臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

『NHK短歌』観賞(加藤治郎選・4月11日放送)

2010年04月12日 | 今週のNHK短歌から
 今週の選者は加藤治郎氏であり、ゲストはその師の岡井隆氏である。
 三十分から二十五分に短縮された「NHK短歌」の時間が、どのように展開されるのかと注目していたが、案の定、選者の解説は例によって例の如く、ゲストの岡井隆氏の話も弟子の加藤治郎氏に相槌を打つようなもので、師弟庇い合いの出来レースといった感じで、取り立てて耳を傾けるべきものでは無かった。
 先ずは、特選一席から順番に入選作を見て行こう。


○ 谷あいに仔犬と暮らすわたくしは「愛ちゃんのばあちゃん」という名前です  (宍粟市) 高路ひろみ

 「仔犬」の名前が「愛ちゃん」なのだろう。
 他に取り立てて言うべきこと無し。
  〔返〕 自らを「ばあちゃん」などと名付けてる ひろみばあちゃん私は嫌い   鳥羽省三


○ 言葉なら沢山持ってる心なら確かに持ってるただそれだけだ  (大阪市) 鷲家正晃

 「『貴女が好き』という言葉を、私は百万遍並べ立てることも厭わないが、私はその言葉以上に、自分の心で以って貴女を確かに愛している。ただそれだけだ」という意味でありましょう。
 「ただそれだけ」の作品ではあるが、特選二席である。
  〔返〕 お金ならしこたま持ってるわたくしは愛の証しに八億積もう   鳥羽省三


○ 砂はただ波の愛撫にとらわれてあなたとわたしの境目もない  (江戸川区) 鈴木美紀子

 「砂」は「わたし」、「波」は「あなた」という訳でありましょうか?
 「砂」が「波」に優しく洗われているように、「わたし」の身体も「あなた」の優しい愛撫の手に委ねられているばかりで、もう何がなんだか分からなくなってしまった。
 何処までが「わたし」の身体で、何処からが「あなた」の身体なのか、もうその「境目」さえもつかなくなってしまった、ということでありましょう。
 特選三席、勝手にせい!
  〔返〕 鮫肌を砂に例えてわたくしはあなたの波に洗われている   鳥羽省三


○ くせっ毛がきらいと泣く子を膝にのせ生まれた朝の話などする  (福岡市) 藤田美香

 「泣く子」の「くせっ毛」と彼の「生まれた朝」とは、直接に関係するわけではあるまい。
 それでも尚かつ、その「子を膝にのせ」「生まれた朝の話など」を「する」のである。
 「泣く子」にはスキンシップが大切というところか?
  〔返〕 くせっ毛のパーマは大変難しく三割増しの料金取られる   鳥羽省三 


○ 小児科でもらう薬の袋にはうさぎの笑顔と「おだいじに」の文字  (神戸市) 南野真由子

 加藤治郎選の入選作は、どれもこれも軽い。
 これではまるで、風邪薬の薬包紙みたいだ。 
 飲み終わったら、ウサギを折って、病室の窓から吹き飛ばしてしまえ。
  〔返〕 小児科の薬包みの紙で折るミッフィーちゃんの耳の大きさ   鳥羽省三


○ 君の手がくるりと返す砂時計過去は未来へひらりと変わる  (愛知県) 河合育子

 「砂時計」の砂が全部落下したら、それを「くるりと」ひっくり返してまたやり直しをする、ということを「過去は未来へひらりと変わる」と、洒落て言ってみせただけのことである。
 その仕組みは、恰も三途の河原での亡者の石積みに似ている。
  〔返〕 積み上げた石をがちゃりと崩されて未来永劫解放されず   鳥羽省三


○ 好きだったあいつも見てる空だから褪せることなき愛なのだろう  (横浜市) 貝澤駿一

 「この空は、私の好きだったあいつも見ているに違いない空だから、この空の色は、永久に褪せることの無い愛(藍)なのだろう」と訳であろうか。
 論理的に説明付けられるのは、「好きだったあいつも見てる空」までであり、「だから」以降は、砂の上に砂を積み上げた楼閣である。
 「論理の飛躍がいけない」という話をしているのではない。
 「論理の飛躍は、巧みで美しいものでなければならない」という話をしているのである。
  〔返〕 憎らしきあいつが汚した海だから捕れた魚も食べる気がせぬ   鳥羽省三


