臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅠ)

2010年04月14日 | あなたの一首
 「あなたの一首」と言いながら二首も三首も、時と場合によっては十首も二十首も採り上げてしまうのが私の悪癖である。
 いや、一応はしおらしく「悪癖」などと言ってはいるが、その実は、悪癖どころか親切心だと思っているから、「切り裂き」の被害者たる作者としてはたまらないのであろう。 
 これから私があれこれと申し述べようとする短歌の作者・貞包雅文さんは、私とは一面識も無い方であり、一言の会話を交わしたことも無い歌人である。
 私が彼の作品に注目し、それについて触れさせていただこうという気持ちになったのは、今年の初春に佐賀市にご在住の歌人・今泉洋子さんからご恵送いただいた短歌誌「百合の木(2008・第9号)」に掲載されている、「鳴らぬ一音」というタイトルの十五首の連作を読んだことが発端である。
 私は、その連作に接して大いに感銘を受け、それについての感想をこのブログに書かせていただこうと思ったのであるが、その前に、その作者についての予備知識を仕込んでおこうと思い、インターーネットのあちこちを検索したところ、彼についての若干の知識と共に、その作品として、下記の数首を読むことが出来たので、ひとまずはそれらについての感想を述べさせていただこうと思う。


○  新しき物語その胎内に抱きてしずか産院の午後

 佐賀県白石町が主催して行っている「歌垣の里しろいし・三十一文字コンクール」に於いて、平成十五年の「歌垣賞」を受賞した作品であるが、本作の作者・貞包雅文さんは、その後、そのコンクールの選者の一員としてご活躍中とか。
 若者たちの独身志向が増大し、我が国の先行きが危ぶまれている昨今であるが、そうした中で、自らの「胎内」に新しい生命を宿して「産院」を訪れる若い女性が居るが、そうした女性の胎内に宿った新しい命と産院の雰囲気に取材して詠んだ作品である。
 表現上の優れた点を指摘すれば、母親たる女性の「邸内」に宿っている尊い生命を、その将来まで展望して「新しき物語」と言い切った隠喩の働きが、この一首のポイントと言えようか。
 その「新しき物語」が、一旦、母親の「胎内」から生まれ出た後にどのような展開を遂げるのかについては、胎児やその母親をも含めて、今のところはこの世の誰にも分からないのである。
 彼を巡っては、この世界、いや、この宇宙に大きく羽ばたいて行くといったような偉大な「物語」が展開されるかも知れないし、それとは全く逆の「物語」が展開されるかも知れないのである。
 それ故に、「新しき物語」の主人公たる胎児の母親も、それを見つめている作者も、その「物語」の順調なるを祈るしか無いのである。
 そうした期待や不安、或いは祈るような気持ちとは別に、彼らを容れたその「産院の午後」は、今のところは全く「しずか」なのである。
 その静寂の中で、新しい命の息吹きを感じ、その「物語」の実り多かれと感じている作者の姿を彷彿とさせる一首である。
  〔返〕 はぐくめる母の祈りのそのままに大きく育て汝が物語   鳥羽省三 
  

○  皺あまた迷路のごとく混じり合う脳の模型を見つつかなしき

 本作及び次の作品は、「佐賀県文学賞2003年・第41回作品集」なる冊子に掲載された作品とか。
 作者の貞包雅文さんは、佐賀県神崎市千代田町に在る浄土宗の名刹「浄覚寺」の住職であり、『後期唯識学論書に於ける″外小破″の研究 <成唯識論>と<大乗広百釈論>を中心として』というタイトルの、私たち俗人には到底理解し得ないような仏教哲学関係の論文をも著している仏教学者でもあるのだが、本作の観賞に当たっては、そうした知識も少しは必要なのかも知れない。
 作者が、題材となった「脳の模型」を目にしている場所は何処であろうか? 
 インターネツトで接した情報によると、貞包雅文さんは、かつて佐賀県内の高校の教員を務めていらっしゃったということであるから、もしかしたら、その場所は、作者ご自身の勤務先の高校の生物準備室であるかも知れない。
 「皺あまた迷路のごとく混じり」合っている「脳の模型」を目前にしながら、作者は、そうした「脳」を持った人間の一人である自分という存在に、ある種の<やりきれなさ>を感じ、<かなしさ>を感じているのである。
 自分という存在のどういう点が、彼に<やりきれなさ>を感じさせ、<かなしさ>を感じさせたのであろうか?
 「脳の模型」に「皺」が「あまた迷路のごとく混じり合」っているように、作者の生存や人生にも、多くの「皺」が在り、その「皺」は「迷路のごとく混じり合」っているのである。
 僧職も教職も一口に<聖職>と言われているが、その聖職に身を置きながら、彼は身過ぎ世過ぎのために銭勘定もしなければならない。
 生徒や保護者、死者やその遺族の立場に立って仕事をする聖職者を標榜しながら、結局のところ、彼の為していることは、自分自身や自分の家族の生活を維持するための仕事に他ならない。
 そうした理想と現実との違いが彼の心に刻まれた「皺」なのであり、彼の踏み迷ってしまった「迷路」なのである。
  〔返〕 時折りは脳の模型のそれに似て気働きする心の皺よ   鳥羽省三 


