○ 砂浜の半ばに草はとだえたりここより先は潮の領分 (徳島市) 荒津憲夫
波打ち際ぎりぎりまで草が生えているのであろう。
私もこの作品に詠まれたのと同じような風景に接したことがあるが、渚ぎりぎりに生えている草も、他の場所に生えている草も似たような草であった。
とすると、この一首には、一口に雑草と呼ばれる種類の草たちの環境適応能力の高さが詠われていることにもなるのだ。
草が「ここより先が草の領分」と主張すれば、潮は潮で「ここより先は潮の領分」と主張して、互いに一歩も譲らないのである。
「ここより先は潮の領分」とは、言いも言ったり。
本作の作者の荒津憲夫さんは、砂浜で展開されている、草と潮との陣地争いを詠んでいるように見せ掛けてはいるが、その実、人間界のそれを皮肉っているのかも知れない。
特選一席に相応しい傑作である。
〔返〕 砂浜を草と潮とが棲み分けてここからこっち草の領分 鳥羽省三
○ 学校の帽子を質草(かた)に貸しくれし質屋もありて昭和は遠き (大阪市) 池田芳昭
特選ニ席の作品である。
昭和が終わって十年を過ぎた辺りから、「五七五七七」の最後の「七」に、「昭和は遠き」とか「昭和なつかし」といった常套句を置いて済ますような作品が頻繁に詠まれるようになり、今となっては、寄席の「大切り」のような様相を呈して来た。
そうした事実に目を瞑ると、この作品はそれなりの情趣と懐古の味を備えた作品であると言えるが、他に隠れるようにして、こそこそと行われている田舎の短歌会の場ならともかく、ここは「NHK短歌」という国民全体に公開されている場である。
こうした類想歌の目立つ作品を投稿するのは、そろそろ打ち止めにしなけれはならないし、それを選ばないのが、選者の見識というものでもありましょう。
「質草」を「かた」と読ませるのも、ふりがなの範囲を超えていると思われる。
「かた」なら「かた」で宜しいのではありませんか?
「質草」の別称として「かた」という言葉が在ることを知らない者にまで、この作品を理解させようとしても、それは所詮無理なのである。
〔返〕 学帽をかたに質屋で金借りた友も居りにき昭和の青春 鳥羽省三
○ 冬ぬくく豌豆青く茂るなりジョン万次郎この地に生まる (浅口市) 青木富子
難破した漁師がアメリカ船に救われたというだけの話はジョン万次郎以外にも数例あるが、救われた後に渡米して英語を習得し、帰国して幕府の通弁となり、対米外交に貢献したのはジョン万次郎だけであろう。
当時としては非常に珍しい、進取の精神と創意に富んだジョン万次郎の行動の源は、彼の心身の若さにあったのであろう。
「冬ぬくく豌豆青く茂るなり」という上の句は、「ジョン万次郎」の生地の土佐清水を象徴すると共に、ジョン万次郎の若さと逞しさをも象徴するものであろう。
特選三席の作品である。
〔返〕 いさなとり土佐の清水の万次郎陸に上がりて通弁となる 鳥羽省三
○ 野うさぎが右へ左へ高く跳び一瞬後は草ばかりなり (高知県) 宮橋敏機
「野うさぎ」の動きは素早いから、「右へ左へ高く跳び」「一瞬後は草ばかりなり」という運びとなるのである。
動きの素早く、あっという間に姿を隠してしまう、「野うさぎ」に翻弄されている様子が、「一瞬後は草ばかりなり」に、よく表現されている。
〔返〕 野兎は右へ左へ高く跳び跳べない人に草を掴ます 鳥羽省三
○ よく歩き野末にねころび一服す草臥れるとはただしき言葉 (福津市) 曽有宮
作者は、「草臥れる」という言葉の意味を実践を以って知ったのである。
〔返〕 名代なる草餅茶屋で休息し道草食って旅程はかどらず 鳥羽省三
○ 木にあらず草なる独活は大樹への夢より覚めて身の程を知る (佐世保市) 中元静毅
「独活の大木」という言葉が在る。
その独活の大木が、「木にあらず草なる」ことを「夢より覚めて身の程を知る」のであれば、それはそれで<めでたし、めでたし>という場面でありましょう。
年の程も省みず、安物の市松人形紛いのおかっぱ頭をテレビ画面に晒している者が、何かのジャンルの選者であるならば、そのお方もまた、「夢より覚めて身の程を知る」べきではないでしょうか?