○ 愛情を図る定規が違っててややちぐはぐな二人なのです  (相模原市) 山城秀之

 加藤治郎選の入選歌の魅力は「思い付きの妙」なのである。
 一般的に言うところの<価値観の違い>を、「愛情を図る定規が違ってて」と言い替えた思い付きに「妙」を感じるか否かが、この作品を傑作とするか否かの違いを生むのである。
  〔返〕 愛情を測る定規が折れたからただ無茶苦茶に愛してるだけ   鳥羽省三
 

○ ホームにて上り下りと別れるをせつなすぎると君もきづいて  (相模原市) 林田ふみ

 本作の作者は、「君もきづいて」という結句の後に、格別な読点(、)を施しているわけではない。
 それでも尚かつ、本作を熟読した者は、一首の後に<余情>を感じるに違いない。
 後記の樋口幸子さん作についての、加藤治郎氏の「この作品は句読点の使い方が巧みだ。特に、下の句の『時々おいしいお茶を入れて、』の『、』が巧みだ」という趣旨の評の眉唾性が本作を以って証明される所以である。
  〔返〕 ホームにて上り下りと別れたが永の別れとなりし半島   鳥羽省三 


○ ここにある空気を愛と名づけたら息苦しくなることが見えます  (杉並区) 平岡淳子

 「ここにある空気」の実態は、「愛情を測る定規を失ってただ無茶苦茶に愛されている」といった「空気」であったに違いない。
 それならば、愛されている女性としては、「息苦しくなることが見えます」と言いたくなるのも道理である。
  〔返〕 此処に在る空気を<憎>と名付けたら少しは過ごし易くなるだろ   鳥羽省三     


○ 嫁さんのおめでたの知らせありし日は草の芽さえも愛しかりけり  (町田市) 雀部信夫

 そうしたもんですよ。
 これを言い換えると、「惚れてしまえば痘痕も笑窪」ないしは「惚れて通えば百里も一里」とも言う。
 格別な傑作と言うには値しないが、ご妻女の懐妊の「知らせ」と「草の芽さえも愛しかりけり」の取り合わせに見るべきものがある。
  〔返〕 ご妻女を「嫁さん」などと呼んでゐてまだ若かりき雀部信夫は   鳥羽省三  

○ 「愛してる」なんて無理にいわなくていい。時々おいしいお茶を淹れて、  (北広島市) 樋口幸子

 テレビの解説で、選者の加藤治郎氏は、「この作品は句読点の使い方が巧みだ。特に、下の句の『時々おいしいお茶を入れて、』の『、』が巧みだ」という趣旨の発言をしていた。
 一首の末尾表現の後に余情を残す手段は、末尾語の後に読点(、)を施さなくても可能なことであろう。
 加藤治郎氏の発言は、後々に禍根を残すような発言かも知れない。
  〔返〕 句読点などを施すことは無い 短歌は韻文 散文でない   鳥羽省三 

今週の朝日歌壇から(14)

2010年04月12日 | 今週の朝日歌壇から
○ 申告に控除項目多多あるも負けてやるぞの上から目線  (岸和田市) 西野防人

 「上から目線」が目新しいのか?
 とは言うものの、その「上から目線」も以前と較べるとかなり改善されて来たようだ。
 先ず何よりも、税務署の役人どもがあまり威張らなくなり、かなり人間らしくなったことである。
 かつての私たち庶民と税務署の役人との唯一の接点は、時折り町にやって来て、夫に死なれてドブロク作りを唯一の収入源として暮らしている未亡人の家を、血も涙も無いような態度で家探しする光景であった。
 少年時代の私が住んでいた町内に、「佐渡島」と呼ばれる家が在り、佐渡島出身の配偶者に戦死されたその家の後家は濁酒造りの名人で、それを唯一の収入源として一家七人の貧乏所帯をやりくりしていた。
 その後家の家に狙いをつけて、暇を持て余している税務署の役人どもは、ほとんど毎週のように、私たちの町内に泥足を踏み入れるのであった。
 町内の人々は、そうした彼らのことを「鬼っこ」と呼んで毛嫌いし恐れていた。
  〔返〕 「鬼っこ来る。鬼っこ来るど」と泣き叫ぶ濁酒造りの佐渡島の後家   鳥羽省三