○  半島の歴史学べば黒々と濃さを増しゆく”恨”の一文字    (同上)

 作者が教職に在った頃の専門は「世界史」なのかも知れない。
 「黒々と濃さを増しゆく”恨”の一文字」という措辞が、強烈であり、印象的でもあるが、その「”恨”の一文字」が、他ならぬ作者もその構成員である<日本>及び<日本人>に対する「恨」であることを思うと、教壇に立ってそれを教える立場の者としての作者は、安閑としては居られないのである。
  〔返〕 その「恨」を辿れば遠き三韓の新羅を攻めし神功皇后   鳥羽省三


○  洋梨のくびれを器用に剥く人と通りすがりの雨を見る午後

 結社誌「塔」の二千七年の九月号に掲載された作品中の一首とか。
 「洋梨のくびれを器用に剥く人」という表現は、聖職に在る者に相応しからぬ隠微で怪しい観察眼の証明であり、その女性(にょしょう)と共に「通りすがりの雨」を見た「午後」の記憶は、その後永く作者の脳裡に残っていて、ある時は、仏教者としての彼の修業の妨げとなり、ある時は、歌人としての彼の心を潤していたに違いない。
 私は、この一首から『にわか雨』というタイトルの短編小説を創作するヒントを得たので、今ここに、その梗概を示すと次のようなものである。
 「<虹の松原>を散策して数首の短歌を詠み得た後、唐津の街に入った途端に突然のにわか雨に見舞われた。そこで、雨傘の一本も拝借しようと思って、知り合いの唐津焼の仲買業者の店の扉を開けた。するといきなり、『いらっしゃいませ。おや、鳥羽さんではございませんか。長らくのお見限りでございましたね。主人ですか。あいにく主人は、この雨の中を軽トラであちこち跳び回っておりますが、ここにこうして私という者がおりますよ。なに、私では不足なんですか。この私を恐がって、鳥羽さんはこの雨の中を逃げ出そうとなさるんですか。それは余りにもにもつれないというもの。そんな所でもじもじしてないで、なんでしたら、お上がんなさいましな。雨傘はお貸し出来ませんが、お昼寝の膝ぐらいはお貸し出来ましょうから』と立て板に水の如き歓迎の言葉に見舞われた。そうした次第で、怖々曰く付きの年増女房の家の居間に上がり込んだ私であったが、その女房は、それまで自分の敷いていた三階松の座布団をさらりと裏返しにして私に無理矢理敷かせると、どこから持ち出して来たのか分からなかったが、右手にみるからに鋭そうな包丁を持ち、左手に胴中のくびれた洋梨を持って、すらすらと鮮やかに、その洋梨のくびれた辺りを剥いているのだ。その手さばきの鮮やかなこと。それを目にした瞬間、私は、去年の<唐津おくんちの夜>に、主人の留守を狙ってこの家を訪れた私の下帯を解く時の、この女房の手さばきを思い出し、その後に展開された房事の際に目にした、この女房のくびれた腰回りをも思い出してしまって、思わずあそこを堅くしてしまったのだ。危ない危ない、今度あのようなことになってしまったら、あの鋭利な包丁で、私の大事なものはちょん切られてしまい、<とんだ色男よ>と、佐賀新聞の記事にされてしまうだろう。あの女は二代目<阿部定>なのだ。<君子危うきに近寄らず>と、一瞬逃げ出そうとして腰を浮かしたのであるが、時すでに遅く・・・・」といったことになる。
  〔返〕 洋梨のくびれを器用に剥く人の腰のくびれを解いてみたし   鳥羽省三


○  会葬の人もまばらな斎場に落ち目の歌手のごとく経読む
 
 結社誌「塔」の二千九年・一月号に掲載された作品中の一首である。
 この作品については、私にこの作品の存在をお示し下さった、鬼才・黒田英雄氏が、ご自身のブログに掲載している卓越した観賞文が在るので、先ずはそれを、黒田英雄氏のご許可を得ないままに転載させていただき、その後、拙い私見などを述べさせていただきましょう。

 一読、大爆笑した。作者の職業はおそらく僧侶であろう。確かに、読経というのも、僧侶にとっては歌かもしれない。そして彼らも、会葬の人数が多ければ、気合を入れて歌うだろうし、あまりお客がいないときは気合が入らないのだろう。なんせ、そのメインイベントの主役は、はなから聞いちゃいないのである(笑)。下句の直喩がめちゃくちゃおかしい。僧侶の歌、っていうのも珍しいよな。ぜひこの作者には、こういう歌をどんどん作っていただきたい。同じ作者の、「しろがねの髭ふるわせて爵位など持っていそうな太い猫行く」も抜群にいい。(引用終り)

