはしたくなかった。
そうは言っても、彼女とて世間並みの若い女性であるから、同じ教室に好きで好きで堪らない男性が居るのに、わざわざ彼から離れた座席で身に入らない講義を受けるほどに遠慮深くも無かったのである。
心理学教室の座席配置は、五人掛けの長机セットが横に三列、その三列がそれぞれ十二組ずつ並んでいる。
そこで彼女は、出来得るならば彼の隣りにぴったりとくっ付いて講義を受けたいという本音を隠し、彼が座る席の後ろの席に座り、それもばっちり真後ろの席というわけでは無く、彼の席の斜め後ろかその隣り辺りに座ることに決めてしまったのである。
最初のうちはその作戦も上手く行っていた。
何故なら、学期初めの頃は、受講生たちも小まめに講義に出席していたから、真面目タイプの学生と見受けられ、いつも教室の中央・最前列の席に座る彼が着席するのに合わせて、その斜め後ろに当たる席に座れば、講義の始まる頃には、彼の席の隣りにも、彼女の席の隣りにも、いつの間にか二人ないし三人の学生が座ることになり、彼を意識している彼女の存在がそれほど目立たなかったからである。
ところが、五月の大型連休明けの頃になると、教室に現れる学生が急激に少なくなり、気が付いてみると、教室の中央列の座席には、最前列の真ん中に彼が一人、その斜め後ろの席に彼女が一人だけといった事態になってしまい、彼と彼女以外の学生の座席は、教室の左右列の机、それも三列目から後ろの方に決まってしまい、彼と彼女は、彼と彼女以外の学生たちから監視されるようにして受講しなければならなくなってしまったのである。
そうなれば、心理学の講義の内容にも在る、「座る位置で心の距離がわかっちゃう」というような羽目にもなってしまい、彼と彼女以外の受講生たちの間に、彼女が彼のストーカー紛いの行動をしているという噂が広まってしまったのである。
「座る位置で心の距離がわかっちゃう心理学など取るんじゃなかった」と言っても、後の祭りである。
この恋の結末は一体どうなることやら。
〔返〕 斜めからあなたを見てるの好きだからこの席わたしの指定席なの 鳥羽省三
○ 人と人交わすがごとく手をあげる和尚は犬にごくさりげなく (飯田市) 草田礼子
いる。いる。
そんな気さくな和尚さんは、私が八年間住んでいた北東北の田舎街にも二人ほど居たし、日本全国、至る所の町や村にも、必ず一人や二人は居るような気がする。
〔返〕 住職は犬猫にまで挙手をしてワンともニャンとも答礼されず 鳥羽省三