○ ふりむく牛ふりむかぬ牛どちらをも送りて友はしばし動かず  (高崎市) 野尻ようこ

 「ふりむく牛」は、飼い主への情愛と命への未練を断ち切れない牛で、「ふりむかない牛」は既に諦め切り、冷め切っている牛である。
 それらの牛を数年間、分け隔て無く愛情を注いで育てて来た「友」は、「牛」たちのそうした思いを痛いほど知っているから「しばし動か」ないのである。
  〔返〕 振り向くも振り向かざるものろのろと牛牛牛の牛歩戦術   鳥羽省三


○ 現身のわが内にある苦しみは他言できない<過去>の出来事  (アメリカ) 郷 隼人

 作者が終身刑囚として獄舎に繋がれる原因となった「<過去>の出来事」については、朝日歌壇の読者ならたいてい知っている。
 したがって、本作で言う「<過去>の出来事」とは、作者の胸の奥底に隠している別の「苦しみ」でありましょうか?
 だとしても、それはやはりあの一件に繋がるものであり、かくして、作者の郷隼人さんの胸中では、「あの時、あの場面で、ああすれば良かった、こうすれば良かった」との堂々巡りが始まり、結局は、短歌に託してそれを告白し、贖罪するしか無くなるのでありましょうか?
 だとすれば、郷隼人さんのお詠みになる短歌は、「他言できない」告白であり、贖罪である。
 「他言できない」告白や贖罪は、本来は成立し得ない告白であり贖罪であるから、それは本質的には自問自答に過ぎないのかも知れない。
 郷隼人さんの短歌は果てし無い自問自答なのかも知れない。
 しかし、もう少し考えてみると、この果てし無い自問自答としての詠歌という行為は、郷隼人さんのみならず、私たち歌詠みが例外無く日夜行っている行為ではないだろうか?
 いや、果てし無い自問自答は何も詠歌に限らない。
 私たちが日常生活で行っていることの全てが、本質的にはそうした行為でありましょう。
 一例を挙げれば、私のこうした空しい試み、即ち「臆病なビーズ刺繍」はその最たるものの一つに他ならない。
  〔返〕 余人には窺ひ知れぬ苦しみの現身ゆへの過去の出来事   鳥羽省三
      しょぼしょぼと時間下請けして我は人の短歌を人に説き居り   々
      しょぼしょぼと時間孫受けして我は我の言いわけ我にして居り   々


○ 柳川の花嫁舟が強風に押し戻されつ岸にぶつかる  (福岡県) 北代充明

 疑問点一つ。
 本作の作者及び選者には、四句目「押し戻されつ」の「つ」が完了の助動詞であって、「押しつ押されつ」といった場合を除いて、「~~しながら」という使い方をすることが出来ない、という意識があるのだろうか?
  〔返〕 強風で舟が戻され柳川の花嫁さんは輿入れ出来ず   鳥羽省三


○ 北帰行真近の鴨は群れをなし川の真中に集まりており  (柳井市) 沖原光彦

 着眼点が宜しい。
 「北帰行」を「真近」にして「川の真中」に集まっている「鴨は群れ」は、借金のかたに取られた家を明け渡す前に、住み慣れた家の真ん中の部屋に集まって肩を寄せ合っている<さだまさし>さん一家や、修学旅行の日程を終えて上野駅のホームに集まっている北東北地方のある町の中学生たちなどを思わせて興味深い。
  〔返〕 床の間の軸を巻きつつ母は言う嫌な思い出残して行こうと   鳥羽省三
      思い出はボストンバックに満ち溢れまた来る駅にさよならをする   々


○ 砂の町にいぶりがっこ三本と雪の匂いを連れて友来る  (アメリカ) 中條喜美子

 「砂の町」とは米国の砂漠地帯のある「町」のこと。
 作者がその「砂の町」にやって来たのは、「いぶりがっこ」や「雪」の「匂い」に象徴される、日本の田舎の因習に凝り固まった生活から逃げ出したかったからであろう。
 それなのに、その「砂の町にいぶりがっこ三本と雪の匂いを連れて」「友」が「来る」ことの皮肉を、「連れて」という一語句が見事に表わしている。
  〔返〕 三本のいぶりがっこの一本を酒の肴に久闊を序す   鳥羽省三