〔返〕 受賞せし『午後の章』時は若かりき午後は午後でも今は亥の刻 鳥羽省三
○ かっとばせ!少年たちの草野球ここまで飛ばせと雲も待ってる (名古屋市) 伊藤由美子
最近の少年野球は、草一本生えていないスタンド付きの球場でやっていることもあるが、それを草野球と呼ぶのには何か違和感を感じる。
とり立てて優れたところも無い一首ではあるが、選者も作者も女性である点を考慮すると、詠い出しを「かっとばせ!」としたあたりに幾分かの新味が感じられるのかも知れない。
〔返〕 痩せガエル負けるな一茶ぶっとばせ!鎮守の杜の湧く草相撲 鳥羽省三
○ 雑草のない隣の芝生なぜだろう朝の光が背中を照らす (明石市) 上野克已
「隣の芝生は青い」とも言う。
その隣の芝生の青さに訝しげに見とれ、「なぜだろう」と頭を捻っている話者の「背中」を「朝の光が照らす」のである。
自分が意識しないうちに、何かに見つめられ、何かに照らされていることを知ったときの居心地の悪さよ。
〔返〕 「なぜ青い。芝生ばかりか妻までも」見とれる彼の頭まる禿げ 鳥羽省三
○ 春の日を浴びて草食む反芻の牛は全く仏の顔だ (稚内市) 藤林正則
「春の日を浴びて草食む」と「牛は全く仏の顔だ」とを結ぶ「反芻の」が問題である。
その前後がスケッチであり、間に挟まった「反芻の」だけはスケッチでは無く、知識によるものであろう。
本作の作者は、「仏の顔」した「牛」が「春の日を浴びて」「草食む」様子があまりにもゆったりとしているから、「反芻の」という言葉を思いついたのではあろうが、牛のゆったりとした様は「仏の顔」という言葉で以って充分に理解されるから、スケッチから外れた「反芻の」という余計な言葉を挿入する必要は無いのではなかろうか?
〔返〕 「反芻」が「仏」に係れば意味もある「牛」に係っただけでは無駄だ 鳥羽省三
○ 木材に打ち込み終はる釘どれも納得の音立ててゐるなり (横須賀市) 丹羽利一
いわゆる「認識の歌」である。
金槌で釘を打っている時の音が「納得の」いく「音」を「立ててゐる」のだとしたら、「終はる」とまでは言う必要が無いのかも知れない。
〔返〕 それぞれに納得出来る音を立て釘は頭を打たれてばかり 鳥羽省三
○ 〔くさかんむり〕の下に早いと書くからに夏には我が背越えて居るらむ (富士市) 古舘秀雄
雑草の成長の速さを読んだ歌であり、「草」という文字の<偏>と<旁>から思いついた「認識の歌」でもある。
原作の冒頭に、部首としての<くさかんむり>が置かれ、その直後に、そのふりがなとして(くさかんむり)と書かれているのであるが、ブログ上では<部首>を記すことが出来ないので、〔くさかんむり〕としたので、その旨ご了解下さい。
〔返〕 <りっとう>に<害>加えたら<割>である刀で以って害することだ 鳥羽省三
○ 店いっぱいタンポポの葉の売られいてギリシアの春はタンポポサラダ (安城市) 内川 愛
タンポポの葉が食べられるということは、『食べられる山野草』といったタイトルの書物を読んで知っていたことではあるが、日本国内に居て、「店いっぱいタンポポの葉の売られいて」という光景に出会うことはあり得ない。
折も折、ギリシャの財政破綻が世界中の話題となっているだけに、この一首は、ギリシャという国の貧しさを詠ったものとして誤解される向きもあるだろう、などと言ったら、それは笑い話となってしまうだろう。
要するに、「所変われば品変わる」というだけのことである。
〔返〕 タンポポはキク科植物、キク・ヨモギ・ゴボウ・ブタクサみんなお仲間 鳥羽省三
波打ち際ぎりぎりまで草が生えているのであろう。
私もこの作品に詠まれたのと同じような風景に接したことがあるが、渚ぎりぎりに生えている草も、他の場所に生えている草も似たような草であった。