 アンギラス流のくだけた表現の中に、言うべきことは全て言い尽くしているような感じの文章である。
 この一首の観賞としては、この一文で充分なのであるが、今の私の立場で、敢えて、言葉を添えさせていただくとすれば、本作の作者が、「会葬の人もまばらな斎場」にて為したご自身の読経を、「落ち目の歌手のごとく」とネガティブに捉えているのは、黒田英雄氏のお述べになって居られる理由に加えて、文学を志す者としての、歌人としてのご自身の、仏教に対する身構え方、特に「葬式仏教」と呼ばれる、我が国の仏教の在り方に対する貞包雅文師ご自身の厳しい姿勢の反映とも思われるが、その点については、何よりも作者ご自身にお聞きしなければならない。
 作者に対して失礼にならない程度に私見を申し述べれば、貞包雅文さんは、僧侶としてのご自身と、歌人としてのご自身とのバランスを、適当に計りながら日々をお過ごしになって居られる、そこそこの<生臭坊主>なのではないだろうか、と私は拝察する。
  〔返〕 洋梨のくびれの如き腰を抱き時には歌手の真似などもする   鳥羽省三 


○  しろがねの髭ふるわせて爵位など持っていそうな太い猫行く

 そこそこの<生臭坊主>貞包雅文師ならではの観察眼と表現である。
 その「太い猫」が「爵位など持っていそうな」らば、貞包雅文師もまた、権大僧正ぐらいの僧位と文学博士という称号ぐらいは持っていそうな感じである。
  〔返〕 しろがねの髭ふるはせて歌ふとき腰のくびれを揺りつつぞ笑む   鳥羽省三 「歌ふ」のは貞包雅文師、「笑む」のは、あの「洋梨のくびれを器用に剥く人」である。
 

○  野に置かれし故に誰にも拝まれぬ野仏本読むごとくに静か

「毎日歌壇」の河野裕子選に入選し、二千九年四月二十二日の毎日新聞朝刊に掲載された作品とか。
 この作品については、私に貞包雅文さんの作品を注目させる発端をお作りになって下さった今泉洋子さんが、ご自身のブログ「SIRONEKO」に、次のような一文をものされておられるので、先ずはそれを引用してみよう。
 以下の一文を、無許可のままに引用することをお許しになられるに違いない、今泉洋子さんには篤く篤く御礼申し上げます。
 
 去年から、お付き合いで佐賀新聞に短歌を投稿するようになった。
 4人の選者に二人ずつ隔週で選をしていただいている。ことし四月から園田節子氏にかわり貞包雅文氏が選者になられた。
 貞包氏もこの文芸欄に永らく投稿されていた。私も彼の作品を読むのが 愉しみだった。初期のころは、高校の先生をされていて生徒のことを詠んだ歌も多かったと記憶している。 その後も文芸欄ではきらりと光る存在で、彼の作品を読んで、それに憧れて投稿をはじめた人もいたくらいだ。
 16~7年間位だろうか今年三月まで投稿されていた。他の三人の選者の先生と同様に丁寧な選をされて、丁寧な評を書いていただいている。
 先日お会いしたときに選の舞台裏を根掘り葉掘りお尋ねしてみたが、色々気を使われていて想像を絶するものだった。いい歌を投稿しなければと思った。  
 佐賀新聞は三席まで評が頂ける。
      (中略)
 貞包氏の歌が読めなくて寂しいと思っていたら10月22日の毎日新聞の河野裕子選に入選されていた。久々に貞包氏の作品が読めてうれしかった。
   ☆  野に置かれし故に誰にも拝まれぬ野仏本読むごとくに静か   (引用終り)
 
 今泉洋子さんの一文に、付け加えるべきものは何物も無いのであるが、敢えて一言申し添えるならば、この作品は、僧俗を巧みに使い分けていらっしゃる貞包雅文さんの作品に相応しく、「野に置かれし故に誰にも拝まれぬ野仏」の湛えた<静寂>を、「本読むごとくに静か」とした直喩が効いている。
  〔返〕 野に置きし故に言葉を発し得ぬウルフの如き少年の眼よ   鳥羽省三


○  約束は果たされぬものしろがねのバターナイフが一瞬陰る  

 結社誌「塔」の二千九年・六月号に掲載された作品とか。
 「洋梨のくびれを器用に剥く人」が、この度は、「しろがねのバターナイフ」を手にとっているのであろうか?
 その「バターナイフ」が何かの拍子に「一瞬陰る」のであるが、それは、この年増女房との「約束」を未だ果たしていない、作者ご自身の被害感によって生じた幻視なのかも知れない。
  〔返〕 約束は果たすべきものくろがねの刺身包丁一瞬光る   鳥羽省三


○  感情の沸点なかなか見せぬなり真中朋久理系のゆえか   
 
 結社誌「塔」の二千十年・三月号に掲載された作品とか。
 「真中朋久」氏と言えば、<塔短歌会>同人中有数の理論家として知られている。
 本作は、その「真中朋久」氏の論評文の冷静さを称揚したものであろう。
  〔返〕 詠風の軽さを時折り見せたふり貞包さんは歌詠み巧者   鳥羽省三