○ 蜘蛛の糸くりゆく如く地底より大江戸線のエスカレーターに乗る  (亀岡市) 長岡洋子

 東京都内の地下を縦横に貫く地下鉄の線路は、創業年度の古い線ほど地表に近く、新しい線ほど地中深く潜って敷設されているのである。
 したがって、つい先年敷設されたばかりの「大江戸線」の乗降車ホームは、地下というよりも「地底」という感じの地点に設置されている。
 この一首は、そうした地下鉄「大江戸線」の降車ホームから地上に上がるために「エスカレーター」に乗った時の感じを詠んだものである。
 特に留意すべきことは、「蜘蛛の糸」は直線的に連続したものでは無く、或る時は湾曲蛇行し、或る時は直線的に折れ曲がっているということである。
 「大江戸線」の「地底」ホームから「エスカレーター」に乗って地表に出る場合もそれと同じことであり、地下通路を行きつ戻りつしながら、幾台もの「エスカレータ」を乗り継いで行かなければならないのである。
 「蜘蛛の糸くりゆく如く」とは、その間の事情を直喩的に説明したものである。
  〔返〕 捩れたる糸を解ける思ひにて大江戸線の地表に出でぬ   鳥羽省三


○ 朝市に初めて並ぶ葉生姜の薄紅色は春の体温  (浜松市) 桑原元義

 「朝市に初めて並ぶ葉生姜の薄紅色」こそは正しく「春の体温」なのである。
 この一首については、これ以上の解説を要しないと思われる。
  〔返〕 初物の薄紅色の葉生姜を口に含めば春の味する   鳥羽省三


○ 飛び石を正しく踏んで歩むあり石の配置にこだわらぬあり  (坂戸市) 山崎波浪

 真に世は様々、人も様々なのである。
 その様々な人の生態の一部を観察して活写したのが本作の手柄である。
  〔返〕 飛び石を一つとばしに跳ぶ友と古希の記念のお寺巡りに   鳥羽省三


○ 両膝にそれぞれ乗せる子がいればなかなかはけぬフレアスカート  (高槻市) 有田里絵

 「フレアスカート」の「フレア」とは「朝顔形の張り」のことであるから、「フレアスカート」とは、裾の方が朝顔形に自然なウエーヴのかかったスカートのことである。
 その「フレアスカート」を穿いて「両膝」にそれぞれ一人ずつの「子」を「乗せる」のは、とても無理というもの。
 そんな無謀なことを考えずに、ユニクロから九百八十円のジーンズを買って穿きなさい。
  〔返〕 諸膝にそれぞれ乗せた子が毟るアサガオ型のスカートの張り   鳥羽省三


○ かたばみの実のような子ら 気をつけて触れてもふいに感情爆ぜて  (赤穂市) 内波志保

 よほど「気をつけて触れても」直ぐに切れて「爆ぜ」てしまう昨今の「子ら」を「かたぱみ」に例えた直喩が秀逸である。
  〔返〕 かたばみの抜くもならずにはびこりて直ぐに切れちゃう近頃の子ら   鳥羽省三


○ 生みたての卵はケージに落とされて動かぬ鶏は遠き目をする  (糸島市) 大江俊彦

 採卵用に飼育されている鶏の無機質に似た生態が、実に見事に表現されている。
 特に、「動かぬ鶏は遠き目をする」という下の句の表現は、本来は子孫繁栄のために行われるはずの排卵という行為が、当該者の鶏にとっては、それとは関わらない日常的な無意味な行為と化してしまったことを言い表しているのであろう。
  〔返〕 鶏の動くもならず産み落とす白き卵をケージより採る   鳥羽省三  