とすると、この一首には、一口に雑草と呼ばれる種類の草たちの環境適応能力の高さが詠われていることにもなるのだ。
草が「ここより先が草の領分」と主張すれば、潮は潮で「ここより先は潮の領分」と主張して、互いに一歩も譲らないのである。
「ここより先は潮の領分」とは、言いも言ったり。
本作の作者の荒津憲夫さんは、砂浜で展開されている、草と潮との陣地争いを詠んでいるように見せ掛けてはいるが、その実、人間界のそれを皮肉っているのかも知れない。
特選一席に相応しい傑作である。
〔返〕 砂浜を草と潮とが棲み分けてここからこっち草の領分 鳥羽省三
○ 学校の帽子を質草(かた)に貸しくれし質屋もありて昭和は遠き (大阪市) 池田芳昭
特選ニ席の作品である。
昭和が終わって十年を過ぎた辺りから、「五七五七七」の最後の「七」に、「昭和は遠き」とか「昭和なつかし」といった常套句を置いて済ますような作品が頻繁に詠まれるようになり、今となっては、寄席の「大切り」のような様相を呈して来た。
そうした事実に目を瞑ると、この作品はそれなりの情趣と懐古の味を備えた作品であると言えるが、他に隠れるようにして、こそこそと行われている田舎の短歌会の場ならともかく、ここは「NHK短歌」という国民全体に公開されている場である。
こうした類想歌の目立つ作品を投稿するのは、そろそろ打ち止めにしなけれはならないし、それを選ばないのが、選者の見識というものでもありましょう。
「質草」を「かた」と読ませるのも、ふりがなの範囲を超えていると思われる。
「かた」なら「かた」で宜しいのではありませんか?
「質草」の別称として「かた」という言葉が在ることを知らない者にまで、この作品を理解させようとしても、それは所詮無理なのである。
〔返〕 学帽をかたに質屋で金借りた友も居りにき昭和の青春 鳥羽省三
○ 冬ぬくく豌豆青く茂るなりジョン万次郎この地に生まる (浅口市) 青木富子
難破した漁師がアメリカ船に救われたというだけの話はジョン万次郎以外にも数例あるが、救われた後に渡米して英語を習得し、帰国して幕府の通弁となり、対米外交に貢献したのはジョン万次郎だけであろう。
当時としては非常に珍しい、進取の精神と創意に富んだジョン万次郎の行動の源は、彼の心身の若さにあったのであろう。
「冬ぬくく豌豆青く茂るなり」という上の句は、「ジョン万次郎」の生地の土佐清水を象徴すると共に、ジョン万次郎の若さと逞しさをも象徴するものであろう。
特選三席の作品である。
〔返〕 いさなとり土佐の清水の万次郎陸に上がりて通弁となる 鳥羽省三
○ 野うさぎが右へ左へ高く跳び一瞬後は草ばかりなり (高知県) 宮橋敏機
「野うさぎ」の動きは素早いから、「右へ左へ高く跳び」「一瞬後は草ばかりなり」という運びとなるのである。
動きの素早く、あっという間に姿を隠してしまう、「野うさぎ」に翻弄されている様子が、「一瞬後は草ばかりなり」に、よく表現されている。
〔返〕 野兎は右へ左へ高く跳び跳べない人に草を掴ます 鳥羽省三
○ よく歩き野末にねころび一服す草臥れるとはただしき言葉 (福津市) 曽有宮
作者は、「草臥れる」という言葉の意味を実践を以って知ったのである。
〔返〕 名代なる草餅茶屋で休息し道草食って旅程はかどらず 鳥羽省三
○ 木にあらず草なる独活は大樹への夢より覚めて身の程を知る (佐世保市) 中元静毅
「独活の大木」という言葉が在る。
その独活の大木が、「木にあらず草なる」ことを「夢より覚めて身の程を知る」のであれば、それはそれで<めでたし、めでたし>という場面でありましょう。
年の程も省みず、安物の市松人形紛いのおかっぱ頭をテレビ画面に晒している者が、何かのジャンルの選者であるならば、そのお方もまた、「夢より覚めて身の程を知る」べきではないでしょうか?
〔返〕 受賞せし『午後の章』時は若かりき午後は午後でも今は亥の刻 鳥羽省三
○ かっとばせ!少年たちの草野球ここまで飛ばせと雲も待ってる (名古屋市) 伊藤由美子
最近の少年野球は、草一本生えていないスタンド付きの球場でやっていることもあるが、それを草野球と呼ぶのには何か違和感を感じる。
とり立てて優れたところも無い一首ではあるが、選者も作者も女性である点を考慮すると、詠い出しを「かっとばせ!」としたあたりに幾分かの新味が感じられるのかも知れない。
〔返〕 痩せガエル負けるな一茶ぶっとばせ!鎮守の杜の湧く草相撲 鳥羽省三
○ 雑草のない隣の芝生なぜだろう朝の光が背中を照らす (明石市) 上野克已
「隣の芝生は青い」とも言う。
その隣の芝生の青さに訝しげに見とれ、「なぜだろう」と頭を捻っている話者の「背中」を「朝の光が照らす」のである。
自分が意識しないうちに、何かに見つめられ、何かに照らされていることを知ったときの居心地の悪さよ。
〔返〕 「なぜ青い。芝生ばかりか妻までも」見とれる彼の頭まる禿げ 鳥羽省三
○ 春の日を浴びて草食む反芻の牛は全く仏の顔だ (稚内市) 藤林正則
「春の日を浴びて草食む」と「牛は全く仏の顔だ」とを結ぶ「反芻の」が問題である。
その前後がスケッチであり、間に挟まった「反芻の」だけはスケッチでは無く、知識によるものであろう。
本作の作者は、「仏の顔」した「牛」が「春の日を浴びて」「草食む」様子があまりにもゆったりとしているから、「反芻の」という言葉を思いついたのではあろうが、牛のゆったりとした様は「仏の顔」という言葉で以って充分に理解されるから、スケッチから外れた「反芻の」という余計な言葉を挿入する必要は無いのではなかろうか?
〔返〕 「反芻」が「仏」に係れば意味もある「牛」に係っただけでは無駄だ 鳥羽省三
○ 木材に打ち込み終はる釘どれも納得の音立ててゐるなり (横須賀市) 丹羽利一
いわゆる「認識の歌」である。
金槌で釘を打っている時の音が「納得の」いく「音」を「立ててゐる」のだとしたら、「終はる」とまでは言う必要が無いのかも知れない。
〔返〕 それぞれに納得出来る音を立て釘は頭を打たれてばかり 鳥羽省三
○ 〔くさかんむり〕の下に早いと書くからに夏には我が背越えて居るらむ (富士市) 古舘秀雄
雑草の成長の速さを読んだ歌であり、「草」という文字の<偏>と<旁>から思いついた「認識の歌」でもある。
原作の冒頭に、部首としての<くさかんむり>が置かれ、その直後に、そのふりがなとして(くさかんむり)と書かれているのであるが、ブログ上では<部首>を記すことが出来ないので、〔くさかんむり〕としたので、その旨ご了解下さい。
〔返〕 <りっとう>に<害>加えたら<割>である刀で以って害することだ 鳥羽省三
○ 店いっぱいタンポポの葉の売られいてギリシアの春はタンポポサラダ (安城市) 内川 愛
タンポポの葉が食べられるということは、『食べられる山野草』といったタイトルの書物を読んで知っていたことではあるが、日本国内に居て、「店いっぱいタンポポの葉の売られいて」という光景に出会うことはあり得ない。
折も折、ギリシャの財政破綻が世界中の話題となっているだけに、この一首は、ギリシャという国の貧しさを詠ったものとして誤解される向きもあるだろう、などと言ったら、それは笑い話となってしまうだろう。
要するに、「所変われば品変わる」というだけのことである。
〔返〕 タンポポはキク科植物、キク・ヨモギ・ゴボウ・ブタクサみんなお仲間 鳥羽省三