○ 逆向きに流されてゆく鴨もいて春の川面に日射し煌めく  (鹿角市) 柳澤裕子

 これまた、観察の行き届いた一首である。
 下流に顔を向けた鴨も、上流に顔を向けた鴨も、そのままの姿勢で、雪解け水で勢いを増した川の流れのままに「流されてゆく」のである。
 北国の春の兆しは、川面の日射しの煌めきと雪解け水から始まるのである。
  〔返〕 番えるも一羽のままの鴨も居て思いのままに水に浮かべる   鳥羽省三


○ 不揃いのトンボ鉛筆筆箱に数本ありぬ春寒き朝  (塩釜市) 佐藤幸一

 「春寒き朝」が、単なる数字合わせのための付け足しのような感じである。
 「筆箱に」「数本」残っている「不揃いのトンボ鉛筆」は、かつてこの家の子供の誰かが使ったものであり、その誰かは今はこの家に居ない。
 そこで、本作の作者は、その空白を言い表すために、結句として「春寒き朝」を置いたのであろう。
 だが、この句はあまりにも唐突過ぎて、作者の表現意図が充分に読み取れない恨みが在る。
  〔返〕 三菱にトンボにヨットにコーリンに長さ異なる鉛筆残し   鳥羽省三 


○ 敗者より言葉なければ投了ののちの静寂しばらくつづく  (ひたちなか市) 篠原克彦

 普通は、「この度は」とか「及びませんでした」とか、「敗者」の口から何か一言漏れるはずなのであるが、今回に限っては、その一言が無かった。
 そこで、勝者も立会人も彼の一言を待つような気分になっているので、「投了ののちの静寂」が「しばらくつづく」のである。
 意地っ張りの敗者は、それでも尚、「負けました」の一言を発しない。
 この一首は、その「しばらく」の間の、何か白けたような、気の抜けたような会場の気分を描いているのである。  
  〔返〕 しばらくの静寂の後かさこそと音立て両者は駒を仕舞ひぬ   鳥羽省三


○ 夫も息子(こ)も続けて逝きしを知らされず叔母は施設でにこにこ生きる  (前橋市) 荻原葉月

 「施設」とは、認知症患者を介護する施設でありましょう。
 つい先日、評者の連れ合いの母が亡くなったが、彼女の場合は、その種の施設と病院との行き来をくり返している間に、二人の甥を含めた数人の親類縁者が亡くなったのであるが、彼女は、その一切を知らず知らせられずに、その者らの後を追うようにして黄泉路へと旅立って行ったのであった。
 それに反して、本作の「叔母」の場合は、「夫も息子も続けて逝きしを知らされず」に「施設でにこにこ」笑って生きている。
 そうした現実を、作者は、喜ばしいとも悲しいとも述べていないのである。 
  〔返〕 逝く者も逝かざる者も悲しくて介護施設の叔母の笑顔よ   鳥羽省三


○ 傘を杖にしずしず渡る歩道橋この世の他に何があらうか  (大分市) 長尾素明

 「傘を杖にしずしず渡る歩道橋」を、一旦は三途の川に見立てたのであろうが、自意識の強い作者は、再度熟慮してそれを拒否し、「私が今、傘を杖代わりに突いて渡っているのは、ただの歩道橋に過ぎなくて、地獄へと渡る三途の川などではない。私はまだまだ元気だ。だからこうして、今日もこうして、この歩道橋を渡って、街へ買い物に出かけるのだ」と、自分で自分に言い聞かせているのである。
  〔返〕 歩道橋渡ればあの世 笠と杖頼りに後はとぼとぼと行く   鳥羽省三 


○ 切る側より切られん側に移行しぬ社歴三十年まことシンプル  (和泉市) 長尾幹也

 「切る側より切られん側に移行しぬ」とあるが、「社歴三十年」の間に、なんらかの事情が在って、本作の作者はそうした事態に陥ったのであろう。
 表現上の細かい部分に拘ると、「切られん側」を「切られる側」としてはいけないのだろうか?
 「切られん側」とは、「切られるかも知れない可能性を秘めた側」のことであって、「確実に切られる側」を意味する「切られる側」とは異なるのである。
 だとすると、この事一つを以ってしても、「社歴三十年まことシンプル」という下の句の表現が、多分に皮肉を込めた言い方であることが理解されるのである。
  〔返〕 切る側より切られん側に移行せし時に始めた短歌創作   鳥羽省三